2007/01/21

07/01/21 キリストの血によって義とされる M 

キリストの血によって義とされる
2007/01/21
ローマの信徒への手紙5:6_11
現在の政治状況では古い自民党と古い民主党との対決になり、小泉改革に新しい政治を期待した層が参議院選では棄権に回る公算が高いと思われます。小泉劇場とも揶揄されましたが、浮動票を掘り起こした功績は高く評価されるべきです。
 森元首相はかつて無党派層の若者は寝たままでいて欲しいとの暴言を吐きましたが、自民党は公明党の組織力に頼り、投票率を下げようとする戦術を取る気かも知れません。民主党の組織力のなさを付く戦術なのかも知れませんが姑息です。
 安倍首相は祖父の岸元首相が安保反対の国民的な運動の盛り上がりを無視して安保条約を改定したのを真似ようとしているのかも知れません。安保反対の数十万のデモに取り巻かれた国会での岸元首相の決断を尊敬している孫だからです。
 安倍首相は憲法改正、教育基本法改正を彼の内閣の歴史的使命と位置づけています。教育基本法を改正した勢いに乗じて憲法改正に邁進するつもりです。現在の民主党では参議院選で自民党に勝てないと読んで布石を打ったのでしょう。
 新しい政治を望む国民は古い自民党に投票する気も起きませんし、古い民主党にも投票できません。国民に投票先の選択肢を与えられない二大政党制は意味がありません。野党である民主党が批判票の受け皿にはなり得ない現状は異常です。
 民主党は野党第一党として国民の批判票に応えられる体制を構築すべきです。小沢代表のトロイカ体制を打破し、新しい民主党を立ち上げるべきです。自社対決時代、55年体制を支えてきた政治家からリーダーシップを奪還するべきです。
 憲法改正を唱えていた小沢代表と自民党改憲派との間で裏取引がなされているようにも思えます。小沢代表は目的のために手段を選ばない政治家ですから憲法改正のために裏技を使うかも知れません。国民不在の典型な永田町政治です。
 憲法改正については国民的な議論が必要です。平和憲法がなぜ必要なのか、憲法9条をなぜ改正しなくてはならないのかを徹底的に議論すべき時代に日本は差し掛かっています。平和憲法の改正がもたらす外交上のリスク評価も必要です。
 現在の憲法論議は観念論の応酬、神学論争でしかありません。非武装中立を唱えていれば他国から侵略を受けることはないなどという論理は空論ですし、同盟国軍が攻撃を受けても見過ごすのかというのも感情論、扇動でしかありません。
 憲法改正は国内問題ですが、外交問題にも発展します。憲法9条を改正すれば中国、韓国は軍国主義復活と猛反発するでしょうし、アジア諸国も追随するでしょう。民主党が主導権を握るアメリカ議会では嫌日ムードが広がるでしょう。
 日本発の世界のパワーバランスの乱れが国際情勢を緊張化させかねません。日本が国際的に孤立する可能性は非常に大きいと思われます。外交的なリスク評価が議論されていない状況で憲法改正だけが一人歩きしている現状は危険です。
 日本は海洋国家ですから国際的に孤立すれば存亡の危機に晒されます。国際世論を見誤れば国際連盟を脱退し、国際的に孤立した時のように軍国主義への道を辿りかねません。過去の過ちを繰り返さないためにも冷静な憲法論議が必要です。
キリストは十字架で贖いの死を遂げられることを弟子達に預言なされていましたが、その意味を理解できた弟子はいませんでした。弟子達は神の国の地位を巡り言い争いをしていたぐらいです。弟子達はキリストがローマの支配を打ち破り、ユダヤ人の支配する地上の王国を打ち立てて下さるものと信じていたからです。
 民衆もイエス様が栄光のメシアとして地上に神の国を建設なされるのを期待していました。弟子達ですらイエス様の十字架の意味を理解できずにいたのですから、人々にイエス様が苦難の僕であることが理解できるはずはありませんでした。
 イエス様は弟子達、民衆の無理解の中で父なる神が定められた時に十字架の上で死んで下さいました。イエス様の死は人々からは犬死にしか見られなかったのにも拘わらず、イエス様は人々のために十字架での苦難の死を選ばれたのです。
 人々はイエス様の十字架を見て嘲笑いました。『正しい人のために死ぬ者』、『 善い人のために命を惜しまない者』ですらほとんどいないのが常識なのですが、キリストはまだ罪人であった私たちのためにさえ命を投げ出されたからです。
 イエス様の死はこの世の常識からすれば命を懸けるに価しない者のために死なれた無意味な死、犬死にしか過ぎませんが、父なる神には人間は独り子の命を懸けても救うだけの価値がある存在なのです。例え人間の側に信仰がなかったとしても、神は人間を救われるのです。神は人間を一方的に愛しておられるからです。
 イエス・キリストの十字架での血潮は神の一方的な愛の徴なのです。イエス様を救い主と信じられない人々のためだけではなく、イエス様を迫害する者のためにすらイエス様は死なれたのです。主の血潮は総ての人のために流されたのです。
 私たちはキリストの血によって義とされたのですから、父なる神の怒りから救われるのは当然なのです。総てが神の愛から出た救いの御業を成就させるためのご計画なのです。御子の十字架の死により私たちは神と和解が赦されるからです。
 父なる神は聖なる御方ですから、罪人である私たちとは和解、仲直りはできませんが、御子が十字架の死により私たちの罪の贖い、身代わりになってくださったので和解が赦されるのです。御子の死により神との和解の道が開かれたのです
 イエス様が十字架の上で死なれた時には人々はまだイエス様の敵でしたが、イエス様の贖いの死により初めて神との和解が成立しました。私たちはイエス様の十字架での死の時点で既に神との間で和解が成立しているのですから、イエス様を信じる私たちが御子の命により救われているのはなおさら明らかなのです。
 それだけではなく、私たちは主イエス・キリストを信じることにより神の愛を確信することができるのです。私たちは神を信じない者だけではなく神を迫害する者でさえ愛したもう神の限りない愛を知らされ、神を誇りにしているからです。
 神の愛は御子イエス・キリストの十字架に結実されているのです。神の救いの契約が具体化されたのが主の十字架です。主の十字架での血潮により神との和解が成立したのです。主の十字架は神からの一方的な愛の発露、顕れなのです。人間の側には神との和解を成立させるための贖い金に相当する物はないからです。
 私たちと神との間で成立した和解はキリストの十字架での血潮により成立したのですから、人間側の条件により左右されることはありません。神の愛は不変なのですから、御子の命によって私たちが救われるのはなおさら確かなのです。
 ユダヤ社会では律法を基準にして善悪が決まります。イエス様の時代には本来の律法が形式化してきました。律法学者が造り出した形式的な律法、ミシュナ、細則が一般化していました。人々はミシュナを守ることが救いの条件だと信じ込んでいました。ミシュナを形式的に守ることが信仰だと思い込んでいたのです。
 一方ギリシア世界ではギリシア哲学が発達していました。善悪の基準は人間の哲学的思考から生まれました。プラトンのエロス、愛はより高い価値を求め続ける価値追求型の愛です。善のために努力を重ねることに価値を見い出したのです。
 いずれにしろ、正しい人、善い人はそうはいないでしょうし、例えいたとしても彼らのために命を投げ出す人はさらに少ないでしょう。ところがイエス様はイエス様を信じない人のために命を投げ出されたのです。それがイエス様の愛です。
 マザーテレサはカルカッタで「神の愛の宣教者会」を設立しました。伝統的な3つの誓願「清貧・貞潔・従順」に、「貧しい者につかえる」という項目を付け加えました。宗教が問われない「死を待つ貧しい人の家」を開設しました。
 第二次大戦後、混乱期のカルカッタには私たちの想像を超える貧しい人々が生活していました。その日の生活さえ送れない人々で溢れていました。マザーはインドのカースト制を無視し、最下位の不可蝕民にまで手をさしのべました。マザーにはヒンズー教、イスラム教、仏教などの宗教の違いは関係ありませんでした。
 極貧の生活を送っている人たちだけではなく、マザーの目にとまったのは道ばたに放り出されている人々です。彼らはただ死んでいくのを待っているだけでした。マザーは「死を待つ人の家」に彼らを引き取り、平安な死を迎えさせようとしたのです。「あなたは必要とされている」と彼らに語りかけてきたのです。
 マザーは医学的には手の施しようのない人々の身体をきれいに洗い、ただ死んで行くのを看取ったに過ぎませんが、死を待つ人々の心に平安をもたらしたでしょう。死んでいった人々には各自の宗教に従った葬儀がなされたそうです。
 マザーの行為は見返りを求めたものではありません。宣教のための奉仕ではなかったのです。マザーは「修道院を出て貧しい人々と一緒に生活せよ」という生ける主の御声を聞き、ただそれに従っただけだからです。彼女は貧しい人々の中に、死を待つ人々の中に主の御姿を感じ、その主に仕えただけだからです。
 この世の基準からすればカルカッタの路上生活者を助けても貧者の一灯にしかすぎません。何千万、何億人もいる世界の貧しい人の数からすれば大海の一滴にしか過ぎません。路上に放置されている死を待つ人々の内の何人かに平安な死を迎えさせたに過ぎませんが、これが彼女に示された復活の主の愛なのでしょう。
 地上の世界は損得、善悪などに二分されるますが、彼女の生きている世界は損得、善悪を越えたキリストの愛に満ちた世界なのです。貧しい人がいる、死を待つ人がいるからマザーは主に仕えるように貧しい人に仕えたのです。主に仕えるのですから、それだけで満たされていたのです。見返りを求めない愛なのです。
 死を待つ貧しい人でも主の目には尊いのです。少なくとも主とマザーは彼らを必要としているからです。マザーがノーベル平和賞を受賞したのでマザーを支援する組織の活動は盛んになりましたが、マザーは組織を解散させました。マザーは主の御声で召し出された者として、貧しい人と共に歩み続けたかったからです。
 初代教会から教会は伝道と共に奉仕を重要視してきました。ユダヤの律法では奉仕は重要視されていますが、ギリシア世界では奉仕は余りなされてはいなかったようです。むしろ教会がヨーロッパ世界、異教世界に持ち込んだ概念です。
 しかし、原始共産社会が成立したのは初代教会の成立初期に限りました。教会の歴史ではリバイバル運動が托鉢運動と結びつきました。教会は歴史と共に驕り高ぶるようになってきました。総てを投げ捨てた聖フランシスコのような生き方をした先達は多くいました。彼らは托鉢により人里離れた地に修道院を造り上げましたが、時代を経ると堕落しました。それが人間のありのままの姿なのです。
 律法主義的生活は人間本来の生き方とは違います。奉仕も義務づけられると形だけを守る奉仕に成り下がります。神様から与えられた律法でさえも形式化したぐらいです。マザーのように主から特別な召しを受けた人でもいつの間にか組織化された集団の歯車にされ、集団の中に埋もれてしまいそうになったぐらいです。
 私たち凡人が背伸びをして奉仕をすれば生活が乱れます。生活の乱れが信仰生活の乱れを誘いかねません。正しい信仰生活を送ろうとしたのに、結果は逆になりかねないのです。分相応の奉仕が信仰生活を高め、信仰生活を整えるのです。
 信仰生活は心に平安を得るのが目的です。信仰生活を送る中で生ける主と格闘せざるを得ない時もあるかも知れませんが、日々の些細な出来事の中で敢えて主に格闘を挑む必要はありません。はんなりとした風情を保たれればそれに越したことはありません。とにかく凡人は凡人らしく無理をしないことが肝要です。
 滴り落ちる水がいつの間にか岩に穴を空けるように、ゆっくりと前を見つめながら歩み続ければ振り返った時に長く続いた足跡に驚かされるでしょう。信仰生活は長い道のりです。地上で生活する間は歩み続けなくてはならないからです。
 人生はマラソン競争なのです。短距離競走ではないのです。ウサギのようにダッシュしすぎれば倒れてしまいます。亀のようにゆっくりでも確実に前へ進むことが必要なのです。総てのことにおいて出来うる範囲を越えないことが肝要です。
 教会でも無理をしないことが肝要です。自分のペースを乱さないことを第一にすべきですし、他人のペースも乱してはいけません。教会には様々な人が集まっているからです。信仰生活では共通していますが、日常生活は別々だからです。
 初代教会の時から教会には様々な階層に属する人が集まっていました。アメリカでは弁護士や医者に相談をすれば高い費用を請求されますが、教会で相談すれば無料だそうです。日常生活と信仰生活とを分けて考えているからなのでしょう。
 ボランティアも自分の賜物に応じた程度にする方が長続きします。大切なのは長く続けることだからです。一時の感情に囚われないことが肝要です。主が必要となされるのは一人一人の賜物に応じた奉仕であり、それ以上ではありません。
 個人の能力には差があります。人には出来ても自分には出来ないこともありますが、それを受け入れるところから新たな出発が始まるのです。人を羨む心は自分自身を傷つけてしまいます。分相応に生きることが心の平安に繋がるからです
 教会も大きいから良いのではありません。むしろ一人一人の心が通い合う程度の大きさが身の丈に合っているように思えます。具体的には2種教会、現住陪餐会員が20名以上にはなりたいと思いますが1種教会、50名以上は望みません。

