2007/11/27

07/11/04 主こそ我が光 M 

 2007年11月4日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主こそ我が光     ミカ書7章7-10節
讃美歌 54,522,298
堀眞知子牧師
7章は「悲しいかな」という、ミカの嘆きの声で始まります。以前にも申しましたが、ミカはエルサレムの南西約30キロに位置する、モレシェト・ガトの出身でした。モレシェト・ガトとは「ガトの所有」という意味で、その言葉が表すように、ペリシテ人の最盛期には、彼らの5大都市の一つであるガトに属していました。また北イスラエルは紀元前722年にアッシリアに滅ぼされますが、その10年後、アッシリアはガトと同じ、ペリシテ5大都市の一つであるアシュドドを占領しました。さらに10年後、アッシリアは南ユダに侵入してラキシュに陣を敷きますが、モレシェト・ガトはラキシュの北東10キロに位置するために、アッシリア軍の進路となりました。このように外国の侵略を受けやすい町の出身であり、アッシリアがカナン地方に侵略してくる時代に預言者として召されたミカは、神の民イスラエルの信仰的堕落がもたらす倫理的・政治的堕落に対する、神様の刑罰について語らざるを得ませんでした。そのように刑罰を語ることは、ミカにとって苦痛であったでしょう。さらに、イスラエルがすべて悔い改めたのでもありません。確かに列王記下18章に「ヒゼキヤは、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い」と記されているように、南ユダの王ヒゼキヤは、ミカやイザヤの預言を受け入れて宗教改革・政治改革を行いました。けれども歴代誌下32章には「ヒゼキヤは受けた恩恵にふさわしく答えず、思い上がり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた」とも記されています。ヒゼキヤにも人間としての過ち、思い上がりがあったのです。
ミカは「悲しいかな」という嘆きの声を上げました。預言者としての働き、働きがもたらす実りを思う時「私は夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのいちじくもない」と言わざるを得ませんでした。夏の果物とは、いちじくを指しています。夏の果物を集める、ぶどうの残りを摘む。それは落ち穂拾いのように、収穫後の取り残しの実を取り入れることを意味しています。ミカは果樹園に入って、ぶどうやいちじくの取り残しを求めましたが、実はすでに腐っており、食べられるものは一つも残っていませんでした。失望の中で、何も手にすることなく帰って来ました。そのようにイスラエルには、真の神様との契約に生きる人、信仰者が絶えてしまいました。ミカは「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった」と語っています。イスラエルは皆、ひそかに人の命をねらい、互いに網で捕らえようとし、彼らの手は悪事にたけていました。民を治め、裁く立場にある役人や裁判官も、報酬を目当てとしていました。民の模範となるべき名士も、私欲をもって語りました。しかも、彼らは悪事を包み隠し、何事もなかったかのように振る舞っていました。ミカが「彼らの中の最善の者も茨のようであり、正しい者も茨の垣に劣る」と語っているように、当時のイスラエルの中でもっとも善人とされる者、神様の前に正しいとされる者さえ、茨のようにトゲをもって人を傷つけながら、四方へはびこっていました。ミカが苦痛をもって、神様の御言葉を語り続けているにもかかわらず、警告を受けいれる者は少なく、彼の預言者活動は、むなしい実りしかもたらしませんでした。
このような邪悪な社会には、神様の刑罰が下ります。ミカは「お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ」と言いました。見張りの者とは、ミカを初めとする預言者です。預言者が警告を与え続けてきた、その刑罰の日が来る。その日には大混乱が起こる。すでにイスラエルが起こした無秩序、無法以上のことが、次から次へと起こる。隣人も親しい者も信じてはいけない。軽率に心の内を口にすると、妻さえ夫を裏切る。家庭の中にあっても、一人一人が自分勝手な行動をとり、家族関係そのものが崩壊してしまう。信じうる者が一人もいない。そのような大混乱が、神様の裁きであることをミカは告げています。
神様の厳しい裁きを語った後、ミカは裁きのかなたにある希望を語ります。「しかし、私は主を仰ぎ、我が救いの神を待つ。我が神は、私の願いを聞かれる」この「仰ぐ」という言葉は、4節の「見張る」という言葉と同じです。ミカは神様を熱心に見つめます。彼は神様を「我が救いの神。我が神」と呼んでいます。彼を預言者として召し出された神様、預言者として召し出されたがゆえに、ミカは苦痛を味わわなければなりませんでした。そういう意味では、彼の心の中に「預言者として召し出されなかったら、もっと平穏な人生が歩めた」という思いもあったでしょう。けれども、預言者として召し出されたがゆえにミカは、より神様に近づくことができました。「我が救いの神。我が神」と呼び「我が神は、私の願いを聞かれる」という絶対的な信頼を与えられました。
神様に信頼する者として、ミカは語ります。「私の敵よ、私のことで喜ぶな。たとえ倒れても、私は起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそ我が光」敵はミカを倒れさせるかもしれませんが、それは一時的なものであり、ミカは倒れても起き上がることができます。闇の中に座って、周りが全く見えない状況におかれても、ミカは不安や恐れを感じることはありません。それはミカに力があるとか、彼が頑張ったとかではありません。「主こそ我が光」神様御自身が、ミカの光として存在し、御力を現されるからです。ミカは、自分とイスラエルを含めて語ります。「私は主に罪を犯したので、主の怒りを負わねばならない、ついに、主が私の訴えを取り上げ、私の求めを実現されるまで。主は私を光に導かれ、私は主の恵みの御業を見る」サマリア陥落、北イスラエルの滅亡、アッシリアによる南ユダ攻撃などの悲惨なできごと、これから臨むであろう大混乱。それらはイスラエルが、神様の前に罪を犯したからでした。エジプトの奴隷状態から解放し、約束の地カナンまで導き、カナンを嗣業の地として与えて下さった真の神様を忘れ、神様との契約に忠実ではなかったからです。ゆえに、イスラエルは神様の怒りを負わなければなりません。けれども神様の前に罪を認め、神様の裁きを受け、心から悔い改める時、神様に対する新たな信頼が生まれます。かつて、エジプトで助けを求めるイスラエルの叫びを聞かれたように、神様は私の訴えを取り上げて下さる、という確信が与えられます。私のために法廷を開き、裁きを行って下さる。闇の中に座っていた者を必ず救われ、光の中へと導き出して下さる。その確信を与えられた者は、神様の恵みの御業を見ることができます。イスラエルが神様の罰に服している時「お前の神、主はどこにいるのか」と言っていた敵、つまり異教の国々の者は、神様のイスラエルに対する救いの御業、恵みの御業を見て恥に覆われます。それは未来のことですが、ミカは断言します。「私の目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる」と。
 ミカの目は、はるか未来を見つめています。「あなたの城壁を再建する日、それは、国境の広げられる日だ。その日、人々はあなたのもとに来る、アッシリアからエジプトの町々まで、エジプトからユーフラテスまで、海から海、山から山まで。しかし、大地は荒れ果てる、そこに住む者の行いの実によって」「あなたの城壁を再建する日」それはバビロン捕囚から解放され、バビロニアによって壊された、エルサレムの城壁を再建する日のことです。ミカの時代から約160年後、ペルシア王キュロスによってバビロン捕囚は解かれ、エルサレム帰還が許されますが、エルサレムの城壁が再建されるのは、紀元前445年です。ミカの時代から250年以上後のことです。めまぐるしく社会が変化し、身の回りのさまざまなことが短期間で変化していく現代の私達には、少し考えにくい時間の長さですが、ミカは確信をもって語ります。もちろんミカ自身、自分が神様によって語らされていることが、250年後のことであることを知りません。知らされてはいませんが、いや、たとえそれが1000年後のことであっても、ミカは神様の御業を確信をもって語るでしょう。エルサレムの城壁が再建される日は、同時に国境が広げられる日である。御存じのように実際の歴史として、イスラエルが国土を広げることはありませんでした。けれどもエジプトやバビロンに散らされていた民が、エルサレムに帰ってきました。エルサレムの大地は、イスラエルが離れている間に住んでいた、異教の人々によって荒れ果てていましたが、そこに神様の御業がなされていきます。
ミカは祈ります。「あなたの杖をもって、御自分の民を牧して下さい、あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に、ただひとり守られて住み、遠い昔のように、バシャンとギレアドで、草をはむことができるように」羊飼いの持つ杖は、羊を狼などの外敵から守り、また羊を豊かな牧草地や水飲み場へ導くものでした。真の羊飼いである神様によって「あなたの嗣業」神様の所有とされたイスラエルが牧され、豊かな牧草地で、神様に守られて平穏に住むことができるように、ミカは願い求めます。バシャンとギレアドは、ヨルダン川東部に位置し、牧畜に適した場所でしたが、紀元前734年にアッシリアによって占領されました。その地を取り戻し、そこで養われることを願い求めます。ミカの祈りに、神様は答えられます。「お前がエジプトの地を出た時のように、彼らに驚くべき業を私は示す」イスラエルがエジプトを脱出した時、エジプトに10の災いを下し、イスラエルに葦の海を渡らせたような奇しい御業を示されることを、神様が約束されました。
神様の約束に対して、ミカは言います。「諸国の民は、どんな力を持っていても、それを見て、恥じる。彼らは口に手を当てて黙し、耳は聞く力を失う。彼らは蛇のように、地を這うもののように塵をなめ、身を震わせながら砦を出て、我らの神、主の御前におののき、あなたを畏れ敬うであろう」かつて「お前の神、主はどこにいるのか」と言っていた敵、異教の国々の民は地上において、どんなに大きな力をもっていたとしても、真の神様の大いなる御業を見て恥じ入ります。驚きと恐れによって、沈黙を守ります。あえて沈黙を守るのではなく、語る力を失います。また驚きと恐れによって、耳も聞こえなくなります。大きな声で語られても、それを聞く力を失ってしまうのです。蛇は地を這って生きるので、地の塵にまみれて生きていると考えられていました。かつてイスラエルを嘲笑っていた民は、真なる神様の御業の前に恐怖を持ち、完全な敗北を味わいます。異教の民も、イスラエルの神である、真なる神様を畏れ敬うようになります。
最後にミカは、神様をほめたたえます。預言者の警告に耳を傾けないイスラエル、その犯した罪に対する刑罰としての大混乱。それにもかかわらず、最終的に恵みの御業を、異邦人にも明らかなように現して下さる神様。「主こそ我が光」とミカが確信し、絶対的信頼を置いている神様をほめたたえます。「あなたのような神が他にあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブに真を、アブラハムに慈しみを示して下さい、その昔、我らの父祖にお誓いになったように」「あなたのような神が他にあろうか」それは、他に存在しないということです。ミカは確信をもって「あなたこそ真の神様である」と告白します。真の神様はイスラエルの咎を除き、罪を赦されます。罪と悪が満ちる中にあって、神様は、御自分の計画を地上において現され、御心を示されるために、常に残りの者を備えられ、集めて下さいます。神様は怒りよりも慈しみを喜ばれるがゆえに、イスラエルを憐れみ、その罪を再び思い出すことのないように、またイスラエルが目にすることがないように、海の深みに投げ込まれます。そしてアブラハム、イサク、ヤコブへの約束は、イスラエルにおいて成就し、その真と慈しみは決して変わることがありません。
詩編119編105節に「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯火」と記されています。またヨハネによる福音書8章において、イエス様は「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。光がなければ、人間はもちろん、すべての生物は生きていくことができません。神様が最初に「光あれ」と命じられたように、光が存在して、初めて生物は存在し、その生命を維持することができます。人間も他の生物も、自分の力で光を得ることも、作り出すこともできません。暗黒に覆われた世界にあって、神様のみが光として存在されています。さらに、光として御言葉を与えて下さっています。神様の御言葉は、足元を安全に照らす灯火であり、進むべき道の方角を示す灯火です。私達には、神様の御言葉として聖書が与えられています。さらに旧約聖書によって預言され、新約聖書において証言されている、主イエス・キリストが明らかにされています。主イエス御自身が、神様の御言葉そのものです。その主イエスが「世の光」として私達を照らし、私達の歩むべき道を照らし、御自分に従って歩むように招いて下さっています。主イエスこそ、私達の光です。私達は主イエスを知るまで、主イエスこそ私の救い主と信じるまで、闇の中を歩いていました。しかし、主イエスを私の救い主と信じた時から「主イエスこそ我が光」と告白し、主イエスに従って歩む道が開かれました。私達の罪を贖い、新しい生命を与えて下さった主イエスを知らされた恵みの中に、主イエスの血によって立てられた新しい契約の中に、私達は生かされています。今朝も主イエスの血によって立てられた新しい契約を覚えて、聖餐の恵みに与ります。「主イエスこそ我が光」この信仰告白に生かされている群れとして、私達の教会の歩みを整えていただき、一人一人を伝道者として豊かに用いていただきましょう。

07/10/28 神に造られた器 T

神に造られた器
2007/10/28
ローマの信徒への手紙9:19~29
 非営利団体NPO「気候保護同盟」の中心的メンバーであるゴア元副大統領、国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)がノーベル平和賞を受賞しました。ノーベル委員会の地球温暖化に対する危機感が異例の受賞に繋がりました。
 地球温暖化は否定のできない事実として国際社会に受け入れられていますが、政治の対応の遅れは悲劇的です。ゴア氏は講演会を重ねることにより、先ずアメリカ市民を啓発し、アメリカの民主主義を正常に機能させようとしています。
 地球温暖化ガスの世界一の排出国、世界経済の中心地アメリカが変わらなければ世界は変わりません。地球温暖化対策が大統領選の争点になれば、アメリカは変わるかも知れません。世界がアメリカの動向に関心を寄せています。
 洞爺湖サミットでは地球温暖化が重要な議題になりますが、ノーベル賞の受賞が国際情勢を好転させるかも知れません。政府間パネルは地球温暖化に対する対策が緊急に実行されなければ、時機を逸すると厳しく警告しています。
 政府間パネルは政府関係者だけではなく、各国を代表する科学者たちが参加している国連機構です。既存の研究を調査・評価し、政策立案者に対して政策の提言ではなく助言を行うのが目的ですから、行動は政治に委ねられています。
 政府間パネルは環境の保全と経済の発展が両立する社会では、21世紀末には気温が1.1~2.9℃、海面が18~38cmの上昇し、化石燃料を重視する社会が続けば、気温は2.4~6.4℃、海面が26~59cm上昇すると予測しています。
 気温の2℃上昇は科学が予測できる範囲を超えています。地球のエネルギー代謝が根本的に破壊されかねません。異常気象が続き、砂漠化が進むでしょう。食料だけではなく飲み水さえなくなりますから、難民が何億人もでるでしょう。
 開発途上国では難民の急増に加えて、感染症が蔓延するでしょう。食糧自給率の低い日本では食料が高騰するでしょう。お金さえ出せば何でも手に入る社会は崩壊するかも知れません。世界は混沌、カオスに突入するかも知れません。
 炭酸ガスの排出量を半減させれば安定成長が可能だと予測されていますから、先進国には排出量を率先して削減する義務があります。炭酸ガスは国境を越え、地球全体に拡散しますから、世界の排出量の総量を規制しなければ無意味です。
 炭酸ガスを急激に減らすためには、エネルギー源を化石燃料から原子力、自然エネルギーに転換させるのを急ぐべきです。省エネ、リサイクル技術を先進国から発展途上国に移転し、地球に優しい社会を造り上げることが肝要です。
 焼き畑農業、伐採により、森林が激減していますから、排出権取引により森林に付加価値を付けることが必要です。グローバリゼイションにより資源が貧しい国から富める国へ一方的に流れ、産業廃棄物だけが残されているからです。
 産業廃棄物は国境を越えませんが、炭酸ガスには国境は関係ありませんから、先進国も運命共同体なのです。宇宙船地球号の乗員は地球号が難破すれば全員が海に投げ出されますから、一国の経済優先主義が人類を滅ぼしてしまいます。
 パウロは神の選びが人の意志や努力によらないことを明らかにしてきました。パウロはユダヤ人が神の選びから漏れたのは、神が異邦人を選ばれたからであると考えていましたが、彼はユダヤ人同胞が神に選ばれることを願っていました。唯一の神はアブラハムを祝福し、彼の約束の子、イスラエル民族、ユダヤ人を選び分かたれましたが、ユダヤ人は神の選びを拒否し、口答えをしました。
 主の福音はユダヤ人に宣べ伝えられ、主の肢体である教会もユダヤ人が造りました。初代教会の信徒はユダヤ人キリスト者でした。ギリシャ語を話す離散のユダヤ人キリスト者もいましたが、異邦人キリスト者はいませんでした。
 復活の主は使徒パウロを召し出されましたが、彼の伝道を妨げたのはユダヤ人でした。パウロの伝道の対象は頑ななユダヤ人から異邦人へ移りました。異邦人伝道者パウロが誕生したのです。パウロの信仰によってのみ救われる、割礼や律法から自由な信仰がエルサレム使徒会議により認められてから、異邦人伝道が組織的に始まりました。福音はアジアからヨーロッパに渡りました。
 パウロはユダヤ教に固執するユダヤ人が神から捨てられ、異邦人が神に選ばれたのは神の意志、神の摂理である考えていました。造られた物、被造物である人間が、造った者、創造主である神に『どうして私をこのように造ったのか』と言えないからです。『焼き物師、神には同じ粘土から一つを尊いことに用いる器に、一つを尊くないことに用いる器に造る権限があるのではないか』。
 さらに神は神の怒りを示し、神の力を知らせようとなされましたが、怒りの器として滅びる運命にある者、頑ななユダヤ人を寛大な心で堪え忍ばれました。憐れみの器として栄光を与えようと準備されておられた者、異邦人、さらには全世界の人々をご自分の豊かな栄光をお示しになるために召し出されました。
 神は私たちキリスト者を憐れみの器としてユダヤ人からだけでなく、異邦人の中から召し出されたからです。ホセア書には『私は自分の民ではない者を私の民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ、『あなたは私の民ではない』と言われた異邦人が生ける神の子と呼ばれる』と書かれているからです。
 預言者イザヤは『イスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる』、『万軍の主が私たちに子孫を残さなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴムラのように滅ぼしつくされたであろう』と預言しています。イザヤはユダヤ人が神から捨てられる事態、エルサレム陥落を預言していますが、残りの少数者、信仰に立つ少数者は神に救われると預言しています。
 ユダヤ人同胞の救いを願うパウロは神の選びの厳しさを承知していますし、神の選びが人間の意志や努力には無関係なのも承知しています。ユダヤ人が神の選びから漏れたのは神の意志であり、『神には神の想いがあり、人間には人間の想いしかない』ことを理解しながらも、なおもユダヤ人の残りの者が救われることを願っています。パウロは神の選びの厳しさに苦悩しているのです。
 神の救いの歴史はアブラハムの召命から始まりました。イエス様が誕生なされるまでの2000年間、神の選びはユダヤ人の上に止まっていましたが、異邦人伝道者パウロの召命から2000年間、神の選びの徴、福音はユダヤ人から異邦人へ、主の教会はアジアからヨーロッパ、ヨーロッパから全世界に広がりました。
 パウロは創造主を焼き物師、陶器師に例え、人間を粘土に例えましたが、人間を単なる焼き物とは考えていません。パスカルは人間を「考える葦」といいましたが、人間は考え、感じ、苦悩します。肉体には生命の徴、血が流れていますし、人間には自由が与えられていますから、単なる焼き物ではありませんが、人間は被造物にしか過ぎないのです。神が創造主であり、主権者なのです。
 神様の創造の御業は天地創造から始まりました。神の国は主がこの世に遣わされた時、クリスマスから既に始まり、聖霊降臨日、ペンテコステに教会が誕生した時から教会の時が始まりましたが、主が再臨なされる時、終わりの日までは未だ完成されないのですから、私たちは教会の時を生きているのです。
 創造主は私たち人間に自由意志を与えられました。主を信じる自由、信じない自由を与えられました。人間は神が自由に操るロボットではありません。創造主は人間を『神にかたどって創造されました』、『土(アダモ)の塵で人(アダム)を形作られ、その鼻に命の息を吹き入れられました』から、単なる粘土、焼き物、陶器ではなく、神のように善悪を知り、考えることができるのです。
 人間は神から与えられた自由意志を濫用してきました。アブラハムの召命からイエス様の時代までの2000年間、ユダヤ人は神に選ばれた民、選民に相応しくない行動をとり続けてきました。神の契約「神を信じるから、割礼、律法を守る」が、人間の契約「割礼、律法を守りさえすれば、神は救われる」に変わり、人間の権利、神の義務「割礼、律法を守る者を救う義務が神にある」になりました。割礼、律法が神の選びの徴から人間の救われる権利に変わりました。
 ユダヤ人はアブラハムの祝福を受け継ぐ民、選民であることを誇り、神の恩寵を忘れ去り、増長していました。形式的な律法を守ることのみに専念し、神を敬うことを忘れ去ったのです。神から選ばれた民、ユダヤ人が神を信じない自由を行使していたのですが、神から離れていることに気づきませんでした。
 パウロは神に選ばれた者、ユダヤ人が神から離れたのは主の世界宣教命令の実現、異邦人伝道のための神の計画であることに気づいたのです。教会の時が前進するためには異邦人が神に選ばれる必要があったからです。神がユダヤ人を選び、ユダヤ人から離れれらたのは、神の摂理、創造の御業の一環なのです。
 人間の歴史、教会の歴史を支配なさるのは神様ですが、人間は神の操り人形ではありません。人間には自由意志が与えられていますから、平和な世界を造り上げるのも、世界を滅ぼすのも人間次第です。イスラエルは滅びの道を選びましたから、エルサレム陥落からイスラエル共和国建設までの2000年間、放浪の旅を続けたのです。信仰に生きる民、ユダヤ人が信仰を見失ったからです。
 さらに割礼、律法に拘り続けたユダヤ人教会もエルサレム陥落と共に歴史の彼方に消え去りました。異邦人教会はローマ帝国の中で生き続けました。4世紀にはローマの国教になりました。カトリック教会も成立しました。16世紀の宗教改革により、プロテスタント教会が成立しました。ヨーロッパの宗教戦争から逃れ、信教の自由を求めた開拓者が新天地を求め、アメリカへ移住しました。18世紀のフランス人権宣言、アメリカ独立宣言により信教の自由、基本的人権が確立しました。日本には明治維新から宣教師が派遣されてきました。
 私たちは神に造られた器ですが、神に似せて造られた人間ですから、自由意志が与えられていますが、神の創造の御業、摂理は厳然として働いています。ノアの洪水が起きたように、繁栄を謳歌していた文明がある日忽然と姿を消す時もあります。ソドム、ゴムラの滅亡も決して例外的な出来事ではありません。
 創造主である神には世界を再創造する力もありますから、人間は神から委ねられた力を濫用してはならないでしょう。神は寛大な心で堪え忍ばれておられるのですから、人間も神の憐れみの器にしていただけるように心がけるべきでしょう。人間は神様の創造の御業を乱すような行為を避けなければなりません。
 神様は人間が自然を支配することを期待なされています。人間は生態系、自然界の頂点に君臨していますから、人間の営みが自然界を左右します。人間は産業革命以来自然を破壊してきました。炭酸ガス、産業廃棄物が急増し、自然の回復力を超える破壊が続きましたから、人間社会も不安定になってきました。
 神様のご命令、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』に対し、人間は地に満つることのみに専念してしまい、地を従わせることを失念しました。人間は被造物であることを忘れ、創造主、主権者であるかのように振る舞ってきました。神の怒りに触れたユダヤ人のように神を忘れ去っているからです。
 焼き物師は失敗作は粉々に砕いてしまいます。焼き物は再生できないからです。神はノアの洪水の場合も、ソドムやゴムラでも失敗作を粉々に砕かれました。神の民イスラエルさえも見捨て去られたくらいですから、神の怒りが憐れみに変わっている間に悔い改めなければ、神から捨てられるかもしれません。
 神様がイスラエルの残された民を救われたように、現代文明が自己破綻しても残された民は救われるかも知れませんが、そうなる前に私たちは現代文明を人間中心主義から神中心主義に変えなくてはなりません。自然と調和した社会が神の望まれた社会ですから、物質中心の社会から抜け出すことが必要です。
 地球温暖化、環境汚染は人間の営みが自然の許容範囲を超えた徴です。人間は神に似せて造られましたが、動物でもありますから、自然と調和しない社会から過大なストレスを受けます。コンクリートに囲まれた都市生活は人間を動物園の檻の中に閉じこめるよものですから、人間には自然環境が必要なのです。
 現代文明は人間を信仰を求める人と求めない人とに二分するようです。現代科学の限界を知らされた人は神を求めます。論理的な思考を超越した神の存在が物質文明に疲れた心を癒やすからです。物質文明では人間が主権者ですから、神の憐れみを感じられません。人間の暴走にもブレーキをかけられないのです。
 信仰の世界では神が主権者、創造主です。人間は被造物にすぎませんが、物質文明の世界では人間が主権者です。20世紀は人間の動物的な飢餓感、食欲を満たすのに成功しました。先進国では飢え死にすることはないからです。物を求め続る者、パンと水に飢え渇く者を満腹させることは不可能です。さらなる欲求が目覚めるからです。欲求の繰り返しが、渇望感しか残さないからです。
 信仰の世界では心が飢え渇く者も満たされるのです。『私は命のパンである。私の元にくる者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない』と主が言われたからです。信仰の世界の住人になることが大切なのです。

