2007/11/27

07/10/14 主が求められるもの M     

 2007年10月14日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主が求められるもの     ミカ書6章6-8節
讃美歌 54,Ⅱ184,217
堀眞知子牧師
創造主なる神様は、御自分の民イスラエルに、3つのことを求められました。第1に「正義を行うこと」第2に「慈しみを愛すること」第3に「へりくだって神と共に歩むこと」でした。けれども、預言者ミカの時代、イスラエルは罪と不信仰に陥っていました。神様は御自分の民イスラエルを、御自身の法廷に告発します。イスラエルは被告人席に座っています。神様は御自分の代理人として、ミカを検察官として立て、彼にイスラエルを告発させ、御自身が創造された自然界を証人とし、御自身は裁判官としてイスラエルを裁かれます。神様の法廷には、イスラエルを弁護する者はいません。ミカは証人である自然界に、被告人であるイスラエルに宣言します。「聞け、主の言われることを」次に神様がミカに命じます。「立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ」ミカは神様に命じられたとおり、検察官として立ち上がり、証人である山々や峰々の前で、イスラエルの罪を告発します。「聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる」山々は地上の最も高い所にあり、地の基は最も低い所に位置しますので、自然界すべてを言い表しています。また山々と地の基は、揺らぐことのないもの、変わることのないものの象徴でした。遠い昔から、イスラエルの歴史を見続けてきた山々と地の基に対して、ミカは「聞け、主の告発を。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる」と言いました。この言葉は、裁判の開始を告げる宣言です。
3-5節において、イスラエルの罪が告発されています。神様は御自分に背き、罪と不信仰に陥っているイスラエルに対し、罪を告発するに当たっても、なお「我が民よ」と、親が自分に反抗する子供に語るように、愛情と悲しみを込めて呼び掛けられます。第1に神様は、イスラエルに問い掛けられます。「私はお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。私に答えよ」今イスラエルが陥っている罪と不信仰に対し、神様は「それは私の責任か」と尋ねます。「私が何をしたというのか。何をしてイスラエルを疲れさせるようなことになったのか。私の何が悪くて、このような堕落した結果になったのか。それについて、証人の前で私に弁明するように」と神様はイスラエルに迫ります。これは「イスラエルよ、お前にこそ原因がある」という神様の告発です。イスラエルには、何も弁明することはありません。非はすべて彼らにあります。彼らは沈黙せざるを得ません。
第2に神様は、出エジプトの歴史を語ります。「私はお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを、お前の前に遣わした」神様がイスラエルの上に現された、最大の救いの御業は出エジプトです。ミカの時代からすれば、500年以上昔のできごとですが、イスラエルにとって出エジプトは、自分達が神の民であることを再確認する事件であり、彼らの民族としての歴史は、出エジプトから始まりました。もちろん、アブラハムの召命がイスラエル民族の始まりですが、彼らがイスラエル民族として、さらに唯一の神・主を信じる信仰共同体としての意識を明確に持ったのは、出エジプトのできごとであり、シナイ契約であり、荒れ野の40年の旅でした。出エジプト、シナイ契約、荒れ野の40年の旅は、イスラエルの中で語り継がれていたことが、聖書の中にも記されています。たとえば士師記6章において、神様の御使いから「勇者よ、主は、あなたと共におられます」と声をかけられたギデオンは「先祖が『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業は、どうなってしまったのですか」と答えています。また詩編105編はバビロン捕囚帰国後、ミカの時代からすれば200年後に作られましたが、その中で、アブラハム契約、ヤコブ一族のエジプト下りを歌った後「主は僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉としるしを伝え、ハムの地で奇跡を行い、御言葉に逆らわなかった」と歌い、そしてエジプトに下された災いに、出エジプト、荒れ野の旅を守られた神様の御業をほめ歌っています。奴隷としての苦しい労働の中で、イスラエルは助けを求める叫び声を上げ、その嘆きの声は神様に届き、神様はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約ゆえに、彼らを顧み、救いの御手を差し伸べられました。奴隷としての生活を送り、指導者のいないイスラエルのために、神様はモーセとアロンとミリアムの兄弟を遣わされました。モーセは指導者として預言者として、アロンは口の重いモーセを助け、後には祭司として、ミリアムは女預言者として、それぞれイスラエルを支えました。けれども彼らを本当に支え、導いたのは神様御自身です。ゆえに神様は「私はお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った」と断言されました。