07/01/14 希望は私たちを欺くことはない T

希望は私たちを欺くことはない
2007/01/14
ローマの信徒への手紙5:1?5
 フセイン元大統領が処刑されましたが、東京裁判を想起させられました。建前としてはイラク人のイラクの法律に基づく裁判ですが、事実上はアメリカの対テロ作戦の延長線上にある政治な判断です。報復の論理が法の執行を歪めました。
 イラクが主権国家だと思っている日本人はいないでしょう。アメリカの傀儡政権の決断をイラク国民が受け入れるかは未知数ですが、アメリカがイラクから撤退することは道義上許されません。戦いを始めた責任はアメリカにあるからです。
 アメリカの国際戦略の上でフセイン元大統領が血祭りに上げられたような感もありますが、彼もアメリカを挑発しすぎました。大量破壊兵器の存在がホワイトハウスの情報操作によるものですから戦争の大義はアメリカにはありません。
 国際政治には虚々実々の駆け引きがあるのでしょうが、日本が太平洋戦争へ突入した状況に似た点もあるのかも知れないと思われます。独裁者が状況判断を誤った結果がイラクを内戦状態に陥し入れ、アメリカ兵を戦死させていきます。
 イスラム教国には本質的に民主主義とは相容れないものがあるようです。民主主義はキリスト教が起源だからです。部族社会が割拠している多民族国家を統合できるのは強烈なカリスマが警察国家を率いた場合でしかないのでしょう。
 砂漠の民には砂漠の民の掟があります。民主的な法治国家とは相容れないものです。タリバンの支配していたアフガニスタンでは文明国の常識では理解しがたいものがありました。文化の違う西欧が口を挟むことではないのかも知れません。
 ブッシュ大統領にはアメリカが日本を民主主義国にした成功体験が強く影響しているように感じられますが、日本には文明開化により西洋文明を受け入れる素地ができていました。戦争に負けても国家機能は崩壊していませんでした。
 さらに、日本人には外から入ってくる文化を消化し、日本流に再構成する特殊な能力があります。大陸からの文化、西欧文化を日本人は取り込み、日本独自の文化を造り上げてきたのです。大宝律令、民主主義の日本バーションなのです。
 イスラム教国の文化はヨーロッパが封建制の元で停滞していた時には、むしろ質量ともにヨーロッパを凌駕していました。ヨーロッパに産業革命が起きて彼我の格差は逆転しました。イスラム教国は近代化に適応できず、取り残されました。
 だからといってイスラム教国にキリスト教的価値観である民主主義を押し付けるのは筋違いです。イスラム教がテロリズムの背景にあると考えるのは偏見でしょう。むしろ、国内の貧富の差がアメリカに対する憎悪を生んでいるからです。
 オイルマネーを独占する階級、例えばサウジアラビア王室などが変わらない限りテロリストの供給は絶えないでしょう。石油メジャーがオイルマネーの独占を許しているところに構造的な欠陥があります。宗教の問題ではありません。
 イスラム教国のオイルマネーの独占から来る政情不安はロシアと構造的な違いはありません。イラクが内戦状態にある原因の一つはオイルマネーの争奪戦にあるのでしょう。イラク戦争の原因もアメリカの石油支配戦略から来たのでしょう。
 パウロはかつてファリサイ派のラビでした。ラビとして律法を守るために全精力を注ぎ込んできましたが、律法を守りきれない自分の姿に気付かされました。律法を守ろうとすればするほど律法から離れていく自分の姿に絶望したのです。しかし、パウロは信仰によって義とされる福音の真理を発見したのです。
 パウロはコペルニクス的転回を経験し、信仰による義、パウロ神学の神髄に到達したのです。律法と割礼の遵守に囚われていたエルサレム教会、ユダヤ主義教会から異邦人教会、自由主義教会の設立へと福音伝道の方向を切り換えたのです。
 パウロ的転回は信徒を強制の信仰から恵みの信仰へと導き入れるものでした。主に対する信仰が私たちを神の御前に導いて下さることを確信できたのです。神の御前に立たされる時に見出されるのは恵みなのです。刑罰でも、裁きでも、復讐でもなく、受けるに価しない、功績によっても得られない慈しみでなのです。
 一方、導き入れるは船が港に避難する時に用いられる言葉でした。水夫たちが大波に翻弄される船の上で嵐から船を守ろうと格闘している姿が連想されますが、私たちの心も日々の生活の中で吹きすさぶ嵐により動揺させられています。しかし、主の愛と恵みにより守られた避難所へ待避することができるのです。避難所の中で神の栄光に与る希望だけではなく、苦難をも誇ることができるのです。
 なぜなら苦難は忍耐を生み出すことを知っているからです。苦難は抑えるという意味です。欠乏と貧困の抑圧、迫害の抑圧、不人気と孤独の抑圧を意味します。
 忍耐は単に受動的に耐え忍ぶ精神を意味するだけではなく、能動的、積極的に人生の苦難や試練を克服し、それに打ち勝つ精神を意味します。ベートーベンは耳が不自由になりましたが、交響曲第9番を始めとして数々の作品を残しました。彼は音楽家としては致命的な聴覚の障害を乗り越え、名作品を残したのです。
 さらに忍耐は練達を生み出すと続けています。練達という言葉は火の中で不純なものが総て除去された金属、精錬された金属という意味です。苦難を不屈の精神で乗り越えられれば、より強く、より潔く、より善くなって神に近づくのです。
 最後に練達は希望を生み出すと結論づけています。人生の歩み中で人は様々な苦難に出会いますが、苦難を積極乗り越えることでさらなる前進を続けられる人と試練に打ち負かされて人生を放棄してしまう人とに別れます。この差は最初はわずかな差でしかありませんが、進む方向が正反対なので決定的な差がつきます。
 前を向いて歩み続ける人には希望に繋がる道が用意されているのです。後ろしか見られない人は希望に繋がる道が用意されていても見逃してしまうのです。神様は人間に平等の機会を用意されていますが、それを生かすか殺すかは個人の責任です。機会は均等に用意されていますが、結果には天と地の開きがあります。
 そして希望は欺かれることがないとパウロは強調しています。キリスト者の希望は神の愛に根ざしているが故に失望に終わることがないのです。信仰は忍耐する力を与えてくれます。実現されていない希望の実現を確信する力が信仰です。希望を持ち続けて歩む人生は総ての患難を忍耐させ、忍耐を精錬させるのです。
 パウロの主張は観念論ではありません。彼の伝道旅行で味わった苦難が彼に忍耐する力を与えたのです。忍耐がパウロの伝道への志を潔めたのです。彼は何度も絶望の淵に立たされましたが、希望が失望に終わることはなかったからです。
 信仰の世界は神の約束を信じる世界です。まだ実現されていない神の約束の成就を待ち続ける世界です。イエス様の誕生により神の国は既に実現しましたが未だ実現しない世界、主が約束なされた再臨の日を待ち望んでいる世界なのです。