07/10/21 総ては神の憐れみによる T

総ては神の憐れみによる
2007/10/21
ローマの信徒への手紙9:14~18
 インド洋での洋上給油を継続するために、新テロ対策特別措置法案が国会に提出されました。民主党が洋上給油に反対を表明しているから取られた措置です。小沢代表は憲法違反だと主張するのですが、新聞からは批判されています。
 小沢代表は日米同盟の必要性、国連軍構想、国際貢献を主張してきました。アフガニスタンには国際治安支援部隊を派遣させる意志を表明していますが、治安が悪化していますから、治安部隊は紛争に巻き込まれる可能性が大です。
 小沢代表は自衛隊派遣も考えているようでしたが、党内には異論があり、民間の警備会社に警備させる案も浮上しているようです。アメリカ企業のイラク方式を採用するつもりかも知れませんが、人的被害が起きる可能性は大です。
 小沢代表はブッシュの戦争だと非難し、国連安保理決議を認めませんが、アフガニスタンへの米軍派兵は国際社会から認知されていました。イラク派兵から国際社会の合意が得られなくなったのですから、安保理決議は有効です。
 国連の決定に従うのならば、自衛隊派遣も許容されるという主張は法的な整合性が認められません。憲法は海外での武力行使を認めていませんから、国連に自衛隊の海外派遣を正当化する権威はありません。小沢案こそ憲法違反です。
 国連憲章は国家間の戦争しか想定していませんから、テロには無力です。安保理の常任理事国にも拒否権がありますから、国連のテロに対する行動も制約されます。ミャンマーに対する非難決議すら決議できないのが国連なのです。
 小沢代表が主張する明確な国連決議は理論的には可能ですが、事実上不可能です。安保理でのアフガニスタン関連決議案は決議された時点での国際社会の総意だと思えますから、日本の洋上給油は国際貢献の一環として当然です。
 洋上給油は後方支援ですから、戦闘に巻き込まれる可能性は皆無ですが、自衛隊ではなく民間人を治安部隊に派遣しても、テロリストの無差別テロに遭う可能性は大です。憲法が許容する国際貢献の範囲は後方支援までだと思います。
 前原前民主党代表によれば、洋上給油継続を支持する議員は50名程度はいるそうですから、洋上給油反対は解散総選挙を目指す国会戦術です。二大政党制では、外交、防衛などの対外的な問題を政局に持ち込むのはルール違反です。
 対テロ共同作戦は国際協調が必要です。対テロ包囲網の1カ所に穴が開けばテロリストは侵入してくるからです。日本も例外ではありません。アフガニスタンの海上封鎖に穴が開けば武器だけではなく麻薬なども出入りするからです。
 シーレーンも日本の生命線ですから、哨戒活動が必要です。海上給油にかかるコストは国際社会から感謝される割には軽微ですから、給油を継続させる方が国益に適います。給油を打ち切れば国際社会から孤立してしまうからです。
 平和憲法、国連憲章は国家間の戦争を前提に制定されましたから、対テロ戦争は想定外です。テロは戦争ではなく、むしろ組織的犯罪なのかも知れませんが、法的な位置づけがなされていませんから、国際社会が混乱しているのです。
 パウロは『総てが人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる』と述べています。神の選びは人間の想いを超えているからです。アブラハムの長子イシュマエルではなく約束の子イサクが選ばれ、イサクの双子の兄弟、兄エサウではなくヤコブが選ばれたのは、人の行いではなく神の自由な選びによるからです。
 さらにモーセがシナイ山に登っている間に、イスラエルの民が金の子牛を拝んでいたのを怒られた主からモーセは名指しで指導者に選ばれました。『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』といわれたからです。モーセが指導するイスラエルの民が特別な民として選ばれたからです。
 パウロはファラオがイスラエルの民をエジプトから去らせる決心をするまでの経過を振り返っています。主がモーセにエジプトで徴や奇跡を繰り返させましたが、ファラオは民をエジプトから去らせませんでした。ファラオの心が頑なにされていたからです。主はエジプトの初子を打たれましたが、イスラエルの民を過越されました。ファラオはついに民をエジプトから去らせましたが、主がファラオの心を頑なにされましたから、彼は全軍を率いて追撃しました。
 イスラエルの民が紅海を前にし、エジプト軍に挟まれました。絶体絶命の状況に追い込まれたのですが、モーセが杖を上ると紅海は左右に分かれました。民は海が分けられた間を通り危機を脱しました。エジプト軍はイスラエルの民を追撃しながら海の中に踏み込みましたが、海が元に戻り、全滅しました。『主がモーセを指導者として立てられたのは、モーセによって主の力を現し、主の名を全世界に告げ知らせるためである』と旧約聖書に書かれてあるからです。
 出エジプトの出来事はイスラエルの民、ユダヤ人の信仰の原点です。神はアブラハムを選び出され、その子孫イサク、ヤコブに信仰を受け継がせました。ヨセフが飢饉で苦しむ父ヤコブをエジプトに呼び寄せましたが、エジプトの王朝も何回か変わり、民は奴隷の生活を強いられました。エジプトでの430年間の生活は多くのイスラエル民族から唯一の神に対する信仰を奪い去りました。
 モーセによりエジプトの奴隷の生活から解放されても、食料や水がなくなると民はエジプトの生活を懐かしがり、主に対して不平を述べ立てました。主はマンナを降らせ、水を岩から噴き出させましたが、主を全面的に信じられませんでした。モーセがシナイ山に登っている間にも金の子牛を拝んだくらいです。
 モーセが主から律法を授けられても民の不信仰は改まりませんでした。カナンの地を望むエシュコルの谷に着き、偵察隊を送り出しました。一房のブドウの付いた枝を担ぎながら帰ってきましたが、主に頑なにされた隊員は巨人が住んでいるから入れないと嘘の報告をしました。主は激しく怒られ、民がカナンの地に入るのを拒絶されました。民が死に絶えるまでの40年間、民は荒野を彷徨いましたが、この試練の旅が民に神に選ばれた民、選民を自覚させたのです。
 イスラエルの民、ユダヤ人が神に選ばれたのはユダヤ人の方に神に選ばれるのに相応しい理由があったわけではありません。むしろユダヤ人は神から離れる道を選んでばかりいましたが、主が民を御許に召し戻されたのです。ユダヤ人の意志や努力には関係のない主の自由な選び、神の御計画なのです。神はご自分が憐れみたい者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされるからです。
 天地を創造なされたのは唯一の神、生ける主ですから、歴史を支配なされるのも生ける主なのです。人類の誕生から現代に至るまでの歴史は戦争の歴史といえるかも知れません。アブラハムから始まる族長時代から戦争はありました。イスラエル・ユダが統一されていたのはダビデ・ソロモン王朝時代だけかも知れません。カナンに定住した後もしばしば周囲の民族から侵入されていました。
 ユダヤ人は紀元前6世紀にエルサレムから強制的にバビロンへ移されました。バビロン捕囚といわれた50年間です。ユダヤ人は奴隷にされ、異教の神々に仕えることを強要されましたが、彼らは信仰を捨てませんでした。むしろ自分たちの信じる唯一の神、主に対する信仰の思索にふけりました。民の間に伝わってきた信仰をロゴス化、言葉化することに専念しました。ユダヤ人には国を失った試練でしたが、むしろ信仰が深められ、創世記が編み出されたのです。天地を創造なされた神、人間を創造なされた神をロゴス化し、記録したのです。
 イエス様が歴史に登場なされたのは、ユダヤがローマに支配されていたときです。主は神の福音を宣べ伝えて『時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』といわれました。歴史の時計の針が神の子の登場に相応しい時を刻んでいたからです。ユダヤがローマに支配されていたからです。
 民衆はローマの支配からユダヤを救ってくれるメシアを待ち望んでいました。この世の王、ダビデ王の再来であるメシアがユダヤ人をローマの支配から解放し、ユダヤ人中心の世界を建設するのを待ち望んでいました。メシアの到来はユダヤ人の悲願でしたが、真のメシア、イエスはこの世の王ではありませんでした。主が宣べ伝えられた神の国は民衆が期待したダビデ王国の再来ではなく、主の十字架と甦りによりもたらされる神の国でした。神の国は主がこの世に遣わされた時から既に始まり、未だ再臨の時が来ないから完成していないのです。
 聖霊降臨、ペンテコステに教会ができましたが、ユダヤ人のための教会でした。教会が異邦人世界に広がるためには異邦人伝道者パウロの登場が必要でした。パウロの信仰によってのみ救われる、信仰義認の教理がエルサレム使徒会議で認められてから、異邦人伝道は組織的に始まりました。パウロによりヨーロッパに教会が建てられ、主の世界宣教命令が前進しました。紀元70年にエルサレムが陥落し、エルサレム教会、ユダヤ人教会は歴史から消え去りました。
 16世紀にルターによる宗教改革が起きました。免罪符、献金をすればもらえる天国への切符、日本のお札のような物をルターが批判したのが教会を巻き込んだ運動、宗教改革運動に発展しました。ローマ教皇に反抗する者、プロテスタントによる教会の始まりです。宗教改革はヨーロッパを宗教戦争に巻き込みました。宗教改革三原則『聖書のみ、信仰のみ、万人祭司』は何百人もの犠牲者の血により贖われた教理です。伝道圏の信仰もプロテスタントに属します。
 日本の教会は日本の敗戦、アメリカ軍の進駐により、大きな影響を受けました。アメリカから宣教師、援助により教会の再建、伝道が目覚ましく進みました。戦後のクリスチャンブームはアメリカの影響が大きかったと思いますが、日本の教会は教会に集まった人たちの多くを教会から去らせてしまいました。彼らの子供たち、団塊の世代が引退するのが新たな伝道の転機かも知れません。
 主の世界宣教命令、『総ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい』が実現するためにはさらなる歴史の展開が必要でしょうが、教会は既に全世界に広がっています。イスラム諸国、中国にも教会がありますから、福音は既に全世界に広がったといえるでしょう。
 ブッシュ大統領の支持基盤で有名なアメリカの保守的な福音派は、私たちの理解するキリスト教とは異なる面も多いようですが、アメリカにリバイバル運動を起こしているようです。韓国にもアフガニスタンで殺された牧師、拉致され信徒のような熱心派が力を増しているようですが、私たちには向かないように思われます。教会が静かな癒やしの場として機能するのが相応しいのです。
 教会の歴史は教会が世俗化し、教会、聖職者が堕落する、悔い改めを迫る改革者が現れる、教会が混乱に巻き込まれる、新たな教会が創立されるを繰り返していますから、私たちも常に主からの呼びかけに敏感でなければなりません。
 教会は日々改革されることを必要としています。改革長老主義教会は日々新たにされる教会という意味ですから、改革を恐れてはなりません。教会が現状維持に止まれば、伝道ができません。伝道への熱意が欠けた教会は歴史の波に淘汰されます。信仰はエネルギーを必要としますから、パッション、熱情が必要なのです。信仰義認の教理からすれば「救われるためには何もしなくても良い」のですが、「救われた者に相応しい生活」、聖化が必要とされるのです。
 教会の歴史の底を流れているのは、代々の名もない信徒の聖化へのエネルギーでしょう。律法主義は聖化への道を律法、割礼に求めたから誤りなのです。ユダヤ人のエネルギーは尊敬に値しますが、彼らは手段と目的とを取り違えたのです。「救われるためには律法を守らなければならない」と錯覚したのです。
 聖化は一方間違えると律法主義に陥りやすいのです。先ず信仰によって救われているという確信が必要です。次に主に対する応答、聖化が続きます。順序が逆転すれば律法主義になります。人間は「救われるためには何かをしなければならない」、さらには「何かをすれば救われる」と思いこみやすいのですが、聖化は信仰により救われた者が救われた喜びを表すことを意味するからです。
 信徒の救われた喜びが教会の原動力になるのです。主の憐れみにより与えられるエネルギーは信徒の喜びへ、喜びが応答へと変化していくからです。天地創造の御業は神の国の実現へと弛むことなく連綿と続いて行くからです。人類の歴史が戦争の歴史ならば、教会の歴史は血塗られた歴史ともいえます。多くの信徒の血で贖われたのが教会ですから、私たちだけの教会ではないのです。2000年の歴史を経た教会は、主の日までこの世に立ち続けなくてはなりません。教会の連綿と続く歴史の流れを私たちの世代で断ち切ってはならないのです。
 私たちが主に憐れまれているのか、頑なにされているのかは誰にも分かりませんが、信仰により救われていると信じればよいのです。信仰の保障は何処にもありません。信仰の保障を律法、割礼に求めたユダヤ人は福音を拒絶しました。福音が彼らの常識を越えていたからですが、彼らの姿と私たちの姿は二重重写しになります。主の憐れみを信頼しきれなかったのがユダヤ人だからです。主の憐れみを無条件で信じるのが信仰ですから、私たちは主を信頼しましょう。
 

