06/07/23 行いに従って報われる T
行いに従って報われる
2006/7/23
ローマの信徒への手紙2:1_11
昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示した言葉を記した元宮内庁長官の故富田朝彦氏のメモが公表されました。東京裁判は勝者による敗者への復讐以外の何物でもないと思えますが、それが国際政治の世界です。処刑されたB、C級戦犯の人たちの苦しみ、残された遺族の方の悲しみは私たちの想像を超えるものがあります。A級戦犯は日本を戦争へ導いた政治的責任を問われたのですが、当時の国際法には戦犯を裁く法的根拠はありませんでした。もし、戦争責任を問われるのならば、国家元首であり、大元帥であった昭和天皇が戦争責任を問われるべきでしたが、アメリカ大統領の政治的判断でなされませんでした。そういう意味からすれば、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示すのは論理的矛盾だと思います。「だから私あれ以来、参拝していない、それが私の心だ」との言葉は、自らの戦争責任を含めてなされた言葉ならば私たち国民にも納得のいく言葉です。
靖国神社、「靖国」は「国を安らかにする」という意味ですが、天皇の詔によって建てられた国事殉難者を祀るための特別な神社です。戊辰戦争、西南戦争などの国内の戦争では、明治政府側の犠牲者しか祀られていません。海外で行われた戦争でも日本軍人、軍属しか祀られていません。現人神のために命を捧げた靖国の英霊を祀り、遺族を慰めるための神社でした。近代国家では武士階級、貴族階級が独占してきた職業軍人の世界も市民に開放され、徴兵された兵が軍務に付くようになりました。国家は兵隊が国家のために身命を投げ捨てることを必要としたのです。お国のために殉死した人を顕彰する施設が必要とされたのです。
靖国神社は進駐軍と日本政府との妥協の産物です。キリスト教の信仰からすれば、靖国神社は宗教とは言えませんが、靖国の英霊を祀っている以上宗教です。宗教である以上、政教分離の憲法の規定で政府は靖国に干渉するわけにはいきませんが、靖国神社も政府との関係を絶たなければなりません。戦前、靖国神社は宗教を越える存在として理解されていました。靖国神社参拝は宗教の如何を問わずなされていたのです。キリスト者も靖国神社崇拝に矛盾を感じてはいませんでした。戦死者を祀る靖国神社を国民は宗教を越える存在と理解していたのです。戦後、靖国神社は宗教法人を隠れ蓑にして靖国参拝を既成事実化してきました。千鳥ヶ淵墓苑も無宗教とはいえ事実上は自衛隊が管理しているそうです。政教分離の原点に戻り、靖国神社と国家との特別の関係を絶たなければなりません。
昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、靖国神社参拝を拒否されたことが明らかにされたのは、日中政府の関係改善としてA級戦犯分祀を具体的に考えている政治勢力がいるということです。中国、韓国の排日姿勢は遠交近攻、遠い国と親しく交わり、近い国を攻める策と思われるので、事態の根本的解決になるのかは不明ですが、自民党の後継総裁が対中政策を見直す機会にはなると思います。中国の国内問題、貧富の差の拡大からくる社会不安に対し反日カードが使われているようですが、中国も対日政策を変えようとしているのかも知れません。
『総て人を裁くものよ』、神から特別に選ばれた民、選民であると自認しているユダヤ人を指しています。割礼と律法の世界から解放されていないユダヤ教徒だけではなく、選民意識の抜けきれないユダヤ人キリスト者にもパウロは呼びかけているのです。神から選ばれていると思い上がり、異邦人を見下げているユダヤ人の根拠、割礼と律法は救われるためには何の力もないとパウロは決めつけているのです。むしろ、自分だけが救いに至る道を知っていると錯覚しているだけではなく、他の人々が滅びに至る道を歩んでいると蔑む者を神様は裁かれるとパウロは指摘しているのです。自分を棚に上げて、人を裁くことは、神様を知らない人以上に弁解の余地のない罪を犯しているからです。パウロは割礼と律法があることを誇りにしているユダヤ人を喩えにし、救いの道を知っていると自惚れている人々に警告を送っているのです。人間は神様の憐れみによって悔い改めに導かれるのですが、悪の道を辿り、神様を知らないと言い続ける者には悔い改めの機会は訪れないからです。神様の慈愛、寛容、忍耐が、一人一人の頑なな心を溶かし、悔い改めさせ、人生の方向を180度変えさせ、神様に向かわせるです。