 教会は主が再び来られる日まで地上に立ち続けることが必要なのです。教会の歩みは平坦ではありませんでした。迫害に耐える日々もありましたが、2000年間立ち続けてきました。教会は主の肢体ですが、人間の群れです。教会の歴史は福音から離れる、リバイバルが起きる、また福音から離れるの繰り返しでした。
 私たちの先達は苦難に耐える日々の中で忍耐することを学んだのです。福音から離れられないことを誇りとし、さらなる一歩を歩み出してきたのです。宗教改革はルターの九十五カ条の提題から始まりました。法王庁が免罪符を発行し、莫大な富を集めたのに対して、ルターは寄進による功徳は行いによる義にすぎないと抗議しました。人が救われるのは信仰による義のみであると主張したのです。
 ルターはローマの信徒への手紙から信仰による義を再発見しました。宗教改革三原則「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」が確立されました。プロテスタント教会とカトリック教会との宗教戦争はヨーロッパ全土に広がりました。ヨーロッパの人口が激減するくらいに激しく闘ったのです。一部のプロテスタント信徒は信仰の自由を求めて新天地、アメリカへ移住しました。アメリカはプロテスタント信徒により建国されたので、信仰の自由が建国の理念になったのです。
 プロテスタントの信徒はカトリック教会からの激しい迫害の中で信仰を守り通しました。カトリック教会からの激しい弾圧はむしろ人々の信仰を目覚めさせたのです。宗教戦争の戦火を潜り抜けることでプロテスタント教会の信仰は確立しました。改革長老主義はスイスでカルバンにより確立された教義なのです。
 アメリカに移住した信徒たちは新たなる創世記、神の国の建設を始めたのです。アメリカの歴史を突き動かしてきたのは神の国の建設を目指す信仰の力なのです。彼らには未開の地はまだ人が入っていない約束の地カナンでした。厳しい自然との闘いを神の国の建設を目指す信仰の力が耐えさせたのです。新天地を目指す幌馬車隊の列は主の福音を前進させるための伝道者の列でもありました。
 開拓者の厳しい生活が信仰を潔めました。開拓者は先ず教会を建ててから教会を中心にした町造りを行いました。彼らの生活の中心は教会にありました。神の国を造る使命は彼らに勇気を与えました。開拓者の厳しい生活を信仰が支えました。主からの使命を実現するための生活は希望に満ち、祝福に満ちたものでした。
 アメリカ人の楽天的な性格は開拓者魂がもたらすものかも知れません。未開の地を開墾し、農地にした自信から来るのでしょうが、信仰に裏付けされた楽観主義でもあるのでしょう。彼らのDNAには信仰が刻み込まれているからです。
 教会は2000年の歴史の中で様々な試練に出会いました。時には教会が地上から消え去る危険に出会った時もありましたが、信徒たちの忍耐が教会を立て続けさせたのです。信徒は迫害の嵐が通り過ぎるのを手をこまねいて待っていたのではありません。あらゆる手段を使って伝道に励みました。教会の危機がむしろ教会の信仰を潔めたのです。迫害の中で未来に希望が持てない時にも主の世界宣教命令を信じたのです。主の約束が成就、実現される希望を持ち続けたのです。
 パウロの信仰は奇跡に頼る信仰とは違います。現実を直視した上で、苦難、患難を乗り越える信仰でした。昔、山中鹿之助が尼子氏再興のために我に艱難辛苦を与え給えと神に祈ったそうですが、単なる個人の願望を実現させるためにパウロは患難を喜んでいるのではありません。信仰者の受ける患難は神の摂理に基づくから喜べるのです。福音の前進のために受ける患難こそ信仰者の勲章なのです。
 信仰のある人間と信仰のない人間との差は忍耐する力の差に表れるような気がします。信仰者には神の国が約束されていますし、現実の思い煩いを主に委ねることもできます。例えば病気や障害を負いながら歩む人生は辛いものですが、その重荷を主が変わって負ってくださのです。主の軛は負いやすく軽いからです。
 現実には病気や障害が癒されない場合の方が圧倒的に多いのですが、希望を失ってしまう人と希望を持ち続けて人生を終えられる人とがいます。希望を失えばその人の人生はそれで終わりますが、希望を持ち続ける限り主に祝福された人生を送られのです。患難をも喜べるのは生きる喜びを感じられるからです。今日一日辛い人生ではあったかも知れないが、明日を夢見ることができるからです。
 明日、未来は神の領域に属することですが、未来に希望を託すことは人間の領域に属することです。ルターは「明日終末が来るとしても私はリンゴの木を植え続けるだろう」と言ったそうですが、未来への可能性を信じ続け、努力をし続けるのが信仰だと思います。忍耐とは未来の可能性を信じ続けることなのです。
 未来を見つめて生きる人と過去しか見つめられない人の人生とは全く違う結果が生じます。正反対の方向へ向かう歩みの差は僅かでも積み重なれば大きな差が付くからです。信仰者は未来に希望が持てるからです。神様が最善の道を備えていて下さることを信じられるからです。「主の道に備えあれ」だからです。
 パウロは「希望は失望に終わることはない」と述べていますが、希望がそのまま実現するとは思っていません。パウロの人生はパウロの予期した人生とは全く違う人生でした。ファリサイ派の高名なラビ、ガマリエル門下のラビとしてキリスト教徒を迫害しました。大祭司の親衛隊の長として激しい弾圧を加えたのですが、ダマスコへキリスト教徒を迫害しに行く途中で復活の主に出会い、回心を体験しました。彼はユダヤ人同胞に主の福音を宣べ伝えようとしましたが、拒否されました。その結果、異邦人への伝道者とされたのです。三回にもわたる伝道旅行もハプニングの連続でしたが、ヨーロッパに異邦人教会を建てました。エルサレムが陥落し、異邦人教会だけが残りましたが、世界宣教命令は実現したのです。
 パウロの伝道者としての人生は波瀾万丈でしたが、彼の働きにより主の世界宣教命令は2000年後の現代では実現しています。全世界の各地に教会が建てられ、聖書も各民族の言葉に翻訳されています。一人の人間に与えられた患難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望を生み出し、希望は失望に終わらなかったからです。
 私たちは名もない信仰者ですが、教会を立て続けてきたのは名もない信仰者の群れなのです。教会の2000年の歴史は名もない信仰者の歴史です。患難を忍耐し続ける中で希望が生み出されたのですが、誰も結果を見ないで天に召されたのです。瀬戸キリスト教会の未来は誰にも分かりませんが、未来に希望を持ち続け、日々の信仰生活を充実させましょう。それが主の御心に叶う唯一の道だからです。