07/10/14 主が求められるもの M     

 2007年10月14日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主が求められるもの     ミカ書6章6-8節
讃美歌 54,Ⅱ184,217
堀眞知子牧師
創造主なる神様は、御自分の民イスラエルに、3つのことを求められました。第1に「正義を行うこと」第2に「慈しみを愛すること」第3に「へりくだって神と共に歩むこと」でした。けれども、預言者ミカの時代、イスラエルは罪と不信仰に陥っていました。神様は御自分の民イスラエルを、御自身の法廷に告発します。イスラエルは被告人席に座っています。神様は御自分の代理人として、ミカを検察官として立て、彼にイスラエルを告発させ、御自身が創造された自然界を証人とし、御自身は裁判官としてイスラエルを裁かれます。神様の法廷には、イスラエルを弁護する者はいません。ミカは証人である自然界に、被告人であるイスラエルに宣言します。「聞け、主の言われることを」次に神様がミカに命じます。「立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ」ミカは神様に命じられたとおり、検察官として立ち上がり、証人である山々や峰々の前で、イスラエルの罪を告発します。「聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる」山々は地上の最も高い所にあり、地の基は最も低い所に位置しますので、自然界すべてを言い表しています。また山々と地の基は、揺らぐことのないもの、変わることのないものの象徴でした。遠い昔から、イスラエルの歴史を見続けてきた山々と地の基に対して、ミカは「聞け、主の告発を。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる」と言いました。この言葉は、裁判の開始を告げる宣言です。
3-5節において、イスラエルの罪が告発されています。神様は御自分に背き、罪と不信仰に陥っているイスラエルに対し、罪を告発するに当たっても、なお「我が民よ」と、親が自分に反抗する子供に語るように、愛情と悲しみを込めて呼び掛けられます。第1に神様は、イスラエルに問い掛けられます。「私はお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。私に答えよ」今イスラエルが陥っている罪と不信仰に対し、神様は「それは私の責任か」と尋ねます。「私が何をしたというのか。何をしてイスラエルを疲れさせるようなことになったのか。私の何が悪くて、このような堕落した結果になったのか。それについて、証人の前で私に弁明するように」と神様はイスラエルに迫ります。これは「イスラエルよ、お前にこそ原因がある」という神様の告発です。イスラエルには、何も弁明することはありません。非はすべて彼らにあります。彼らは沈黙せざるを得ません。
第2に神様は、出エジプトの歴史を語ります。「私はお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを、お前の前に遣わした」神様がイスラエルの上に現された、最大の救いの御業は出エジプトです。ミカの時代からすれば、500年以上昔のできごとですが、イスラエルにとって出エジプトは、自分達が神の民であることを再確認する事件であり、彼らの民族としての歴史は、出エジプトから始まりました。もちろん、アブラハムの召命がイスラエル民族の始まりですが、彼らがイスラエル民族として、さらに唯一の神・主を信じる信仰共同体としての意識を明確に持ったのは、出エジプトのできごとであり、シナイ契約であり、荒れ野の40年の旅でした。出エジプト、シナイ契約、荒れ野の40年の旅は、イスラエルの中で語り継がれていたことが、聖書の中にも記されています。たとえば士師記6章において、神様の御使いから「勇者よ、主は、あなたと共におられます」と声をかけられたギデオンは「先祖が『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業は、どうなってしまったのですか」と答えています。また詩編105編はバビロン捕囚帰国後、ミカの時代からすれば200年後に作られましたが、その中で、アブラハム契約、ヤコブ一族のエジプト下りを歌った後「主は僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉としるしを伝え、ハムの地で奇跡を行い、御言葉に逆らわなかった」と歌い、そしてエジプトに下された災いに、出エジプト、荒れ野の旅を守られた神様の御業をほめ歌っています。奴隷としての苦しい労働の中で、イスラエルは助けを求める叫び声を上げ、その嘆きの声は神様に届き、神様はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約ゆえに、彼らを顧み、救いの御手を差し伸べられました。奴隷としての生活を送り、指導者のいないイスラエルのために、神様はモーセとアロンとミリアムの兄弟を遣わされました。モーセは指導者として預言者として、アロンは口の重いモーセを助け、後には祭司として、ミリアムは女預言者として、それぞれイスラエルを支えました。けれども彼らを本当に支え、導いたのは神様御自身です。ゆえに神様は「私はお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った」と断言されました。
第2に神様は、荒れ野の40年の旅の中でのできごとを語ります。3節と同じように「我が民よ」と、愛情と悲しみを込めて語りかけられます。「思い起こすがよい。モアブの王バラクが何を企み、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」バラクとバラムのできごとは、民数記22-24章に記されていました。モアブの平野に宿営していたイスラエルを恐れたバラクは、イスラエルを呪ってもらうためにバラムを招こうとして、使者を送りました。けれども神様は、バラムに「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と言われたので、バラムは招きに応じませんでした。バラクは再びバラムに使者を送り、今度は神様の許可を得て、バラムはバラクのもとに出かけました。バラクはバラムがイスラエルを呪うことを望み、2人の間で何度か遣り取りがありましたが、最終的にバラムはイスラエルを祝福し、バラクのもとを去って自分の国に帰りました。神様がバラムに「私が、あなたに告げることだけを告げなさい」と命じられ、彼がそれに従ったからです。またシティムはヨルダン川東に位置し、イスラエルがカナンに入る前の最後の宿営地でした。そしてギルガルはヨルダン川西に位置し、イスラエルがカナンに入って最初の宿営地でした。ですから「シティムからギルガルまでのことを思い起こし」と言われたのは、荒れ野の40年の旅を終えて、約束の地カナンに入るまでの神様の恵み、特にヨルダン川をどのようにして渡らせていただいたのか、それらを思い起こすようにということです。ヨシュア記3章に記されていたように、主の箱を担ぐ祭司達の足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、葦の海を渡った時と同じように、すべての民が渡り終わるまで、ヨルダン川の水は壁のように立ちました。シティムからギルガルまで、神様の恵みの御手に守られて、イスラエルは約束の地カナンに宿営することができました。
このようにミカは、神様に立てられた検察官として、神様の恵みを語り、イスラエルの罪を告発しました。神様の非難と質問に対する、イスラエルの応答が、今お読みいただきました6-7節に記されています。このイスラエルの答えそのものが、当時のイスラエルの誤った宗教観、不信仰な姿を現しています。イスラエルは「これ以上、何をもって神様の前に出るべきか」と反論しています。もう十分に献げ物をしているではないか、彼らの中には、そのような思いがありました。当歳の子牛とは1歳の子牛のことですが、焼き尽くす献げ物の中ではもっとも良いもの、とイスラエルは考えていました。当歳の子牛をささげよう。もし、それで神様が足りないと言われるなら、幾千の雄羊、幾万の油をささげよう。モーセの律法では、1頭の雄羊、少量のオリーブ油とされているが、それをはるかに超えて大量の献げ物をしよう。さらに神様が足りないと言われるなら、自分の長子、まだ生まれていない子供もささげよう。イスラエルは反論している内に、だんだんと興奮し、異常な献げ物を申し出ます。申命記12章に記されていたように、カナンに入るにあたって、神様はモーセを通して「あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、注意して、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。彼らは、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。あなたの神に対しては、彼らと同じことをしてはならない」と命じられました。いわゆる人身御供は禁じられていたにもかかわらず、自分の子供を犠牲としてささげることを申し出たのです。
イスラエルの反論に対して、ミカは神様が求めておられるものは、上等の子牛とか、大量の雄羊や油、ましてや人間の命ではないこと、神様が御自分の民イスラエルに求めておられるのは、3つであることを断言します。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」イスラエルは罪を犯し続け、誤った信仰に陥っていました。けれども、神の宝の民であるイスラエルには、何が善であり、神様が彼らに求められているのは何であるかが、すでに明らかにされていました。そこには秘密にされているものは何もありませんでした。第1に「正義を行うこと」第2に「慈しみを愛すること」第3に「へりくだって神と共に歩むこと」この3つです。
第1に、神様は義なる御方です。イスラエルに対して、常に正義を行ってきました。神様から正義を行われている民として、イスラエルも地上にあって正義を行う義務がありました。第2に、神様は慈しみに満ちた御方です。イスラエルに対して、常に慈しみをもって接してこられました。神様から慈しまれている民として、イスラエルも互いに慈しみをもって生きる義務がありました。ところが10-12節に記されているように、ミカの時代のイスラエルは、神様に逆らう者の家であり、不正に蓄えた富を持ち、容量の足りない升、不正な天秤、偽りの重り石の袋を用いていました。都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語り、彼らの口には欺く舌がありました。神の民であるべきイスラエルの中において、一部の裕福な人々が、多くの貧しい人々を虐げていました。正義と慈しみに欠けていたのです。第3に、神様はイスラエルと契約を結ばれました。アブラハム契約から始まって、何度か契約が積み重ねられました。そしてカナンの地に入って30年後、ヨシュアは地上の生涯を終えるにあたり、シケムに全部族を集めました。ヨシュアはイスラエルに「あなたたち主を畏れ、真心を込め真実をもって、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます」と言い、イスラエルは「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、するはずがありません。私達は主を礼拝します」と答えました。ヨシュアは民と契約を結び、イスラエルのために掟と法を定めました。そして、これらの言葉を神の教えの書に記し、大きな石を主の聖所にあるテレビンの木のもとに立て「見よ、この石は、私達に語られた主の仰せをことごとく聞いているから、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる」と宣言しました。イスラエルは神の契約の民として、神様を畏れ、へりくだって共に歩む義務がありました。ところが神様が「主の御声は都に向かって呼ばわる。御名を畏れ敬うことこそ賢明である。聞け、ユダの部族とその集会よ。まだ、私は忍ばねばならないのか」と叫ばねばならないほど、彼らは神様から離れていました。形式的には神殿礼拝を行い、献げ物をしていましたが、心は別の所にありました。神様を畏れ、神様の前にへりくだって、共に歩もうとする信仰を失っていました。
信仰的に堕落しているイスラエルに、神様は13-16節に記されている刑罰を宣告します。病気にかからせ、罪のゆえに滅ぼすこと。食べても飽くことなく、空腹が取りつくこと。財産を運び出しても、それを救いえず、たとえ救い出してとしても、剣に渡されること。種を蒔き、オリーブの実を踏み、新しいぶどうを搾るという、普通の農作業を行っても、その益に与れないこと。イスラエルの地は荒れ放題になり、エルサレムの住民は嘲りの的となり、イスラエルの恥を負わねばならないこと。それらの原因は、16節に「お前はオムリの定めたこと、アハブの家のすべてのならわしを保ち、その企みに従って歩んだ」と記されているように、北イスラエルの王オムリとアハブ、アハブの妻イゼベルがイスラエルにもたらしたバアル礼拝によって、真の神様から離れ、異教の神々の習慣に従ったことでした。ミカを通して神様は「異教の神々から離れよ」「正義を行え」「慈しみを愛せよ」「へりくだって私と共に歩め」と命じられているのです。
「正義を行え」「慈しみを愛せよ」「へりくだって私と共に歩め」この3つの命令は、キリスト者である私達にも語られています。神様はイスラエルに「私はお前を奴隷の家から贖った」と言われましたが、私達は主イエスの十字架の血によって贖われた、新しいイスラエルです。主イエスの流された血によって立てられた、新しい契約関係の中に生かされています。神様は義なる御方として、私達の不義に対して刑罰を与えられました。けれども私達人間に負わせるのではなく、慈しみに満ちた御方として、御独り子イエス様に私達が負うべき罰を下されました。主イエスは御復活された後、弟子達に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。神様は私達の上に正義を明らかにすると共に、慈しみを現して下さいました。「共にいる」という約束を与えて下さいました。正義と慈しみと御臨在を明らかにされた者として、私達キリスト者には正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩む義務があります。いや義務と言うよりも、本来罪人である私達に、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩む世界が、主イエスによって開かれました。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むことのできない私達に、そのように歩むことのできる道が備えられたのです。私達の力で得たのではなく、主イエスによってもたらされた、この恵みに感謝し、与えられた地上の生涯を終わるまで、神様が求められる道を歩ませていただきましょう。

07/10/07 イスラエルを治める者 T 

 2007年10月7日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
イスラエルを治める者     ミカ書5章1-5節
 讃美歌 84,Ⅱ25,161
堀眞知子牧師
イエス様がお生まれになった時、東方の占星術の学者達がエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と尋ねた時、ヘロデ王は祭司長や律法学者を皆集めて、メシア(救い主)はどこに生まれることになっているのかと問いただしました。彼らは「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである』」と、今日の1節を引用して答えました。ですから私達キリスト者は、このミカの預言を「メシア誕生の預言」「喜ばしい訪れ」として聞きます。けれどもミカが、この預言を語った時、北イスラエルは滅亡し、南ユダは信仰的に堕落していました。南ユダの王ヒゼキヤは、ミカやイザヤの預言によって、神様に立ち帰りましたが、その後のマナセやアモンの時代は最悪でした。特にマナセは12歳で王となって55年間、王位にあり、神様の目に悪とされることをことごとく行いました。
4章14節は、口語訳聖書では5章1節として編集されています。この方が、ミカの預言の流れに合っていると考えられます。ミカは語ります。「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」ミカは以前にも申しましたように、紀元前730年頃に預言者として召され、ヒゼキヤが王であった699年頃まで、南ユダで活動しました。ミカは100年以上未来のこと、バビロニアとの戦いを語っています。「娘シオン」とはエルサレムのことです。「敵は我々を包囲した」と語られているように紀元前588年、エルサレムはバビロニアによって包囲されました。バビロニアと戦うべきエルサレムに対し、ミカは「身を裂いて悲しめ」と命じます。「身を裂いて悲しむ」というのは異教の習慣です。預言者エリヤがカルメル山で、バアルの預言者450人と戦った時、何も応えてくれないバアルの神に対し、彼らは剣や槍で体を傷つけ、血を流しながら狂ったように叫び続けました。真の神様から離れ、信仰的に堕落し、異教の習慣に陥ってしまったエルサレムに、ミカは「身を裂いて悲しめ」と皮肉を込めて命じます。「彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」とミカが預言したように、包囲は足かけ3年にわたり、ついにエルサレムの食糧が尽き、都の一角が破られ、ゼデキヤ王は逃走しましたが、バビロニア軍によって捕らえられ、彼の目の前で王子達は殺され、彼自身は両眼をつぶされた上、バビロンに連れて行かれました。紀元前586年、エルサレムはバビロニアによって、神殿を初めとして家屋は焼き払われ、城壁は取り壊され、貧しい民を除いて、住民はバビロンへ連れ去られました。バビロン捕囚の時代が始まります。
信仰的堕落、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚という民族の危機、そのような未来を、ミカは神様によって示されつつも、同時に神様によって約束を語ります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」ユダ族の中のエフラタ氏族の嗣業の地であるベツレヘム。それは創世記35章に「ラケルは死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた」と記されていたように、ヤコブの妻ラケルがベニヤミンを産み、最期の息を引き取った場所の近くです。またモアブの女性ルツが、姑ナオミと共に帰った土地であり、そこでボアズと結婚しました。ベツレヘムの長老達はボアズに「あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの2人のようにして下さるように。あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、御家庭が恵まれるように」と言って、祝福しました。そしてダビデは、ルツの曾孫として生まれました。ダビデの出身地ではありましたが、ベツレヘムは大きな町ではありませんでした。ミカは「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と語っています。ベツレヘムは、ユダ族の嗣業地の中では小さな町にしかすぎないが、そこから「私のために、イスラエルを治める者が出る」と神様は言われました。イスラエルのためではありません。神様御自身のために、イスラエルを治める者が出る、と神様は言われたのです。それは神様の御心に従って、イスラエルを治める者です。第2のダビデ、新しいダビデの「出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と語られています。神様の救いの御業は最初から、天地万物の創造以前から、御計画の中にありました。
ベツレヘムという小さな町から、イスラエルを治める者、救い主が誕生する、という約束が神様から与えられました。救い主は誕生するのですが「産婦が子を産む時まで」と語られているように、救い主が出現するまで、神様はイスラエルを捨ておかれます。イスラエルの苦難の時代は続きます。けれども救い主が出現された時「彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らのもとに帰って来る」と語られているように、イスラエル民族だけではなく、異邦人も含む、すべての者が救われます。救い主は神様の力、神様の御名の威厳をもって世に立ち、群れである新しいイスラエルを養われます。救い主の養いによって、イスラエルは安らかに住むことができます。救い主は大いなる者として、その力は地の果てにまで及び、平和をもたらします。「彼こそ、まさしく平和である」と語られているように、救い主こそ、平和の源です。
救い主がもたらす世界が、どのようなものであるかについて、ミカは当時のイスラエルの敵である、アッシリアを通して語ります。紀元前722年に北イスラエルを滅ぼし、今や南ユダも滅ぼそうとしているアッシリア。ミカは語ります。「アッシリアが我々の国を襲い、我々の城郭を踏みにじろうとしても、我々は彼らに立ち向かい、7人の牧者、8人の君主を立てる。彼らは剣をもってアッシリアの国を、抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い、我々の領土を踏みにじろうとしても、彼らが我々を救ってくれる」アッシリアが南ユダを攻撃する。城郭が踏みにじろうとされる。国土が襲われ、領土が踏みにじろうとされる。けれども救い主の力によって、イスラエルは「7人の牧者、8人の君主」と記されているような、力ある指導者を立てて、アッシリアに立ち向かうことができる。イスラエルの指導者は、剣をもってアッシリアを征服し、さらにアッシリアを支配し、イスラエルを救ってくれる。列王記下19章に記されていたように、紀元前701年、エルサレムはアッシリアに包囲されました。その時、神様の御使いが現れ、アッシリアの陣営で185000人が、神様によって撃たれました。実際に何が起こったのかは分かりませんが、エルサレムは神様によって救われました。けれども「剣をもってアッシリアの国を、抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す」にまでは至りませんでした。このミカの預言は、新しいイスラエルによって成就されることです。
さらにミカは「ヤコブの残りの者」の使命を2つのたとえで語ります。「残りの者」とは以前にも申しましたように、民族的危機の中にあって、生き残った者です。彼らは悲惨な経験をせざるを得ませんでしたが、逆に復興のための基となる存在であり、神様が御自身の御計画のために、彼らを用いられるのです。第1に「ヤコブの残りの者は、多くの民のただ中にいて、主から降りる露のよう、草の上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない」と、彼らを露と雨にたとえました。雨期と乾期がはっきりと分かれ、水が豊かではないパレスチナ地方において、露と雨は神様の恵みでした。人間の力では、どうしようもないものでした。神様の力と恵みに頼るほかありませんでした。ヤコブの残りの者は、人間の力に頼らず、神様の御力に頼り、神様に望みをおきました。第2に「ヤコブの残りの者は、諸国の間、多くの民のただ中にいて、森の獣の中にいる獅子、羊の群れの中にいる若獅子のようだ。彼が進み出れば、必ず踏みつけ、引き裂けば、救いうるものはない。お前に敵する者に向かって、お前の手を上げれば、敵はすべて倒される」と、彼らを獅子にたとえました。獅子は強さの象徴でした。羊を襲い、時には人間をも襲いました。神様に敵対する者に対し、ヤコブの残りの者は獅子の強さをもって戦い、彼らを一人残らず倒します。
ミカは4章6節と同じように「その日が来れば、と主は言われる」と語ります。「その日」とは終わりの日です。前回も申しましたように「終わりの日」それは特定されない未来です。語ったミカ自身も、それがいつなのかは分かりません。けれども4章と同じように、終わりの日に何が起こるかを、ミカははっきりと示されました。「私はお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす。私はお前の国の町々を絶ち、砦をことごとく撃ち壊す。私はお前の手から呪文を絶ち、魔術師はお前の中から姿を消す。私はお前の偶像を絶ち、お前の中から石柱を絶つ。お前はもはや自分の手で造ったものに、ひれ伏すことはない。私はお前の中からアシェラ像を引き抜き、町々を破壊する」ヤコブの残りの者が、神様に敵対する者を獅子のように倒すだけではなく、神様が御自身の民や国の中からも、多くのものを断ち、滅ぼし、打ち壊し、破壊します。神様は第1に、軍馬や戦車を滅ぼします。これは軍事力に頼るのではなく、神様に信頼すべきことを現しています。第2に、不正が行われている町々と、その町を敵から守っている砦を打ち壊されます。これは自らの正しさを求めるのではなく、神様の義を求め、神様の守りに望みをおくべきことを現しています。第3に、呪文や魔術師や偶像や石柱を絶ち、アシェラ像を引き抜き、偶像礼拝の罪を犯している町々を破壊します。神様は「十戒」において「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられました。さらに約束の地カナンに入るにあたり、モーセを通して「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」と命じられました。異教の神々を礼拝すること、その習慣を取り入れること、偶像礼拝の罪を犯すことを厳しく戒められました。この戒めを守るように、そして「終わりの日」には、救い主の支配のもとにある新しいイスラエルが、神様によって造り替えられることが明らかにされています。
最後に神様は、ミカを通して「また、怒りと憤りをもって、聞き従わない国々に復讐を行う」と言われました。ヤコブの残りの者に対する祝福、神様の民への裁きが語られた後、神様の御言葉に聞き従わない国々に対し「怒りと憤りをもって復讐を行う」と宣言されました。あらゆる手段をもって、神様はイスラエルと異邦人を招かれますが、最後まで聞き従わない国々には、きわめて厳しい裁きが下されます。けれども、この宣言は同時に、異邦の国々の中にも、神様の御言葉に聞き従う民が存在することを暗示しています。
最初に、イエス様がお生まれになった時、東方の占星術の学者達がエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた時、祭司長や律法学者は「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである』」と、今日の1節を引用して答えた、と申しました。マタイによる福音書に記されている引用は、ミカ書とは異なる部分があります。ミカ書では「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と語られていますが、マタイでは「お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さいものではない」と語られています。それはマタイが、主イエス・キリストを知らされた者として、ミカ書の「いと小さき者」を「決して一番小さいものではない」と解釈したのです。ミカが語った時よりも、深い神様の御計画と御業を見させていただいた者として、マタイはミカ書を読み、語りました。
私達キリスト者には、旧約聖書に記されていること、当時の預言者が語ったことを、主イエス・キリストを通して読み取る世界が与えられています。もちろん預言者は、神様に命じられたことを語りましたが、彼らは主イエス・キリストを知ることができませんでした。そういう意味で、旧約時代の預言者には限界がありました。一方、私達キリスト者は、神様によって、その限界を超えさせていただきました。主イエス・キリストによって明らかにされた世界を見させていただき、新しいイスラエルとして召し出されています。第2のダビデはイエス様であること、イエス様は天地万物が創造される以前から、父なる神様と共におられたこと、イエス様によって、民族としてのイスラエルと異邦人という垣根を超えさせていただいたこと、イエス様こそ、新しいイスラエルである教会を養われる御方であり、その御力が地の果てまで及ぶこと、イエス様こそ平和の君であることを知らされています。「イスラエルを治める者」それは民族としてのイスラエルを治める者ではなく、信仰による新しいイスラエル、キリスト者、主の教会を治める者であり、その御方こそ主イエス・キリストであることを知らされています。ミカが神様の命令によって南ユダに、イスラエルに語りながらも、知ることのできなかった真実を、私達は知らされました。先週、私達は伝道開始記念礼拝を守らせていただき、伝道を開始する時を備え、15年の歩みを導いて下さった神様に感謝しました。この恵みに感謝すると共に、信仰による新しいイスラエルを治められる御方、主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストに養われる群れとして、さらに伝道の使命を委ねられた群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。

