2006/10/30

06/10/29 信仰により義とされる T

信仰により義とされる
2006/10/22
ローマの信徒への手紙3:27_31
 ペンシルバニア州のランカスター郡でキリスト教系小学校に自動小銃を持った男が乱入し、立て籠もりました。女子生徒だけが取り残され、5名が射殺されました。射殺された少女は処刑されたかのように頭を打ち抜かれていたそうです。
 この地方にはプロテスタントの一派アーミッシュ派の信徒が世俗社会から離れて住んでいます。18世紀のままの生活様式を守りながら今も生活しています。電気、ガス、水道、自動車を使用せず、馬車を使う独特の文化を守っています。
 アーミッシュ派はスイスで始まり、ドイツ語圏に広がりましたが、ヨーロッパで激しい弾圧を受けたので18世紀にアメリカへ渡ってきました。「ペンシルベニア・ダッチ」という古いドイツ語を受け継ぎ、無地で質素な服装をしています。
 彼らは一般市民と離れて住み、彼らだけの共同体を造り、自給自足の生活を営んでいます。参政権や徴兵などの国民の権利や義務さえも拒否しています。教育が子供を堕落させると信じ、子供たちには英語の読み書き程度しか教えません。
 犯人に銃を突きつけられた少女たちの中で、最年長の13歳の少女が「私を撃ってほかの子たちを放してください」と犯人に身代わりを申し出て射殺されました。彼女の妹も姉に続いて犯人に身代わりを申し出て重傷を負わされました。
 それにも拘わらず、アーミッシュの人々は犯人の奥さんを5人の少女たちの葬儀に招くいたそうです。犯人の奥さんをアーミッシュの人々は抱擁したそうです。聖書にある『恨みに思うことがあれば赦してあげなさい』を実行したのです。
 このアーミッシュの絶対平和主義が全米の人々に深い感動を与えたそうです。アーミッシュの絶対平和主義は徹底しており、第二次世界大戦では良心的徴兵拒否が認められました。看護の手伝いや落下傘づくりをしていたそうです。
 少女は主が弟子に『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』と言われたのをその身をもって実行したのです。聖書の世界に生きる少女は主の十字架での死に倣い、友の身代わりになって死んでいったのです。
 アーミッシュの生きている世界は私たちが生きている世界とはあまりにも違い過ぎます。戦争が絶えない世界から隔絶された世界、18世紀にタイムスリップしたような世界に生る彼らの規範は「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」なのです。
 北朝鮮が核実験を強行しました。テロとの戦いの先は見えません。国家機能が既に破綻し、国民が難民キャンプでしか生きていけない国もあります。世界の平和、世界の安全保障は危機に晒されています。軍事的緊張が世界を覆っています。
 軍事力で一部の先進国だけの平和が保たれている世界は人類にとって不幸な世界です。武器に頼る社会、一部の者が資源を搾取する世界に人類の未来はありません。世界の資源を再配分することができれば、世界は飢えから解放されます。
 アーミッシュの世界は私たちが失ったものを思い起こさせます。権謀術数が渦巻く国際政治の中で、絶対平和主義を唱える日本はドン・キホーテのようですが、非対称の武力抗争が続く世界の明日を開く鍵が平和憲法に秘められています。
 人の誇りとするのは行いの法則によるのか、信仰の法則によるのかとパウロは問いかけています。パウロの主張する行いの法則は、ユダヤ人が律法に囚われている姿の象徴です。ユダヤ人の救いに対する感覚は損益勘定的な面がありました。律法の細目、ミシュナに定められた小さな規定を一つ守れば神様の利益の方に記載したのです。人生を通じて預金を励み、神様に貸しを作ろうとしたのです。
 それに対してパウロは人が義、正しいとされるのは律法の行いではなく、信仰によると考えていました。パウロは律法をいくら遵守しても神様の前では義、正しいと主張できないと考えていました。神様は唯一の主であり、真実な御方ですから、人間が神様の前で自らの努力や精進を誇ることはできないからです。
 人間と神様との関係を損得勘定表で表わせば、人間の神様に対する負債は無限大であり、神様の人間からの利益は0にしかすぎません。行いの法則では人間には無限の負債、罪があるので、神様の前には立つことができないのです。天秤の一方に人間が乗っても、片方に神様が乗っていれば天秤は微動すらしないのです。
 しかし、信仰の法則によれば人間と神様は釣り合うのです。神様はイエス様の十字架により無限の負債のある人間の負債を損得勘定表から除外されたのです。神様の前に立ち得ない人間が神様の愛と恵みを信じることにより、神様の前に立つことが許されたのです。それは、神様からの一方的な恵みによるものなのです。
 パウロはさらに唯一の主、神様がユダヤ人だけの神様であるのかと疑問を投げかけています。律法には『聞け、イスラエルよ。我らの神、唯一の主である』と記されているからです。パウロは神様はユダヤ人だけの主ではなく、異邦人の主でもあると主張するのです。神様は全世界の人々の唯一の主であるからです。
 パウロは割礼を施されたユダヤ人も信仰のゆえに義とされ、割礼のない異邦人も信仰によって義とされると主張しています。信仰の法則によれば、神様は人間を天秤の上でも釣り合うようにして下さったのですから、ユダヤ人であるか、異邦人であるかは問題にならないのです。ただ信仰のみが問題にされるからです。