07/01/07 神を知る民として生きる M     

2007年1月7日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神を知る民として生きる     ホセア書4章1_3節
讃美歌 76,2_152,411
堀眞知子牧師
主暦2007年を迎え、共に礼拝を守れますことを感謝いたします。1?3章まではホセアの結婚生活を通して、神様の御言葉が語られましたが、4?7章には、イスラエルの罪に対する神様の告発が記されています。ホセアは「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される」という言葉で語り始めます。神様はイスラエルの罪を告発し、その罪の内容を明らかにされます。これは法廷、裁判を意識した言葉です。神様が検察官であり、同時に裁判官でもある法廷です。そして弁護士はいません。本来、御自分の民としてイスラエルを弁護される神様から、イスラエルは訴えられているのです。イスラエルを守って下さる神様に、北イスラエルが背いたからです。一方的に神様が告発され、判決を下します。第1の罪は「誠実さと慈しみにかけていること、神様を知らないこと」でした。第2の罪は「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いていること」でした。第2の罪は、第1の罪がもたらす当然の帰結です。創造主であり、アブラハムを祝福の源として召し出され、イスラエルをエジプトから導き出し、モーセを通して「十戒」を与えられた神様に背いたがゆえに、神様との関係が破壊され、人間関係も破壊され、罪と悪がはびこっています。罪と悪に対する刑罰が語られます。「それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」刑罰は罪と悪に満ちている人間の世界を超え、自然界、動物の命にまで及びます。
北イスラエルの罪と悪は、宗教上の指導者である祭司に責任の一端がありました。イスラエルは他の国々と異なり、神様の民として生きる恵みと責任がありました。ですから宗教的指導者である祭司には、豊かな恵みと共に重い責任がありました。神様は祭司の罪を告発します。「もはや告発するな、もはや争うな。お前の民は、祭司を告発する者のようだ」申命記17章に「あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司あるいは裁判人を無視して、勝手にふるまう者があれば、その者を死刑に処し、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」と記されています。祭司は神様に仕えている者です。彼らの判決に逆らうことは、神様に逆らうことでした。イスラエルは、神様に仕えている祭司を告発するような民になっていましたが、それは祭司自身にも責任がありました。イスラエルを宗教的に指導しなければならない祭司が、罪と悪に染まっていたのです。そもそも北イスラエルでは、最初の王ヤロブアムが、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じました。祭司を選ぶ出発点から間違っていたのです。「昼、お前は躓き、夜、預言者もお前と共に躓く。こうして、私はお前の母を沈黙させる」祭司の奉仕は昼間に行われ、預言者は夜、夢の中で神様から啓示を受けたように語りました。ここでは「昼も夜も」つまり、いつも祭司はイスラエルを躓かせ、自分自身も躓いていました。「お前の母」とは、イスラエル国民のことです。宗教的に堕落した祭司の指導を受けている国民には、悲惨な結果がもたらされます。神様はホセアを通して「我が民は知ることを拒んだので沈黙させられる」と語ります。北イスラエル滅亡の原因は、神様を知ることを拒んだことにあります。単に神様を知らなかったからではありません。知らされているにもかかわらず、神様を知ろうとしなかったのです。「お前が知識を退けたので」と語られているように、祭司が神様の知識である律法を退け、神様を知ろうとしなかったのです。神様との契約関係の中に生きることを拒否したのです。結果として神様は「私もお前を退ける」と宣言され、さらに「私もお前の子らを忘れる」と宣言されました。御自身の民であるイスラエルを忘れる、と言われました。「私も」と語られるところに、神様の憤りと怒りが表されています。祭司が神様を知ることを拒否し、律法を忘れたので、神様は祭司はもちろん、イスラエルをも忘れると言われました。
7節以下にも、祭司の罪が記されています。ただ4?6節と異なり、神様は祭司に対して「お前」とは語りかけていません。1対1で語りかけることさえ拒否され「彼ら」というふうに、一般的な言葉遣いになっています。そして「祭司」は単数ではなく複数になっています。祭司は人数において増加しただけではなく、力と富も増加し、罪と悪も増加したのです。人数と力と富が増加することは、もともとは神様の祝福の徴でした。けれども神様の知識である律法を退け、神様を知ろうとせず、神様との契約関係の中に生きることを拒否した祭司達は、勢いを増すにつれて、ますます、神様に対して罪を犯しました。彼らは真の神様に仕えるのではなく、偶像に仕えたのです。カナンの土着の宗教に仕えました。と言って、彼らは主なる神様を、完全に忘れてしまったのではありません。多神教の罪に陥ってしまったのです。主なる神様にも、カナン土着の神々にも、同じように仕えたのです。けれども主なる神様は、モーセを通してはっきりと「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」と命じられました。主なる神様もカナン土着の神々も、すべて一緒ということそのものが「十戒」に反することであり、神様を知ろうとしないことでした。神様は「私は彼らの栄光を恥に変える」と宣言されました。祭司は神様に仕える者であり、神様の民イスラエルにおいて、栄光ある務めであり、神様の栄光を現す職でした。けれども偶像にも仕える祭司は、自らの手によって栄光ある務めを恥へと貶めたのです。罪と悪に満ちている祭司達は、イスラエルが献げる贖罪の献げ物を貪っていました。贖罪の献げ物が多ければ多いほど、祭司達は豊かになるので、イスラエルが罪を犯すのを助長していました。神様は「祭司も民も同じようだ」と語られます。祭司が祭司としての務めを放棄し、民の模範となるどころか、同じように罪を犯しているのです。神様は刑罰を下します。神様の刑罰は、祭司達が抱いている望みを打ち砕きます。「私は、彼らを行いに従って罰し、悪行に従って報いる」これは、とても恐ろしい言葉です。もし神様が本当に「行いに従って罰し、悪行に従って報い」られたとしたら、私達は、とても耐えることができません。神様の前に常に正しく、罪も悪も犯さずに生きることは、私達になしえることではありません。罪人でありながらも、神様の憐れみによって生かされている私達に、もし神様が「行いに従って罰し、悪行に従って報い」られたとしたら、それは考えることさえ恐ろしいことです。けれども、ここで神様ははっきりと「行いに従って罰し、悪行に従って報いる」と宣言されました。神様の憐れみさえ受けられないほど、祭司達の罪と悪は極限に達していました。「彼らは食べても飽き足りることがない」あえて仏教的言い方をすれば餓鬼地獄です。「淫行にふけっても、子孫を増やすことができない」子孫が増えていくことが祝福の徴であった時代にあって、それは一族の滅亡を予告する言葉です。また淫行にふけるという言葉は、豊穣や多産を願うカナン土着の宗教、特にバアル信仰を意味しています。刑罰を下す理由として「彼らは淫行を続け、主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ」と言われているように、祭司も民も、真なる神様に聞き従うことなく、異教の神々を求めて、彼らに仕えていました。
11?14節には、偶像崇拝の罪が具体的に告発されています。神様は第1に「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」と言われました。お酒そのものが悪いのではありません。心を奪われるような飲み方に問題があります。おそらく異教の神々の宗教的儀式の中で、ぶどう酒や新しい酒が用いられ、飲まれていたのでしょう。酒に酔ってしまうと、正しい判断力、思考力が損なわれます。偶像礼拝が罪であることも忘れ、偶像に対する判断力さえ失ってしまいます。いわば霊的判断力を損なわれてしまうのです。結果としてイスラエルは、真の神様の御心を求めないで、木や枝などに神意を尋ねようとします。淫行の霊、異教の神々の迷信に惑わされて、誤った神の託宣を求めようとします。木や枝に力はありません。自然をも支配される神様を離れ、何の力もない木や枝に頼ろうとします。真なる神様に礼拝をささげないので、山々の頂でいけにえをささげ、丘の上で香をたくことになります。その理由として、神様は「樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ」と言われます。神殿で厳しい神様の前に立つよりは、自然の中で偶像を礼拝する方が、イスラエルにとって快いからです。いわば人間中心の礼拝なのです。人間中心の礼拝は、宗教の名の下に性的不品行をもたらします。「お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、私は咎めはしない。親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ」神様はモーセを通して「姦淫してはならない」と命じられました。性的不品行を厳しく禁じられているにも関わらず、ここでは「娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、私は咎めはしない」と言われています。それは淫行にふけり、姦淫を行っている女性達の罪の原因が、彼女達と言うよりも、祭司や指導者にあるからです。上に立つ者が偶像礼拝という不品行の罪を犯しているがゆえに、女性達が罪を犯しても、それを罪と感じないのです。咎められるべきは、祭司や指導者たちです。同時に「私は咎めはしない」という言葉の中には、もはやイスラエルに対して無関心とさえ言える、神様の姿勢が現れています。最後に神様は断言されます。「悟りのない民は滅びる」滅びへの道を歩んでいるイスラエルへの宣告です。
北イスラエルに対する告発を語った後、神様はホセアを通して南ユダに語られます。「イスラエルよ、たとえお前が遊女であっても、ユダは罪を犯すな」北イスラエルが異教の神々に仕えていても、南ユダは罪を犯さないように、との警告が発せられます。「ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな。『主は生きておられる』と言って誓うな」ギルガルとベト・アベンは、北イスラエルとの国境に位置する町でした。北イスラエルの影響を受けやすいので、これらの町へ行かないように警告されています。また「主は生きておられる」と言って誓うなというのは、一方では異教の神々を礼拝しながら、他方では「主は生きておられる」と言って誓う罪を犯すな、という意味です。先にも述べましたように、神様は「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」と命じられました。真なる神様は、多神教そのものを許されていません。他の神々をも礼拝することは、唯一なる神様に対する大きな罪なのです。
「まことにイスラエルは、強情な雌牛のように強情だ」という言葉には、神様のため息が聞こえます。イスラエルは神様に対して反抗的であり、強情な雌牛のように御しがたい存在です。「どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか」という言葉には、ホセアのため息が聞こえます。強情な雌牛のようなイスラエルを、神様は小羊のように養われています。小羊のように広い野で養われながら、イスラエルは偶像のとりこになっています。ホセアは17節から、イスラエルをエフライムと語ります。それは北イスラエルの最初の王ヤロブアムがエフライム族出身であったこと、北イスラエルの中でエフライム族が中心的地位を占めていたことによります。偶像の虜になっているイスラエルに対し、神様は「そのままにしておくがよい。彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね、恥知らずなふるまいに身を委ねている。欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」と宣告されます。「そのままにしておくがよい」というのは、彼らの自由を認める言葉ではありません。北イスラエルを見捨てた言葉です。そして、欲望の霊が北イスラエルを滅亡へと引き込もうとしているにもかかわらず、北イスラエルに対して、神様は救いの御手を伸ばされないのです。
神様を知らされているにもかかわらず、神様から選ばれているにもかかわらず、強情な雌牛のように神様を知ろうとしない、神様を拒む。そのような民に、神様は200年間、忍耐に忍耐を加えてこられました。けれども今や、神様の忍耐も切れ、北イスラエルは滅亡へと歩みを進めています。これは、2700年以上前の北イスラエルのみではありません。現代のキリスト教会も、絶えず心を傾け、耳を傾け、目を見開き続けて注意しなければならないことです。教会は「イエスは主なり」と告白した者の群れです。父・子・聖霊なる三位一体の神を唯一の神と信じる群れです。唯一なる神様を信じる群れですが、日本に住む私達は、絶えず異教の神々に取り囲まれています。その中にあって、唯一なる神様を信じ続けることは、決してたやすいことではありません。
「イエスは主なり」と告白しながら、他の神々、仏教や神道をも信じることは、もともと不可能なことです。「イエスは主なり」と告白し、洗礼を受けた時から、私達は異教世界の中に遣わされたキリスト者として、証の生活を送る恵みをいただき、同時に責任を委ねられています。私達は異教社会、それも宗教的にきわめて曖昧なと申しますか、曖昧さが寛容さとして好意を持たれる社会の中で、唯一なる神様を信じる群れです。一神教に対する誤解、それも知識人といわれる人々が大きな誤解を持ち、新聞などで誤った知識の下に、一神教を堂々と非難しています。知識人の非難は、間違っているにもかかわらず正論として認められ、日本社会の中で常識になっています。そのような社会の中で、真の神様を知らされたことは、神様の奇しい御業としか言いようがありません。「感謝」という言葉以外、何も出てきません。しかし、それは同時に、神様を知る民として生きる使命を負わされています。神様を知らされた恵みは、神様を知る民として生きる使命を常に伴います。最初に「主暦2007年を迎え」と申しました。正確な歴史から言えば多少のずれはありますが、父なる神様が御独り子イエス様を地上に遣わされて、2007年の時が流れ、教会が生まれて1980年近い時が流れました。主の再臨の日まで続く教会の歴史の中に、この瀬戸キリスト教会が入れられた。それは、真の神様を知る民として生きる群れの中に加えられたことです。新しい年が始まりました。この年も、神様を知る民として生きる歩みを、神様によって整えていただきましょう。そして一人一人が、異教社会の中にあって、主の証人として用いていただけるよう、祈りましょう。