07/09/23 神の自由な選び T 

神の自由な選び
2007/09/23
ローマの信徒への手紙9:6~13
 中教審がゆとり教育から路線転向をしましたが、ゆとり教育への反省が不十分です。詰め込み教育からの脱却を目指し、落ちこぼれ救済の意味を持たせたゆとり教育は放任主義教育を助長し、教職員による無責任体制を招きました。
 つまずき、落ちこぼれ対策としては能力別クラスを導入すべきでした。特殊学級卒業の知的障害者でも聖書を音読するだけの能力を持つ人は少なくありませんから、訓練次第では読み、書き、算盤を身につけることができるはずです。
 日教組が主導した平等主義教育が教育弱者から教育の機会を奪い、能力のある者からも能力に応じた教育を受ける機会を奪ったのです。私学の隆盛は人間の能力には差があるという常識が通じない公教育に対する父兄の不信任状です。
 平等教育を前提とした現在の公教育のシステムは既に崩壊しています。競争社会を生き抜くためには自己努力が必要ですが、読み、書き、算盤ができなければ自己研鑽の機会すら生かせませんから、教育のルネッサンスが必要です。
 一方、能力のある者の能力を発展、展開させる教育も必要です。幼少時の教育が子供の将来を左右させますから、低レベルの生徒に合わせた教育は高レベルの生徒から学習意欲を奪い去るだけです。エリート教育も必要なのです。
 日本では建前としては平等教育、本音ではエリート教育が望まれていますが、エリート教育を受けられるのは高所得層に限られています。受験地獄を生んだ背景には子供に残せるのは教育だけだという父兄の気持ちが表れていました。
 一億総中流の高度成長期には教育格差は一部の人たちだけの問題でしたが、格差社会は教育格差を固定化しかねない状況を呈してきました。私立名門校ではなく公立校でも能力に応じたエリート教育を受けられる環境が必要です。
 義務教育課程から選別教育をする必要があります。能力に応じた学力、少なくとも社会生活に不自由しないだけの読み、書き、算盤を習熟させることが必要です。独学でも高等教育を受けられるだけの基礎学力の取得が期待されます。
 インターネット、図書館が普及した現在では基礎学力さえあればどのような知識も身につけられます。独学でも一流大学に入学することも可能です。奨学金、進学ローンを活用すれば、負け組の子弟でも一流大学を卒業できます。
 意欲と才能さえあればジャパンドリームも可能な社会になりましたが、基礎学力がなければ不可能です。読み、書き、算盤には反復練習が必要ですが、それが無視されたから、大学生にさえ日本語の補習が必要になってきたのです。
 ゆとり教育、総合学習は土曜日、夏休みなどに課外学習として行うべきです。総合学習の時間に英語を教えているのを追認するなどはもってのほかです。日本語さえ満足に教えられない教師に英語を教えられるわけがないからです。
 英語の専門教育を受けていない教師が英語を教えるのは危険です。間違った英語を教えるよりも教えない方がましだからです。英語の時間の新設は泥縄式以外のなにものでもありません。むしろ古文の素読を教えた方がましです。
 パウロはイスラエル民族、ユダヤ人を神の民とされた神の約束が無効にされた訳ではないことを論証しようとしています。パウロはイスラエル民族の父祖アブラハムから始まる神の民、イスラエル民族、ユダヤ人は血統に従うのではなく、神の約束に従っていることを旧約聖書、創世記に基づき論証しています。
 アブラハムには二人の子供がありました。女奴隷ハガルの子、肉による子供、イシュマエルと正妻サラの子、約束の子、イサクでした。アブラハムは正妻サラが年をとり、子供が産めない体になったのでイシュマエルを跡継ぎにしようとしましたが、神は年老いたサラに約束の言葉、『来年の今頃に、私は来る。そして、サラには男の子が生まれる』を与えられました。アブラハム、サラの夫婦には信じられない神の約束でしたが、約束の子、イサクが与えられました。
 サラは女奴隷の子、イシュマエルがイサクをからかったのを怒り、アブラハムにハガル、イシュマエル母子を追放させようとしました。悩み苦しんでいるアブラハムに主は『イシュマエルも一つの国民の父とする』と約束されました。イサクの子孫がユダヤ人であり、イシュマエルの子孫がアラブ人になりました。
 イサクの妻リベカが双子を身ごもった場合にも神の選びが働きました。リベカの子供たちが生まる前に『兄は弟に使えるであろう』と主はリベカに告げられました。子供たちがまだリベカの胎内にいる時ですから、善いことも悪いこともしていないのですが、神はヤコブを選ばれエサウを捨てられたのです。イサク、ヤコブの子孫がユダヤ人であり、エサウの子孫はエドム人ですから、ユダヤ人は唯一の神ヤーウェをアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ぶのです。
 神がなぜアブラハム、イサク、ヤコブを選ばれたのかは人間の常識からすれば理解できませんが、神には神の想いがあり、人間には人間の想いしかないのです。神の選びはユダヤ人の父祖アブラハムから始まり、現在のユダヤ人に至るという確信がユダヤ人の誇りの源です。割礼、律法は神の選びの徴なのです。
 ユダヤ人は血統に拘る民族でした。マタイによる福音書にはアブラハムから、ルカによる福音書にはアダムからイエスに至る系図が書かれており、旧約聖書にはイスラエル民族の各氏族の系図が載せられています。家系図がない人は民の一員として認めらませんでしたから、家系図が神の選びの流れを表しました。
 パウロが論証したブラハム、イサク、ヤコブに対する神の自由な選びはユダヤ人を納得させるものでした。ユダヤ人はアブラハムの子孫であるアラブ人、エドム人を神の選びに与った民とは考えてもいなかったからです。神に選ばれた民、ユダヤ人は神の自由な選びを当然だと思っていましたが、異邦人には納得しがたい論理でした。神の選びが人間の行いに左右されないとすれば、アブラハムの祝福を受け継がない異邦人がいかに努力しても救われないからです。
 しかし、パウロはアブラハムから始まる神の選びの歴史が既にユダヤ人から離れ、異邦人へ移されている現状を指し示しているようにも感じられます。神の計画が人の行いにはよらず、神の御旨により進められるからです。パウロの神の自由な選びという表現は割礼、律法だけではなく、ユダヤ人としての氏素性も救いの条件とは認めていないからです。人間の歴史は唯一の神の御旨が表されたものであり、歴史は神の計画、神の摂理が地上に標した軌跡だからです。
 神の救いの計画はアブラハムを選ばれたところから始まりますが、神がなぜアブラハムを選ばれたかは分かりません。あくまでも神の一方的な選びによるからです。イサク、ヤコブが選ばれた理由も分かりません。神の選びの基準は人間とは異なるからですが、神の救いの歴史の始まりであることは分かります。
 神の歴史は天地創造から始まりました。アダムとエバが禁断の木の実を食べた罪によりエデンの園から追放されましたが、人間は地上で増え続けました。神は人間と四つの契約を結ばれました。第一はノア契約です。罪を犯し続ける人間がノアの洪水により滅ぼされましたが、神は再び人間を滅ぼさないと約束されました。その徴が洪水の後の虹です。第二がアブラハム契約です。その徴は割礼です。神はアブラハムを召し出し、『祝福の源』とされました。アブラハムは主の召しに従い、生まれ故郷ハランから約束の地カナンを目指して旅立ちましたが、ユダヤ人が約束の地カナンに入れたのは800年後、出エジプトの旅の後です。アブラハムへの約束をモーセに率いられた子孫が成就させました。
 第三の契約はシナイ山で交わされたシナイ契約、『唯一の神がイスラエル民族、ユダヤ人の神となるから、ユダヤ人は神の律法を守る』です。ユダヤ人に割礼、律法の遵守が義務づけられました。神との契約ですから、民の一人でも契約を守らなければ共同体が神から裁かれ、処罰されました。民から悪を取り除くことが民の義務ですから、神の名を汚す者は石打の刑により殺されました。
 第四の契約はイエス・キリストによる新しい契約です。主イエスはアブラハムの子孫、ダビデ王の子孫でしたから、アブラハムへの約束、『祝福の源』の約束を受け継いでいましたが、割礼、律法を超える救い、『福音』をこの世にもたらされました。主は主にユダヤ人に福音を宣べ伝えられましたが、ユダヤ人だけを救われるために十字架に付かれたのではありません。福音はユダヤ人、異邦人を区別しません。福音は全人類の救いのためにもたらされたからです。
 新しい契約、福音の徴は十字架と復活です。主は総ての人の罪を贖うために犠牲の子羊になられたのです。神の子は贖罪のための血を一回だけ十字架の上に流されたのです。この血により人間の罪を主は贖われた、肩代わりなされたのです。主の血は全世界のあらゆる民族、総ての人々のために流されたのです。
 主は三日目に甦られました。復活なされた主に弟子たち、女たちは会うことができました。十字架から逃げ去った弟子たちは復活の主に出会い、信仰を取り戻したのです。主の十字架での死は弟子たちには大きな躓きになりました。主がローマ人、異邦人の手で十字架に付けられるとは思ってもいなかったからです。彼らが期待していたのはこの世の王、ダビデ王の再来であったからです。
 主が復活なされた事実は人々に甦りの生命、永遠の生命に至る道を確信させました。復活はギリシア人には野蛮人の迷信にすぎませんでしたし、ユダヤ教サドカイ派でもあり得ないことでした。復活を信じるファリサイ派にしても受け入れられませんでした。生前の主から甦りの生命を知らされていた弟子たちにも信じられないことでした。弟子たちは復活なされた主に出会うまでは復活を信じられませんでしたが、復活の事実に圧倒されたのです。『十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神の力である』からです。
 第五の契約といえるのはパウロが復活の主から異邦人伝道者として召し出され、世界宣教命令のために派遣されたことです。主も使徒たちもユダヤ人伝道を優先されました。ペンテコステ、聖霊降臨日に悔い改め、洗礼を受けたのはユダヤ人、異邦人改宗者ですから、教会は割礼、律法から自由ではありませんでした。初代教会における日々の配分に対する苦情はギリシャ語を話すディアスポラ、離散のユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して起こされたものですから、執事もユダヤ人の間の苦情を処理するために任命されたのです。
 ペテロによるローマの百人隊長コルネリウスの回心も例外的なことでしたが、パウロの異邦人伝道をエルサレム使徒会議で認めさるための力になりました。エルサレム教会は異邦人に対し、偶像に献げられたものと、血と、締め殺された動物の肉と、みだらな行いとを慎むことを避けることだけを求めたからです。
 パウロは信仰による義を主張し、行いによる義、割礼、律法からの自由を主張しました。ユダヤ人教会は割礼、律法からの自由を受け入れることができず、エルサレム陥落と共に地上から消え去りましたが、異邦人教会はローマ帝国内に広がりました。4世紀末にはローマの国教になりました。アリウス派とアタナシウス派との抗争ではアタナシウス派が勝利し、三位一体の教理、カトリック教会が勝利しました。16世紀にはルターによる宗教改革が起き、プロテスタント教会が『聖書のみ、信仰のみ、万人祭司』の三原則を確立しました。
 使徒パウロが発見した信仰による義の世界はユダヤ人の行いによる義、割礼、律法の世界から福音を解き放ち、キリスト教を世界宗教にしました。ルターの信仰による義の再発見がプロテスタント教会を生みました。神の選び、召しはその時代の人間の常識を越えていましたが、アブラハムからおよそ4000年間、世界戦争が起きた時にも、神の選びが人間から離れたことはありませんでした。
 神を人間の想いで理解しようとすれば不信仰に陥ります。アダムは神のようになろうとして禁断の木の実を食べました。これが原罪です。義人ヨブはサタンから理由のない苦しみを与えられ、信仰を試されました。友人は因果応報の考えからヨブに罪があると主張しましたが、無罪を主張し続けました。やがて神と直接問答をすることを求め続けましたが、創造主である神の想いは被造物である人間の知識を超えていることを指摘され、塵灰の中に崩れ落ちました。
 人間には神の経綸、計画を理解できないことが意外と理解されていません。18世紀頃、理性により神を解明できるという理神論が盛んになりましたが、ニュートン力学が宇宙の森羅万象を解明できると信じられていたからです。20世紀に入ると私たちが日常経験する世界にはニュートン力学を適用できますが、素粒子、宇宙には量子力学、相対性理論が適用されることが分かりました。
 私たちが知っていることは宇宙のほんの一部でしかありませんから、宇宙を創造なされた方を理解しようとする方が無理なのです。神のなされた奇跡を人間の知識で判断することの方がむしろ不自然なのです。分からないことは分からないのですから、無理に分かろうとする必要はないのです。神の計画の中に生かされていることを素朴に感謝するのが信仰なのです。しかし、無気力な人生は送るのは信仰に反します。福音を宣べ伝えるのが信仰者の勤めだからです。

07/09/16 同胞のためならば見捨て去られても良い T

同胞のためならば見捨て去られても良い
2007/09/16
ローマの信徒への手紙9:1~5
 9月10日は世界自殺予防デーです。今年から9月10日からの一週間が自殺予防週間と定められました。日本における自殺者数はバブル崩壊に伴い急増し、2万5千から3万人を超えるようになり、現在も3万人を超しています。
 バブル崩壊により中年男性の自殺者が急増しました。倒産、リストラによる経済的な原因によるものですが、雇用状況が改善しても労働強化による30代の自殺が増えています。自殺者の多くは鬱病にかかっていたと推測されています。
 世間では「死ぬと言っている人間は自殺しない」と言われていますが、多くの自殺者は自殺する前に周囲の人に「死にたい」と言っているそうです。社会は自殺者に対して関心を払いませんでしたが、自殺を防げる場合もあります。
 北欧の社会ぐるみで自殺対策に取り組み、自殺者数を減らした経験からすれば、日本も自殺対策を進める必要があります。東神大時代に生命の電話に関わったことがありますが、民間のNPO法人などが地道な活動を積み重ねています。
 しかし、行政の関心は薄かったのですが、10年間も3万人の大台を超し続ける現状に危機感を抱いたようです。自殺希望者への相談窓口を拡げ、自殺者への理解を訴えていますが、現実に自殺しそうな人に対する対応が分かりません。
 私たちに考えられる手段の第一は精神科の受診を進めることでしょう。自殺者の多くは鬱病ですから専門的な治療が必要です。鬱病に励ましが禁物なのは常識ですが、励ましの言葉をかけてしまいますますから、素人療法は危険です。
 患者の視点から見れば、鬱病は脳の病気であり、心の病気です。ストレスに心が耐えられなくなり、脳の機能が侵されてしまうからです。鬱病は心の風邪とも言われるように誰もが罹る病気ですから、早期発見、早期治療が肝要です。
 脳が正常に機能しないのですから、薬により脳の機能を正常に戻さない限り何をしても無駄です。現在では入院を選択肢に入れながらも、外来通院による薬物治療、投薬も可能です。脳の機能が回復すれば全く違う世界が開けます。
 私は6年前に抗うつ剤パキシルに出会いました。脳の機能が質的に改善しました。寝たり起きたりの生活、毎週2~3回も点滴に通う生活が劇的に変わったからです。毎日の生活が規則正しくなり、1000冊を超える本を読破しました。
 脳の機能が改善されるにつれて肉体も改善されてきました。幽霊のような生気のない姿から現在のような気力に溢れた姿に変わりました。脳が生命の源であることを実感させられました。錠剤一個により人生が変えられたのです。
 私にはアルコール依存は鬱病の症状の一つのように思えます。脳にアルコールの薬理作用が刷り込まれるからです。半年間ぐらいの断酒なら何回も実行しましたが、鬱になると体がアルコールを求め、再飲酒をしてしまうからです。
 主治医は「病が飲ます」と庇ってくれましたが、その言葉に甘えてしまいました。抗鬱剤はアルコールを飲んでいる限り効きませんから、断酒ができなければ治療は難しいと思います。鬱病、薬物依存、自殺は相関関係が深いのです。
 パウロはユダヤ人同胞の多くがキリストの新しい契約から漏れている現状を心から嘆いています。唯一の神はユダヤ人との間に四つの契約を結ばれました。第一の契約はノアの洪水の後のノア契約です。天に架かった虹は人間を滅ばさないという約束でした。第二の契約はアブラハム契約です。その徴は割礼でした。第三の契約はシナイ契約です。モーセを通して律法が与えられました。第四の契約は主の十字架による新しい契約です。罪の贖いと甦りの命への約束ですが、主が選び分かたれた民、ユダヤ人は主の新しい契約を拒否したのです。
 パウロはユダヤ人同胞の救いを誰よりも願っています。彼はかつてユダヤ教の教師ラビでしたから同胞の救いに命を賭けていたのです。復活の主により回心させられた後でも彼の想いは変わりませんでした。パウロがユダヤ人を拒否したのではなく、ユダヤ人が彼を拒否したのです。パウロが異邦人伝道者とされたのは神の選びですが、ユダヤ人への伝道の夢を捨てたのではありません。
 教会の歴史を考えればパウロが異邦人伝道者として召し出されたから主の福音が異邦人へ伝わり、ヨーロッパに教会が建てられ、主の世界宣教命令が実現したのです。パウロの「信仰により救われる」、信仰義認の教理がキリスト教を世界宗教に発展させたのですが、ユダヤ人同胞の救いも忘れてはいません。主はアブラハムを選ばれ、アブラハムの子孫、ユダヤ人を選ばれたからです。
 パウロはユダヤ人同胞のためならばキリストから離れ、神から見捨て去られても良いと思っているくらいなのです。イスラエルの民、ユダヤ人には『神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束』が与えられているからです。パウロにはアブラハムの子孫は彼の信仰を受け継ぐ者であると思いながらも、肉による血縁関係も無視できないのです。神の選びは血縁関係に囚われないのを彼自身も理解しているのですが、ユダヤ人への選びも確信しているからです。
 神がアブラハムを選ばれたのは人間の想いを超えた神の憐れみです。アブラハム側には神に選ばれる理由はないからです。イサクの双子の子供から弟ヤコブが主に選ばれ、兄エサウが捨てられたのは神の自由な選びによる神の計画だからです。しかしパウロは神の計画によりユダヤ人が神に選ばれ、神に捨てられたとは思われないのです。彼はユダヤ人への選びを探し求めているからです。
 パウロの思考はキリストがアブラハムの子孫、ユダヤ人である点に飛躍します。神の救いの歴史はアブラハムから始まりました。ユダヤ人は唯一の神を信じたのです。神に選ばれた徴として割礼、律法が与えられました。アブラハムからキリストまでの2000年間、多神教の世界、豊饒の神々が生きている世界の中でユダヤ人は一神教の世界、唯一の神ヤーウェへの信仰を守り通したのです。
 神はユダヤ人を救い主メシア、キリストの到来に備えておられましたが、ユダヤ人は御子を十字架に架けてしまいました。ユダヤ人は神の愛を拒絶したのです。神がユダヤ人を捨てられたのではなく、ユダヤ人が神を捨てたのです。ユダヤ人が主の愛に背いた事実を嘆く彼の想いは、神の痛みでもあるのです。
 しかし歴史を支配なされる主は、ユダヤ人の背信をむしろ救いの御業、主の十字架、復活に結実なされたのです。ユダヤ人への選びは主の十字架をもたらしましたが、多くのユダヤ人が救いの御業から漏れているのが悲劇なのです。
 パウロのユダヤ人同胞を思う気持ちはユダヤ人には理解されませんでした。パウロの伝道を妨げたのは異邦人ではなくユダヤ人だったからです。ローマはコスモポリタンな国、民族、宗教に囚われない国でした。多神教、多文化、多言語国家でしたから、一神教であるキリスト教に違和感を覚えていましたが、ローマ法はパウロ、初代教会の伝道活動をユダヤ人の迫害から保護しました。
 パウロの伝道の対象はユダヤ人同胞から異邦人に変わりましたが、ユダヤ人の救いは彼の生涯の課題でした。紀元70年にエルサレムが陥落し、ユダヤ人教会は地上から消え去りました。イスラエル共和国が1948年に建国されましたが、主イエスをメシアとして認めないユダヤ教徒はメシアの再臨を待ち望んでいるそうです。彼らが待ち望むメシアはダビデ王の再臨、この世の王のようです。
 ユダヤ人はパウロが望んだようには回心しませんでしたが、ユダヤ人の救いを考え続けた彼の思考は信仰による義、パウロ神学に結実しました。異邦人には律法、割礼からの自由が必要であり、ユダヤ人には神に選ばれた民としての自覚が必要であったからですが、ユダヤ人の多くには理解されませんでした。 ユダヤ人が主の福音を否んだために福音は異邦人に宣べ伝えられましたが、異邦人からユダヤ人へ福音が宣べ伝えられる時がくるとパウロは考えていました。パウロは終わりの日には総ての人、ユダヤ人、異邦人も救われると考えていました。パウロはある者は神に救われ、ある者は拒絶されるかのように議論を進めていますが、神の意志によれば総ての人が救われねばならないのです。
 パウロは神が主権者、創造主であり、人間は被造物に過ぎないことを強調していますが、ユダヤ人は律法を守りさえすれば救われると信じ、やがて律法を守る者を神は救わねばならないと思い上がるようになりました。ユダヤ人が唯一の神と交わした契約は「主はユダヤ人の神となるから、ユダヤ人は律法を守らなければならない」という一方的なものでしたから、契約の主体はあくまでも主にあります。契約を実行するかしないかは主のみが判断なさることです。
 ユダヤ人の律法に対する思い上がりは、人間が陥りやすい罠でもあります。律法主義、行いによる義は「これだけ努力をしたから、神はそれに応えるべきである」という人間の思い上がりを表しているからです。私たちの心の片隅には律法主義が息づいています。むしろ信仰義認、信仰による義、「救われるためには何もしなくても良い」は私たちを戸惑わせるのではないでしょうか。
 ファリサイ派のラビであったパウロは誰よりも律法に厳格な生き方をしてきました。キリスト者を気が狂ったように迫害をしたのです。パウロは律法においては欠けのない者でしたが、救いを体験することはできませんでした。ダマスコの途上で復活の主に出会い、回心を体験したから救いを実感できたのです。
 復活の主は突然パウロに語りかけられたのです。それは主から与えられた一方的な恵みでした。主に敵対していたパウロさえ主は救われたのです。パウロは「救われるためにはなんにもしなかった」のですが主は彼を救われたのです。
 キリストを迫害する者がキリストを宣べ伝える者へと変えられたのは主の愛です。救われるのに値しない者が救われたのは奇跡でした。パウロの身に起きた奇跡がユダヤ人、異邦人、さらに総ての人に起きると彼は確信したのです。
 パウロの神に見捨て去れてもよいという決意、アナセマは恐ろしい意味を持つ言葉です。例えば異教徒の町が占領されれば総てのものが汚れていると見なされ、完全に消滅し尽くされるのです。真の礼拝から人を誘惑しようとするならば神から見捨て去られ、憐れまれ、惜しまれることなく抹殺されるのです。
 パウロが全生涯を通して証しようとしたのはキリストの愛です。神の愛から誰も引き離されることはないという事実ですが、パウロはユダヤ人同胞が救われるためならば、神から見捨て去られても良いと告白しているのです。総ての人が救われるのを信じながらも、神から見捨て去られる覚悟をしているのです。
 私たちが住んでいる日本は信教の自由が保障されている点では2000年前のローマに似ています。キリスト教徒は人口の1%未満ですから初代教会の時代とほぼ同じでしょう。同胞である日本人も福音に触れる機会はあっても、無視し続ける人がほとんどです。信徒の家庭でもクリスチャンホームはごく少数です。
 多くの信徒の願いは家族伝道です。配偶者、子供の救いを願うのは同じです。家族のためならば神から見捨て去られても良いと思う気持ちも同じでしょう。私たちには神の選びは分かりませんが、パウロの終わりの日には総ての人が救われるという確信は私たちの心に平安をもたらします。主の教会、キリスト者を迫害したパウロ、熱心なユダヤ教徒であるパウロさえ主は救われたからです。
 しかし私たちが家族に願うのは終わりの日ではなく、現在の救いです。家族伝道が難しいのは共通の悩みです。今年の夏期伝生は二人とも四代目のクリスチャンでしたが、二人に共通していたのは日曜日に教会に連れて行かされるのが苦痛であったことでした。教会に行くのが義務でなくなったら教会を離れたのですが、成人してから教会に自覚的に通うようになったようでした。富田神学生のお母さんはお父さんとお父さんの親族をクリスチャンにしたそうです。
 文明開化のために日本に文明を伝えたのは雇われ外人でしたが、彼らはクリスチャンでしたし、宣教師が多く含まれていました。和魂洋才が明治政府の基本方針でしたが、日本にも教会が建てられました。先の戦争中はキリスト教は弾圧されましたが、戦後アメリカ軍と共にアメリカから宣教師、教会設立資金が送られてきました。キリスト教ブームが起きましたが、徒花に終わりました。
 教会の信仰ではなく個人の信仰が重視されたから信仰の継承がされなかったのかも知れません。信仰の家族による積み重ねが見られないのが日本の教会の欠点です。赤ちゃんの時から信仰に触れさすのが家族伝道の基本です。教会学校育ちの人間は例えイエス様を信じなくても、神は一人だと連想するからです。
 教会に通った経験は子供の頭に刷り込まれます。何かの機会に再び教会に召された例をしばしば聞かされます。特に艱難、試練に出会った時に教会へ足を運ぶ人は少なくありません。順調な人生が続いていても空しさを覚える人も少なくありません。『あなたの若い日にあなたの創り主を覚える』のが最善です。
 信仰は四代以上継承されなくては身に付かないのかも知れません。戦後60年しか経たない日本の教会が未成熟なのも仕方がありませんが、着実に伝道を積み重ねるしかありません。日本の教会はまだ初代教会のレベルですが、初代教会から世界宣教命令が実現されたように、日本の伝道も前進されるでしょう。