『神様はおのおのの行いに従って報われる』とパウロにしては、首を傾げるような言葉が続きますが、私たちには「信仰のみ」、信仰義認に捉われすぎて行いを軽んじすぎる傾向があります。行いに現れない信仰はあり得ないし、信仰を伴わない行いもまたあり得ないからです。パウロは『行い』か『信仰』か、二者択一を迫る単純化された議論を避けようとしています。パウロは神様の憐れみの下に身を置くか否かを激しく問い質しているのです。信仰は非常に抽象的な概念です。信仰が行い、日々の生活に現れなければ、信仰は単に心の問題として具体化されません。証しの生活が伴わない信仰は空疎なものになってしまうからです。
パウロは神様の憐れみの下に身を置く者には永遠の命が与えられ、悪を行う者には怒りと憤りが与えられると警告しています。パウロはユダヤ人の特権、神様に選ばれた民、選民であることを認めません。悪を行う者、善を行う者についても、ユダヤ人であるから、ギリシア人であるからといって特別視されることはないと主張しています。神様はユダヤ人でもギリシア人でも分け隔てなさることがないからです。神様はおのおのの行いに従って報われるからです。
初代教会の人たちには信仰は非常に具体的なものでした。哲学者が観念の世界で遊ぶのとは意味が違いました。信仰を持てば周囲の無理解の中で生きて行かなくてはならなかったからです。キリスト者の数は非常に少なく、教会堂すらありませんでした。日曜日に礼拝を守ることは、通常の仕事に就けないことを意味しています。礼拝は有力者の家で行われたでしょうが、そこに集まる信徒の多くは社会的弱者でした。彼らにとっては信仰生活を守ることは闘いであったのです。
パウロはローマの信徒へ宛てて手紙を書いていますが、この手紙はローマ帝国内に散らばる教会で読み上げられました。信徒たちのほとんどは文盲、字を読むことができない人々でした。教会で読み上げられた手紙の内容さえも理解できなかったかも知れませんが、地平線の遙か彼方から来た手紙を喜んで受け入れたに違いありません。例え辺境の地にある自分たちの群れは小さくとも、自分たちの群れを覚えていてくれる仲間がいることが、各教会の信徒を力づけたでしょう。
ユダヤ人には神様から特別選ばれた民、選民としての誇りがありました。エルサレム教会も割礼と律法の遵守から解放されていませんでした。ユダヤの慣習に染まり、神殿詣でも続けられていました。パウロの自由主義教会、異邦人教会とユダヤ主義、ユダヤ人教会との間には福音理解について溝ができていきました。異邦人を見下げるユダヤ人教会、ユダヤ人キリスト者に対しパウロは主の憐れみの下に身を置くかどうかが主の裁きの基準であることを明らかにしました。
パウロは氏素性の正しいユダヤ人でガマリエル門下で学んだラビです。彼はダマスコ郊外での回心で主を迫害した者から主を宣べ伝える者へと変えられました。彼にもユダヤ人としての誇り、選民としての誇りがありましたが、主の福音の前では意味のない誇りであることに気づかされたのです。パウロは誰よりもユダヤ人同胞の救いを願いましたが、ユダヤ人の方が彼から離れていったのです。
パウロはまずギリシア人も森羅万象を通して神の真理を啓示されているのにも拘わらず、偶像礼拝をしている罪を指摘しました。神様はその様な異邦人を恥ずべき情欲に任せられたと指摘しました。彼は返す刀でユダヤ人であることが主の裁きから逃れる理由にならないと一刀両断しました。自らを正しいとする者はユダヤ人、ギリシア人、あるいはキリスト者であろうが主の日に裁かれるからです。
このパウロの主張は従来のユダヤ人、ギリシア人、あるいは善、悪という二分法を越えて、神様の主権に総てを委ねることが救いに至る道であることを明らかにしたものでした。パウロは神学的思考、哲学的思考のできる人でしたが、実践家でもありました。彼の手紙を読むと原理原則論では割り切れないトラブルに具体的に答えているのが分かります。主張が時により異なるので戸惑うこともあるのですが、一貫しているのは主の憐れみの下で生きなさいということでした。
ローマ帝国はギリシア世界、アフリカ北岸、イタリア本国、ヨーロッパ、イベリア半島などを含む広大な帝国でした。多宗教、多文化、多民族国家でした。ローマ法が機能していましたが、地方分権が進んだ国でした。属国には属国に相応しい法律や宗教や慣習が認められていたのです。カトリック教会のような中央集権化した制度はありませんでしたが、教会のネットワークが発達していました。