2007/01/02

06/12/31 神は約束を実現される T

神は約束を実現される
2006/12/31
ローマの信徒への手紙4:18_25
 改正教育基本法が成立しましたが、国民的な議論が不十分であり拙速であったと思われます。キーワードは個、個人から公、公人へと教育の視点が変わったところにあります。国に奉仕する人材を育成するのが教育の目的とされました。
 安倍首相には戦後体制からの脱却という明確な主張がありましたが、国民に未来への展望を語りかけることをしませんでした。野党は自社対決時代に先祖返りしてしまい、徹底抗戦を叫ぶだけでした。国民の抱く不安は無視されました。
 安倍首相は重要な発言は外国のメディアで語り、国民に対してメッセージを送ることを怠りました。教育基本法改正、憲法改正を持論にしていたのにも拘わらず、首相の国会での答弁は言語明瞭、意味不明の官僚的な答弁に終始しました。
 日本の法制度を根本から変えようとするのならば、国民的な議論の積み重ねが必要ですが、首相は意図的に曖昧路線を取り続けています。国会審議は自社対決時代に先祖返りしました。野党にニューリーダーが出現するのが待たれます。
 民主党は対案を提出したのにも拘わらず、小沢代表の対立軸を造り出す戦術に囚われて時機を逸しました。国民は未来へのビジョンを明確に語れるニューリーダーを求めているからです。国民不在の国会の混乱振りは子供に見せられません。
 改正教育基本法が国家への奉仕を前面に押し立てていますが、政治家、官僚は尊敬に価しません。愛国心を強要しても、愛するに価しない日本の現状がそれを拒否させています。政治家が尊敬に値する国家を建設することが必要です。
 かつて、政治家は全財産を使い果たし、井戸と塀しか残らないと言われた時代がありましたが、現代の政治家には豪邸が残ります。武士は食わねど高楊枝とは言いませんが、国家のために私心を捨てた政治家の出現が待ち望まれます。
 団塊の世代以上には愛国心が強調されると戦前の情景が浮かび上がります。北朝鮮の現状と日本の戦前の社会とが重なって見えるのです。戦前の反動から日教組の自由平等教育は個人を尊重する余り、個人の能力の差を認めませんでした。
 日教組の背景には社会主義がありました。社会主義は平等に貧しくする制度と言えますが、日教組の主張は平等に学力を付けない教育だと言えると思います。運動会で順位を付けさせないために手を繋いでゴールさせるようなものです。
 ゆとり教育は白痴教育とも言えると思います。週休5日制も教員を休ませるためであり、子供のためとは思えません。学校教育では学力を付けることができないから学習塾がはやるのです。多くの点で現代の教育を見直す必要があります。
 しかし、それらがどう教育基本法改正に結びつくのかが理解できないのです。むしろ読み、書き、算盤を徹底的に教え込み、思考力を鍛え、読書の習慣を身に付けさす方が先決です。愛国心、公共心は個人の教養が昇華したものだからです。
 子供は大人の世界の反映です。一国の政治に文化が反映するのですから、日本の文化レベルが低いことが分かります。マスコミ、言論界には政治を批判する能力が欠けています。野党、市民運動が政治的な力を持てないのが日本の課題です。
 唯一の神は『あなたを多くの民の父と定めた』との契約をアブラハムと結ばれましたが、アブラハムは99歳、妻サラは90歳になっていました。アブラハムとサラには子供がいませんでした。サラには月のものがなくなっていました。サラは子供ができる可能性のないので主の使いの言葉を聞き、密かに笑いました。
 しかし、アブラハムは『死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』を信じました。アブラハムは人間の常識からすればサラとの間に子供が産まれるはずはあり得ないのに、なおも起こりえないことを信じたのです。
 アブラハムが神を信じたのは神が約束を成就してくださるか否かが全く分からないときでした。むしろ、神の約束、サラとの子供が与えられる約束は叶えられないと思われますのに、なおも人間的には根拠のない希望を抱き、信じたのです。
 アブラハムの信仰、無から有を創り出される神への信仰は神に良しされました。神は『あなたの子孫は大きな強い国民になる』と約束なされたように、彼を多くの国民の父となされたのです。アブラハムには約束の子イサクが与えられました。
 主がアブラハムと約束をなされた時には、彼は100歳近くになっており、肉体は既に衰えていました。彼は妻サラの身体も子供が宿せないことも知っていましたが、信仰は弱まりませんでした。神の約束を疑うことはありませんでした。
 アブラハムは既に人間の常識で判断する世界から神の御業を信じる世界へ移っていました。アブラハムは常識の世界に立ち戻ることはなく、神の約束を疑うことはありませんでした。むしろ信仰によって強められ、神を賛美したのです。
 神様はアブラハムの信仰を義とされました。神は約束なされたことを実現させる力を持たれるお方だと信じていたからです。アブラハムは人間の常識からすれば信じられない神の約束に疑問を挟まず、無条件に信じたので義とされたのです。
 『無条件に信じる信仰が義と認められた』という神様の言葉はアブラハムだけに語られたのではなく、彼の信仰を受け継ぐ者、約束の子である私たちにも語られているのです。神に義と認められるのは行いではなく、信仰であるからです。
 私たちの主イエスを死者の中から復活させたお方を信じれば、私たちも義とされるのです。主の十字架での死と甦りは、人間の世界の常識が通じない世界、信仰の世界を私たちに示してくれました。主は死の世界に打ち勝たれたからです。
 主は私たちの罪のために死に渡されました。主の御業が十字架での贖いの死で終われば、罪の赦しがなされたにすぎませんが、死者に命を与え、無から有を創造なさる神が主を甦らされたからこそ、私たちは永遠の生命に与れるのです。
 私たちが義とされるのは神の力を無条件に信じているからです。死者に命を与え、無から有を創造なさる神の力は主イエスを甦らせたことで明らかにされました。私たちに生ける主の御力を具体的に示されたのが復活の出来事なのです。
 クリスマス、イースター、ペンテコステが三大祝祭日ですが、初代教会はイースター、復活の出来事を先ず宣べ伝えました。復活こそ宣教の中心であったのです。復活の事実が恐れ戦く弟子達を奮い立たせ、殉教の道へ邁進させたのです。
 アブラハムは神の約束が成就される保証がなくても信じましたが、私たちには復活の事実が信仰の保証として与えられています。復活の主はトマスに脇腹に手を入れさせましたが、復活の事実は人を『見ないで信じる者』へと変えるのです。
 パウロは信仰の父アブラハムの『死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』を信じた信仰が神に義とされたと主張しています。アブラハムがなぜ神様に選び出されたのかは分かりませんが、神様からの呼びかけに無条件に従いました。神様は彼に存在していなかった信仰を呼び出されたのです。
 アブラハムの信仰は常識が支配する世界から神の秩序が支配する世界へと彼を導き出したのです。常識の世界ではサラとの間に子供が産まれることは考えられませんが、それでも彼はなお主の御言葉が成就することを堅く信じたのです。
 アブラハムは何故だか彼自身にも分からないのですが、『神は約束したことを実現させる力をお持ちの方』だと確信できたのです。彼に約束の子イサクが与えられ、多くの民の父とされたのは信仰の結果であり原因ではないからです。
 しかし、神様に義とされるのは無条件の信仰なのです。ユダヤ人の信仰では割礼や律法を守れば唯一の神は応えてくださり、守らなければ禍を送られるのです。ユダヤ人の信仰は無条件の信仰から因果応報の信仰へと変わってきたのです。
 パウロは神がアブラハムに信仰を与えられた原点に遡り、無から有を創造なされる神、彼の心に信仰を生まれさせた神に注目しています。信仰は約束が与えられた時に生まれるものであり、成就されたから生まれるものではないからです。
 人間には神を慕う心がありますが、神からの語りかけがなければ信仰は生まれません。人間が慕う神は八百万の神々であり、オリンポスの神々なのです。人間に豊饒をもたらす神々なのです。唯一の神、契約の神とは本質的に違うのです。
 唯一の神はアブラハムを祝福の源とし、総ての民族の父とする契約、アブラハム契約を結ばれました。アブラハムは神が約束を実現なされることを信じましたが、神と契約を結んだ時点では約束が成就、実現する保証はありませんでした。
 神様が求められるのは約束の成就が保証されなくても信じる信仰なのです。私たちは復活、永遠の生命を信じていますが、人間の常識からすれば復活の保証も空手形かも知れません。現代科学の常識からすれば復活はあり得ないからです。
 しかし、主イエスは死者の中から復活させられたのです。このあり得ない事実を確認した弟子達は生まれ変わりました。イエス様の国で栄華を極めることのみを願い、十字架から逃げ去った弟子達は、再び果敢に伝道を始めたのです。
 彼らを変えたのは復活の事実です。初代教会は子なるキリストの復活の事実を宣べ伝えたのです。パウロは父なる神が主を復活させられた事実を信じれば義とされると主張しています。私たちはアブラハムの信仰に与る約束の子だからです。
 私たちがアブラハムと違うのは復活の事実を主が証しなされているからです。私たちには主の復活の事実が明らかにされ、その結果を既に知らされているからです。復活は現代では信じられない事柄ですが、昔は信じられた事柄でした。
 父なる神が主を死に渡され、復活させられたのは私たちに永遠の生命への希望を与えられるためです。信仰を復活という具体的な形で示されたのです。義とされるためには何を信じるべきか、何をなすべきかを復活を通して示されたのです。
 クリスマス、イースター、ペンテコステは信仰の基本です。主の誕生、十字架での死と甦り、聖霊降臨が教会の信仰を支えていますが、復活が信仰の原点です。復活、永遠の生命への望みが代々の信徒達に殉教さえ喜ぶ信仰を与えたのです。
 信仰の問題を話し合う時に必ず問題になるのは復活を信じられるか否かです。日本基督教団の中でも復活はなかったという牧師や信徒がいるぐらいですから、信仰のない人には受け入れられない概念だと思います。自然科学では復活はあり得ないと証明できませんが、学校教育の中では復活はあり得ないのが常識です。
 信仰を告白できない理由の第一に復活を信じられない点が上げられるます、信仰の問題と科学の問題とが混同されているからだと思います。日本人は科学が万能であると教え込まれて育つので、信仰の世界は非科学的だと教わるのです。
 宗教と科学の世界は対立してきました。ガリレオが宗教裁判で地動説を撤回した後に、「それでも地球は回っている」と言った話は有名です。自然科学の発展はニュートン力学が森羅万象を動かす真理だという錯覚を科学者に与えました。
 18世紀には理神論、神の啓示や奇跡を否定し、人間の理性が優先する神学が広がりましたが、現代ではそう信じる人はいません。理神論の根本的な誤りは信仰の世界、心の世界を科学の世界、理性の世界で理解しようとした点にあります。
 科学の世界で表されるのは宇宙のほんの一部にしかすぎません。科学の世界は基本的に人間が知覚できる世界に限っているからです。あくまでも人間の五感が頼りなのです。それに引き替え信仰の世界は人間の五感を超える世界だからです。
 聖霊の力を具体的に感じられる人もいるそうですが、普通の人間からすれば幻聴、幻覚としか思えません。預言者には時間、空間を越えて感じられるものがあるのでしょうが、神様から選ばれた者にのみ与えられる特殊な能力なのでしょう。
 このように私たちの経験の延長線上から考えればあり得ない世界、私たちに経験できない世界だからあり得ないと断定はできません。例えば20世紀の始めまで宇宙に始まりがあるのは荒唐無稽な非科学的な神話の世界の中の話でした。
 アインシュタインは相対性理論により時間、空間が歪むことを明らかにしました。相対性理論は宇宙の始まり、ビッグバンを予測していましたが、彼は最初は先入観に捉われてしまい、ビッグバン理論を議論に価しないと批判しました。
 復活を否定する根拠も肯定する根拠も時代により変化するものかも知れません。アメリカでは学校教育で神の存在を教えられませんが、信じる人が多数だそうです。学校教育では進化論が教えられますが、賛否はほぼ同数だそうです。
 信仰の世界は常識では判断できない世界です。アブラハムからイエス・キリストまで2000年、それから2000年が経ち、信仰は4000年間は保たれてきました。ユダヤから全世界へと広がりました。信仰は時間、空間の壁を越えたのです。
 私たちが経験できる時間はたかだか100年程度でしかありません。経験則に基づく判断に捉われると真理を見逃しかねません。アブラハムが神の約束、まだ見ることのできない世界を信じたような信仰が必要です。信仰は決断だからです。
 教会は旧い契約、旧約の世界の信仰を受け継いでいます。教会の信仰には4000年を超す歴史の積み重ねがあるのです。神を信じる、神から離れる、悔い改めを迫られる、回心するが繰り返されてきましたが、神様が中心の歴史なのです。
 歴史の流れに流されて神様を見失ってしまえば取り返しがつきません。科学は人間の生活を豊かにしましたが、むしろ心を貧しくさせました。物質的な豊かさの中にいながらも満たされない想いを満たしてくれるのは信仰の世界だけです。