07/09/09 主の御名によって歩む M 

 2007年9月9日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の御名によって歩む     ミカ書4章4-8節
讃美歌 54,525,502
堀眞知子牧師
ハランにとどまっていたアブラハムに、神様は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じられ、同時に「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束されました。彼は神様の御言葉に従って、カナン地方へと向かいました。カナンにはカナン人が住んでいたにもかかわらず、神様は75歳にして子供のいないアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。その後、イスラエルはエジプトでの奴隷生活、出エジプト、荒れ野の40年の旅の後にカナンに入国し、アブラハムへの約束から約750年後、土地を与えられました。王国も建てましたが、それは南北に分かれ、ミカが今日の御言葉を語った時代、北イスラエルはアッシリアによって滅亡し、南ユダも攻撃を受けようとしていました。それはイスラエルが、神様の掟と契約に対して忠実ではなかったからです。神様の契約の民として、ふさわしい歩みをしなかったからです。1-3章で、律法に背き、弱者を虐げている富裕な民や政治的・宗教的指導者の罪を告発し、厳しい裁きを語られた神様は、4-5章で「終わりの日の約束」について語られます。イスラエルは契約に忠実ではありませんでしたが、神様は契約を誠実に守られ、御自分の定められた時と方法によって、その御業を明らかにされます。
1-3節は、イザヤ書2章2-4節と細かい表現を除けば、同じ内容が記されています。以前に申しましたように、ミカとイザヤは、時代も国も重なっています。おそらく神様が、同じ御言葉をもって2人の預言者に臨んだと考えられます。ミカは語ります。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」「終わりの日」それは特定されない未来です。語ったミカ自身も、それがいつなのかは分かりません。けれども、終わりの日に何が起こるかを、ミカははっきりと示されました。彼は、神様の臨在を象徴しているエルサレム神殿が建つ、シオンの丘が隆起する幻を見ました。他のどの山々よりも高くそびえ立つのを見ました。またイスラエルだけではなく、諸国の民が大きな河の流れとなって、エルサレム神殿に向かうのを見ました。異邦人が真なる神様を求め、真なる神様の御言葉を信じ、真なる神様の示される道に従って歩もうとして、エルサレム神殿に集まる。そのような時が来ることを示されました。神様の教えがエルサレムから全世界に語られ、世界中のすべての人々が真なる神様を信じた時、神様の裁きが下ります。それは罰を下すのではなく、裁きによって平和が訪れます。遠くの国々の問題も、国と国の争いも、神様の裁きに服します。主権者である神様の裁きに、すべての国々が、すべての人々が従う時が訪れます。剣が鋤となり、槍が鎌となって、武力による争いがなくなります。
平和が訪れた時「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」と神様は約束されました。列王記上5章に「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」と記されていましたが、終わりの日にはイスラエルだけではなく、全世界に平和が訪れます。パレスチナにおいて、ぶどうといちじくは一般的に栽培されていた果樹でした。創世記9章に、箱舟から出たノアがぶどう畑を作ったことが記されていました。ぶどうは、春には新芽が出て葉が茂り、初夏に花が咲き、秋には実が熟しました。いちじくは、初夏に新しい枝が伸び、そこに花芽が発達し、ぶどうと同じように秋には実が熟しました。日差しの厳しいパレスチナにおいて、夏に木陰を作るぶどうといちじくの木の下は、人々の憩いの場でもありました。「自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座」るということは、神様から与えられた嗣業の地が守られていることであり、豊かな実りが与えられていることでした。ミカが預言者として召されて約8年後、紀元前722年、北イスラエルはアッシリアによって滅亡し、南ユダも攻撃を受けようとしていました。平和とは、ほど遠い現実がありました。200年前に南北に分裂し、北イスラエルとは対立していた時代もあったとはいえ、同じイスラエル民族でした。北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたことは、南ユダに暗い影を落としていました。「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」という神様の約束は、イスラエルにとっては信じがたいものでした。北イスラエルは、すでに嗣業の地を失い、民はアッシリアへ連行されました。イスラエルの歴史は約束の地カナンを得るための戦い、約束の地カナンを守るために周辺諸国との戦いの連続でした。最初に述べましたように、神様はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されましたが、実際に土地を与えられたのは750年後でした。カナンの7つの民族を滅ぼした末に、与えられた土地でした。カナン定住後も、アンモンやモアブやミディアンの攻撃を受けました。特にペリシテとの戦いは、ダビデの時代まで続きました。ダビデが周辺諸国を制圧した後は、彼の息子達の争いがありました。争いがなく「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座」っていたのは、ソロモンが治めていた40年位の間でした。ソロモンの死後、南北に分かれる争いがあり、その後も両国の争いは続き、周辺諸国のアラムやシリアとの戦いもありました。イスラエルは国の内外において、絶えず戦っていました。ですから「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」と万軍の主の口が語られても、イスラエルは即座に信じることはできませんでした。
信じられないイスラエルに向かって、ミカは語ります。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む」このミカの言葉は、一見すると「もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう』と」という約束と相反する内容に受け取れます。けれども諸国民が、真なる神様の御許に集められ、その御言葉に従って歩むなら、神様はただ御一人です。ミカは、ここで「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩もう」と呼び掛けているのです。イスラエルはもちろん、異邦人も主の御名によって歩みます。「主の御名によって歩む」それは自分の思いではなく、神様の御心に従って歩むことです。神様の御心に従って歩もう、とミカはすべての人々に呼び掛けています。
終わりの日が来れば、どのような世界が開かれるのか。神様は約束されます。「私は足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。私は彼らを災いに遭わせた。しかし、私は足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる。羊の群れを見張る塔よ、娘シオンの砦よ、かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が、お前のもとに再び返って来る」ここで「足の萎えた者」とは、身体障害者ではありません。他国に追いやられ、自分の足でシオンに帰る力のない者です。「私は彼らを災いに遭わせた」と語られているように、神様がイスラエルに災いをもたらしました。それは神様の契約に、イスラエルが忠実ではなかったからです。罰として、神様がイスラエルを嗣業の地カナンから他国へ追いやり、離散の民としました。けれども終わりの日に、神様は離散の民を呼び寄せます。自分の足でシオンに帰る力のない者を、残りの民として神様が救いの御手を差し伸べられます。残りの民とは、国家的・民族的危機の中にあって生き残った民、神様が生き残りの道を開いて下さった人々です。残りの民によって、新しい世界が再建されます。彼らは足の萎えた者であり、力のない者であり、いわば社会的弱者です。神様は社会的弱者によって強い国を造られます。それは人間の力ではないことを意味しています。神様の御力によって、強い民とされ、神様が彼らの王となられます。イスラエルは、しばしば羊にたとえられます。羊の群れであるイスラエルを、神様が守って下さいます。そしてシオンの丘に、イスラエルが再建されます。
ミカは「終わりの日の約束」について語ると共に、イスラエルが経験しなければならないバビロン捕囚と、そして矛盾するようですが、捕囚がもたらす救いについても語ります。「今、なぜお前は泣き叫ぶのか。王はお前の中から絶たれ、参議達も滅び去ったのか。お前は子を産む女のように、陣痛に取りつかれているのか。娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」バビロン捕囚は、この預言から約130年後のできごとですが、確実に起こる事実として語られています。紀元前586年、南ユダはパビロニアによって滅ぼされ、貧しい農民を除いて、民はバビロンへと連行されます。王も参議もいない、南ユダを治める指導者がいなければ、国として立ちゆくことはできません。その苦しみは、陣痛に苦しむ産婦のようでした。南ユダの苦しみは続きます。国を失った民としてエルサレムを出て、野宿をしなければなりません。約束の地をはるかに離れたバビロンで、捕囚の民として暮らさなければなりません。けれども神様は「バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」と約束されました。国の滅亡、異国での捕囚生活は、人間に絶望をもたらしますが、神様は絶望の中にあって希望を与えられます。イスラエルにとって苦難の地が、神様によって救いの地へと変えられ、イスラエルは敵であるバビロニアの手から、神様によって贖われるのです。
ミカの時代、南ユダはアッシリアやエジプトから攻撃を受けようとしていました。将来的にはバビロニアによって滅ぼされます。南ユダに対する諸国の目が語られます。「今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり『シオンを汚し、この目で眺めよう』と、言っている」諸国が南ユダに敵対し、攻撃を仕掛けようとしていました。けれどもミカは語ります。「だが、彼らは主の思いを知らず、その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように、打ち場に集められたことを。娘シオンよ、立って、脱穀せよ。私はお前の角を鉄とし、お前のひづめを銅として、多くの国々を打ち砕かせる。お前は不正に得た彼らの富を、主に、蓄えた富を、全世界の主にささげる」神様はエルサレムを破壊させるために、諸国民を集めているのではありません。むしろ諸国民をエルサレムに集めることは、麦束を打ち場に集めるようなものでした。彼らを裁くために、エルサレムに集められました。神様の民であるイスラエルは、エルサレムに集められた諸国民を、打ち場の麦束のように脱穀します。動物が戦う時に自らの武器とする角やひづめが鉄や銅となる、それはイスラエルの攻撃力の強さを意味します。そしてイスラエルが滅ぼした国々の富が、すべて真なる神様にささげられる時が来ます。主なる神様はイスラエルだけの神ではなく、全世界の神となり、世界中の人々が神様を礼拝する時が来ます。
イエス様は伝道生活を始めるにあたり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。十字架の死によって、私達の罪を贖い、流された血によって新しい契約を立てて下さいました。御復活によって永遠の生命、神様との契約の中に生きる生命を与えて下さいました。そして復活された後、弟子達に「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられました。さらに復活の主イエスが天に上げられた時、御使いは弟子達に「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じありさまで、またおいでになる」と言いました。イエス様によって、神の国は来ましたが、完成するのは主イエスの再臨の時です。私達キリスト者は「すでに」神の国は来たが「いまだ」完成していない時の中に生かされています。先にも述べましたように「終わりの日」それは特定されない未来です。キリスト者にも、いやイエス様御自身にも、それがいつなのかは分かりません。けれども、終わりの日に何が起こるかを、私達はミカ以上にはっきりと示されています。主イエスが再び来られる日であり、主イエスによる裁きが行われる日であり、私達キリスト者が肉をもって復活する日です。
その日までキリスト者が、教会が、いかに歩むべきか。いや、歩ませていただくのか。ミカを通して語られたように、私達には「主の御名によって歩む」道が備えられています。「主の御名によって歩む」それは「イエスは主なり」という信仰告白に基づいて生きる生活です。他の何ものをも神として崇めない。主イエスを通して明らかにされた父・子・聖霊なる三位一体の神を唯一の神様と信じて生きる生活です。現実がいかに困難であろうとも、共にいます神様を信じ、絶望の中にあって、なお希望を失わない生き方です。この世の価値観に囚われず、与えられた賜物に感謝して生きる生活です。賜物は、必ずしも私達にとって良いものばかりではありません。人間はできれば健康で、家族に囲まれて、ある程度の経済力がある生活を望みますが、神様が与えられる賜物は、時として病であり、障害であり、家族との別れであり、貧しい生活です。けれども、人間の目から見れば困難と悩みと絶望の中にもなお、いやその中にこそ、神様の御手が働かれ、御業が現されます。私達の思いや願いではなく、神様の御心が明らかにされ、神様の御業がなされていきます。「主の御名によって歩む」道は、容易な道ではありません。しかし、神様がアブラハムに約束されたように、私達異邦人も信仰によって、祝福に入ることが赦されました。神様との契約関係の中に生かされている。神様が共にいて下さる。これに優る力、喜びは存在しません。すべてを失っても、なお真なる神様が共におられる。その恵みに感謝し、希望と共に「主の御名によって歩」ませていただきましょう。

07/09/02 主の霊によって力に満ち M 

 2007年9月2日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
 主の霊によって力に満ち     ミカ書3章5-8節
讃美歌 83,370,186
堀眞知子牧師
2章において、律法の戒めに反して富を貪り、経済的力を持った者に対する神様の警告を語ったミカは、3章において、政治的指導者・宗教的指導者に対して、神様の警告を語ります。イスラエルは神の宝の民、神の聖なる民として、神様から選ばれた民でした。選ばれた民には契約が与えられ、使命が委ねられていました。人間的思い・欲望・罪が満ちている地上にあって、神様から与えられた律法を守り、神様を畏れ、神様の御心に従って歩み、神様の御栄光を世に現す使命です。ところがミカの時代、民を導くべき政治的指導者・宗教的指導者が、律法の戒めに反していました。
3章は「私は言った」という言葉で始まります。ミカを通して神様が語られた言葉を、そのままに記しています。「私は言った」神様はイスラエルの指導者に対し「私は言ったではないか」と念を押すように語られています。イスラエルの歴史において、神様は絶えず語られました。モーセを通して「十戒」を与えた時、カナン入国を前にしてモーセを通して律法の説き明かしをした時、イスラエルが預言者サムエルに対して王を求めた時、またエリヤを初めとする多くの預言者を通して、神様は絶えず語られました。時に応じて警告も与えましたが、今や指導者は律法に従おうとしません。従おうとしないばかりか、掟を破っていることに気付かなければ、そのことに罪の意識も感じていません。神様は語ります。「聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者達よ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか」イスラエルを指導する者の務めは、正義を知ることでした。ここで言われている「正義」は「人として行うべき正しい道義」という意味ではありません。神様の望まれる、神様が求められる「義」です。口語訳聖書では、1,8,9節の「正義」は「公義」と訳されています。アモス書5章の「町の門で正義を貫け」と同じ言葉が使われており、ここも口語訳聖書では「門で公義を立てよ」と訳されています。この「公義」という言葉が、日本語にはもともとありませんので「正義」と訳されていますが、人間の正義ではありません。あくまでも、神様が「義」とされることであり、ヘブライ語では「裁き、掟」という意味もあります。神様の「裁き、掟」であって、人間の思いや道徳ではありません。神様は指導者に「公義を知ることが、お前たちの務めではないのか」と問い掛けていますが、それは「公義を知れ」という御命令です。以前にも申しましたように、ヘブライ語で「知る」というのは、単に知識として知ることではありません。知識として知り、経験として知り、行うことを意味しています。神様の義を行うことが求められています。
けれども、ミカの時代の政治的指導者は、善を憎み、悪を愛し、人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取っていました。ここでも善と悪は、神様が善とすることであり、悪とすることです。政治的指導者は、公義に反する行動を取っていました。「我が民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く」と記されているように、イスラエルの貧しい者を虐げていました。政治的指導者が経済的力を持ち、社会的弱者を虐げるという現象は、当時の国のあり方からすれば珍しいことではありません。むしろ、きわめて普通の現象でした。けれどもイスラエルは別でした。神様の民として、この世の常識に従ってはいけません。申命記17章において、神様は命じられました。「あなたが、神の与えられる土地に入って、そこに住むようになり『周囲のすべての国々と同様、私を治める王を立てよう』と言うならば、必ず、神が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立てなさい。王は馬を増やしてはならない。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」この戒めは、王だけではなく指導者すべてに求められていますが、彼らは逆の道を歩んでいました。またダビデが全イスラエルの王となった時、イスラエルの全部族は彼のもとに来て「我が民イスラエルを牧するのはあなただ」と言いました。イスラエルの指導者は、民の羊飼いでしたが、ミカの時代の指導者は悪い羊飼いでした。羊を守るのではなく、羊を虐げ、羊を食べていました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「今や、彼らが主に助けを叫び求めても、主は答えられない。その時、主は御顔を隠される、彼らの行いが悪いからである」律法の戒めに反しているにもかかわらず、指導者は裁きが下ると、神様に助けを求めていたようです。彼らは神様の義に従うのではなく、自分の正義のために神様を利用していました。しかも、そのことに気付いていませんでした。彼らは神の民としての選びを信じ、誇りに思いつつも、その使命に生きることなく、いや、使命を果たしていないことに気付いてさえいなかったのです。
宗教的指導者である預言者も同じでした。ミカは語ります。「我が民を迷わす預言者達に対して、主はこう言われる」神様は預言者を「我が民を迷わす預言者」と言われました。申命記18章に記されていたように、カナンに入るにあたって、神様は預言者を立てる約束をされ、また真の預言者と偽預言者を見分ける方法を語られました。「私は彼らのために、同胞の中から預言者を立てる。彼は私が命じることをすべて彼らに告げる。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する。ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。その預言者が私の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは私が語ったものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」ミカの時代、政治的指導者と共に、社会的弱者を虐げる偽預言者がいました。彼らはイスラエルを迷わせていました。「彼らは歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」と記されているように、多くの謝礼金をささげる者には祝福を告げ、十分な謝礼金をささげることができない者には災いを告げました。人々が祝福を望み、災いを望まないという心理を利用して、金銭によって語る言葉を変えました。神様の御名によって、自分勝手に語りました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者達には、太陽が沈んで昼も暗くなる。先見者はうろたえ、託宣を告げる者は恥をかき、皆、口ひげを覆う。神が答えられないからだ」かつて神様が夜、幻の中でアブラハムに「恐れるな、アブラハムよ、私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と語られたように、イスラエルおいて神様は夜、幻の中で御言葉を語られました。また預言者イザヤ、ハバクク、ナホムが「幻で示された託宣」と語っているように、神様は暗闇の中で託宣を与えられました。けれども自分の思いで預言を、正確に言えば預言ではありませんが、預言者のごとく語っている者には、神様の御言葉は与えられません。本当に夜が臨み、暗黒が臨み、昼も暗くなる、そういうイスラエルにとって暗黒の時代が訪れた時、神様は何も語られません。偽預言者は、多くの謝礼金を積まれても、何も語ることができません。口ひげを覆うという動作は、悲しみと絶望を表すものです。彼らは絶望の淵に落とされます。
このような偽預言者ではなく「私は彼らのために、同胞の中から預言者を立てる。彼は私が命じることをすべて彼らに告げる」という、神様の約束に基づいて立てられた預言者であるミカは語ります。「しかし、私は力と主の霊、正義と勇気に満ち、ヤコブに咎を、イスラエルに罪を告げる」原文でも「しかし、私は」という言葉が強調されています。偽預言者ではない、真の預言者である私は告げる、というミカの立場と姿勢が明らかにされています。金銭に動かされることもなく、世の権力者におもねることもなく、ただ神様から委ねられた御言葉をミカは語ります。それは、イスラエルを喜ばせる言葉でもなければ、安心感を与える言葉でもありません。時代的に言えば、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南ユダもアッシリアの攻撃を受けようとしていました。いわば危機の中にあって、ミカは神様の御言葉を語ります。「ヤコブに咎を、イスラエルに罪を告げる」と記されているように、平和を告げる言葉ではなく、イスラエルの罪を宣告する言葉でした。「力と主の霊、正義と勇気に満ち」という箇所は、口語訳聖書では「主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされ」と訳されています。こちらの方が、預言者ミカの立場と姿勢、民から嫌われる言葉をあえて告げざるを得ない、しかし語ることができるミカの力の源を、より明らかにしています。神様の厳しい言葉をミカは「主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされ」ることによって、語ることができました。主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされたミカは語ります。「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者達よ」政治的指導者、宗教的指導者に向かって、ミカは語ります。彼らは「正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを、不正をもってエルサレムを建てる者達」でした。律法に聞き従わず、自らの欲望を満たすために公義を曲げ、圧政や過重な債務の取り立てなどによって、社会的弱者を虐げていました。一部の有力者、富裕な者の繁栄の陰に、多くの貧しい人々の血が流され、神の平和の町であるべきエルサレムが、不正の上に建てられていました。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者達は金を取って託宣を告げる」公正であるべき裁判が賄賂によって行われ、宗教的指導者である祭司も預言者も、金銭によって動いていました。そのように律法に背き、不正を行いながらも、彼らは神様を頼りにしていました。自分自身を敬虔な信仰者だと思っていました。彼らは言いました。「主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない」と。彼らは「自分達は神様から選ばれた民であり、自分達の中にこそ神様がおられる。だから災いが自分達に及ぶことはない」と考えていました。おそらく不正に受け取った利益を神殿にささげ、それをもって自らの信仰を善と見なしていたのでしょう。
偽善者である指導者に向かって、ミカは神様の裁きを告げました。「それゆえ、お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」エルサレムが、アッシリアに滅ばされたサマリアのようになることが告げられました。この神様の裁きを聞いた時、南ユダの王ヒゼキヤとユダの民は、神様に立ち帰りました。エレミヤ書26章には、預言者エレミヤの言葉を聞いた長老が「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか」と、民の全会衆に向かって言ったことが記されています。列王記下18章に、ヒゼキヤは「父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、主に寄り頼んだ」と記されていましたが、おそらく預言者ミカの言葉を聞くことによって、彼は神様を畏れ、父アハズの道を離れ、神様の恵みを祈り求める者へと変えられたと考えられます。結果としてヒゼキヤの時代、南ユダ王国はアッシリアの攻撃を受けながらも滅びることなく、立ち続けることができました。この事実は100年後のエレミヤの時代にまで、しっかりと語り継がれていたのです。
そしてイスラエルが神の宝の民、神の聖なる民であったように、私達キリスト者も神の宝の民、神の聖なる民として、神様から選ばれた民であり、教会は神様から選ばれた者の群れです。選ばれた群れとして、私達には主イエス・キリストの血によって立てられた新しい契約が与えられ、使命が委ねられています。人間的思い・欲望・罪が満ちている地上にあって、神様から与えられた契約の中に生き、神様を畏れ、神様の御心に従って歩み、神様の御栄光を世に現す使命です。人間的な思いからすれば、その使命に生きる道は、決して容易な道ではありません。けれどもミカがそうであったように、私達は「主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされた」群れです。さらにミカの時代とは異なり、私達には、神様の御言葉を記した聖書が与えられ、神様の御言葉そのものである主イエス・キリストが明らかにされています。
最後の晩餐の後、イエス様はペトロに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力付けてやりなさい」と言われました。するとペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えました。それに対しイエス様は「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、3度、私を知らないと言うだろう」と言われました。その御言葉どおり、大祭司の中庭で、女中を初めとして3人の者から「お前もあの連中の仲間だ」と言われた時、ペトロは3度「いや、そうではない」と否定しました。3度目の否定が終わらないうちに、鶏が鳴きました。イエス様は振り向いてペトロを見つめられ、彼は、イエス様の言葉を思い出して、激しく泣きました。そのようにイエス様を否定したペトロでしたが、主イエスが復活されて50日目、主イエスが約束された聖霊が、弟子達の群れに降り、聖霊に満たされた時、彼は他の弟子達と共に立って、声を張り上げて「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けて下さい」と話し始めました。そして「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と証することができました。ペトロも、主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされて、主イエスを証することができました。同じ主の御霊が、私達の上にも働かれています。「イエスは主なり」2000年前から証され続けてきた、この真実を現代にあって証する群れとして、この瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。

