2007/11/27

07/10/28 神に造られた器 T

神に造られた器
2007/10/28
ローマの信徒への手紙9:19~29
 非営利団体NPO「気候保護同盟」の中心的メンバーであるゴア元副大統領、国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)がノーベル平和賞を受賞しました。ノーベル委員会の地球温暖化に対する危機感が異例の受賞に繋がりました。
 地球温暖化は否定のできない事実として国際社会に受け入れられていますが、政治の対応の遅れは悲劇的です。ゴア氏は講演会を重ねることにより、先ずアメリカ市民を啓発し、アメリカの民主主義を正常に機能させようとしています。
 地球温暖化ガスの世界一の排出国、世界経済の中心地アメリカが変わらなければ世界は変わりません。地球温暖化対策が大統領選の争点になれば、アメリカは変わるかも知れません。世界がアメリカの動向に関心を寄せています。
 洞爺湖サミットでは地球温暖化が重要な議題になりますが、ノーベル賞の受賞が国際情勢を好転させるかも知れません。政府間パネルは地球温暖化に対する対策が緊急に実行されなければ、時機を逸すると厳しく警告しています。
 政府間パネルは政府関係者だけではなく、各国を代表する科学者たちが参加している国連機構です。既存の研究を調査・評価し、政策立案者に対して政策の提言ではなく助言を行うのが目的ですから、行動は政治に委ねられています。
 政府間パネルは環境の保全と経済の発展が両立する社会では、21世紀末には気温が1.1~2.9℃、海面が18~38cmの上昇し、化石燃料を重視する社会が続けば、気温は2.4~6.4℃、海面が26~59cm上昇すると予測しています。
 気温の2℃上昇は科学が予測できる範囲を超えています。地球のエネルギー代謝が根本的に破壊されかねません。異常気象が続き、砂漠化が進むでしょう。食料だけではなく飲み水さえなくなりますから、難民が何億人もでるでしょう。
 開発途上国では難民の急増に加えて、感染症が蔓延するでしょう。食糧自給率の低い日本では食料が高騰するでしょう。お金さえ出せば何でも手に入る社会は崩壊するかも知れません。世界は混沌、カオスに突入するかも知れません。
 炭酸ガスの排出量を半減させれば安定成長が可能だと予測されていますから、先進国には排出量を率先して削減する義務があります。炭酸ガスは国境を越え、地球全体に拡散しますから、世界の排出量の総量を規制しなければ無意味です。
 炭酸ガスを急激に減らすためには、エネルギー源を化石燃料から原子力、自然エネルギーに転換させるのを急ぐべきです。省エネ、リサイクル技術を先進国から発展途上国に移転し、地球に優しい社会を造り上げることが肝要です。
 焼き畑農業、伐採により、森林が激減していますから、排出権取引により森林に付加価値を付けることが必要です。グローバリゼイションにより資源が貧しい国から富める国へ一方的に流れ、産業廃棄物だけが残されているからです。
 産業廃棄物は国境を越えませんが、炭酸ガスには国境は関係ありませんから、先進国も運命共同体なのです。宇宙船地球号の乗員は地球号が難破すれば全員が海に投げ出されますから、一国の経済優先主義が人類を滅ぼしてしまいます。
 パウロは神の選びが人の意志や努力によらないことを明らかにしてきました。パウロはユダヤ人が神の選びから漏れたのは、神が異邦人を選ばれたからであると考えていましたが、彼はユダヤ人同胞が神に選ばれることを願っていました。唯一の神はアブラハムを祝福し、彼の約束の子、イスラエル民族、ユダヤ人を選び分かたれましたが、ユダヤ人は神の選びを拒否し、口答えをしました。
 主の福音はユダヤ人に宣べ伝えられ、主の肢体である教会もユダヤ人が造りました。初代教会の信徒はユダヤ人キリスト者でした。ギリシャ語を話す離散のユダヤ人キリスト者もいましたが、異邦人キリスト者はいませんでした。
 復活の主は使徒パウロを召し出されましたが、彼の伝道を妨げたのはユダヤ人でした。パウロの伝道の対象は頑ななユダヤ人から異邦人へ移りました。異邦人伝道者パウロが誕生したのです。パウロの信仰によってのみ救われる、割礼や律法から自由な信仰がエルサレム使徒会議により認められてから、異邦人伝道が組織的に始まりました。福音はアジアからヨーロッパに渡りました。