06/12/24 平和の君、イエス・キリスト M     

2006年12月24日 瀬戸キリスト教会クリスマス礼拝
平和の君、イエス・キリスト     イザヤ書11章1_10節
讃美歌 106,114,?115
堀眞知子牧師
クリスマスおめでとうございます。香美教会集会所としてこの地に立てられて15回目、瀬戸キリスト伝道所として開設して10回目のクリスマス礼拝を守れますことを、神様に感謝いたします。昨年に引き続いてイザヤ書から、共に御言葉をお聴きしたいと思います。昨年も申しましたが、イザヤ書は旧約聖書の中で詩編の次に長い書巻です。イザヤは紀元前8世紀後半、南ユダ王国で活動した預言者です。イザヤ書は預言者イザヤの言葉として記されていますが、彼自身の預言は1?39章に記されていて「第1イザヤ」と呼ばれています。40?55章は「第2イザヤ」56?66章は「第3イザヤ」と呼ばれ、200年くらい後の預言者達によって語られた預言です。新約聖書でも多く引用されており、特に53章は「苦難の僕の歌」として、主イエス・キリストを指し示していると解釈するのが、キリスト教会の信仰です。
昨年、共に耳を傾けました9章は、紀元前734?733年、北イスラエルの王ペカの時代、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、ガリラヤ、ナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った時に、語られた預言です。今日の箇所は、それから20年ほど後のことと考えられます。紀元前722年にサマリアは陥落し、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、イスラエル10部族は捕囚の地に連れ去られ、ユダ族とベニヤミン族からなる、南ユダ王国だけが残されていました。残されてはいましたが、アッシリアの脅威は南ユダ王国を悩ましていました。その中で紀元前728年に王となったヒゼキヤは、アッシリアに対する反逆の準備を始めていました。7章14節においてイザヤは「私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と語りました。これは「インマヌエル(神は我々と共におられる)預言」と呼ばれています。9章も、そして今日の11章も、その「インマヌエル預言」「メシア(救い主、油注がれた者)預言」の枠の中に位置づけられています。
イザヤは語ります。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」エッサイは、紀元前1000年頃、イスラエル統一王国を築いたダビデ王の父親です。エッサイは、サウルが王であった時代、ベツレヘムで羊飼いの仕事をしていました。イザヤは「ダビデの株」とは言わずに「エッサイの株」と言いました。イスラエル統一王国を想起させるダビデではなく、一介の羊飼いにしかすぎなかったエッサイの名前を挙げています。それはサウルがダビデを「エッサイの子」と呼ぶ時、そこには見下す思いを込めていました。またダビデの子であるソロモンの子レハブアムが、イスラエルの民に重い軛を負わせたがために、イスラエル10部族はヤロブアムを中心にして結束し「エッサイの子と共にする嗣業はない」と言って、王国は南北に分裂することになりました。「エッサイの子」という呼び方には、軽蔑の意味が込められていました。力もなく、栄光もなく、人々から蔑まれている存在です。「エッサイの株」この「株」という言葉も、聖書では3箇所しか使われていない言葉です。これは木をきれいに切り取った後の、年輪が美しく見える切り株ではありません。切り取られ、根を張る力もない腐れかけた切り株です。今にも腐れ果てて、土に帰りそうな切り株。そこから、一つの芽が萌えいでます。この「芽」という言葉も、別の箇所では「ムチ」と訳されている言葉です。ムチになるくらいですから、太くて大きな芽ではありません。小さな細い芽です。10章の最後に「見よ、万軍の主なる神は、斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される」と記されています。南ユダ王国の罪により、神様によって完全に切り倒され、土に帰りそうな切り株。人からも見捨てられ、使いようのない、価値のない切り株から、これまた小さくて細い、ムチにしかならないような芽が萌え出でました。弱々しい芽ですが、それは若枝へと育ちます。新しい生命をみなぎらせ、やがて緑豊かな葉を繁らせる、丈夫な若枝へと成長していきます。
しかも、その若枝に神様の霊がとどまります。イザヤは「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」と語ります。物事を判断する知恵、物事の真実を見抜く力、深く考え、かつ実際に行動する力。そして何よりも神様を知る力。神様を知るとは、単に知識として知るのではなく、人格的に交わること、神様に深い信頼を置くことを意味しています。神様に深い信頼を置いた者として、神様を畏れ敬い、信仰が育まれます。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」と記されているように、イスラエルにおいて王位に就く者には、他の国々と異なり、神様を知り、畏れ敬うことが最も重要な資質でした。イザヤは、イスラエルの王として必要なものすべてを満たしている、一人の王を見ています。その王は、神様を畏れ敬う霊に満たされています。神様の霊がとどまっているがゆえに、人間の目に見えるものや耳に聞こえてくるものに惑わされることがありません。人間の外見に惑わされることはなく、表面的な印象によって左右されることもありません。イザヤは「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と語ります。その王は、社会的に弱い立場におかれている人のために、社会的な不正をただし、正義と公平を保ちます。不正を行う者、悪を行う者、神様に逆らう者に対しては、死刑の判決を下します。軍事力や政治的な力ではなく、御言葉によって正義と公平を保ち、正義と真実を身に帯びた者として判決を下し、すべての悪を取り除かれます。
その王が来られた結果として、人間の平和だけではなく、神様によって創造されたすべてのものに、平和がもたらされます。イザヤは語ります。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」創世記1章29,30節に「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』そのようになった」と記されているように、神様が天地万物を創造された時、すべての動物は草食獣でした。動物が人に害を及ぼすということもありませんでした。イザヤは王が来られる時、神様が最初に創造された、調和ある平和な世界を見ました。「私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」動物同士が殺し合うこともなく、毒蛇や蝮が無害であることは、同時に人間社会の平和を表しています。最初の人間アダムの犯した罪により、神様と人間の関係だけではなく、人間と人間、人間と他の生物との間にも、争いが生まれました。罪に満ちた人間社会が、自然界にも悪い影響を与えました。けれども、神様を知る知識の霊に満たされた王が来られて、神様を畏れることを喜びつつ、裁きと統治を行う時、神様への信頼と賛美が大地を覆います。神様が創造の御業を終えて、すべてを御覧になられた時「見よ、それはきわめて良かった」と記されているような世界が回復されます。
イザヤは、その王が来られた時の世界について語ります。「その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」王はエッサイの根という、貧しく弱くみすぼらしい姿で来られるが、その王がすべての民の旗印として立てられ、新しい栄光が現されます。この、イザヤが語った王こそ「平和の君、イエス・キリスト」その御方です。もちろんイザヤは、イエス・キリストという御方について、具体的なことは何も知りません。いや、より正確に言えば、具体的なことについて神様から何も知らされていません。具体的なことは知らされないままに、彼はイエス様がお生まれになる700年も前に、神様によって「メシア預言」を語らされました。やがて救い主が来られる。その御方が来られると、全地は神様を知る知識によって満たされ、まことの平和が来るという、神様の約束を語りました。切り取られ、根を張る力もなく、今にも腐れ果てて、土に帰りそうな切り株から、一つの小さな細い芽が萌えいでます。弱々しい芽は若枝へと育ち、新しい生命をみなぎらせ、やがて緑豊かな葉を繁らせる、丈夫な若枝へと成長していきます。その若枝に神様の霊がとどまります。若枝こそ、救い主イエス・キリストです。神様を知る知識の霊に満たされた救い主が来られて、大地は神様を知る知識で満たされます。すべての者が、まことの神様を知るようになります。
ここで『一つの孤独な生涯』と題された、作者不詳の詩を引用いたします。「世に知られぬ村に、ユダヤ人を両親として生まれた一人の男がいた。母親は百姓女であった。彼は別の、これまた世に知られぬ村で育っていった。彼は30になるまで大工の小屋で働いていた。それから旅回りの説教師となって3年を過ごした。一冊の本も書かず、決まった仕事場もなく、自分の家もなかった。家族を持ったことはなく、大学に行ったこともなかった。大きな町に足を踏み入れたことがなく、自分の生まれた村から200マイル以上外に出たことはなかった。偉大な人物に普通はつきものの目を見張らせるようなことは何一つやらなかった。人に見せる紹介状なぞなかったから、自分を見てもらうことがただ一つの頼りであった。裸一貫、もって生まれた力以外に、この世との関わりをもつものは何もなかった。ほどなく世間は彼に敵対し始めた。友人達は皆逃げ去った。その一人は彼を裏切った。彼は敵の手に渡され、まねごとの裁判に引きずり出された。彼は十字架に釘付けされ、2人の盗人の間に立たされた。彼が死の寸前にある時、処刑者達は彼が地上で持っていた唯一の財産、すなわち彼の上衣を、くじで引いていた。彼が死ぬと、その死体は下ろされて、借り物の墓に横たえられた。ある友人のせめてものはなむけであった。長い19の世紀が過ぎ去っていった。今日、彼は人類の中心であり、前進する隊列の先頭に立っている。かつて進軍したすべての軍隊、かつて建設されたすべての海軍、かつて開催されたすべての会議、かつて統治したすべての王達??これらをことごとく合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響力において、あの孤独な生涯にとうてい及びもつかなかった、と言っても決して誤りではないだろう」イエス様の御生涯と、イエス様が2000年の間に世界に現された御業が、この詩に表されています。
力もなく、栄光もなく、人々から蔑まれている存在であった「エッサイの株」から、イエス様はお生まれになりました。当時の人々の目には、根を張る力もなく、今にも腐れ果てて土に帰りそうな切り株から萌えいでた、一つの弱々しい芽にしかすぎませんでした。長い間「救い主誕生」を待ち望んでいた、ユダヤの人々が期待するようなものは、何もありませんでした。イエス様がお生まれになった時のことは、ルカによる福音書2章1?20節、マタイによる福音書2章1?12節に記されています。かつてはダビデの町として輝いていたベツレヘムも、イエス様がお生まれになった頃は、ローマ帝国の支配の下にある、ユダヤの小さな町にしか過ぎませんでした。しかもイエス様の地上における母マリアと父ヨセフは、住民登録のためにガリラヤのナザレから、ベツレヘムに上って来ていましたが、泊まる宿屋さえありませんでした。旅先で生まれた幼子イエス様は、飼い葉桶の中に寝かされていました。この世的な権力は、何もありませんでした。けれども、神様の霊がとどまっていました。天使の御告げによって、イエス様の下へと駆けつけてきた羊飼い達。星に導かれて、はるばると旅をしてきた東方の占星術の学者達。彼らが見たのは、飼い葉桶に寝かされている生まれたばかりの幼子でした。父ヨセフと母マリアは、ユダヤのどこにでもいる平凡な若い夫婦でした。人間の目で見れば、この世的な常識で見れば「この幼子が救い主」ということは、疑わざるをえない状況です。しかし彼らは、そこにとどまっている神様の霊によって「この御方こそ、救い主である」と信じたのです。羊飼い達はイエス様に出会い、幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。そして彼らは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行きました。占星術の学者達は、ひれ伏してイエス様を拝み、贈り物を献げました。
2000年前「平和の君、イエス・キリスト」は、ベツレヘムにお生まれになりました。けれどもいまだに、世界には争いが絶えません。イザヤを通して語られた世界は、現実のものとして来ていません。なぜでしょうか。それは世界中の人々が「平和の君、イエス・キリスト」を知る時が、まだ来ていないからです。「大地は主を知る知識で満たされる」時が、まだ来ていないからです。世界中の人々が「平和の君、イエス・キリスト」を知り、私の救い主として信じた時、イザヤを通して語られた世界が、神様によってもたらされます。キリスト者が1%にも満たない日本でも、多くの人々がクリスマスを祝うようになりました。クリスマスがイエス・キリストの御誕生を記念する日であることも、多くの人々が知っています。けれども、本当の意味では、イエス様のことを知らないのです。私の救い主として信じていないのです。今日「イエスは主なり」と信じていない方も、この場におられます。私達は、一日も早く、世界中の人々が、そして誰よりもあなたが「イエスは主なり」と信じ、告白する日を待ち望み、祈っています。「平和の君、イエス・キリスト」の旗印の下で、世界中の人々が一つとなり、まことの平和がもたらされる日の来ることを祈っています。

