07/10/21 総ては神の憐れみによる T
総ては神の憐れみによる
2007/10/21
ローマの信徒への手紙9:14~18
インド洋での洋上給油を継続するために、新テロ対策特別措置法案が国会に提出されました。民主党が洋上給油に反対を表明しているから取られた措置です。小沢代表は憲法違反だと主張するのですが、新聞からは批判されています。
小沢代表は日米同盟の必要性、国連軍構想、国際貢献を主張してきました。アフガニスタンには国際治安支援部隊を派遣させる意志を表明していますが、治安が悪化していますから、治安部隊は紛争に巻き込まれる可能性が大です。
小沢代表は自衛隊派遣も考えているようでしたが、党内には異論があり、民間の警備会社に警備させる案も浮上しているようです。アメリカ企業のイラク方式を採用するつもりかも知れませんが、人的被害が起きる可能性は大です。
小沢代表はブッシュの戦争だと非難し、国連安保理決議を認めませんが、アフガニスタンへの米軍派兵は国際社会から認知されていました。イラク派兵から国際社会の合意が得られなくなったのですから、安保理決議は有効です。
国連の決定に従うのならば、自衛隊派遣も許容されるという主張は法的な整合性が認められません。憲法は海外での武力行使を認めていませんから、国連に自衛隊の海外派遣を正当化する権威はありません。小沢案こそ憲法違反です。
国連憲章は国家間の戦争しか想定していませんから、テロには無力です。安保理の常任理事国にも拒否権がありますから、国連のテロに対する行動も制約されます。ミャンマーに対する非難決議すら決議できないのが国連なのです。
小沢代表が主張する明確な国連決議は理論的には可能ですが、事実上不可能です。安保理でのアフガニスタン関連決議案は決議された時点での国際社会の総意だと思えますから、日本の洋上給油は国際貢献の一環として当然です。
洋上給油は後方支援ですから、戦闘に巻き込まれる可能性は皆無ですが、自衛隊ではなく民間人を治安部隊に派遣しても、テロリストの無差別テロに遭う可能性は大です。憲法が許容する国際貢献の範囲は後方支援までだと思います。
前原前民主党代表によれば、洋上給油継続を支持する議員は50名程度はいるそうですから、洋上給油反対は解散総選挙を目指す国会戦術です。二大政党制では、外交、防衛などの対外的な問題を政局に持ち込むのはルール違反です。
対テロ共同作戦は国際協調が必要です。対テロ包囲網の1カ所に穴が開けばテロリストは侵入してくるからです。日本も例外ではありません。アフガニスタンの海上封鎖に穴が開けば武器だけではなく麻薬なども出入りするからです。
シーレーンも日本の生命線ですから、哨戒活動が必要です。海上給油にかかるコストは国際社会から感謝される割には軽微ですから、給油を継続させる方が国益に適います。給油を打ち切れば国際社会から孤立してしまうからです。
平和憲法、国連憲章は国家間の戦争を前提に制定されましたから、対テロ戦争は想定外です。テロは戦争ではなく、むしろ組織的犯罪なのかも知れませんが、法的な位置づけがなされていませんから、国際社会が混乱しているのです。
パウロは『総てが人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる』と述べています。神の選びは人間の想いを超えているからです。アブラハムの長子イシュマエルではなく約束の子イサクが選ばれ、イサクの双子の兄弟、兄エサウではなくヤコブが選ばれたのは、人の行いではなく神の自由な選びによるからです。
さらにモーセがシナイ山に登っている間に、イスラエルの民が金の子牛を拝んでいたのを怒られた主からモーセは名指しで指導者に選ばれました。『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』といわれたからです。モーセが指導するイスラエルの民が特別な民として選ばれたからです。
パウロはファラオがイスラエルの民をエジプトから去らせる決心をするまでの経過を振り返っています。主がモーセにエジプトで徴や奇跡を繰り返させましたが、ファラオは民をエジプトから去らせませんでした。ファラオの心が頑なにされていたからです。主はエジプトの初子を打たれましたが、イスラエルの民を過越されました。ファラオはついに民をエジプトから去らせましたが、主がファラオの心を頑なにされましたから、彼は全軍を率いて追撃しました。