07/08/19 神の愛から引き離せない T

神の愛から引き離せない
2007/08/19
ローマの信徒への手紙8:31~39
 日本は62回目の敗戦記念日を迎えました。300万人以上の犠牲者の血で贖われた日本の平和は危機に瀕しています。戦後レジームからの脱却が平和憲法改正を意味するのならば、首相は歴史の教訓を学んでいないことになります。
 自衛権が国際法では認められていると主張されますが、自衛を宣言さえすれば戦争を合法化できるだけです。先の戦争も自衛戦争でしたから国際法違反ではありません。大使館のミスにより宣戦布告が遅れたのが国際法違反なのです。
 平和に対する罪、人道に対する罪はマッカーサーの指令に基づく事後法であり、当時は国際法違反ではありません。国際社会は戦争そのものを否定したことはありません。国連も安保理決議による武力制裁を認めているくらいです。
 世界平和は全く別の次元から追求されなくてはなりませんが、平和憲法を遵守すれば平和を保てるということではありません。国土を防衛できるだけの自衛力、自衛隊は必要なのですが、集団的自衛権は日本を戦争に巻き込みます。
 日本はアメリカの核の傘に守られていますが、日米同盟を集団自衛権行使まで発展させる必要はありません。日本を直接侵略できるのは中国、ロシアでしょうが、日本には資源がありませんから費用対効果を考えれば割に合いません。
 北朝鮮には不完全な核兵器しかありませんから、日本を攻撃することは不可能です。核ミサイルを完成させるだけの技術、国力もないと思われます。いずれにしろ仮想敵国が日本の防衛圏を侵して本土に上陸するのは不可能です。
 永世中立国スイスはハリネズミ戦法ですが、日本も世界有数の防衛力を備えていますから、自衛に専念すれば安全保障上の問題はありません。普通の国のようになるという主張は自衛戦争を認めることになり、むしろ危険です。
 戦争は人間を狂気の世界に引き込みますから、日本軍が働いた乱暴狼藉は事実でしょう。戦場では人間の脳は正常に機能しないからです。理性、知性を司る前頭葉が貧血状態を起こし、むき出しの本能に支配されてしまうからです。
 兵士だけではなく将校までも血に酔ってしまいます。大本営の参謀さえも正常な判断力を失いました。玉砕、神風特攻隊などで有為の人材を失わせました。国土が焦土と化す前、原爆が落とされる前に日本を降伏させられませんでした。
 日本にはヒットラーのような独裁者はいませんでした。戦況を把握していたのは天皇だけです。東条英機もアメリカが造り上げた虚像です。戦争責任を問われるだけの人間がいないのにも拘わらず戦争に突入し、国を滅ぼしたのです。
 アジアへの侵略は政府の不拡大宣言を無視した前線の司令官が訓令を無視し、暴走したからです。参謀本部は司令官を解任するのではなく、暴走を追認しました。泥縄式に戦線が拡大したのです。日本人の組織の持つ構造的な欠陥です。
 現在の官僚システムも同じ欠陥を抱えていますから、平和憲法の歯止めを失ったら同じ失敗を繰り返しかねません。憲法の制約に従い、国際貢献も後方支援に止めるべきですし、正当防衛以外の交戦が禁じられるくらいが適当です。
 パウロの私たちのために御子をさえ惜しまず死に渡された方とした表現は、ユダヤ人にイサクの奉献、アブラハムが息子イサクを犠牲として献げようとした場面を連想させました。イサクが神のために独り子すら惜しまなかったことを思い出させたのです。神の真実を具体的なイメージを用いて表現したのです。
 パウロは人を無罪とできるのは神だけですから、誰も私たちを裁くことはできません。私たちの信仰は十字架で死なれ、復活なされたキリストにありますから、裁き主はキリストであると主張しているのです。裁き主は神の右に座り、私たちのために執り成して下さいますから、人間は無罪とされるからです。
 34節は使徒信条と主の死、復活、神の右に座わるが同じですが、裁くが執り成すとされている点で異なります。初代教会の信仰は裁き主を罪を宣告する裁判官兼検察官の側面を強調していますが、パウロは罪を執り成す弁護者の側面を強調しています。パウロはキリストの無条件の愛を体験したからです。ダマスコ途上で彼の前に現れた復活の主はキリスト者を迫害してきたパウロの過去を問い質されませんでした。主はパウロの過去を赦されたのです。パウロはキリストを迫害する者からキリストを宣べ伝える者へと変えられたからです。
 パウロはファリサイ派のラビでしたから、律法により主の名を汚す者は石打の刑にしなければならないと確信していました。パウロは唯一の神の代理人、ラビとして裁判官の義務を果たしたのです。パウロが脅迫、殺害の息を弾ませながら主の弟子を探し求めていた姿は悪魔、サターンを連想させるものでしたが、主は赦されたのです。パウロはキリストの愛と恵みを体験したのです。
 艱難、苦悩、危険もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないがパウロの信仰です。いかなる天変地異が起きたとしても、私たちはキリストと共に安らぐことができるからです。この世のいかなる災難も人をキリストから引き離すことはできません。むしろ私たちをキリストに近づけさせるからです。私たちはキリストと共に生き、キリストと共に死に、キリストと共に甦ります。キリスト者には死は終わりではなく、天国に至る永遠の命の始まりだからです。
 パウロは現在のもの、未来のものについて語っています。ユダヤ人も現在と来るべき時代とに分けて考えていますが、唯一の神が遣わされるメシアはユダヤ人中心の世界をこの世に実現する覇権者、力の王、ダビデ王の再来でした。
 その他(ヘテロス)は異なったという意味を持ちますから、パウロはローマ世界とは異なった世界が出現したとしても、あなた方は安全であり、神の愛に取り囲まれていると宣言しているのです。この手紙の書かれた直後、紀元70年にはエルサレムは陥落しました。エルサレム教会は地上から消滅したのです。
 パウロはエルサレム陥落を預言したのではありませんが、時代の動きには敏感でした。パウロの元には各地の教会から情報が集まっていたからです。パウロの伝道は信仰におおらかなローマ法によりユダヤ人の迫害から守られましたが、やがて教会にも逆風が吹くことをパウロは予想していたのでしょう。キリストの愛から引き離す艱難、苦難、危険は内なる世界、個人の問題に限定されるのではなく、外なる世界、教会の問題へと拡大していくからです。しかし、パウロは何ものも私たちを神の愛から引き離せないと宣言しているのです。
 ラビ、パウロは脅迫、殺害の息を弾ませながらキリスト者を探し求めていました。エルサレムでは飽きたらず、ダマスコへ向かいました。大祭司からダマスコの諸会堂にあてた委任状を持参していました。キリスト者を逮捕し、エルサレムに連行するためでした。パウロはユダヤ教原理主義のラビでした。大祭司公認のキリスト者狩りのリーダーでした。暴力を用いて主を迫害したのです。
 ところがダマスコに近づいた時、突然「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける主の声を聞いたのです。パウロは目が見えなくなり、三日三晩暗闇の中を彷徨いました。アナニアがパウロの元へきますと、目から鱗が落ち、見えるようになりました。パウロは悔い改め、洗礼を受けましたが、アラビアに退きました。バルナバがパウロを捜しにタルソスまで行き、アンティオキア教会に呼び戻したのです。パウロは福音伝道者に変えられたのです。
 パウロは艱難、迫害、危険を経験しましたが、キリスト者に艱難、迫害、危険も与えてきたのです。キリストを迫害する立場から迫害されるキリスト者の姿を見てきたのです。いかなる迫害もキリスト者をキリストの愛から引き離すことができないのを体験したのです。大祭司の権威、権力もいと小さき者の信仰に対し、全く無力だったからです。殺害の息を弾ましていたパウロには見えなかった信仰の力でしたが、悔い改めの経験がパウロの目を開かせたのです。
 パウロが経験してきた艱難は私たちの想像を超えますが、パウロに迫害されたキリスト者の姿は想像できます。キリスト者は異端者でしたから、律法によれば石打の刑です。監禁、拷問、虐殺は日常茶飯事だったでしょうが、名もない信徒が信仰を守り通したのです。ユダヤ人のキリスト者に対する憎悪は律法に基づいています。異なる神を礼拝する者が民の中から出れば、唯一の主が怒られるからです。ローマに支配されていたユダヤ人は主が怒られていると感じていました。ユダヤ人は主の名を汚す者、異端者に敏感に反応したのでしょう。
 パウロはユダヤ人の理解できない世界、主の十字架と復活により開かれた永遠の命に至る世界を示したのです。ユダヤ人がメシアに求めたのはこの世の力、権力でしたが、キリストが示されたのは真実の愛と恵みでした。艱難、苦難、危険を乗り越えさせるのは力ではなく、愛と恵みであることを示したのです。
 現実の世界は力が支配していますが、未来の世界を支配するのは神の愛です。パウロは生まれる前から主に選ばれた人であったのでしょう。パウロはユダヤ人であると共にローマ市民でした。ローマとユダヤとの二重国籍者でしたし、バイリンガル、ギリシア語とヘブライ語の二カ国語を母国語としていました。エルサレムの高名なラビ、ガマリエルの門下生でした。キリスト者を迫害する時に見せたような類い希な行動力を備えていました。パウロの知性、理性、感性は突出していました。各地の教会を結びつけた統率力も傑出していました。
 しかしパウロが誇ったのは自らの弱さでした。パウロの肉体にはトゲが与えられていました。パウロはトゲが与える痛みを拷問台での痛みに例えていますが、サタンから彼が思い上がらないように送られた使いだと表現しています。パウロは拷問台で苦しみながらも信仰を証したキリスト者の姿を思い浮かべました。主がいわれた私の恵みはあなたに対して十分であるが理解できました。
 キリストの愛から私たちを引き離す力、艱難は個人の力に比べれば余りにも大きすぎます。パウロの奨めは異次元の世界での出来事のように思えます。私たちはマザーテレサやガンジーになれませんが、ユダヤ人から正義の人の称号を贈られたシンドラーにはなれるかもしれないと思いました。シンドラーはドイツの諜報員としてポーランドで働きました。食いしんぼーで女たらしの闇屋、ブローカーでした。ナチス党員の立場を利用してユダヤ人のホーロー工場をただ同然で手に入れ、ユダヤ人の熟練工を酷使し、生活用品を生産しました。
 ユダヤ人を搾取する典型的な事業家でしたが、ユダヤ人が迫害され、虐殺されるのを見ているうちにユダヤ人を救う側に回ったのです。カトリックの信者でしたが、信仰深い信徒でもありません。戦況が悪化し、ユダヤ人は強制収容所に収容されましたが、シンドラーは1200人のユダヤ人従業員を工場ごと故郷のチェコに移転させるのに成功しました。女性、子供が間違えてアウシュビッツに輸送されたのを救い出しました。賄賂を有効に使ったからです。シンドラーは聖人君主ではなく、英雄豪傑でもありません。むしろ闇の世界でしか生きられない人間でしたが、結果として多くのユダヤ人の命を救いました。事の成り行きに任せている内に引き返せられなくなったようにも感じられました。
 シンドラーにはユダヤ人は使い切れないような財産を生み出す玉手箱でした。最初は卵を産み出す鶏を殺させないようにしただけかもしれませんが、いつの間にか伝説上の人物になってしまったのです。彼の最初の決断はほんの小さな一歩だったかもしれませんが、一歩一歩の積み重ねが大きな差となったのです。
 私たちは平和で自由で物に溢れた日本に住んでいますから、殉教を求められるような事態に出会うとは思えません。日々の生活の中で主の愛と恵みを証しし続けることが求められるだけですから、私たちは主から冷たくもなく熱くもない。むしろ冷たいか熱いか、どちらかであった欲しいといわれかねません。
 私たちの信仰生活でもほんの小さな一歩が大切なのです。私たちはマザーテレサのようになる必要はないのです。マザーは聖職者、シスターですから、信徒とは根本的に違うのです。信徒には信徒の生活があるからです。平凡な日常の生活の中にこそ、主の福音、主の愛と恵みを証し続ける機会があるからです。
 あの人はどこか違うと思っていた人が後からクリスチャンだと分かったという話はよく耳にします。伝道を第一にする信徒もいれば、黙々と奉仕を続ける信徒もいるからですが、どちらも主の目には尊いのだと思われます。印象に残る証しができる人もいれば、印象に残らない証ししかできない人もいます。私たちの目は劇的な悔い改めに向けられがちですが、平凡も非凡の内なのです。
 主が与えられた賜物は様々なのです。弱さが賜物として生かされる人もいれば、強さが主の働き人として生かされる人もいるからです。与えられた賜物以上のことを望まず、与えられた賜物で満足するのも信仰です。主は必要な物を必ず与えておられるのですが、私たちがそれに気づかない場合が多いからです。
 私たちを神から引き離すのは私たち自身の貪りかも知れません。危機には身構えますが、欲望には抵抗しがたいからです。人は欠乏に苦しみますが、満たされ過ぎても我を忘れます。与えられた物に感謝して生きるのが信仰なのです。
 

07/08/12 霊が執り成して下さる T

霊が執り成して下さる
2007/08/12
ローマの信徒への手紙8:26~30
 広島、長崎が62回目の原爆の日を迎えましたが、世界では核拡散が進んでいます。北朝鮮は核実験をしましたし、イランも核開発を進めています。皮肉にも冷戦時代には米ソによる核管理が厳しく核拡散の可能性は低かったようです。
 広島、長崎は核兵器が実戦に使用された最初にして最後のケースであって欲しいのですが、国際的な核の管理体制は綻びを見せ始めています。アメリカの北朝鮮に対する譲歩は核開発がビックビジネスになることを明らかにしました。
 不完全な核実験でも国際社会は無制限に譲歩することを世界に宣伝したのですから、北朝鮮、イランに次ぐ国が出てきても可笑しくありません。投資に見合う報酬が桁違いに大きいからです。核管理の未来は不透明になりました。
 アメリカは小型核兵器に負けないだけの破壊力がある通常兵器を開発し、実戦でも使用しました。キノコ雲を見たテロリストは核攻撃を受けたと思いこんだようですから、アメリカは都市を破壊するための兵器を所有しているのです。
 一方、核兵器がテロリストの手に渡れば彼らは躊躇することなく使用するでしょう。ニューヨーク市からある日突然キノコ雲が上がるかもしれないのです。アメリカはテロ支援国に対して核兵器による報復攻撃をするかもしれません。
 広島、長崎の悲劇が繰り返されないためには、国際的な核管理システムが機能しなければならないのです。そのためにも被爆国である日本において核論議を深め、非核三原則、平和憲法を次の世代に引き継がなければならないのです。
 アメリカでも原爆が投下されなくても日本は無条件降伏していたと主張する学者も増えてきましたが、大多数のアメリカ人は原爆により100万人の人命を救えたから正しいと信じているようです。日米の感覚の差は歴然としています。
 日本が核兵器の開発に成功していたら、躊躇することなく実戦で使用していたはずですから、日本が核兵器開発競争に負けただけに過ぎません。アメリカでは制服組からも反対の声が上がったようですから、倫理観が違うのでしょう。
 司令官が新兵器の使用を躊躇すれば軍法会議に掛けられますから、大統領にも原爆以外の選択肢はなかったでしょう。日本は人道の罪、平和の罪により裁かれましたが、東京裁判は敗戦国だけに適用された事後法による裁判でした。
 国際法はヨーロッパの限定された局地戦では守られたルールでしたが、全面戦争、テロでは無視されました。アメリカもベトナム戦争、イスラム戦争では国際法を守られません。ボクシングのルールは喧嘩には通用しないからです。
 日本はアメリカの核の傘に庇護されてきましたから、軍事力を軽視してきました。乳母日傘の日本人は原爆反対を唱えてさえいれば核廃絶が実現するという錯誤に陥っていますが、日本が国際社会に何ができるかを考えるべきです。
 日本は軍事力による国際貢献を求められないためにも平和憲法を歯止めとして活用すべきですが、洋上給油は後方支援ですので許容範囲内だと思います。集団的自衛権には反対です。太平洋戦争も自衛のための戦争であったからです。
 パウロは私たちはどう祈るべきかを知りませんと述べていますが、未来を予知できないからですし、何が最善だか分からないからです。私たちは過去から現在、現在から未来へと続く時の流れの中に生きていますが、私たちが自覚できるのは現在だけです。過去の経験の積み重ねから判断して最善と思われる行動を起こすのですが、結果がどうなるかは「神のみぞ知る」としかいえません。
 私たちにとって何が最善なのかも分かりません。パウロは私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれると証していますが、パウロは艱難の中でこそ生ける主の力が顕されることを知ったからです。パウロの弱さ、マイナスが主の力により強さ、プラスに逆転されたからです。
 神と人間との関係は親子に似ています。父親と子供の見る世界は違います。父親は子供がいかに欲しがっても、与えない場合もありますし、嫌がることを無理にさせることもあります。父親には子供に必要なもの、必要なことが分かるからです。躾をされなかった子供はむしろ不幸な人生を歩むといえます。
 私たちには真に必要なものも分かりませんし、神の計画も分からないのです。私たちには”霊”自らが言葉に表せない呻きをもって執り成して下さることを信じるしかないのですが、パウロには艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出し、希望は失望に終わることはないという確信がありました。神を愛する者たち、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるからです。
 さらにパウロは神は前もって知っておられた者たちを予め定められましたという表現を使っていますが、論理的な表現として理解すべきではありません。むしろ詩的な表現として理解すべきです。”私”が救われたのは神により予め定められていたと理解するのはよいのですが、予定説、「神はある者を選び、ある者を選ばれない」はユダヤの選民思想の焼き直しのように思えるからです。
 私たちが救われたのは私たちの側に救われるのに値する功績があったからではありません。救いの御業、主の十字架と復活は神からの一方的な憐れみによるからです。私たちは御子の姿に似た者として復活に与り、永遠の命に至ることが赦されるのです。主は総ての人の罪を贖うために十字架に付かれからです。
 主がこの世に来られ、生き、十字架にかかり、甦られたのは神の働きです。このくすしき物語は神が造られたのであり、私たちはそれを受容しただけなのです。神の愛が我々の心を目覚めさせ、罪の自覚を生じさせたから、罪の赦しと救いの体験が起きるのです。成就させたのは私たちではなく、神なのです。
 聖書が神が人を知ると語る時は、神がその人に対して目的、計画、構想、課題を持っておられることを意味します。神に知られた私たちが言えるのは「私たちがこれをなしたのではない、神がなされたのである」ということだけです。
 人間には二つの道が用意されています。神に向かう道、救いへの道と神から離れる道、滅びへの道です。どちらを選ぶかは自由意志に任されています。イスラエルは神から選ばれた民でしたが、神からの召しを拒否しました。主の福音を拒否し、人生を思いのままに歩み続けるのも自由ですが、キリスト者には「自分は何もしなかった、神が総てをなされた」という深い体験があるのです。神は時の初めから私たちを選び出され、時が至り使命を与えられるのです。
 主の選びは時と場所とを選びません。6年前のある日、突然主は私を癒されました。夢の世界が現実とされたのです。私の脳は機能を回復し始めました。主治医からSSRIのルボックスから同じSSRIのパキシルへ変えることを奨められましたが、オレンジジュースの原料がミカンからオレンジに変わえる程度にしか思っていませんでした。毎週2、3回は抗うつ剤の点滴を受けていたのですが、受ける必要がなくなりました。躁になったのかもしれないと思いましたが、主治医はカルテを開き、処方箋に書かれているパキシルを指さしました。
 パキシルにより脳の機能が回復されたのを知らされた一瞬でしたが、パキシルが私のように効いた患者は少ないようでした。35年間、鬱病の世界に生きてきたのですから、鬱病の世界で死を迎えると思っていました。それ以外の世界で生きることは想定していませんでしたから、最初は違和感を覚えました。
 説教、祈祷会、家庭集会以外の時間は寝たり起きたりでしたから、時間の使い方が分かりませんでした。新聞すら読めなかったのですが、先ずインターネットを使い、朝日、読売、毎日、日経、産経新聞を読み始めました。図書館からは十津川警部、浅見光彦などを借りてくるようになりました。現在は専門書も読みこなせるようになりました。読破した本は1000冊を超えると思います。
 去年から原稿用紙3枚分に相当するブログを毎日インターネットで公開しています。読むことから書くことへとレベルアップをしたのです。さらに糖尿病用の運動器具、乗馬を購入しました。鞍の上で1時間は揺られていますが、その間に新旧約聖書の通読をしています。散歩は毎日3.5kmをしています。15年以上休むことなく続けています。毎日を規則正しく送るようにしています。
 6年前の私を知っている人には現在の私は別人のように見えると思います。死人のように生気がなく、鈍い反応しかできずにボーと突っ立ていた人間が生気に満ちあふれています。現代医学の進歩が新しい薬を開発させ、それが私の体質に合ったのは単なる偶然ですが、神による必然と考えるのが信仰なのです。
 神様が私の体質に合った薬を下さったのは、私に新しい使命を与えられたからです。新しい使命が何かは具体的に示されていませんが、僕聞きますの姿勢、信仰が必要なのです。神様は躁鬱病でアル中である私を選び出されました。最初はアル中からの回復者として召し出されましたが、これからは躁鬱病からの回復者として新しい使命が与えられるのかもしれません。私はいつでも主の召しに応じられるだけの準備、心身、脳のリハビリが必要なのだと思いました。
 東神大に在学中に献身について真剣に考えたときがありました。内科医から統計学的には50歳までの命だといわれました。私は50歳までは生きられないと思っていましたが、献身は主に身も心も献げることである考えなおしました。効果があるのかは分かりませんでしたが、20kgのダイエットに取り組みました。夏期伝で高知教会に帰った時には悪い病気かと疑われたくらいでした。
 私たちには主から与えられた体を適正に維持、管理をする義務がありますが、それ以上は主の領域です。体に気をつけていても病気になることはありますし、障害者になることもありますが、主の選びは健康な者に限るのではありません。むしろ弱さにこそ主の選びがあり、弱いからこそ強い場合もあるからです。
 神の見られるところは人の見るところとは異なるのです。主の選びは人間の想いを超えているからです。人間の考える才能、能力と神が与えられた賜物とは本質的に異なるからです。人間はプラスに評価されるものしか見ませんが、神にはマイナスにしか評価されないものをプラスにする力があるからです。
 主に召された者には万事が益となるように働きますが、それを確信できるだけの信仰が必要なのです。私たちは確信を持って行ったことが期待はずれに終わることをしばしば経験しますが、予想外の果実を得られることも経験します。結果オーライを受け入れるためには、現実を受容する信仰が求められるのです。
 パウロは様々な艱難に出会いましたが、信仰が揺らいだことはありません。パウロの信仰が揺らいだのはダマスコの途上で復活の主に出会った時です。ファリサイ派のラビ、パウロは大祭司の秘密警察のボスでした。彼は血と汗の臭いを滴らせながらキリスト者を探し出し、投獄し、拷問し、殺害したからです。パウロは主に出会い、三日三晩暗黒の中を彷徨いました。悔い改めた後もアラビアに引きこもりました。パウロは生ける主との対話の時を必要としたのです。パウロはキリストを迫害する者からキリストを宣べ伝える者へ変えられました。
 パウロが再び聖書に登場した時には、彼は生まれ変わっていました。パウロの信仰により義とされる教えは割礼と律法の束縛から逃れられない初代教会に自由をもたらしました。割礼と律法に拘るエルサレム教会は紀元70年のエルサレム陥落により滅びましたが、異邦人教会、自由主義教会は立ち続けました。
 パウロの伝道旅行は福音をアジアからヨーロッパへもたらしました。ヨーロッパに主の教会が建てられたのです。主の世界宣教命令を現実化させたのです。パウロは世界各地にある教会へ手紙を書き送りました。パウロの手紙、手書きのコピーは各地の教会に回覧されました。それらが聖書として残されたのです。
 パウロは彼の人生を振り返りながら、万事が益となると証しているのです。主は主に敵対していたパウロさえ召し出されました。神の選びの不思議さはパウロの実感です。パウロは論理ではなく体験から解き明かしをしているのです。
 パウロの手紙は論理的に書かれていますが、論理に飛躍が見られます。神は人間の論理の枠外だからです。真理は科学、哲学、神学では異なります。神学では神が真理ですが、科学は客観的な真理、哲学は主観的な真理を求めます。
 ユダヤ人。パウロの論理の飛躍は主の十字架です。メシアはユダヤ人の国を造る王、ダビデの再来のはずでしたが、十字架で死なれました。神に呪われた死を遂げられたのです。ユダヤ人には人間の罪を贖うための死、犠牲の死であることが信じらませんでしたが、パウロは信じられように変えられたのです。
 ファリサイ派は死者の復活を信じていましたが、復活の主から声を掛けられたのは衝撃でした。パウロは主から直接召し出されたのです。使徒は主から直接教えを受けた人を意味しますが、パウロは復活の主から使徒に任命されたと主張しています。パウロは復活を人から聞いたのではなく、自らの体験でした。
 ローマ人への手紙はパウロの神学論文だといわれますが、信仰の証しでもあるのです。パウロの証しをロゴス化、言葉化したのがこの手紙です。この手紙は現実の世界から論理の世界へ止揚され、また現実の世界へ戻っているのです。
 