06/12/17 世界を受け継ぐ者となる T

世界を受け継ぐ者となる
2006/12/17
ローマの信徒への手紙4:13_17
 万波医師による病気の腎臓の移植の実態が明らかにされましたが、院内の調査によれば手術は適正に成されていたようです。レシピエントからは万波医師を擁護し、感謝する声が聞かれこそすれ、非難をする声は聞かれなかったようです。
 素人判断では移植できるぐらいの腎臓をなぜ摘出したのが理解できませんが、廃棄処分をする腎臓を有効に活用するのが一律に禁止されるのも行きすぎだと感じられます。医療行為と生命倫理の狭間でなされた医療行為に疑問が浮かびます。
 今回のマスコミ、医療関係者の生命倫理を笠に着た万波パッシングには疑問を感じました。彼らの正義感は傍観者の口先だけの正義感です。当事者である患者の苦悩に配慮しない正義感は国民の臓器移植に対する偏見を助長するだけです。
 マスコミは万波医師の主張を真面目に取り上げることを怠り、週刊誌の三面記事のように扱いました。万波医師の病腎移植は死体腎移植、生体腎移植に加えて第三の道を模索した結果です。事なかれ主義の医師会側の方に問題を感じます。
 日本の腎臓移植希望者1万5千人に対し、死体腎移植は150例程度だそうです。人工透析で生命を保っている患者は30万人もいます。透析患者には腎臓移植が究極の医療なのですが、現実に腎臓移植を受けられるのは100人に1人程度です。 彼らは一日おきに透析を受けなければ死ぬのです。糖尿病の合併症から人工透析を受ける患者が最も多いのです。合併症から透析を受ける患者は高齢者が多く、全身に合併症が現れています。透析に病院に通えない人もいることでしょう。
 腎臓が移植されれば透析に通う必要もなくなり、治療は内服薬だけで済ませられます。QOL、生活の質が格段と良くなり、透析を受け続ける生活とは次元の異なる生活が送られるようになるのです。その手段の一つとしての病腎移植です。
 肝臓でもドミノ移植があります。肝臓移植を受けた患者の肝臓を他の患者に移植する医療です。数少ない脳死体からの肝臓を有効に利用する手術法です。健康な腎臓を移植するのが最善ですが、病腎移植も考えられない方法ではありません。
 脳死者からの臓器提供を増やすことですが最善の方法ですが、現在の臓器移植法では宝を期待するようなものです。脳死移植はスペインが100万人当たり35名程度ですが、日本は1名未満です。キリスト教国との差は歴然としています。
 キリスト教国と日本との死生観は根本的に違います。臓器移植法をドナーの遺族の同意で臓器の摘出を可能にすべきだとの議論もありますが、日本人には抵抗が大きいでしょう。学校教育の中で脳死、臓器移植を取り上げる必要があります。
 次に生体移植ですが、ドナーは肉体だけではなく精神的な後遺症に苦しむ場合が多いようです。精神科医を含めた生体移植専門チームを立ち上げる必要があります。移植コーディネーターによる丁寧なカウンセリングが必要とされています。
 第三の道として病腎移植も考えて良いと思います。主治医の職人芸に頼るのではなく、第三者機関による同意の確認、情報の公開が必要です。角を矯めて牛を殺しては意味がありませんから、迅速に対応できるシステム構築が必要です。
 『唯一の神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された』のは、モーセが律法を授けられる500年以上も前に成された神との契約においてです。律法が存在しない時に交わされた契約は律法の遵守を前提としていません。
 主がなぜアブラハムを召し出されたのか、アブラハムがなぜ主の召しに従い、総てを捨てて約束の地カナンを目指して旅立ったのかは分かりませんが、主はアブラハムの信仰を良しとなされ、信仰による義に基づく契約を結ばれたのです。
 パウロは人間が律法を守りきるのは不可能であることに気付いていました。彼は氏素性の正しいユダヤ人であり、ファリサイ派のラビでした。律法を厳格に守ろうと努力してきましたが、守りきれない自分の姿に気付かされたからです。
 律法を厳格に守ることが救いの条件であるとすれば、律法を守りきれない人間は救いに与れないことになります。律法が救いの条件である限り、主がアブラハムと交わした契約、彼の子孫に世界を受け継がす約束は無効とされるからです。
 律法は人間に罪の基準を与えたのですから、律法がなければ人間は罪を意識することはできません。律法が存在しなければ律法に違反した罪を指摘されることもありません。律法は罪を問い質すだけで、解決する力を与えてはくれません。
 主の約束は怒りを引き起こす律法に基づくものではなく、平安をもたらす主の恵みに基づくものなのです。『主の恵みに応える信仰によってこそ世界を受け継ぐ者』とされるのです。主の恵みによって主の約束に与れる者とされるのです。
 アブラハムの血を引く子孫、律法に頼るユダヤ人だけではなく、彼の信仰に従う者、異邦人も主の愛と恵みにより確実にアブラハム契約に与れるのです。アブラハムはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者、私たち総ての父となるのです。
 『私はあなたを多くの民の父と定めた』と旧約聖書に書かれているように、主はアブラハムを主の民の父と定められたのです。アブラハム契約はその500年後に主がモーセとの間で交わされたシナイ契約、律法よりも優先されるのです。
 アブラハムは『死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』を無条件で信じていたのです。アブラハム契約は主の恵みとそれに応える信仰により成り立っているのです。律法を守ることが救いの条件ではないのです。
 生ける主が求められるのは主を無条件で信じる信仰なのです。ユダヤ人が律法を救いの条件としたのは主の御心から出たことではありません。彼らは律法を守る者を主は救わなければならないと決め付け、律法を取引条件にしたのです。
 ユダヤ人は律法が信仰の手段として授けられたのにも拘わらず、信仰の目的としてしまいました。主の愛と恵みに応答するよりも、律法を守り抜くことに熱心でした。彼らは生ける主ではなく律法を中心にした信仰生活を送っていたのです。
 一方、パウロはアブラハム契約は信仰によってのみ成就されることを明らかにしました。異邦人信徒だけではなく律法に拘り続けるユダヤ人信徒もアブラハムの信仰、主に総てを委ねる信仰を受け継ぐ限り世界を受け継ぐ者とされるのです。
 パウロはローマの信徒へアブラハムの信仰を受け継ぐ子孫の一人として手紙を書き送っているのです。ローマの教会にはローマ帝国内の様々な地域から様々な民族の人々が集まっていました。アブラハムの血に繋がらない人々、異邦人が多くいましたが、皆アブラハムの信仰を受け継ぐ子孫なのです。兄弟姉妹なのです。
 律法の世界は罪の基準を示しただけであり、それを守る力を人間に与えたのではありません。人間の歩むべき方向を示しただけであり、歩む力を与えたわけではないからです。罪と知りながらも罪に陥ってしまう悪循環に陥っているのです。
 人間には罪を克服する力が与えられていませんので、罪に対する科を意識させられるだけの人生になってしまいます。罪を突きつけられるだけの人生には救いがなく、平安がありません。律法は人間に怒りを招くだけのものなのです。
 一方、信仰の世界には唯一の神から人間に与えられた約束があります。神と交わされた契約は主の一方的な愛と恵みにより与えられたものです。神の片務契約なのです。契約を実行する責任は神の側にあり、人間の側にはないからです。
 神様の愛には条件はないのです。むしろ神様の方が独り子であるイエス様を地上に遣わされ、人間と神様との仲を取り持たれたのです。神様の愛と恵みは総ての人々に注がれているのですが、それに気付く人と気付かない人とがいるのです。
 神様に愛されていることを実感できる人は神様に対する信仰を持つごとができます。生ける主を信じる信仰には条件が付きません。律法のような戒め、戒律は存在しないのです。信仰の世界は私たちの努力や精進、功績とは無関係なのです。
 主イエス・キリストに対する信仰は初代教会の信仰告白『イエスは主である』に端的に表されています。具体的に言えば、『クリスマス』、『イースター』『受難節』、『ペンテコステ』『聖霊降臨日』を信じることではないかと思われます。
 時代と共に信仰告白は複雑になってきますが、信仰告白は単純であるべきです。クリスマスは神様の独り子、主イエス・キリストがこの世に遣わされた事実を確信し、祝う日なのです。救い主の誕生を祝う素朴な想いが結実した日なのです。
 イースターは主が総ての人の罪を贖うために十字架に架かって死んで下さった事実を確信し、主の十字架での苦難に共に与る日なのです。主が三日後に甦られた事実を確信し、主が天から地上に聖霊を下される日を待ち望む日なのです。
 ペンテコステは主が約束なされた聖霊が下ってきた日です。地上に残された主の弟子達に聖霊が下り、教会が誕生したのです。主が弟子達に与えられた世界宣教命令は教会に委ねられたのです。地上における主の教会の誕生日なのです。
 唯一の神がアブラハムと交わされた契約は2000年後にイエス様が地上に遣わされたことで成就、実現したのです。イエス様の十字架での贖いの死と甦りにより、私たちは罪を許された者として主の前に立つことが赦されているのです。
 主の肢体である教会は世界中に展開しています。教会のない国はないといっても良いぐらいです。アブラハム契約から2000年、イエス様の十字架での死、復活、教会の誕生から2000年が経ちましたが、福音はさらに前進し続けています。
 救いの御業はアブラハム契約から具体な形を取り始めました。唯一の神がアブラハムを祝福の源とされ、子孫の繁栄を約束なされたからです。シナイ契約で律法が授けられましたが、十字架での贖いの死により律法は無効とされたのです。
 人間の救いの歴史は神様との約束、契約の歴史です。古い契約、旧約聖書があるから新しい契約、新約聖書があるのです。教会が旧新約聖書を正典としているのは救いの御業が天地創造から始まっているからです。人間の歴史は神様と人間とが協力して造り上げた歴史なのです。神様は人間に自由を与えられたからです。
 教会は主の肢体であると共に人間の集まりです。主は福音を教会に委ねましたが、教会の歴史は必ずしも主の委託に応えるものではありませんでした。主の愛と恵みに総てを委ねきれない人間の弱さが教会に律法主義を持ち込ませました。
 カトリック教会の伝統に固執する体制に対し抗議、プロテストした信徒により次々とプロテスタント教会が形成されました。宗教改革の三原則は「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」ですが、教会の伝統よりも信仰が重視されたからです。
 しかし、宗教改革は信仰覚醒運動、リバイバル運動ともいえるのです。宗教改革者マルチン・ルターはローマの信徒への手紙から信仰義認の教理を再発見したのです。カトリック教会が忘れていたパウロの信仰、信仰のみへ回帰したのです。
 パウロはアブラハム契約、唯一の神の祝福に与れるのは彼の肉による子孫、ユダヤ人ではなく信仰による子孫、教会の信徒であると主張しました。教会は2000年の時代を経て全世界に広がりましたが、総ての教会の信徒は兄弟姉妹なのです。
 教会の2000年の歴史を救いの歴史と考えやすいのですが、それに先立つ2000年も前に神様はアブラハムを祝福して、彼を祝福の源とする契約を結ばれているのです。少なくとも4000年の歴史の積み重ねの上に教会は立っているのです。
 律法はシナイ契約からイエス様の誕生までの1500年の間、唯一の神に対する信仰を守り続けてきましたが、イエス様の誕生でその意味を失いました。私たちはクリスマスから既に神の国がこの地上に実現された世界の中を生きています。
 クリスマスが何時であったかは余り大きな意味を持ちません。日本人がイメージするようなホワイトクリスマスはヨーロッパの習慣です。ユダヤには雪は降りませんが、羊飼いがたき火をしているイメージは現実に近いかも知れません。
 いずれにしろ、イエス様は英雄伝とは無縁な御方ですが、世界の歴史を質的に変えられたのです。イエス様の誕生前はBC.紀元前と表され、誕生後をAD.紀元後と表されるのは、イエス様を中心にした歴史の転換を象徴的に表すためです。
 キリスト者はアブラハムの祝福に与り、世界を受け継ぐ者とされているのです。神様との契約は主の一方的な愛と恵みにより一方的に取り交わされたものです。人間側の事情で破棄されるものではありません。あくまでも片務契約なのです。
 しかし、キリスト者には救いの条件ではないにしても、主の愛と恵みに応答する義務が生じます。罪を赦された者としての喜びを人々に伝える義務があります。教会員として主の世界宣教命令に応える義務と奉仕する喜びが生じるのです。
 私たちは天地創造からアブラハムの祝福、イエス様の誕生、教会の誕生に連なる救いの歴史の中を生きていますが、神の国が未だ実現しない現在を生きています。教会は主の再臨を待ち望みながら、主の日に備えて地上を歩んでいるのです。
 クリスマスに救いの歴史が書き換えられたのですが、過去の契約が無効にされたのではありません。救いの歴史は連綿と続いているからです。私たちはユダヤとは空間的にも時間的にも隔てられていますが、救いの歴史の中に加えられているのです。むしろユダヤを起点とした救いの歴史が全世界に展開してきたのです。
 私たちは教会に連なる者として救いの契約、約束の中にいます。私たちの信仰がいかに動揺したとしても、主がなされた救いの約束は微塵も揺らがないのです。『主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る』からです。