 しかし、パウロは信仰によってのみ義とされるからといって、律法の働きを否定したのではありません。パウロは律法を本来神様から与えられたものですから、神様の意思が表されているものであると考えていました。ユダヤ人が神様の律法と人間の律法とを混同したのが、ユダヤ人が神様から離れていった原因だと考えました。パウロは信仰が神様の律法をむしろ確立するものだと考えていました。
 ユダヤ人が律法を忠実に実行しようとしたのは神様の怒りから逃れる道だと考えていたからです。ユダヤ人は神様の怒りから逃れる道のみを考えていました。神様の愛と恵みを追い求めることを忘れていました。怒りから逃れる道、行いの法則に従う道は律法を戒律として忠実に守ることに尽きます。一方、神様の愛と恵みを求める道、信仰の法則に従う道は神様の御心を積極的に追い求める道です。
 行いの法則は神様からの怒りを買わないことを第一にするので、「何々をしてはならない」という世界です。信仰の法則は神様の御心に沿うことを第一にするので、『何々をしよう』という世界です。消極的な世界から積極的な世界に変えられたのです。律法は神様の御心に従い、神様の国を実現するために神様から人間に与えられたものですが、ユダヤ人は神様の御心を取り違えてしまったのです。
 パウロは信仰の法則によって人間が救われると考えていました。パウロはローマの市民権を持っていましたが、氏素性が正しいユダヤ人でした。有名な律法学者であるガマリエルの門下生でした。ステファノが石打の刑に合い殉教した時にも現場にいました。エルサレムでキリスト教徒を迫害もしました。パウロが回心したのはダマスコ途上でのことです。ステファノの殉教から2年後のことです。
 パウロが教会の敵であったことはローマ帝国内の諸教会に知れ渡っていたでしょう。パウロは行いの法則によれば教会の敵であった過去が清算されることはありませんが、信仰の法則によればパウロの過去の罪が主の愛と恵みにより清算されるのです。パウロがダマスコ途上で生ける主に出会ったから、信仰の法則を見出すまでには時間が掛かったと思います。ダマスコでの暗黒の3日間、暗闇の中で苦闘しました。その後、アラビアで3年間に渡る黙想の日々を過ごしました。
 パウロはバルナバに見出され、タルソスからアンティオキアに連れてこられました。アンティオキアで主の弟子たちがキリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになりました。アンティオキアから三回にわたるパウロの伝道旅行が始まりました。パウロは伝道旅行の中で異邦人伝道者としての使命を確信しました。
 パウロの信仰の軌跡を見れば、ダマスコ途上の回心までの行いの法則に従っていラビとしての人生から、信仰の法則を見出した異邦人伝道者としての人生までには、主のために味合わわなければならなかった様々な患難と試練があります。パウロは試練の中で主の恵みが弱さの中に表されることを知らされたのです。
 ラビとしてのパウロは強さを誇っていました。異邦人伝道者としても強さを誇っていた時もあるでしょうが、むしろ弱さを誇るように変えられたのです。パウロを行いの法則から信仰の法則へ変えたコペルニクス的転換は、主の御声、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』を聞かされ、『私は弱いときにこそ強いからです』と信仰を告白できた時でしょう。
 行いの法則は神様に対する恐怖に裏付けされたものですが、信仰の法則は神様に対する愛に裏付けされたものです。恐怖は人の心を縛り付けてしまいます。生きている喜びさえも奪ってしまうのです。愛は人の心を解放します。生きている喜びを与えてくれます。転換点は生ける主の愛と恵みを信じる信仰なのです。
 『信仰により義とされる』世界は、ユダヤ人の発想にはない世界です。異邦人はこの世の神々を信じていますから、義なる神という発想はありません。異邦人が求めたのは人間に功徳を与える神々でした。人間から奪う神々より人間に与える神々でした。ユダヤ人には奪う神、異邦人には与える神々が常識でした。
 その中で、パウロは信仰により義とされると主張したのです。ユダヤ人には180度、発想が転換した世界であす。異邦人には全く新しい未知の世界でした。人間の歴史にイエス様が登場なされたので、人間の世界に福音、喜びの訪れが届けられたのです。人間の歴史が主の福音により質的な転換を遂げたのです。
 私たちはイエス様がこの世に遣わされたので、既に神の国は到来したが、イエス様の再臨までは未だ神の国は完成しない世界を生きています。この世界は信仰の法則に支配された世界です。行いの法則では神様に救われるには相応しくない人間が、信仰の法則により神様の一方的な愛と恵みにより救われるのです。
 10月31日は宗教改革記念日です。ルターは1517年10月31日に「九十五カ条の提題」を発表しました。ローマ教皇がサン・ピエトロ大聖堂の建築資金を集めるためにカトリック教会が贖宥状、免罪符を乱発していたのを批判したのです。
 九十五カ条の提題は教会の信仰を糺すためになされたのですが、ローマ教皇はルターを破門にしました。ルターを支持する信徒はカトリック教会、教皇に抗議し立ち上がりました。抗議する者、プロテスタントと呼ばれるようになりました。