 パウロはユダヤ教に固執するユダヤ人が神から捨てられ、異邦人が神に選ばれたのは神の意志、神の摂理である考えていました。造られた物、被造物である人間が、造った者、創造主である神に『どうして私をこのように造ったのか』と言えないからです。『焼き物師、神には同じ粘土から一つを尊いことに用いる器に、一つを尊くないことに用いる器に造る権限があるのではないか』。
 さらに神は神の怒りを示し、神の力を知らせようとなされましたが、怒りの器として滅びる運命にある者、頑ななユダヤ人を寛大な心で堪え忍ばれました。憐れみの器として栄光を与えようと準備されておられた者、異邦人、さらには全世界の人々をご自分の豊かな栄光をお示しになるために召し出されました。
 神は私たちキリスト者を憐れみの器としてユダヤ人からだけでなく、異邦人の中から召し出されたからです。ホセア書には『私は自分の民ではない者を私の民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ、『あなたは私の民ではない』と言われた異邦人が生ける神の子と呼ばれる』と書かれているからです。
 預言者イザヤは『イスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる』、『万軍の主が私たちに子孫を残さなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴムラのように滅ぼしつくされたであろう』と預言しています。イザヤはユダヤ人が神から捨てられる事態、エルサレム陥落を預言していますが、残りの少数者、信仰に立つ少数者は神に救われると預言しています。
 ユダヤ人同胞の救いを願うパウロは神の選びの厳しさを承知していますし、神の選びが人間の意志や努力には無関係なのも承知しています。ユダヤ人が神の選びから漏れたのは神の意志であり、『神には神の想いがあり、人間には人間の想いしかない』ことを理解しながらも、なおもユダヤ人の残りの者が救われることを願っています。パウロは神の選びの厳しさに苦悩しているのです。
 神の救いの歴史はアブラハムの召命から始まりました。イエス様が誕生なされるまでの2000年間、神の選びはユダヤ人の上に止まっていましたが、異邦人伝道者パウロの召命から2000年間、神の選びの徴、福音はユダヤ人から異邦人へ、主の教会はアジアからヨーロッパ、ヨーロッパから全世界に広がりました。
 パウロは創造主を焼き物師、陶器師に例え、人間を粘土に例えましたが、人間を単なる焼き物とは考えていません。パスカルは人間を「考える葦」といいましたが、人間は考え、感じ、苦悩します。肉体には生命の徴、血が流れていますし、人間には自由が与えられていますから、単なる焼き物ではありませんが、人間は被造物にしか過ぎないのです。神が創造主であり、主権者なのです。
 神様の創造の御業は天地創造から始まりました。神の国は主がこの世に遣わされた時、クリスマスから既に始まり、聖霊降臨日、ペンテコステに教会が誕生した時から教会の時が始まりましたが、主が再臨なされる時、終わりの日までは未だ完成されないのですから、私たちは教会の時を生きているのです。
 創造主は私たち人間に自由意志を与えられました。主を信じる自由、信じない自由を与えられました。人間は神が自由に操るロボットではありません。創造主は人間を『神にかたどって創造されました』、『土(アダモ)の塵で人(アダム)を形作られ、その鼻に命の息を吹き入れられました』から、単なる粘土、焼き物、陶器ではなく、神のように善悪を知り、考えることができるのです。
 人間は神から与えられた自由意志を濫用してきました。アブラハムの召命からイエス様の時代までの2000年間、ユダヤ人は神に選ばれた民、選民に相応しくない行動をとり続けてきました。神の契約「神を信じるから、割礼、律法を守る」が、人間の契約「割礼、律法を守りさえすれば、神は救われる」に変わり、人間の権利、神の義務「割礼、律法を守る者を救う義務が神にある」になりました。割礼、律法が神の選びの徴から人間の救われる権利に変わりました。
 ユダヤ人はアブラハムの祝福を受け継ぐ民、選民であることを誇り、神の恩寵を忘れ去り、増長していました。形式的な律法を守ることのみに専念し、神を敬うことを忘れ去ったのです。神から選ばれた民、ユダヤ人が神を信じない自由を行使していたのですが、神から離れていることに気づきませんでした。
 パウロは神に選ばれた者、ユダヤ人が神から離れたのは主の世界宣教命令の実現、異邦人伝道のための神の計画であることに気づいたのです。教会の時が前進するためには異邦人が神に選ばれる必要があったからです。神がユダヤ人を選び、ユダヤ人から離れれらたのは、神の摂理、創造の御業の一環なのです。