06/12/03 揺らぐことのない愛 M

2006年12月3日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
揺らぐことのない愛     ホセア書3章1_5節
讃美歌 75、?112、?115
堀眞知子牧師
週報にも記されていますように、本日より待降節(アドベント)に入ります。これは11月30日にもっとも近い聖日に始まり、12月24日まで続きます。4つの聖日を含み、今年は22日間です。アドベントはクリスマスの準備の期間です。イエス様の御降誕を覚え、祈りつつ備える時です。先週の祈祷会後に、クリスマスの飾り付けもしました。教会の1年はアドベントから始まります。今日は教会暦でいえば、1月1日にあたります。アドベントはラテン語のAdventusu(到来)が語源になっています。イエス様が来られる。それは2000年前のベツレヘムの家畜小屋だけではなく、主イエス・キリストの終末の再臨をも含めて、お出でになることを希望を持って待ち望むことでもあります。私達の教会も、主イエス・キリストの再臨の希望に生きる群れとして、特にこのアドベントの時を過ごさせていただきましょう。
さて、前回も申しましたように、神様の御命令により、淫行の女ゴメルを妻としたホセアには、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミの3人の子供達が与えられました。ところがゴメルは、ホセアと3人の子供達を捨てて愛人の下へ行ってしまいました。神様の御命令であるがゆえに、ホセアは自身の思いとは異なった、淫行の女ゴメルと結婚し、彼女を愛し、3人の子供を与えられました。それにもかかわらず妻に裏切られ、子供と共に残されたホセア。彼は失意と共に、不条理をも感じていたでしょう。神様の御命令に従った結婚、神様の御命令によって名付けられた3人の子供達。忌まわしい流血の地を思い起こさせるイズレエル。神様に憐れまれていないことを知らされるロ・ルハマ。神様から私の民でないと言われたロ・アンミ。人生において結婚、新たなる家庭を築くことは神様の祝福と恵みであると共に、個人の喜びと悩みが生まれます。もちろん人間は、喜びを求めて結婚しますが、人生には困難や苦難が伴います。結婚したがゆえに生ずる困難や苦難もあります。愛情にあふれた家庭にあっては、困難や悩みも家族で分かち合い、支え合うことによって、それらは実際より薄くなり、かえって家族の結び付きが強くなり、希望が生まれ、自分の存在、相手の存在を認め、さらに愛情が深まっていきます。逆に愛情がなければ、相手の喜びは妬みに変わり、困難や悩みは2倍にも3倍にもふくれあがり、失意と絶望のどん底に落とされます。ホセアは意に染まぬ結婚をし、それでも神様から与えられた妻としてゴメルを愛し、3人の子供を与えられました。呼ぶたびに心が痛む3人の子供を神様から与えられた子供として受け取り、家族を愛したと考えます。すべて神様の御命令に従ったにもかかわらず、ゴメルはホセアを裏切って愛人の下に走りました。ホセアにとって、これほど不条理なことはありません。一方、ゴメルは愛人の下に走り、おそらく愛人に捨てられ、その後、どのような事情があったのかは分かりませんが、奴隷として売られてしまいました。
失意のどん底にあるホセアに、神様は再び命じられました。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」夫ホセアに愛されながらも、愛人の下に走ったゴメルを「愛せよ」と神様は命じられました。裏切った妻を愛しなさい。人間的な思いからすれば、最初の結婚の命令がそうであったように、納得のいくものではありません。自分だけではなく、3人の子供達を捨て、家庭を捨てて愛人の下へ走った妻です。今、愛人に捨てられて奴隷として売られている、自業自得だ、と思うのが一般的な考え方です。ゴメルに対するホセアの愛情は消え、憎しみが生まれ、あるいは、もう忘れてしまいたいという思いから無関心であっても当然です。ところが神様は「夫に愛されていながら」と言われました。ホセアは、なおもゴメルを愛しているのです。私達の思いからは考えられないことですが、ホセアはゴメルを愛しているのです。なぜでしょうか。私は考えます。ホセアの預言者としての活動は、最初に神様から「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」と命じられたことから始まりました。ゴメルとの結婚は、神様からの召しであり、ホセアにとってゴメルは、神様によって定められた結婚相手でした。確かに申命記24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と記されていて、離婚が認められています。けれどもイエス様は、マルコによる福音書10章において、ファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねられた時「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。そして彼らが「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えると、イエス様は「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と答えられました。神様によって結び合わせられた以上、何があろうともゴメルはホセアの妻でした。ですから彼は愛人の下に走ったゴメルに、離縁状を書くこともしませんでした。どこへ行こうとも、誰の下に行こうとも、ゴメルはホセアの妻でした。神様に命じられた結婚であり、ホセアとゴメルは結婚という契約関係の中にありました。契約に基づいた関係であるがゆえに、ホセアは何があろうとも、ゴメルを愛し続けていたのです。契約に基づいた愛であるがゆえに、決して揺らぐことのない愛でした。
結婚という契約ゆえに、ゴメルを愛し続けるホセアに、神様は「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と命じられました。そのようにホセアに命じる理由として「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」と言われました。イスラエルはまことなる神様を知らされ、神様の宝の民とされ、神様との契約関係の中に生かされているにもかかわらず、神様に背き、異教の神々を追い求めていました。干しぶどうの菓子はぶどうの収穫期である秋に、異教の神々の祭りに食べるものでした。ですから、干しぶどうの菓子を愛するとは、異教の神々の祭りに熱中している、イスラエルの姿を表しています。異教の神々を追い求めているイスラエルを、なおも神様は愛していると言われました。ホセアがゴメルを愛し続けたように、神様のイスラエルに対する愛は、契約に基づいた愛であるがゆえに、決して揺らぐことのない愛でした。いや正確に言えば、神様のイスラエルに対する愛が、契約に基づいた愛であるがゆえに、決して揺らぐことがなかったように、ホセアはゴメルを愛し続けたのです。背信の民イスラエルを「愛している」と言われた神様、この御言葉に励まされて、ホセアは神様の御命令に従います。
ホセアは銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、自分を裏切った妻ゴメルを買い取りました。出エジプト記21章によれば、奴隷の代価は銀30シェケルでした。すべてを銀で払うことができなかったのは、ホセアは銀を持っていなかったのかもしれません。ホセアの出身地、彼の職業については何も記されていません。銀で払いきれず、大麦で補ったことからすると、彼は農業に従事していたのかもしれません。豊かな暮らしはしていなかったのでしょう。いずれにしろ、ホセアにとっては高い代価を支払って、不貞の妻ゴメルを買い取ったのです。もともと淫行の女でした。ホセアの妻となり、3人の子供を産んでも家庭を捨て、愛人の下に走り、転落の末に奴隷となった女でした。それでもホセアはゴメルを愛し続け、神様の御命令どおり、彼にとっては多額の代価を支払って、再び妻として迎えました。ホセアはゴメルに言いました。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間、私のもとで過ごせ。私もまた、お前のもとに留まる」再び妻として迎えるにあたり、淫行をしないこと、他の男の下へは行かないこと、ホセアだけの妻であり続けることを命じました。そして同時に、ホセア自身も淫行をしないこと、ゴメルだけの夫であり続けることを約束しました。
ホセアがゴメルだけの夫であり、ゴメルがホセアだけの妻であり続けることは、神様とイスラエルの関係を象徴しています。ですから4,5節には、イスラエルのことが語られます。「イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす。その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」ホセアの下に連れ戻されたゴメルに、淫行をしないこと、他の男の下へ行かないことが命じられたように、イスラエルも、まことの神様に立ち帰るために、異教の神々に走らない生活が求められています。同時に「王も高官もなく」と記されているように、いわゆる国家体制から遠ざかることが求められています。これは北イスラエルが王国の名の下に、王や高官が先立って、異教の神々を礼拝してきたことによっています。また「いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく」と記されているように、異教の習慣から完全に離れることが求められています。もともと、いけにえやエフォドやテラフィムは異教の習慣ではありませんでした。ノアやアブラハムやダビデもいけにえを献げましたし、レビ記にはいけにえに関する詳細な規定が記されています。サムエル記上23章、30章によれば、ダビデはエフォドを用いて神様の御心を尋ねています。いけにえやエフォドやテラフィムが、イスラエルの歴史の中で、神様のため、あるいは神様の御心を尋ねるためではなく、異教の影響を受けて偶像崇拝へと変わってしまっていました。神様は、それらを取り去ると言われました。イスラエルは、何もかも取り去られるのです。神様によって与えられる懲らしめの期間は、イスラエルにとって楽なものではありません。これらの預言は、サマリア陥落、北イスラエル王国の滅亡、アッシリア捕囚を予告しています。サマリア陥落、北イスラエル王国の滅亡、アッシリア捕囚は、かつての荒れ野の旅のように、困難を伴います。けれども荒れ野の旅によって、イスラエルに「十戒」が与えられ、神様と契約が結ばれ、イスラエルの信仰が育まれたように、神様に立ち帰る訓練の期間を通して、彼らの信仰は回復されます。
こうして国家体制も含めて、異教的習慣から完全に離れ去った後、イスラエルはまことなる神様、まことなる王のもとに帰ることができます。「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」と記されているように、その時は、イスラエルの神である主と王ダビデの下に、彼らは再び一つとなることができます。イスラエルが、神様とその恵みに畏れをもって近づく日です。ホセアを通して、これらの預言が語られた時、ホセア自身が、そしてイスラエルが考えることができたのは、南ユダ王国と北イスラエル王国の統一であり、ダビデの家系を継ぐ者が統一王国の王となり、イスラエルがまことなる神様のもとに、信仰的にも政治的にも一つになる日でした。それが「終わりの日」でした。
しかし、新約の時代に生かされている私達キリスト者は、もっと深い神様の御計画を、この預言から知ることが許されています。主イエス・キリストを求める日であり、全世界の人々が聖書において証されている唯一の神、父・子・聖霊なる、三位一体の神様の下に一つとされ、その恵みに畏れをもって近づく日です。「終わりの日」は、主イエスが再び来られる日です。マタイによる福音書28章に記されているように、主イエスは弟子達に「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われました。これは「世界宣教命令」と呼ばれています。「世界宣教命令」に従って、弟子達は御言葉を宣べ伝え、2000年後の今日、私達もキリスト者として召し出されました。正しい福音を知らされ、信じる者へと変えられた私達は、今度は正しい福音を宣べ伝える者へと召し出されています。「終わりの日」まで続く教会の歴史の中に加えられています。
最初に申しましたように、今日からアドベントに入ります。神様が愛する御独り子イエス様を、人間として地上に遣わして下さいました。ここに神様の愛が明らかにされています。御自分に背き続ける人間をなおも愛し、救いの御手を伸ばして下さった神様の御業が、イエス様を通して私達の目に明らかにされました。イエス様が十字架の上で流された血潮によって、新しい契約が結ばれました。私達は、イエス様が十字架の上で流された血によって贖い取られ、神様との新しい契約関係に生きる者とされました。私達の業ではなく、神様の一方的な御業です。新しい契約に基づいて、神様は私達を愛して下さっています。主イエスが立てられた契約であるがゆえに、神様の愛は決して揺らぐことがありません。神様の契約に基づく、揺らぐことのない愛によって、私達は愛されています。今朝もまた、聖餐の恵みに与ります。離れた地に住む兄弟姉妹の祈りによって聖餐卓が備えられ、教会員の奉仕によって聖餐式セットを覆う布も備えられました。神様が一つ一つ、整えて下さっていることを思います。同時に「世界宣教命令」において、主イエスは「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。福音伝道は、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることであり、それは同時に聖餐に与る者を一人でも多く招くことです。揺らぐことのない愛によって愛されている私達が、正しい聖餐式を守り、重んじることを通して、御言葉が宣べ伝えられていきます。教会暦において、新年を迎えた今朝、御言葉を正しく宣べ伝え、洗礼と聖餐式を重んじ、神様の揺らぐことのない愛に生きる群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただけるように、新たな思いをもって祈りを合わせましょう。