 ルターもパウロも始めから教会、ユダヤ人に叛旗を翻したのではありません。周囲の状況が彼らを追い込んでいったのです。プロテスタント教会、異邦人教会は結果として建てられたのです。救済史は人知を越える歴史の積み重ねなのです。
 ルターはパウロのローマの信徒への手紙から信仰義認の教説に到達しました。宗教改革の三原則「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」は聖書のみを除き、初代教会の信仰に帰れというものでした。信仰復興運動、リバイバル運動なのです。
 教会の歴史、ユダヤ人の歴史も信仰を見失う、信仰覚醒運動が起きるの繰り返しです。人間は信仰の法則を示されながらも、行いの法則に囚われてしまうのです。人間は神様の愛と恵みにより救われるという信仰に確信が持てなくなるのです。代価を支払うことなしに救われては損得勘定表の帳尻が合わないからです。
 人間の考える損得勘定表では、人間の努力や精進により神様の方に少しでも利益を付け加え、人間の方の負債を軽くするしかないのですが、神様の損得勘定表ではイエス様の贖いの死により人間の負債はイエス様に肩代わりされたのです。主は神様と人間とを天秤に掛けても釣り合うという奇跡を起こされたのです。
 信仰により義とされる世界、信仰の法則が支配する世界は人間の常識から懸け離れた世界かも知れませんが、永遠の生命に至る唯一の道なのです。古来から人間は永遠の生命を得るために様々な努力をしました。権力者は不老不死の薬を求めて権力と財力を使い果たしましたが、手に入れることはできませんでした。
 しかし、永遠の生命に至る道は私たちの目の前にあったのです。主の福音を信じる道こそが永遠の生命に至る道なのです。私たち人間の側には何の条件、制約もないのです。王侯貴族であろうとも、億万長者であろうとも主の福音を受け入れない者には永遠の生命に至る道は閉ざされています。塵芥のような存在でも、犯罪者でも主の福音を受け入れる者には永遠の生命に至る道が開かれるのです。
 神様の前では信仰によってのみ義とされるのですから、人間はいかなる意味でも差別されることはありえません。人間の信仰をこの世のいかなる権力も妨げることはできないのです。主の福音には世界を根本から変える力があるからです。
 信仰生活は私たちに信仰の法則に総てを委ねる力を与えてくれるのです。私たちは行いの法則が支配している世界で日常生活を送らざるを得ないのですから、信仰の法則に導く力を御言葉から得なくてはならないのです。いつも信仰を意識した生活を送らなければ、この世の基準、行いの法則に身を寄せてしいます。
 私たちは主が十字架で示された愛に生かされていることを誇りにしましょう。私たち一人一人は取るに足りないものでしかありませんが、主は私たち一人一人を掛け替えのない者として愛してくださっているからです。主の愛と恵みにより選び分かたれた私たちには、主の愛と恵みを人々に宣べ伝える義務があるのです。

06/10/22 神の恵みにより義とされる T

神の恵みにより義とされる
2006/10/22
ローマの信徒への手紙3:21_26
 根津医師が祖母が実の娘の代理母になり、孫を出産したと発表しました。50歳代の祖母は既に閉経していましたが、治療により子宮の機能を回復させたそうです。30歳代の娘と夫との体外受精卵を祖母の子宮に戻し、出産させました。
 根津医師は過去にも体外受精卵の「着床前診断」など生命倫理に問題のある治療を産婦人科学会にも図らず行ってきた前歴があります。彼は最先端の生殖医療を積極的に取り入れることが、患者の利益になると考えている産婦人科医です。
 根津医師は確信犯ですから、彼と生命倫理を議論しても無意味でしょう。彼は医師免許を所持し続ける限り、より高度の生殖医療技術を取り入れた手術をし続けるでしょう。彼のクリニックを尋ねる患者もなくなることはないでしょう。
 医師が患者の求めであればどのような治療をしても構わないのならば、医師は単なる技術者に堕落してしまったと言えます。売買された腎臓の移植手術を求められるままに施し、臓器売買も時には必要だといった医師と同じレベルです。
 生殖医療は加速度的に進歩しています。原理的には精母細胞と卵母細胞さえあれば、それらを基にして精子と卵子を創り、体外受精させれば受精卵ができます。受精卵から胚を創り、人工子宮で育てれば、赤ちゃんまで育てることは可能です。
 SFで描かれている未来社会が現実となる可能性があります。赤ちゃんは工場で出産されるので少子化は克服されます。総てが計画的にコントロールされる世界ですが、その様な世界に人間が果たして適応できるかが先ず問題になります。
 「赤ちゃんは天からの授かり物」というのが日本人の生命観です。人間が顕微鏡下で精子を卵子に受精させ受精卵を創ることからして日本人の生命観に反します。さらに赤ちゃんを工場で育てる発想は日本人の生命観とは相反します。
 キリスト教的な倫理観からすれば、生命の主は人間ではなく神様ですから、西欧諸国では生殖医療に厳しい制限が加えられています。向井さんがアメリカで代理母により双子を得ることができましたが、州により法律が違うからです。
 人間は自然に不用意に手を加えると環境破壊が起き、人類の存続にも拘わることを学びましたが、生命に手を加えることは人間社会を破壊する一歩に繋がりかねません。科学技術は必ずしも人類に幸せをもたらすとは限らないからです。
 人間の自然を従わせるという使命感が、結果として環境破壊を起こしたのです。産婦人科医の子供に恵まれない夫婦に自分たちの血を引いた子供を授けたいと思う善意、使命感が、結果として人類を破滅に導く可能性が高いのです。