第2に神様は、荒れ野の40年の旅の中でのできごとを語ります。3節と同じように「我が民よ」と、愛情と悲しみを込めて語りかけられます。「思い起こすがよい。モアブの王バラクが何を企み、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」バラクとバラムのできごとは、民数記22-24章に記されていました。モアブの平野に宿営していたイスラエルを恐れたバラクは、イスラエルを呪ってもらうためにバラムを招こうとして、使者を送りました。けれども神様は、バラムに「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と言われたので、バラムは招きに応じませんでした。バラクは再びバラムに使者を送り、今度は神様の許可を得て、バラムはバラクのもとに出かけました。バラクはバラムがイスラエルを呪うことを望み、2人の間で何度か遣り取りがありましたが、最終的にバラムはイスラエルを祝福し、バラクのもとを去って自分の国に帰りました。神様がバラムに「私が、あなたに告げることだけを告げなさい」と命じられ、彼がそれに従ったからです。またシティムはヨルダン川東に位置し、イスラエルがカナンに入る前の最後の宿営地でした。そしてギルガルはヨルダン川西に位置し、イスラエルがカナンに入って最初の宿営地でした。ですから「シティムからギルガルまでのことを思い起こし」と言われたのは、荒れ野の40年の旅を終えて、約束の地カナンに入るまでの神様の恵み、特にヨルダン川をどのようにして渡らせていただいたのか、それらを思い起こすようにということです。ヨシュア記3章に記されていたように、主の箱を担ぐ祭司達の足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、葦の海を渡った時と同じように、すべての民が渡り終わるまで、ヨルダン川の水は壁のように立ちました。シティムからギルガルまで、神様の恵みの御手に守られて、イスラエルは約束の地カナンに宿営することができました。
このようにミカは、神様に立てられた検察官として、神様の恵みを語り、イスラエルの罪を告発しました。神様の非難と質問に対する、イスラエルの応答が、今お読みいただきました6-7節に記されています。このイスラエルの答えそのものが、当時のイスラエルの誤った宗教観、不信仰な姿を現しています。イスラエルは「これ以上、何をもって神様の前に出るべきか」と反論しています。もう十分に献げ物をしているではないか、彼らの中には、そのような思いがありました。当歳の子牛とは1歳の子牛のことですが、焼き尽くす献げ物の中ではもっとも良いもの、とイスラエルは考えていました。当歳の子牛をささげよう。もし、それで神様が足りないと言われるなら、幾千の雄羊、幾万の油をささげよう。モーセの律法では、1頭の雄羊、少量のオリーブ油とされているが、それをはるかに超えて大量の献げ物をしよう。さらに神様が足りないと言われるなら、自分の長子、まだ生まれていない子供もささげよう。イスラエルは反論している内に、だんだんと興奮し、異常な献げ物を申し出ます。申命記12章に記されていたように、カナンに入るにあたって、神様はモーセを通して「あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、注意して、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。彼らは、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。あなたの神に対しては、彼らと同じことをしてはならない」と命じられました。いわゆる人身御供は禁じられていたにもかかわらず、自分の子供を犠牲としてささげることを申し出たのです。
イスラエルの反論に対して、ミカは神様が求めておられるものは、上等の子牛とか、大量の雄羊や油、ましてや人間の命ではないこと、神様が御自分の民イスラエルに求めておられるのは、3つであることを断言します。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」イスラエルは罪を犯し続け、誤った信仰に陥っていました。けれども、神の宝の民であるイスラエルには、何が善であり、神様が彼らに求められているのは何であるかが、すでに明らかにされていました。そこには秘密にされているものは何もありませんでした。第1に「正義を行うこと」第2に「慈しみを愛すること」第3に「へりくだって神と共に歩むこと」この3つです。