07/07/22 神の子とされる T

神の子とされる
2007/07/22
ローマの信徒への手紙8:18~25
新潟県中越沖地震は3年前の中越地震の教訓が生かされ、緊急体制が比較的早く敷かれましたが、インフラの復旧には課題を残しました。1000人の負傷者、1万人を超す被災者が避難所生活を強いられている現状には心が痛みます。
中越地震までは自衛隊に緊急出動を要請するのが政治的な意図から遅れましたが、緊急出動が直ちに行える体制に移行した成果が表れました。地震当日の夕食から自衛隊が給食任務に就いたのは初めてのケースではないでしょうか。
神戸震災の時にも自衛隊の活動には目覚ましいものがありましたが、政治的な判断が遅れ、緊急出動が遅れました。中越地震でも自衛隊の出動を要請するのに手間取りました。その点では国の危機管理が一歩前進したと思えました。
政府、自治体の支援体制が随分スムーズに行われるようになりましたが、東京電力の危機管理能力のなさには驚かされました。原電の事故隠しによる信用失墜が教訓として受け継がれておらず、危機管理体制の甘さが露見しました。
柏崎市から原電の運用停止を命じられたのは、原電の危機管理体制に対する不信任状です。原電と地元自治体との蜜月関係は事故隠しから綻び始めましたが、今回の地震により原電の設計にまで不審の目が向けられ、破綻しました。
原電から黒煙が2時間も上がり続ければ、地元の人たちの不安はいかばかりであったでしょうか。東電の首脳陣には地元住民を配慮する姿勢が見られず、お金次第でどうにでもなる人、地獄の沙汰も金次第と思っていたのでしょう。
原電の事故隠しでは東電は数千億単位の欠損を出したはずですし、プルサーマル計画も延期されました。今回の事故により原電は数年単位で稼働を停止せざるを得ないでしょうし、株主総会では経営責任を厳しく追及されるでしょう。
東電はコンプライアンスに構造的な問題を抱えています。独占事業に安住し、官僚主義が蔓延しているからです。経営陣自らが責任逃れ、問題の先送りをしているからです。事故隠しが発覚した時にも首脳陣が責任を回避したからです。
トップが責任をとらない組織は腐敗します。下は上を見習うからです。雪印乳業、日興證券でさえも市場から退場させられた時代にトップが平然と口を拭えるのは独占企業だからです。モラルハザードは社会保険庁と同じレベルです。
電力会社には原電を安全に稼働させる社会的な責任があります。一企業の利益よりも国益が優先するからです。独占が許されるのは国益に適う場合だけであり、独占を経営陣の保身、企業の利益追求に利用するのは許されません。
電力会社べったりの経産省もさすがに国民の目が気になったようです。参議院選の票の行方は政府の危機管理能力、東電に課するペナルティーに左右されるからです。電力会社の管理能力に対して国民は不信感を抱いているからです。
地球温暖化対策、炭酸ガスの排出量削減の切り札は原子力ですから、電力会社の管理能力の欠如は国家的、地球的な問題です。原電を海外に売り込んでいますが、維持管理のノーハウがなければ輸出できる目処も立たないからです。
 ユダヤ人は歴史を主の日を境にして二つの時代に分けて考えていました。現在生活している時代、今の時代は主の日、裁きの日に刷新され、新しい時代が始まると考えていたのです。預言者イザヤが『(創造主が)見よ、私は新しい天と新しい地を創造する』と預言してるからです。ユダヤ人、パウロには『現在の苦しみは将来、(主の日に)現わされるはずの栄光に比べると取るに足りない』と思えるのです。現在は罪、死、滅びが蔓延する世界ですが、主の日、終わりの日には世界が根底から揺り動かされ、罪の世界が打ち砕かれるのです。
 被造物、自然界も人間が神の子、神の家族の養子とされる時を切に待ち望んでいるのです。パウロはアポカロドキアというギリシア語を用いて、地平線上に太陽が昇ろうとする直前の曙光、最初の兆しを観察している人の姿を描き出しています。太陽の昇り始める直前まで暗黒が世界を支配しいるのですが、創造主は太陽、救い主イエス・キリストをこの世に遣わされることにより、暗黒の世界に太陽を昇らせ、暗黒の世界を白日に晒される世界に変えられたのです。
 アダムの犯した罪により『土は呪われるものとなった』のですが、創造主、唯一の神は被造物が滅びへの道から解放される日、自由に与れる日、神の子が栄光に輝く日を用意なされていたのです。被造物が今日まで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっているように、霊の初穂をいただいている人間も神の子とされること、体が贖われることを心の中で呻きながら待ち望んでいるからです。
 パウロはユダヤ人の描く終わりの日のイメージをなぞりながらも、終わりの日以後のイメージが決定的に違うことを明らかにしています。ユダヤ人が待ち望んでいた救い主メシアはこの世の王、ダビデ王の再臨でした。ユダヤ人を武力によりローマの支配から解放する救い主メシアでした。ユダヤ人が中心となる世界、ユダヤ人の憧れ、ダビデ・ソロモン王朝を復興するメシアでした。
 ユダヤから預言者の声が絶えてから既に400年間が経ちました。ユダヤの支配者は次から次へと代わり、現在はローマの支配を受けています。ユダヤ人は日々の生活が苦しければ苦しいほどメシアを激しく待ち望んだのです。イエス様の時代にはメシア運動が盛んになり、自称メシアがローマに対しテロやゲリラを仕掛けたりしましたが、ローマの支配を打ち破ることはできませんでした。
 イエス様はメシアとして民衆の期待を集めました。民衆はイエス様こそユダヤ人をローマの支配から解放してくれる救い主、メシアだと思いましたが、十字架刑であっけなく死なれました。ユダヤ人には『木に掛けられた者は呪われよ』ですから、イエス様はメシアではあり得ませんでしたが、主を信じる者には主の十字架は罪の赦し、贖いの象徴でした。主は私たち人間の罪をその身に負って下さったからです。主は私たちの罪の身代わり、罪の贖いとして十字架刑を受けられたのです。イエス様の十字架により新しい世界が拓かれたのです。
 見えるもの、現実の世界に対する希望は主を信じる者の希望ではありません。私たちは主を信じることにより既に救われていますが、主が再び地上に来られる日、主が再臨なさる日、主の日には生ける主と顔と顔とを合わせることができるのです。私たちの希望はユダヤ人が待ち望んだようなメシア、この世の王にあるのではありません。永遠の命を与えてくださる生ける主にあるのです。
 「贖う」は「買い戻す」とも訳されます。ルツ記ではモアブ人のルツがユダヤ人、ナオミの息子の嫁となりましたが、ナオミは、夫、息子にも先立たれました。ナオミがユダに帰るのにルツもついて行きました。ナオミの夫の親戚ボアズがルツを「買い戻し」、嫁にしました。「ゴーエール」、「買い戻しの権利がある親類」は「贖い主」を意味します。権利のある親戚が失ったものを「買い戻す」、ボアズが夫が死んで寡婦であるルツの失った権利を買い戻し、妻としたのです。エジプトの奴隷の労役からユダヤ人を贖い出されたのが出エジプトの御業です。
 新約聖書では「買い戻す」に加えて「買い取る」と言う言葉も「贖う」と言う意味で使われています。神様が人間の罪を御子の命を贖い代、代金にして買い取られたのです。神様の贖い代は無限であり、人間の罪の贖い代は有限だからです。
 人間は神様の前では無罪であることを主張できません。アダムとエバが神様から食べるのを禁じられていた木の実、禁断の木の実を食べたのが人間の罪の始まり、原罪です。原罪は人間が神様に対して不従順な存在であることを示しています。人間は神様中心の世界よりも、自己中心の世界を求めるからです。
 人間が罪を自覚できなければ、主の十字架の意味も理解できません。病的に罪を自覚できない人もいますが、多くの人には罪を自覚する機会があると思います。キリスト教で罪と表現されるのは、この世の罪、六法全書に反する罪ではありません。神様と人間との関係を損なうのがキリスト教で言われる罪です。
 律法は神様の栄光を現すためにユダヤ人に与えられたものでした。唯一なる神、主がアブラハムを選び出し、アブラハムは主に従ったのです。アブラハムを祝福の基とされ、アブラハムの子孫、イスラエル民族、ユダヤ人を神の民とされたのです。唯一の神とユダヤ人との間に契約が結ばれたのです。唯一の神ヤーウェはユダヤ人を主に選ばれた民、選民なとされ、彼らの主となられたのです。ユダヤ人は主の民の徴として割礼、律法を守ることを主に誓ったのです。
 律法は主の民としての義務であり、律法の目的は主の栄光を現すことでしたが、ユダヤ人には律法を守ることが目的になり、主の栄光を軽んじるようになりました。律法を守ることが目的化し、律法が一人歩きを始めたのです。形式的な律法に囚われるユダヤ人は律法主義、形を変えた偶像礼拝に陥りました。
 預言者がユダヤから400年間途絶えた後にバプテスマのヨハネが登場しました。『悔い改めよ。天の国は近づいた』、民に悔い改めを迫り、悔い改めのバプテスマを施しました。ヨハネが捕らえられた後、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』、イエス様は福音を宣べ伝えられました。
 「悔い改める」とは180度方向転換することを意味します。自分の想いに従って歩んでいる方向を神様に向かって歩む方向へと180度方向転換することを悔い改める言います。自己中心の生活から神様中心の生活へと改めるのです。
 罪を悔い改めれば主が罪を負って下さります。ユダヤ人は犠牲を神様に献げることにより罪を贖おうとしましたが、犠牲は人間の罪を贖うだけの贖い代に相当しません。人間の方が犠牲よりも遙かに価値があるからですが、イエス様、神様の御子の血は人間とは比べものになりません。御子の血は何回も献げられる犠牲の血とは違い、たった一回だけ献げられれば必要にして十分なのです。
 日本人がキリスト者に感じる違和感は「罪」という概念でしょう。自らを罪人と表現するキリスト者を理解できないからです。日本人には煩悩、除夜の鐘で除去する百八の煩悩の方が分かりやすいでしょうが、煩悩と罪への誘惑は比較的近い意味を持つかもしれません。しかし罪は三位一体の神との関係が崩れることを意味しますから、仏教的な煩悩や悟りの世界とは根本的に異なります。
 日本人には道徳の方が馴染みやすでしょうが、日本的道徳観と西洋的な道徳観とは根本的に異なります。江戸時代は論語、戦前は修身が日本人の道徳感を育んできましたから、儒教、朱子学の「忠、孝」が日本的道徳の中核になります。時代遅れかも知れませんが、主君には忠、両親には孝が基準なのです。
 一方、キリスト者の基準は生ける主です。主の前で正しいか、正しくないかが判断の基準になります。西洋にも忠、孝に相当する徳目はありますが、絶対者はあくまでも生ける主です。教会の歴史を振り返れば、ローマ法王が主の代理人であった時代から、プロテスタント教会が宗教改革三原則『信仰のみ、聖書のみ、万人祭司』に立脚し、法王の権威を否定する時代へと変わりました。
 時代の流れと共に、プロテスタント教会の教派も盛衰を繰り返していますが、絶対者、生ける主を信じる点においては変わりません。キリストの十字架による贖いの死と復活の命を信じる点においては代々の教会は変わらないのです。この世での生活よりも永遠の命への希望に生きるのがクリスチャンだからです。 私たちは神の子、神の養子とされているのですから神の国の相続人なのです。『私たちの国籍は天にある』のです。地上での生活を無視するわけではありませんが、神の国を待ち望んで生きなくてはならないからです。『目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです』と奨められているからです。
 パウロは艱難に遭遇した人生を振り返りながら『艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す。そして希望は失望に終わることはない』と証しています。パウロの人生は人間の絶えうる限界を超えていたように思われますが、主にある楽観主義が彼を支えていました。パウロの視線の向こうにはいつも復活の主がおられました。現在の艱難は主の日に報われると確信していたのです。
 私たちもパウロのような主にある楽観主義を持ちましょう。一人一人が抱えている問題は様々ですが、主が再臨なされる日には神の子とされるからです。主は信仰を持たない家族も御許に招いてくださるでしょう。神の国では私たちはこの世の姿とは異なる姿をとるのでしょうが、時間、空間を超越した存在に変えられるのでしょう。安芸教会の西澤長老はダンテの神曲の翻訳本を出版されていますが、天国でダンテと話ができるのを楽しみにしておられるそうです。
 誰にでも死は公平に訪れます。死を迎える体勢を生きている間に整えておかなければなりません。死期を迎えている人にも不必要な延命治療を施し、一分一秒でも生き長らえさせるのが日本の医療システムだからです。延命治療を望まないことを書類に明記しておかなければ、緩和治療、尊厳死を迎えらません。
 私たちは神の国へ移される日を待ち望みながら、主から与えられた生を主に召された者に相応しく生きることが大切です。私たちには神の国をこの地上に拡げる義務がありますが、それに必要な行動力も主が与えられるからです。
 