 生殖医療を人間の善意、使命感で判断してはならないのです。自分の遺伝子を残したいのは生物としての本能ですが、人間は養子を迎えることもできます。子供を欲しい夫婦の要求を社会が無制限に許容するのは根本的に間違っています。
 生命倫理の確立は現代文明が環境破壊を引き起こした過ちを繰り返さないためにも必要なのです。無原則な生殖医療の普及は社会を根底の部分から破壊するかも知れないからです。厚労省は世論に迎合し、政策判断を誤ってはなりません。
 パウロは神の義、正しさは律法の世界ではなく、福音の世界に表されるていると主張しています。律法は人間に何が罪であるかを自覚させるために必要ですが、人間には律法を守り抜く力はありませんでした。ユダヤ人は律法を守れば救われると考えていましたが、それが不可能であることを歴史が証明しています。
 しかし、律法と預言者、旧約聖書によって証しされた神の義、イエス・キリストを信じる者総てに与えられた神の義が、神様の方から一方的に人間に与えられたのです。神の義はユダヤ人とギリシア人、異邦人、総ての国民との間に何の差別を設けることなくイエス・キリストを信じる者に者総てに与えられたのです。
 人間は皆、罪を犯してしまいます。ユダヤ人は律法を遵守する生活を送ろうとしましたが、むしろ形式的な律法、ミシュナ、細則に囚われてしまい、神様の御心から離れた生活を送るようになりました。イエス様が『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。』と言われたように、律法や安息日を形式的に守ることには熱心でしたが、神様の御心を蔑ろにしていました。
 神様は義なる御方、正しい御方なのです。神様の前に立てるのは義なる人間、正しい人間のみですが、人間は義、正しい存在ではあり得ないのです。それなのに人間は神様の前に立つことが赦されているのは、イエス・キリストによる贖いの業を通したからなのです。神様の恵みにより無償で義、正しいとされるのです。
 イエス様は私たちの罪をその身に負って十字架に付かれました。イエス様の十字架での贖いの死は私たちの身代わりに受けられた死なのです。私たちは神様の前では有罪でしかないからです。イエス様の側には十字架での死を受ける理由はありませんでしたが、私たちを神様の前に立たすために受けられた死なのです。
 イエス様の十字架での死は人間の努力に対する神様からの褒美ではありません。人間の側には十字架での死に相応しい行いなどはあり得ないからです。主の十字架は神様の一方的な恵みでしかないのです。神様は人間の罪を償う供え物を自ら人間に与えて下さったのです。神様の前に立ち得ない人間、罪を犯し続けてきた人間の罪を見逃すために和解の供え物を自ら用意して下さったのです。さらにイエス様の十字架での血潮は、神様の祭壇に振りかけられる犠牲の血なのです。
 神様はアブラハムを召し出されてから、イスラエル民族、ユダヤ人を見守られていました。イスラエルの民の歴史は神様から離れる、預言者が悔い改めを迫る、神様に立ち帰る、また神様から離れるの連続でした。1000年の間、神様は忍耐なされていたのですが、ダビデ・ソロモン王朝がイスラエルを統一しました。エルサレム神殿が建てられましたが、再び混乱に陥り、南北に分裂しました。
 預言者が預言していたメシア、救い主はダビデ王から1000年後、ローマの平和が続く時代、世界伝道に最も相応しい時代を選びこの世に遣わされたのです。総ての道がローマに通じる時代こそメシアの誕生に相応しい時代でした。神様はダビデの子孫、ナザレのイエスをメシア、救い主として遣わされたのです。
 主の福音はエルサレムからローマ帝国内に張り巡らされたハイウェイ、道路網に沿って広がっていきました。主の教会が帝国内に広がり『イエスは主である』と告白する信徒が増えてきました。神様は義なる方、正しい御方であることを明らかになされたのです。生ける主を信じる者を義、正しいとなさるためです。
 ユダヤ人は神様の前では義なる者、正しい者であろうとしました。彼らの規範は割礼と律法の遵守でした。割礼はユダヤの男性としての徴でした。割礼は律法を規範として生活していることの徴でもありました。ユダヤ人は離散の民として全世界に移り住みました。紀元70年、エルサレムが陥落してからイスラエル共和国独立までの2000年間、ユダヤ人には故国がありませんでした。2000年間の間にユダヤ人は全世界の人々と血が混じりましたが、ユダヤの女性は子供を産むと7日目には割礼を受けさせました。割礼がユダヤ人である徴となったのです。
 律法は神様とユダヤ人との間の契約です。唯一の主、ヤーウェがイスラエル民族、ユダヤ人の主となり、ユダヤ人が主の民となる条件として律法を守ることを誓約したのです。ユダヤ人は律法に忠実であろうとしました。「主の名を妄りに唱えてはならない」を守り、主の名を主と読み換えてきたので主の名が分からなくなったくらいです。ヤーウェは後代の研究の結果、類推した主の名です。
 ユダヤ人が律法を守ろうとして真剣であったのは事実ですが、現実の生活の中で律法を守りきれなかったのも事実です。ある人たちは人里離れた場所に修道院を造り、隠遁生活を始めました。彼らはひたすら律法を守り抜こうとしたのです。一方、多くの人たちは律法を守るために努力をしましたが、律法に徹した生活と日常生活とは両立しませんでした。律法学者は様々な便法を編み出したのです。