 人間の歴史、教会の歴史を支配なさるのは神様ですが、人間は神の操り人形ではありません。人間には自由意志が与えられていますから、平和な世界を造り上げるのも、世界を滅ぼすのも人間次第です。イスラエルは滅びの道を選びましたから、エルサレム陥落からイスラエル共和国建設までの2000年間、放浪の旅を続けたのです。信仰に生きる民、ユダヤ人が信仰を見失ったからです。
 さらに割礼、律法に拘り続けたユダヤ人教会もエルサレム陥落と共に歴史の彼方に消え去りました。異邦人教会はローマ帝国の中で生き続けました。4世紀にはローマの国教になりました。カトリック教会も成立しました。16世紀の宗教改革により、プロテスタント教会が成立しました。ヨーロッパの宗教戦争から逃れ、信教の自由を求めた開拓者が新天地を求め、アメリカへ移住しました。18世紀のフランス人権宣言、アメリカ独立宣言により信教の自由、基本的人権が確立しました。日本には明治維新から宣教師が派遣されてきました。
 私たちは神に造られた器ですが、神に似せて造られた人間ですから、自由意志が与えられていますが、神の創造の御業、摂理は厳然として働いています。ノアの洪水が起きたように、繁栄を謳歌していた文明がある日忽然と姿を消す時もあります。ソドム、ゴムラの滅亡も決して例外的な出来事ではありません。
 創造主である神には世界を再創造する力もありますから、人間は神から委ねられた力を濫用してはならないでしょう。神は寛大な心で堪え忍ばれておられるのですから、人間も神の憐れみの器にしていただけるように心がけるべきでしょう。人間は神様の創造の御業を乱すような行為を避けなければなりません。
 神様は人間が自然を支配することを期待なされています。人間は生態系、自然界の頂点に君臨していますから、人間の営みが自然界を左右します。人間は産業革命以来自然を破壊してきました。炭酸ガス、産業廃棄物が急増し、自然の回復力を超える破壊が続きましたから、人間社会も不安定になってきました。
 神様のご命令、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』に対し、人間は地に満つることのみに専念してしまい、地を従わせることを失念しました。人間は被造物であることを忘れ、創造主、主権者であるかのように振る舞ってきました。神の怒りに触れたユダヤ人のように神を忘れ去っているからです。
 焼き物師は失敗作は粉々に砕いてしまいます。焼き物は再生できないからです。神はノアの洪水の場合も、ソドムやゴムラでも失敗作を粉々に砕かれました。神の民イスラエルさえも見捨て去られたくらいですから、神の怒りが憐れみに変わっている間に悔い改めなければ、神から捨てられるかもしれません。
 神様がイスラエルの残された民を救われたように、現代文明が自己破綻しても残された民は救われるかも知れませんが、そうなる前に私たちは現代文明を人間中心主義から神中心主義に変えなくてはなりません。自然と調和した社会が神の望まれた社会ですから、物質中心の社会から抜け出すことが必要です。
 地球温暖化、環境汚染は人間の営みが自然の許容範囲を超えた徴です。人間は神に似せて造られましたが、動物でもありますから、自然と調和しない社会から過大なストレスを受けます。コンクリートに囲まれた都市生活は人間を動物園の檻の中に閉じこめるよものですから、人間には自然環境が必要なのです。
 現代文明は人間を信仰を求める人と求めない人とに二分するようです。現代科学の限界を知らされた人は神を求めます。論理的な思考を超越した神の存在が物質文明に疲れた心を癒やすからです。物質文明では人間が主権者ですから、神の憐れみを感じられません。人間の暴走にもブレーキをかけられないのです。
 信仰の世界では神が主権者、創造主です。人間は被造物にすぎませんが、物質文明の世界では人間が主権者です。20世紀は人間の動物的な飢餓感、食欲を満たすのに成功しました。先進国では飢え死にすることはないからです。物を求め続る者、パンと水に飢え渇く者を満腹させることは不可能です。さらなる欲求が目覚めるからです。欲求の繰り返しが、渇望感しか残さないからです。
 信仰の世界では心が飢え渇く者も満たされるのです。『私は命のパンである。私の元にくる者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない』と主が言われたからです。信仰の世界の住人になることが大切なのです。