第1に、神様は義なる御方です。イスラエルに対して、常に正義を行ってきました。神様から正義を行われている民として、イスラエルも地上にあって正義を行う義務がありました。第2に、神様は慈しみに満ちた御方です。イスラエルに対して、常に慈しみをもって接してこられました。神様から慈しまれている民として、イスラエルも互いに慈しみをもって生きる義務がありました。ところが10-12節に記されているように、ミカの時代のイスラエルは、神様に逆らう者の家であり、不正に蓄えた富を持ち、容量の足りない升、不正な天秤、偽りの重り石の袋を用いていました。都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語り、彼らの口には欺く舌がありました。神の民であるべきイスラエルの中において、一部の裕福な人々が、多くの貧しい人々を虐げていました。正義と慈しみに欠けていたのです。第3に、神様はイスラエルと契約を結ばれました。アブラハム契約から始まって、何度か契約が積み重ねられました。そしてカナンの地に入って30年後、ヨシュアは地上の生涯を終えるにあたり、シケムに全部族を集めました。ヨシュアはイスラエルに「あなたたち主を畏れ、真心を込め真実をもって、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます」と言い、イスラエルは「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、するはずがありません。私達は主を礼拝します」と答えました。ヨシュアは民と契約を結び、イスラエルのために掟と法を定めました。そして、これらの言葉を神の教えの書に記し、大きな石を主の聖所にあるテレビンの木のもとに立て「見よ、この石は、私達に語られた主の仰せをことごとく聞いているから、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる」と宣言しました。イスラエルは神の契約の民として、神様を畏れ、へりくだって共に歩む義務がありました。ところが神様が「主の御声は都に向かって呼ばわる。御名を畏れ敬うことこそ賢明である。聞け、ユダの部族とその集会よ。まだ、私は忍ばねばならないのか」と叫ばねばならないほど、彼らは神様から離れていました。形式的には神殿礼拝を行い、献げ物をしていましたが、心は別の所にありました。神様を畏れ、神様の前にへりくだって、共に歩もうとする信仰を失っていました。
信仰的に堕落しているイスラエルに、神様は13-16節に記されている刑罰を宣告します。病気にかからせ、罪のゆえに滅ぼすこと。食べても飽くことなく、空腹が取りつくこと。財産を運び出しても、それを救いえず、たとえ救い出してとしても、剣に渡されること。種を蒔き、オリーブの実を踏み、新しいぶどうを搾るという、普通の農作業を行っても、その益に与れないこと。イスラエルの地は荒れ放題になり、エルサレムの住民は嘲りの的となり、イスラエルの恥を負わねばならないこと。それらの原因は、16節に「お前はオムリの定めたこと、アハブの家のすべてのならわしを保ち、その企みに従って歩んだ」と記されているように、北イスラエルの王オムリとアハブ、アハブの妻イゼベルがイスラエルにもたらしたバアル礼拝によって、真の神様から離れ、異教の神々の習慣に従ったことでした。ミカを通して神様は「異教の神々から離れよ」「正義を行え」「慈しみを愛せよ」「へりくだって私と共に歩め」と命じられているのです。
「正義を行え」「慈しみを愛せよ」「へりくだって私と共に歩め」この3つの命令は、キリスト者である私達にも語られています。神様はイスラエルに「私はお前を奴隷の家から贖った」と言われましたが、私達は主イエスの十字架の血によって贖われた、新しいイスラエルです。主イエスの流された血によって立てられた、新しい契約関係の中に生かされています。神様は義なる御方として、私達の不義に対して刑罰を与えられました。けれども私達人間に負わせるのではなく、慈しみに満ちた御方として、御独り子イエス様に私達が負うべき罰を下されました。主イエスは御復活された後、弟子達に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。神様は私達の上に正義を明らかにすると共に、慈しみを現して下さいました。「共にいる」という約束を与えて下さいました。正義と慈しみと御臨在を明らかにされた者として、私達キリスト者には正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩む義務があります。いや義務と言うよりも、本来罪人である私達に、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩む世界が、主イエスによって開かれました。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むことのできない私達に、そのように歩むことのできる道が備えられたのです。私達の力で得たのではなく、主イエスによってもたらされた、この恵みに感謝し、与えられた地上の生涯を終わるまで、神様が求められる道を歩ませていただきましょう。

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