イスラエルの民が紅海を前にし、エジプト軍に挟まれました。絶体絶命の状況に追い込まれたのですが、モーセが杖を上ると紅海は左右に分かれました。民は海が分けられた間を通り危機を脱しました。エジプト軍はイスラエルの民を追撃しながら海の中に踏み込みましたが、海が元に戻り、全滅しました。『主がモーセを指導者として立てられたのは、モーセによって主の力を現し、主の名を全世界に告げ知らせるためである』と旧約聖書に書かれてあるからです。
出エジプトの出来事はイスラエルの民、ユダヤ人の信仰の原点です。神はアブラハムを選び出され、その子孫イサク、ヤコブに信仰を受け継がせました。ヨセフが飢饉で苦しむ父ヤコブをエジプトに呼び寄せましたが、エジプトの王朝も何回か変わり、民は奴隷の生活を強いられました。エジプトでの430年間の生活は多くのイスラエル民族から唯一の神に対する信仰を奪い去りました。
モーセによりエジプトの奴隷の生活から解放されても、食料や水がなくなると民はエジプトの生活を懐かしがり、主に対して不平を述べ立てました。主はマンナを降らせ、水を岩から噴き出させましたが、主を全面的に信じられませんでした。モーセがシナイ山に登っている間にも金の子牛を拝んだくらいです。
モーセが主から律法を授けられても民の不信仰は改まりませんでした。カナンの地を望むエシュコルの谷に着き、偵察隊を送り出しました。一房のブドウの付いた枝を担ぎながら帰ってきましたが、主に頑なにされた隊員は巨人が住んでいるから入れないと嘘の報告をしました。主は激しく怒られ、民がカナンの地に入るのを拒絶されました。民が死に絶えるまでの40年間、民は荒野を彷徨いましたが、この試練の旅が民に神に選ばれた民、選民を自覚させたのです。
イスラエルの民、ユダヤ人が神に選ばれたのはユダヤ人の方に神に選ばれるのに相応しい理由があったわけではありません。むしろユダヤ人は神から離れる道を選んでばかりいましたが、主が民を御許に召し戻されたのです。ユダヤ人の意志や努力には関係のない主の自由な選び、神の御計画なのです。神はご自分が憐れみたい者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされるからです。
天地を創造なされたのは唯一の神、生ける主ですから、歴史を支配なされるのも生ける主なのです。人類の誕生から現代に至るまでの歴史は戦争の歴史といえるかも知れません。アブラハムから始まる族長時代から戦争はありました。イスラエル・ユダが統一されていたのはダビデ・ソロモン王朝時代だけかも知れません。カナンに定住した後もしばしば周囲の民族から侵入されていました。
ユダヤ人は紀元前6世紀にエルサレムから強制的にバビロンへ移されました。バビロン捕囚といわれた50年間です。ユダヤ人は奴隷にされ、異教の神々に仕えることを強要されましたが、彼らは信仰を捨てませんでした。むしろ自分たちの信じる唯一の神、主に対する信仰の思索にふけりました。民の間に伝わってきた信仰をロゴス化、言葉化することに専念しました。ユダヤ人には国を失った試練でしたが、むしろ信仰が深められ、創世記が編み出されたのです。天地を創造なされた神、人間を創造なされた神をロゴス化し、記録したのです。
イエス様が歴史に登場なされたのは、ユダヤがローマに支配されていたときです。主は神の福音を宣べ伝えて『時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』といわれました。歴史の時計の針が神の子の登場に相応しい時を刻んでいたからです。ユダヤがローマに支配されていたからです。
民衆はローマの支配からユダヤを救ってくれるメシアを待ち望んでいました。この世の王、ダビデ王の再来であるメシアがユダヤ人をローマの支配から解放し、ユダヤ人中心の世界を建設するのを待ち望んでいました。メシアの到来はユダヤ人の悲願でしたが、真のメシア、イエスはこの世の王ではありませんでした。主が宣べ伝えられた神の国は民衆が期待したダビデ王国の再来ではなく、主の十字架と甦りによりもたらされる神の国でした。神の国は主がこの世に遣わされた時から既に始まり、未だ再臨の時が来ないから完成していないのです。
聖霊降臨、ペンテコステに教会ができましたが、ユダヤ人のための教会でした。教会が異邦人世界に広がるためには異邦人伝道者パウロの登場が必要でした。パウロの信仰によってのみ救われる、信仰義認の教理がエルサレム使徒会議で認められてから、異邦人伝道は組織的に始まりました。パウロによりヨーロッパに教会が建てられ、主の世界宣教命令が前進しました。紀元70年にエルサレムが陥落し、エルサレム教会、ユダヤ人教会は歴史から消え去りました。