 パウロは人間に守りきれない律法でも罪の基準、規範になり、ユダヤ人に罪の自覚を生じさせる働きを持つと考えました。律法が与えられていない異邦人でも罪の自覚を持つ人もいますが、いずれにしろ人間は神の前では罪人でしかないのです。その罪人が神の前で義なる者、正しい者として受け入れられたのです。
 神様の愛と恵みにより「神は義なる方ですから、罪人を犯罪者として罰せられる」世界から、「神は義なる方ではありますが、イエスの十字架での贖いの死により、罪人を愛する息子として受け入れられる」世界へと移されたのです。「神に罰せられるべき者が神に受け入れられる」、「福音の逆説」が成り立つのです。
 律法に囚われる人の世界は自らの救いのために何をなし得るかを考えている人の世界です。人間が救われるためにする努力や精進は人間の罪を消し去ることはできないのです。ユダヤ人は律法を遵守すれば神様に受け入れられると考えたのですが、パウロは救いのために人間のなし得ることは何もないと断定したのです。
 神様の恩寵、イエス様の十字架での贖いの死と甦りこそが私たちに与えられた約束の成就なのです。私たちの努力により救いを得る道、下から救いに至る道は閉ざされているのです。あくまでも救いは神様からの恩寵、上から救いの道が開かれるのを待つしかないのです。それがイエス様の十字架であり甦りなのです。
 私たち日本人の思考には努力や精進による救いの陰が色濃くまとわりついています。名人、達人の境地に達した者を尊敬する日本人の思考も精進の世界の延長線上にあります。キリスト教では名人、達人になる必要はないのです。私たち人間のいかなる努力や精進も、神様の前に出れば無に等しいものだからです。
 私たちは神様が主イエス・キリストの十字架での贖いの死と甦りによって示された愛と恵みを素直に受け入れるだけでよいのです。例え、地上でどんな罪を犯していても主は赦されるのです。主の前にへりくだり、悔い改めればよいのです。
 パウロは「福音の逆説」、「神に受け入れられない者が神に受け入れられる」を主張しています。人間側がいかに努力しても神への道が開かれることはなく、神様の愛と恵み、主の十字架と甦りが神への道を開くのです。前者は下からの神学、後者は上からの神学と言われていますが、私たちの教会は上からの神学を信じています。人間の努力や精進では決して神の国を見ることはできないからです。
 しかし、神様の愛と恵みを知った人間にはそれに相応しい生き方があります。信仰を持つ者は救われるために努力や精進を重ねるのではなく、主の愛と恵みに応えるために努力や精進を重ねるのです。単に努力や精進を重ねることが人生の目的なのではなく、神の国のために奉仕することこそが人生の目的なのです。
 ギリシア哲学、ストア派ではストイックな生き方、禁欲的な生き方を目指しました。また、禁欲的な生活を教義にしている教派や教会も珍しくはありませんが、私たちの教会では禁欲的な生活を送ることに意味があるとは思っていません。むしろ、教会は神の国の雛形ですから、平安な教会生活が送られるべきなのです。
 私たちは「救われるために何かをしなくてはならない」という強迫観念に捉われることが良くあるのですが、「救われるためには何もしなくても良い」のです。しかし、「救われた者に相応しい生き方」はあります。「救われた喜びを人に伝える」義務があります。伝道がキリスト者としての第一の義務になるのです。
 さらに、「救われた者には教会を建てる」義務があります。主の福音は教会に委ねられているからです。「教会抜きの信仰」はあり得ません。宗教改革の三原則は「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」ですが、聖書は教会が伝えてきたものです。数多くの福音書と手紙から現在の新約聖書27巻を選び出したのも教会です。数多くの写本から聖書の本文を何回にもわたり改訂してきたのも教会です。
 信仰は達磨大師の面壁9年、壁に向かい座禅を組み続ける修行の結果得られるものではありません。毎週、聖日礼拝を捧げるために教会に集い、講壇から語られる御言葉に接し続けることにより得られるものなのです。聖書を読むこと、祈ることも大切ですが、生ける主の御言葉に接することが何よりも大切なのです。
 万人祭司は教会制度の問題ですが、たとえ牧師であろうとも主の前では一信徒なのです。牧師は講壇に上がっている間は主の代理人として主の御言葉を取り次ぎますが、講壇を下りれば一信徒に過ぎません。牧師、長老には按手が授けられていますが、主の御用のために選び分かたれたのであり、特権ではありません。プロテスタント教会ではカトリック教会のような叙階制度がなく、按手を施すだけです。牧師と信徒は司祭と信徒のように明確に区別される関係にはありません。
 私たちの信仰生活において大切なことは、「神に受け入れられない者が受け入れられている」現実に感謝することです。「救われるためには何もしなくても良い」のですが、「救われた者に相応しい生活がある」ことを弁えるべきです。
 信仰生活は教会生活が基本です。教会生活から離れた信仰生活はあり得ません。日曜日に礼拝に集うのは御言葉に接するためです。礼拝の中で平安が与えられ、日々新たにされる力が与えられるのです。礼拝は空気のようなものかも知れません。礼拝に集える間は意識することはありませんが、礼拝に集えなくなれば生きていく力が枯渇してくるのです。礼拝厳守、それが信仰生活の基本です。