パウロやその他の信徒が書いた手紙もローマの交通網に載って行き来しました。国境の防衛戦でも手紙のやりとりはできました。しかし東西南北数千キロメートルに渡る帝国内では、手紙が改竄されたりすることもありました。公用語はギリシア語ですが、国々の言葉もあります。習慣も違いますから、手紙の内容が正確に伝わらない場合も多くありました。パウロは基準にすべき物、規範、聖典が確立していない状況の中で、主の憐れみの下に身を置きなさいと勧めたのです。
キリスト教が広がれば広がるほど、信仰の規範が必要とされてきたのですが、現在の聖書が聖典と定められたのは後世のことです。当時は色々の手紙、福音書が出回っていました。現代の私たちから見ればこれがキリスト教と思われるものもありました。確かなのは「主の十字架」と「復活」であり、「イエスは主である」という信仰告白です。多数の教会が並立しながらネットワークを組んでいたのが、3世紀までの教会です。教会の多様性を認めながらも、パウロは主の憐れみの下に身を置く信仰を教会のスローガンとして用い、統一性を模索したのです。
『主は行いに従って報いになられる』、パウロ神学を前提として考える現代の私たちからすると不可思議なパウロの言葉ですが、信仰は哲学のような観念の世界の産物ではなく、具体的な応答が要求されたのです。パウロの時代には迫害は始まっていませんでしたが、信仰に生きることは文字通り村八分の生活を受け入れることでした。親族を捨て、仕事を捨て、信徒の交わりの中だけで生活することに耐えなくてはならなかったのです。信仰生活は社会との闘いの生活でした。
証しの生活は世の無理解と闘いながら、「あの人のようになりたい」と周囲の人に思わせるような生活を送ることでした。隠遁生活を送る修道院のような教団もありましたが、多くのキリスト者は社会生活を営みながら、日曜日に礼拝を守っていました。日曜日に休む習慣のないローマ世界で、日曜日に礼拝を守ることがどれほど破天荒なことであったかは想像に難くありませんが、それを守り通すことが証しの生活であったのです。信徒の多くは社会的弱者、女性や奴隷、下層市民、貧農などでした。礼拝を守ることだけでも人一倍の努力がいることでした。
日曜日が休みになったのは明治になってからです。江戸時代は休みは盆と正月だけでした。日曜日が休みでない時代に礼拝に出ることは至難の業だったでしょう。信仰生活を守るということは周囲からの軋轢に晒されるということです。信仰は生活そのものであったのです。『行いの伴わない信仰』はあり得なかったのです。私たちは信教の自由に守られ、信仰生活の厳しさを忘れ去っています。
宗教改革の三原則『信仰のみ、聖書のみ、万人祭司』を貫くために、ヨーロッパでは宗教戦争が起きました。現在のイラクのテロとは桁違いの犠牲者が出ました。信仰はそれだけ多くの先達の血で贖われているのです。現在の日本の平和も多くの人々の血、300万人を越える同胞の血と、3000万人を越えるアジアの人たちの血に贖われているのです。平和は無償で得られるものではないのです。
キリスト教は血なまぐさい宗教です。主が十字架の上で流された血潮で私たち人間の罪が贖われたことを信じるからです。聖餐式も主の血潮を想起、思い起こす儀式です。ユダヤ人的な血に命が宿っている感覚が強く残されています。農耕民族である日本人、総てを水に流す日本人には受け入れがたい感覚なのです。
「清く、正しく、美しく」、日本人の情緒的な感覚では主の十字架での血潮で私たちの罪が贖われたことを実感しがたいのです。観念の世界の中だけで福音を捉えると主の愛と恵みだけが一人歩きしてしまうのです。信仰に生きることが行い、この世との闘いを伴うことを私たちは忘れ去ってしまいやすいのです。
私たちには罪を赦された者としての生き方があります。一方では主の赦しに感謝し、他方では隣人を赦すことが必要なのです。主が私を愛してくださるように私の隣人を主が愛しておられるから私たちは愛し合うことができるのです。人間的な思いからすれば兄弟姉妹と呼べない相手がいるかも知れませんが、主に等しく愛されている者同士だから、主の肢体である教会では兄弟姉妹なのです。
私たちには時として厳しさが必要とされる時があります。信仰を守り抜くことはこの世との闘いの中に身を置くことですが、主の憐れみの中に身を置くことが闘いに勝利する道なのです。ヘブル書2章、『事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです』。