16世紀にルターによる宗教改革が起きました。免罪符、献金をすればもらえる天国への切符、日本のお札のような物をルターが批判したのが教会を巻き込んだ運動、宗教改革運動に発展しました。ローマ教皇に反抗する者、プロテスタントによる教会の始まりです。宗教改革はヨーロッパを宗教戦争に巻き込みました。宗教改革三原則『聖書のみ、信仰のみ、万人祭司』は何百人もの犠牲者の血により贖われた教理です。伝道圏の信仰もプロテスタントに属します。
日本の教会は日本の敗戦、アメリカ軍の進駐により、大きな影響を受けました。アメリカから宣教師、援助により教会の再建、伝道が目覚ましく進みました。戦後のクリスチャンブームはアメリカの影響が大きかったと思いますが、日本の教会は教会に集まった人たちの多くを教会から去らせてしまいました。彼らの子供たち、団塊の世代が引退するのが新たな伝道の転機かも知れません。
主の世界宣教命令、『総ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい』が実現するためにはさらなる歴史の展開が必要でしょうが、教会は既に全世界に広がっています。イスラム諸国、中国にも教会がありますから、福音は既に全世界に広がったといえるでしょう。
ブッシュ大統領の支持基盤で有名なアメリカの保守的な福音派は、私たちの理解するキリスト教とは異なる面も多いようですが、アメリカにリバイバル運動を起こしているようです。韓国にもアフガニスタンで殺された牧師、拉致され信徒のような熱心派が力を増しているようですが、私たちには向かないように思われます。教会が静かな癒やしの場として機能するのが相応しいのです。
教会の歴史は教会が世俗化し、教会、聖職者が堕落する、悔い改めを迫る改革者が現れる、教会が混乱に巻き込まれる、新たな教会が創立されるを繰り返していますから、私たちも常に主からの呼びかけに敏感でなければなりません。
教会は日々改革されることを必要としています。改革長老主義教会は日々新たにされる教会という意味ですから、改革を恐れてはなりません。教会が現状維持に止まれば、伝道ができません。伝道への熱意が欠けた教会は歴史の波に淘汰されます。信仰はエネルギーを必要としますから、パッション、熱情が必要なのです。信仰義認の教理からすれば「救われるためには何もしなくても良い」のですが、「救われた者に相応しい生活」、聖化が必要とされるのです。
教会の歴史の底を流れているのは、代々の名もない信徒の聖化へのエネルギーでしょう。律法主義は聖化への道を律法、割礼に求めたから誤りなのです。ユダヤ人のエネルギーは尊敬に値しますが、彼らは手段と目的とを取り違えたのです。「救われるためには律法を守らなければならない」と錯覚したのです。
聖化は一方間違えると律法主義に陥りやすいのです。先ず信仰によって救われているという確信が必要です。次に主に対する応答、聖化が続きます。順序が逆転すれば律法主義になります。人間は「救われるためには何かをしなければならない」、さらには「何かをすれば救われる」と思いこみやすいのですが、聖化は信仰により救われた者が救われた喜びを表すことを意味するからです。
信徒の救われた喜びが教会の原動力になるのです。主の憐れみにより与えられるエネルギーは信徒の喜びへ、喜びが応答へと変化していくからです。天地創造の御業は神の国の実現へと弛むことなく連綿と続いて行くからです。人類の歴史が戦争の歴史ならば、教会の歴史は血塗られた歴史ともいえます。多くの信徒の血で贖われたのが教会ですから、私たちだけの教会ではないのです。2000年の歴史を経た教会は、主の日までこの世に立ち続けなくてはなりません。教会の連綿と続く歴史の流れを私たちの世代で断ち切ってはならないのです。
私たちが主に憐れまれているのか、頑なにされているのかは誰にも分かりませんが、信仰により救われていると信じればよいのです。信仰の保障は何処にもありません。信仰の保障を律法、割礼に求めたユダヤ人は福音を拒絶しました。福音が彼らの常識を越えていたからですが、彼らの姿と私たちの姿は二重重写しになります。主の憐れみを信頼しきれなかったのがユダヤ人だからです。主の憐れみを無条件で信じるのが信仰ですから、私たちは主を信頼しましょう。
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