06/1015 新しい生命の約束 M

2006年10月15日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
新しい生命の約束     アモス書9章11_15節
讃美歌 11,495,504
堀眞知子牧師
アモス書最後の章は第5の、そして最後の幻から始まります。それはアモスが、祭壇の傍らに立っておられる神様を見たことから始まります。第1?第4の幻と異なり、アモスは神様御自身を見ました。さらにアモスの目に訴えるのではなく、神様御自身が語られ、アモスへの問い掛けはありません。これまでは裁きが不可避であることをアモスに示されましたが、ここでは神様は破滅を宣告します。「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、私が剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者は一人もない」1章に「あの地震の2年前に」と記されていましたが、この神様の言葉は、地震を予言しているかのようにも受け取れます。正しい礼拝がささげられていない北イスラエルの神殿、その建物全体が崩れ落ちます。破滅は神殿から始まります。神殿に詣でていた人々の頭上に、屋根が崩れ落ち、倒れた建物の破片が落ちてきて、彼らは建物の下敷きになります。かろうじて逃れ出て生き残った者は、神様御自身が剣で殺すと言われています。誰一人として、神様の裁きの手から逃れる者はいません。
さらに神様は、追及の手をゆるめません。「たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、私は、そこからこの手で引き出す。たとえ天に上っても、私は、そこから引き下ろす」陰府は死者がいる所で、地下深い所と考えられていました。天は神様がおられる所です。人間の手が届かない場所です。イスラエルが、そのような場所へ避難したとしても、神様は必ず見つけ出して、裁きをなされます。「たとえ、カルメルの頂に身を隠しても、私は、そこから探し出して連れ出す。たとえ、私の目を逃れて、海の底に隠れても、そこで、蛇に命じてかませる」カルメル山は、北イスラエルの北西に位置し、地中海へ突き出るような頂です。かつて、エリヤがバアルの預言者と戦った場所です。カルメルの頂には洞穴が多くあり、人が隠れやすい場所でした。カルメル山は500メートルくらいの山ですから、決して高い山ではありません。けれども周囲は平原で、西は地中海でしたから、実際よりは高く見えたようです。カルメル山の洞穴に隠れても、神様は必ず探し出されるし、海の底に隠れても、海に住む蛇にかませるようにする。神様の罰から逃れることはできません。「たとえ捕らわれ、敵の前に連れて行かれても、そこで、剣に命じて殺させる。私は彼らの上に目を注ぐ。それは災いのためであって、幸いのためではない」当時の北イスラエルは、ヤロブアム2世のもと、経済的に繁栄し、領土も拡張していました。アッシリアによるサマリア陥落まで40年もありませんが、アッシリア捕囚など、全く考えられない状況の中にありました。そのような中で、神様はイスラエルが捕らわれて、敵の前に連れて行かれても、と裁きの言葉を語られています。かつて神様は、ヤコブに「あなたがどこへ行っても、私はあなたを守る」と約束されました。その神様が「私は彼らの上に目を注ぐ」と言われました。けれども、それは幸いのためではなく、災いのためです。神様に背いたイスラエルが、どこへ隠れても、約束の地カナンから離れても、目を注いで、罪に対する裁きを下す、と神様は宣言されました。
イスラエルに目を注ぎ、必ず裁きを下される神様を、アモスはほめたたえます。「万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き、そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり、エジプトの大河のように沈む。天に高殿を設け、地の上に大空を据え、海の水を呼び集め、地の面に注がれる方。その御名は主」神様が大地に触れるだけで、自然も人間も動揺します。神様は、人々が嘆き悲しむような災害をもたらされる御方です。創造主である神様は、天地万物を支配される御方です。アモスは、自然のすべてに及ぶ神様の御力をほめたたえます。神様は自然界を自由に治める御方です。
そのような御力を持った神様が、イスラエルを選ばれました。申命記7章において、神様はモーセを通して「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と言われました。神様は地上の全部族の中から、特別にイスラエルを選ばれました。御自分の民とされました。その神様が「イスラエルの人々よ。私にとってお前たちは、クシュの人々と変わりがないではないか」と言われました。クシュとはエチオピアのことです。当時のイスラエルにとっては、はるかな遠い国です。そのクシュとイスラエルが、神様にとって何の変わりもないと言われました。諸国民は、すべて神様の御支配と御計画のもとにあります。神様の前には何の変わりもない。それは自らを神様の民と自負しているイスラエルにとって、受け入れることのできる言葉ではありませんでした。
しかも続けて、神様は「私はイスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラム人をキルから、導き上ったではないか」と言われました。神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出し、約束の地カナンまで導かれたできごとは、イスラエルにとって重要な歴史です。出エジプトの歴史の中で、イスラエルは生ける神様を実体験として知り、かつ神様の民として「十戒」を与えられました。出エジプトのできごとは、神様がイスラエルの神様であり、イスラエルが神様の民であり、彼らが神様と契約関係の中に生かされていることの証でした。ところが神様は、ペリシテ人やアラム人を導き上ったことと、出エジプトのできごとは同じだと言われました。ペリシテは、イスラエルがカナンに入った時からの敵でした。アラムは、イスラエル王国が成立した頃からの敵でした。イスラエルに敵対するペリシテとアラムも、同じように神様が導き上ったと言われたのです。この言葉は、イスラエルに衝撃を与えたでしょう。神の民としての誇りを傷つけられ、アモスに対する怒りは激しくなったと考えられます。イスラエルは、大きな勘違いをしていました。神様がイスラエルを選ばれた、そこには特別な使命があったからです。イスラエルは神様の民として、日々の生活の中で神様に仕え、神様を証していかなければなりませんでした。イスラエルに対する神様の恵みの根拠は神の選びにありますが、イスラエルが信仰をもって応えなければ意味を失います。選びは特権意識の根拠ではありません。けれども彼らは、誤った認識に囚われ、神様への正しい礼拝を忘れ去っていました。神様を知らされた民が、それにふさわしい歩みをしない時、神様の裁きは厳しいものとなります。
北イスラエルの滅亡が宣告されます。「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から絶たれる」しかし、同時に神様は「これを地の面から絶たれる」という言葉を打ち消すかのように言われます。「ただし、私はヤコブの家を全滅させはしないと、主は言われる。見よ、私は命令を下し、イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。ふるいにかけても、小石ひとつ地に落ちないように。我が民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。彼らは、災いは我々に及ばず、近づくこともない、と言っている」神様は、イスラエルをふるいにかけると言われました。ふるいは粗い網目で作られていて、小石などはふるいに残りますが、麦などの穀物は下に落とされます。「ヤコブの家を全滅させはしない」と約束された神様は、残りの民を備えられます。神様はイスラエルを裁かれます。そして罪に対しては厳しい罰を下されますが、必ず「残りの民」が備えられています。地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている時も、神様に従う無垢な人ノアを通して、人間を救われました。ソドムとゴモラの罪が非常に重かった時も、ロトとその家族を救われました。預言者エリヤの時代、北イスラエルがアハブの妻イゼベルの影響を受けて、バアル信仰に陥った時も、バアルにひざまずかなかった7000人を残されました。
神様はイスラエルをふるいにかけ、滅ぶべき罪人に対しては「これを地の面から絶たれ」ますが「ヤコブの家を全滅させはしない」という約束に基づいて、回復と祝福の預言が語られます。今、お読みいただいた箇所です。「その日」とは、神様が宣言されたことが起こる日、イスラエル王国が回復する日です。その日には神様は「ダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、昔の日のように建て直す」と約束されました。仮庵とは、一時的な住まいのことであり「ダビデの倒れた仮庵」とは、滅亡した南ユダ王国を指しています。繰り返しますが、アモスが預言者として召された時、北イスラエルの滅亡まで40年もありませんでした。けれども南ユダ滅亡までは、170年以上の時がありました。以前にも申しましたが、アモスが預言者として召された時、アッシリアは無力な王のために一時的に衰退しており、北イスラエルと南ユダは領土を拡張し、経済的に豊かな時代でした。自分達の国が滅亡するなど、誰も想像しない中にあって、アモスは両王国の滅亡、そしてダビデ王国の回復を語りました。ダビデ王国の回復は、人間の業ではなく、神様の御業としてなされます。そして領土が回復されます。
神様の厳しい裁きの後に、再建の日が語られています。新しい生命の息吹が約束されています。再建されたダビデ王国の情景を、神様はアモスを通して語られます。「見よ、その日が来れば、耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。私は、我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から、再び彼らが引き抜かれることは決してない」穀物の実りが豊かにあって、収穫が終わらないうちに、次の種蒔きのために畑を耕す仕事が始まります。ぶどうの収穫も豊かにあって、収穫したぶどうを酒槽に入れて踏み終わらないうちに、次の種を蒔く仕事が始まります。ぶどう畑のある山々には、ぶどう酒を造るための酒槽が置かれていますが、あまりにも収穫が豊かで、できあがったぶどう酒が流れ出て、その流れ出たぶどう酒があまりにも多くて、ぶどう酒で丘が溶けて流れるほどであると言われています。
神様が御自分の民である、イスラエルを回復されます。イスラエルに対する怒りの代わりに、神様の憐れみと祝福が与えられます。捕囚から帰還した民が、バビロンによって荒らされたエルサレムの町を建て直し、そこに住むことができます。約束の地カナンに永住し、自分が種を蒔いた収穫物を食べ、飲むことができます。神様が、約束の地カナンにイスラエルを定住させるから、もう引き抜かれることはありません。最後にアモスは「あなたの神なる主は言われる」と断言します。イスラエルに回復と祝福、そして新しい生命の約束を与えて下さるのは「あなたの神なる主」です。「あなたの神なる主」他の神々ではない、人間でもない、唯一なる神様が、イスラエルに新しい生命を与えて下さいます。さらにイスラエルに留まるのではありません。「エドムの生き残りの者と、我が名をもって呼ばれるすべての国」と語られているように、あらゆる民族が、神様の御支配のもとに置かれ、救いの希望が与えられ、新しい生命の約束が与えられます。
使徒言行録15章には「エルサレムの使徒会議」が記されています。異邦人が主イエスを信じるようになった時、ある人々が「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」と教えていました。それに対してパウロやバルナバが反論したのです。この問題を巡って、最初の使徒会議が開かれました。ファリサイ派からキリスト者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張しましたが、ペトロは「私達は、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と言いました。そしてパウロとバルナバは、自分達を通して神様が異邦人の間で行われた、あらゆる徴と不思議な業について話しました。これらを聞いていたヤコブが、今日の11,12節を引用して、神様はイスラエルを通して異邦人を召されることを語りました。
 アモスは、北イスラエルに対する裁きを語る預言者として召し出されましたが、最後に神様の救いの約束を語りました。新しい生命の約束を語りました。それはイスラエルに留まらず、イスラエルを通して異邦人に及ぶことを預言していたのです。人間に対する新しい生命の約束は、神様に背いている北イスラエルへの裁きと共に語られました。新しい生命の約束と、罪に対する裁き。神様は御独り子イエス様を地上に遣わされ、十字架の死と御復活によって、約束を成就されました。主イエスによってのみ、この約束は完全に成就されたのです。神様は罪を黙認される御方ではありません。神様は義なる御方であり、罪は罪として刑罰を与える御方です。同時に御自分にかたどり、御自分に似せて創造された人間を愛し、救われる御方です。
 私達は、すでに新しい生命の約束の中に生かされています。私達の知恵とか力とか努力によるのではなく、主イエスの御業によって、約束の中に生きる者とされました。なぜ、私達が召し出されたのか、選ばれたのか、その理由は分かりません。確実なのは、私達の側に理由があるのではなく、神様の一方的な恵みによるということです。この恵みに感謝すると共に、この地にあって先に召し出された者として、与えられた使命に生きる者とならせていただきましょう。選ばれたことを自分の力として誇るのではなく、ただ神様の恵みによって選ばれた、その事実の前に謙虚な思いをもって、日々の生活を送らせていただきましょう。そして私達の信仰生活が家族への、友人への証の生活となるように、神様によって豊かに用いていただきましょう。

2006/10/02

06/10/01 主の言葉に飢える M

2006年10月1日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の言葉に飢える     アモス書8章9_14節
讃美歌 72,2_37,2_80
堀眞知子牧師
主なる神はこのように私に示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。主は言われた。「アモスよ、何が見えるか」私は答えた。「一籠の夏の果物です」主は私に言われた。「我が民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。その日には、必ず、宮殿の歌い女は泣きわめくと、主なる神は言われる。しかばねはおびただしく、至る所に投げ捨てられる。声を出すな」
このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「私は、彼らが行ったすべてのことを、いつまでも忘れない」このために、大地は揺れ動かないだろうか。そこに住む者は皆、嘆き悲しまないだろうか。大地はことごとくナイルのように盛り上がり、エジプトの大河のように押し上げられ、また、沈まないだろうか。
その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする。見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。その日には、美しいおとめも力強い若者も、渇きのために気を失う。サマリアの罪にかけて誓う者ども、「ダンよ、お前の神は生きている。ベエル・シェバよ、お前の愛する者は生きている」と言う者どもは、倒れて再び立ち上がることはない。