07/07/15 神の相続人 T

神の相続人
2007/07/15
ローマの信徒への手紙8:12~17
 久間元防衛大臣の原爆投下に対する「しょうがない」発言はマスコミ、平和運動家からの激しいパッシングに会いましたが、敗戦国日本が「勝てば官軍」である戦勝国の不条理を受け入れるためにはそう思わざるを得ませんでした。
久間氏の発言はアメリカが対ソ連戦略のために原爆を投下した結果、ソ連から侵略を受けることもなく敗戦を迎えられ、日本が南北に分割されることはなかったというものです。団塊の世代までには常識的な歴史認識だと思います。
「しょうがない」発言には敗戦国の悲哀が感じられましたが、久間パッシングは敗戦の事実を抜きにした道徳論、倫理観です。最大の戦争犯罪は負ける戦争を始めたことにあります。原爆の責任も当時の指導者に帰すると思います。
イギリスの哲学者、グレインはイギリスがヨーロッパで行った地域爆撃、無差別爆撃を戦争犯罪である主張しています。ヨーロッパではアメリカの石油施設、軍事施設、インフラなどへの精密爆撃の方がドイツを疲弊させたそうです。
地域爆撃は都市住民を無差別に殺戮しましたが、軍事上の成果はあまり上がらなかったそうです。グレインは戦争の目的がたとえ正義に基づくものであれ、民間人の殺戮は明らかな戦争犯罪であり、合理化できないと主張しています。
彼はアメリカ軍による東京大空襲、都市に対する絨毯爆撃、原爆投下も同列に論じています。地域爆撃が勝利を得るための必要不可欠な戦術、戦略ではなく、むしろ精密爆撃の方がより確実で大きな戦果を得られたと主張しています。
原爆も都市中心部に照準を合わせたのは無差別殺人であり、他の手段でも同等の効果を得られたと主張しています。原爆の威力を示すためには、都市部から離れた場所、海上にでも投下すれば効果を示すことはできたはずだからです。
しかし、原爆は2発も投下されました。日本人からすれば明らかな人体実験ですが、敗戦国の身では沈黙せざるを得ませんでした。戦勝国が敗戦国を裁くのですから、戦勝国の戦争犯罪は免責、罪に問われないのが当然だからです。
敗戦国の人間は不条理を感じつつも自らの犯した戦争犯罪を考えれば不条理を合理化する論理を受け入れて「しょうがない」と自嘲せざるをえません。日本がドイツ、朝鮮のように南北に分断されなかったことを喜んだからです。
日本、ドイツでは言論の自由がありませんでしたが、イギリスでは地域爆撃に抗議する運動が宗教界、政界を巻き込んで起こったようです。ドイツ軍の無差別爆撃を受けた住民の方が受けていない住民よりも地域爆撃に反対しました。
都市が破壊される悲劇に遭遇した住民は復讐よりも悲劇が繰り返されないように願いましたが、国民は復讐を願ったようです。空軍は復讐の怨念からか、ドイツを破壊しつくそうとしましたから、イギリスの地域爆撃は戦争犯罪です。
それと同じ論理をアメリカのイラクにおける軍事行動に適用すれば戦争犯罪に問われるものも少なくないでしょうが、テロが想定されていない時代の法であるのも事実です。テロに対する法的、道徳的、倫理的な積み重ねが必要です。
 パウロはローマの信徒へ『兄弟たち、私たちには一つの義務があります』と語りかけています。ローマ市民の義務は祖国を防衛する任務、兵役に就くことでした。やがて兵役の代わりに税金を納めることが普通になってきましたが、祖国のために死を厭わないのがローマ市民です。元老員の議員も兵役に就きました。将軍としてのキャリアを積んだ者しかリーダーには成れなかったのです。
 パウロは兵役、血税が死をイメージするのを思い浮かべながら、肉に従って生きることが死に繋がるのを表現しようとしています。『肉の思いに従う者は罪と死の法則の下にあり、神に敵対し、神の律法に従っていないからですが、霊によって体の仕業を絶ち、肉の誘惑から離れられれば生きられるからです』。
 一方『神の霊に導かれる者は霊の法則の下にあり、皆神の子とされるのです』。キリストを死者の中から復活させられたお方が死ぬはずの体をも生かしてくださるからです。霊の法則の下にいる者は復活の命に与ることができるからです。
 パウロは肉の思いに従う者と霊に導かれる者とをローマの養子制度をイメージしながら説明しています。ローマでは養子にされれば実家との関係はすべて精算されます。債務、借金を相続する必要はなくなりますが、財産も相続できなくなります。血縁関係がなくとも兄弟姉妹とされます。たとえばクラウディス帝がネロに皇位を相続させるために養子にしましたが、血縁関係のない娘オクタヴィアと結婚させるためには元老員の特別立法が必要とされたぐらいです。
 神の霊は人間を罪の法則の下から霊の法則の下へと移したのです。霊は人を肉の奴隷から解放し、神の子とさせたからです。人は神の子供、神の相続人とされたからです。父なる神を『アッバ、父よ』、お父ちゃんと呼ぶことが許されるのです。私たちが神の相続人、キリストと共同の相続人とされたからです。
 パウロは肉に従って生きる世界から霊に従って生きる世界へ養子に出されたイメージを用いて表現しています。信仰を持つことにより法的にも神の子とされるイメージはローマ人には強烈な印象を与えたでしょう。『アッバ、父よ』はユダヤ人の表現ですが、ローマ人にもニュアンスは伝わったはずです。父なる神を実の父親のように表現できる幸いを分かち合うことができたはずです。
 『アッバ、父よ』はユダヤ人だけではなくローマ人にも強い印象を与えました。ローマ人にも父親の権威は絶対だったからです。たとえ皇帝になったとしても、父親には絶対に服従したからです。神の権威は父親のように絶対であると信じられたからですが、父親の愛のように慈愛深いものでもありました。
 キリスト者はこの父なる神の支配の下に移されましたから、キリスト者はこの世の権威に囚われる必要はなかったのですが、自由だからこそ上の権威に従いなさいとパウロは諭したのです。イエス様が再臨なされる日を心待ちにしていたからです。『主が再臨なさる日は近い』が初代教会の信仰でした。主の再臨なさる日が2000年間も先延ばしにされるのを想像だにした者はいません。
 パウロは主の再臨なさる日をわくわくしながら待ち望んでいました。主の養子とされた幸いは復活の望みを確かにし、永遠の命への信仰を確かなものとしました。主イエス・キリストと共に苦しみ、共にその栄光にも与るからです。パウロのイメージは終わりの日に受ける栄光を待ち望むものであったからです。
 『アッバ』はアラム語で子供が父親に呼びかける時に使う言葉です。日本語では「お父ちゃん」というようなニュアンスを持つ幼児語だそうです。ユダヤでもローマでも父親の権威は絶対でした。たとえ成人しても子供は子供でした。口答えなどは絶対に許されなかったそうです。子供を育てるのは母親の役割でした。父親は子育てには無関心、非協力でしたが、子供には厳格でした。
 唯一の神、父なる神は厳格ですが慈愛に満ちた父親のイメージのようです。旧約聖書の世界では唯一なる神ヤーウェは父親のイメージ通りですが、新約聖書の世界になると母親のイメージがついて回ります。カトリックのマリア信仰は母親のイメージを聖母マリアに投影したものでしょう。イエス様にもいつも子供や病人、障害者と共におられた優しいイメージを感じる人が多いでしょう。
 旧約聖書の神は妬む神、裁きの神であり、新約聖書の神は愛する神、無条件で赦してくださる神であると思いこんでいる人は少なくないようですが、旧約聖書の神も新約聖書の神も同じ唯一の神です。旧約聖書の時代には三位一体の神と言う概念はありませんでしたが、唯一の神ヤーウェは父なる神と同じです。
 イスラエル民族は遊牧民族ですから農耕民族の神とは根本的に違いますが、唯一の神はイスラエル民族だけに自らを啓示されたようです。しかしイスラエルの民族は農耕民族の豊饒の神々に惑わされました。偶像礼拝、高きところで捧げる犠牲、バアル礼拝などは豊饒の神々に捧げられたものです。ローマは多神教、多文化、多言語国家でした。初代教会の誕生から300年にも満たないうちにキリスト教化しましたが、豊饒の神々の影響からは脱し切れませんでした。
 日本では八百万の神々が現代でも生きています。天皇が国造り神話から始まる八百万の神々を体現しているのです。日本は農業国ですから豊饒の神々に対する信仰が厚いのです。日本人の思考には唯一の神を信じるキリスト教は馴染みにくいのかもしれません。キリスト教は日本では1%に満たない少数派です。
 豊饒の神々はたくさんの子供を産む母親のイメージですから、父親のイメージを受け入れがたいのでしょう。多神教の文化の中で育ってきた私たちは母親的な神々から父親的な唯一の神に神のイメージを変えなくてはならないのです。ユダヤもローマも父系社会ですから、唯一の神のイメージも父親なのでしょう。
 私たちはその父親の相続人、養子として迎えられたのです。父なる神の相続人として神の国を受け継ぐのですが、主権は父親、父なる神にあるのです。子供としての自由は与えられていますが、父親を超えることはできないのです。父親にも父親として果たすべき義務があります。御子をこの世に遣わされたのは神の憐れみによりますが、人間的に考えれば父親の義務だとも思えます。
 イザヤ書には『私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運ぶ、かつ救う』とありますが、父なる神の創造主としての義務を果たされる決意が記されています。さらに私たちはキリストの苦難、十字架で示された御業にも与っていますから、子なる神、キリストと共に苦しむならば、共にその栄光にも与れるのです。
 少なくともユダヤ人、初代教会の人々は唯一の神に父親のイメージを重ねていたのです。現代ならばセクハラとも言われかねませんが、父親のイメージの唯一の神は母親のイメージの豊饒の神々と歴史を通して争ってきたのです。 
 私たちは神の相続人ですから、神の子なのです。神の国へと招かれているのです。『私たちの国籍は天にある』のです。地上での歩みを終えれば天に帰るのです。地上での歩みは肉に従わざるを得ませんが、霊の働きにより浄められるのです。人間は悪魔にも天使にもなれるからです。戦場での英雄が必ずしも平和な時代の英雄になれないからです。むしろ犯罪者になる場合さえあります。
 イギリスの都市がドイツから無差別爆撃を受けたときにはイギリスの国民は復讐を誓いましたが、被災者はむしろイギリスの報復爆撃、無差別爆撃に反対したそうです。都市が爆撃を受ければ火災により上昇気流が生じ、中心部は無酸素状態になります。熱風だけではなく、酸欠で人々は亡くなるのです。防空壕に避難していた人々も酸欠で命を奪われ、死体が丸太棒のように転がっていたそうです。都市への無差別爆撃は民間人の死体の山を築き上げたのです。
 この悲惨な現場を見せつけられた人たちの半数は都市への無差別爆撃に反対したそうですが、残りの半数はドイツの都市への無差別爆撃、復讐を支持したそうです。都市爆撃を経験せず、被災をニュースで知らされた人たちは復讐に燃え上がったそうです。イギリスの戦略爆撃機チームの司令官、元帥ですが、ロンドン空襲を体験していたそうですが、都市爆撃に執着したそうです。アメリカの司令官も日本の焦土作戦に固執しました。復讐を望んだからでしょう。
 人間の感情の動きは論理的ではありませんから、復讐に燃え上がるときも、冷静に判断を下せるときもあります。日本軍も悪いこともしたし、良いこともしたでしょう。いずれにしろ、人間はジキル博士とハイドのようなものです。善良な一面と悪辣な一面とを併せ持ちますから、悪から遠ざかるように努力することはできても悪と無縁な生活はあり得ません。それが人間の宿命なのです。
 ですから、イエス様の十字架での贖いの死が必要だったのです。人間であれ
ば罪から無縁な人はいません。イエス様は『情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫をしたのである』と言われました。男なら誰でも姦淫の罪を犯したことになります。心の中で思うだけではこの世の法では裁かれませんが、神の律法によれば有罪なのですから、誰でも父なる神に対して負債を負っているのです。
 主の十字架での死は私たちの罪、負債を帳消しにしてくれるのです。神の御子キリストの贖い代は無限であり、人間の負債は有限だからです。天秤は御子の方に一方的に傾き、微動すらしないからです。神の相続人である私たちの贖い代は神の御子であり、神御自身でもあるのです。たとえ肉の欲望に負け、道を踏み外したとしても、悔い改めれば、主の十字架により罪が赦されるのです。
 神を『アッバ、父よ』と呼びかけられる私たちは神の子なのです。父なる神がキリストに注がれている愛が私たちにも注がれているのです。父親が不肖の息子を見捨て去らないように、父なる神も私たちを見捨て去ることはないのです。むしろ『アッバ』には父親に甘える幼児のような響きが感じられます。
 父なる神には豊饒の神々のような優しさが感じられないかもしれませんが、『アッバ』と言う呼びかけに応えられる神は正義と公正を求められる神であると共に恵み、慈しみを与えられる神でもあるのです。三位一体の神は親しく『アッバ』とも『我らの救い主イエス・キリスト』とも呼びかけられる神なのです。

07/07/08 主が先頭に立たれる M      

 2007年7月8日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主が先頭に立たれる     ミカ書2章12-13節
讃美歌 67,234A,Ⅱ195
堀眞知子牧師
「十戒」の一番最後で「隣人の家を欲してはならない」と命じられています。また約束の地カナンに入るにあたって、それぞれの部族に嗣業の地が与えられました。土地は神様のものであり、神様がイスラエルに与えられたものでした。レビ記25章において、神様は「土地は私のものであり、あなたたちは私の土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。同胞の一人が貧しさゆえに所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、土地を買い戻さねばならない。買い戻す力がないならば、それはヨベルの年(50年目)まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には所有地の返却を受けることができる」と言われました。嗣業の地は神様から与えられたものであり、子孫へと受け継がれていくものでした。列王記上21章に、北イスラエルの王アハブが、ナボトが所有しているぶどう畑が欲しくて、彼と売買の交渉をした話が記されていました。アハブの要求に対してナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけて私にはできません」と答えました。ナボトは信仰に基づいて、アハブの申し出を断りました。機嫌を損ねたアハブに、妻であるシドンの王女イゼベルは「今イスラエルを支配しているのはあなたです。私がナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と言って、不法な手段をもってナボトを殺し、ぶどう畑を手に入れました。この事件の後、預言者エリヤに神様の言葉が臨み、エリヤはアハブに彼の家の破滅と、イゼベルの悲惨な最期を告げました。
アハブの時代には「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけて私にはできません」と王に対しても、信仰に基づいて答えることのできる者がいましたが、それから100年以上を経たミカの時代には「隣人の家を欲してはならない」「土地は私のものであり、あなたたちは私の土地に寄留し、滞在する者にすぎない。ヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には所有地の返却を受けることができる」という律法は、完全に無視されていたようです。貧富の差が拡大し、地主と小作人のような関係が進んでいたようです。2章は「災いだ」という言葉で始まります。これはヘブライ語原文では「ああ、災いなるかな」という感嘆詞です。悪いことが行われている現状に対する、神様の怒りと悲しみと嘆きの声で始まります。「寝床の上で悪を企み、悪事を謀る者は。夜明けと共に、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」と語られています。他人の土地を欲しいと願う者は、夜も寝ないで、土地を得るための計画を練っていました。そして夜が明けるやいなや、計画を実行に移しました。「力をその手に持っているから」という言葉が表しているように、彼らは神様から与えられた知恵や力や富を、あたかも自分で得たかのようにして、自分の思いのままに使いました。彼らは貪欲に他人の畑や家を求め、子孫に受け継ぐべき嗣業の地を奪いました。正当な手段をもって手に入れることができない時は、力づくで手に入れました。他人の嗣業の地を得ることは、本来の所有者を奴隷として扱うことです。同じくレビ記25章において、神様は「同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。エジプトの国から私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたの神を畏れなさい」と言われました。彼らは、この掟にも背きました。
このような律法無視、不法が平然と行われているユダに対して、神様は裁きを宣告されます。3節は「それゆえ」という言葉で始まります。神様への背信と悪、社会的弱者への虐待に対する、当然の罰として語られます。「見よ、私もこの輩に災いを企む。お前たちは自分の首をそこから放しえず、もはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに災いの時である。その日、人々はお前たちに向かって、嘲りの歌を歌い、苦い嘆きの歌を歌って言う。『我らは打ちのめされた。主は我が民の土地を人手に渡される。どうして、それは私から取り去られ、我々の畑が背く者に分けられるのか』それゆえ、主の集会で、お前のためにくじを投げ、縄を張って土地を分け与える者は、一人もいなくなる」「私も災いを企む」と語られているように、悪事を謀った者に対して、神様も災いを御計画されます。神様から与えられた嗣業の地を重んじない者は、神様によって土地を奪われます。神様が外国の力をもって、ユダに罰を下されます。彼らは外国に囚われの身となり、軛を課せられ、頭を高く上げて歩くことはできません。現実に軛を課せられると共に、国を失った民として、捕囚の民としての惨めさを味わうことになります。自国にあるように、堂々と歩くことはできません。外国の民、ユダの国を滅ぼし、ユダの民を捕らえた民から嘲られることになります。かつてカナンに入った時、イスラエルはくじによって土地を分配し、縄を張って境界線を決めました。けれどもユダが滅ぼされる時、同胞から強奪した土地は、外国の民の所有となり、いかなる手段を使っても取り返すことはできません。
このように神様は、ミカを通して警告を語られましたが、ミカの預言に反発する者もいました。おそらく富のある者に対して、心地よい言葉を語る偽預言者達がいたのでしょう。いつの時代でも人間は、自分を裁く言葉より、自分を褒めそやす言葉に心を引かれます。ミカに対して「たわごとを言うな」と非難する人々がいました。ミカは彼らの言葉を取り上げて言います。「たわごとを言うな」と言いながら、彼らは自らたわごとを言う、とミカは逆に非難します。ミカに反発する者達は「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言いました。ミカに反発する人々は、神様を自分達の基準で考えていました。自分達にとって都合の良い神様、いわば偶像の神々を作り出していました。イスラエルは特別な民であって、神様から祝福されている。神様が自分達を呪われるはずがない。神様は気の長い御方であって、すぐに怒りを表すような御方ではない。確かにイスラエルは、神様によって選ばれた民であり、神の宝の民でした。けれども、その選びに対しては、特別な祝福と共に、律法が与えられ、特別な使命が与えられていました。与えられた律法を守らない者、使命を果たさない者には、当然のこととして裁きが下されます。神様は気短な御方ではありませんが、不正を見逃す御方ではありません。神様は裁きを好まれる御方ではありませんが、イスラエルの罪をそのままにしておくことのできる御方ではありません。神様は地上に、御自身の義が立てられること、イスラエルが御自身に忠実に生きること、それらを通して全人類が救われることを、何よりも望んでおられます。ですから神様は「私の言葉は正しく歩む者に、益とならないだろうか」と反問されます。これは反問と言うよりも、神様は「私の言葉は正しく歩む者には、必ず益となる」と断言されているのです。「私の言葉に従って歩め、私の律法を守れ、そこに祝福がある」と神様は約束されています。
その約束にもかかわらず、神様に背いて歩み続けるイスラエル。神様は、再び罪を告発されます。「昨日まで我が民であった者が、敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る、戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らは我が民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子達から、我が誉れを永久に奪い去る」かつて神様が御自分の宝の民として選ばれたイスラエル、それが今や神様に敵対する存在となっています。富のある者、権力のある者が、経済的弱者、平和を好む者、抵抗しない者、女性、幼い子供を虐待しています。罪を犯し続けるイスラエルに、神様はミカを通して裁きを宣告します。「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」神様に背き続けたイスラエルに「立て、出て行くがよい」と命じられました。「ここは安住の地ではない」約束の地カナン、神様の嗣業の地が、イスラエルにとって安住の地ではない。それは神様が、イスラエルをカナンの地から追い出されること、イスラエルが捕囚の民として異国に連れて行かれることを意味しています。神様が与えられた土地であるがゆえに、イスラエルの罪の結果として、神様が奪われます。先にも述べましたように、ミカを通して語られる厳しい裁きに反抗する者、彼らに迎合する偽預言者がいました。「誰かが歩き回って、空しい偽りを語り『ぶどう酒と濃い酒を飲みながら、お前にとくと預言を聞かせよう』と言えば、その者は、この民にたわごとを言う者とされる」この世的欲望を満たしたい者にとって、偽預言者の言葉は、心地よい響きをもっており、彼らの欲望を十分に満たすものでした。ミカを通して神様は語ります。「イスラエルが望んでいるのは、私の真理や計画ではなく、自らの欲望である。それは空しい偽りである。偽りを語る者には、ぶどう酒と濃い酒でも飲まして、私の預言者ではなく、あなたの預言者になってもらえばよい」と。
罪の告発と厳しい裁きを語った後、神様は復興の預言を語られます。「ヤコブよ、私はお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる」神様は「残りの者を呼び寄せる」と言われました。創世記6章に記されていたように、ノアの時代、地上には悪が増し、人間は常に悪いことばかり考えていました。地が堕落し、不法が満ちている中にあって、ノアは神様に従って歩む無垢な人でした。神様は、洪水によって地上にある命あるものを滅ぼされましたが、ノアには箱舟を造ることを命じられ、彼とその家族、1つがいずつの動物を守られました。また預言者エリヤがイゼベルに命を狙われ、北イスラエルから南ユダに逃亡した時、彼は自分の命が絶えることを願いました。神様がエリヤに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と尋ねられ、エリヤは「私は、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうと狙っています」と答えました。それに対して神様は「エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。私はイスラエルに7000人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と言われました。エリヤは「私一人だけが残り」と思っていましたが、神様は7000人を残され、さらにエリヤの後継者エリシャをも備えられていました。罪と悪が満ちる中にあって、神様は、御自分の計画を地上において現され、御心を示されるために、常に残りの者を備えられ、集めて下さいます。神様は「私は彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いて一つにする。彼らは人々と共にざわめく」と言われました。神様が牧者として、イスラエルの残りの者を集め、安全な囲いの中に、牧場に導いて一つの群れとされます。神様が打ち破る者となって、イスラエルの残りの者に先立って上られます。すると残りの者も打ち破って、門を通り、外に出ます。イスラエルの王である神様が、イスラエルの残りの者、すなわち悪と不正が満ちる中にあっても信仰を守ってきた者に先立って進み、神様が信仰者の先頭に立たれます。
新約の時代に生きる私達にとって「残りの者」は主イエス・キリストを信じて、与えられた地上の人生を歩み続ける者であり「羊の群れ」は主の教会であり、先頭に立たれる「牧者」は主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書10章で、イエス様は「私は羊の門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」と言われました。イエス様は、御自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って進まれます。イエス様が先立って歩まれ、私達キリスト者が、その後に従って行く。その光景は12-13節に書かれている光景と同じです。
同時に12-13節の御言葉は、終末の日、主イエス・キリストの再臨の日を思い起こさせます。パウロがテサロニケの信徒への手紙一4章に「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残る私達が、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私達生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私達はいつまでも主と共にいることになります」と記した光景を思い起こさせます。神様のラッパが鳴り響くと、主イエスが天から降って来られ、すでに眠りについた者も地上にある者も、主イエスにあって生き続けた者、教会生活を送り続けた者が呼び集められ、主イエスが先頭に立たれて、天へと上げられます。そして主イエスが先頭に立たれるのは、再臨の日だけではありません。私達の地上の人生において、常に先頭に立って進んで下さっています。「私は良い羊飼いである」と言われた主イエスの御声に聞き従って、与えられた地上の人生を最後まで歩み続けることができるように、私達の日々の信仰生活を神様によって養っていただきましょう。

07/07/01 神が証人となられる M 

 2007年7月1日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神が証人となられる     ミカ書1章2-9節
讃美歌 81,Ⅱ71.358
堀眞知子牧師
今日から、ミカ書を通して御言葉を聞きます。1節に「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである」と記されています。6節でサマリアの滅亡を預言していること、またエレミヤ書26章に「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る丘となる』と」と3章12節の御言葉が引用されていることなどから考えて、ミカはヨタム王の最後の年である紀元前730年頃から、ヒゼキヤ王の最後の年である紀元前699年まで、約30年間にわたって、南ユダにおいて預言者活動を行いました。時代も国も、イザヤと重なっています。彼はモレシェトの出身でした。モレシェトは14節に記されているように、正確にはモレシェト・ガトといい、エルサレムの南西約30キロに位置する町です。モレシェト・ガトとは「ガトの所有」という意味で、その言葉が表すように、ペリシテ人の最盛期には、彼らの5大都市の一つであるガトに属していました。また北イスラエルは紀元前722年にアッシリアに滅ぼされますが、その10年後、アッシリアはガトと同じ、ペリシテ5大都市の一つであるアシュドドを占領しました。さらに10年後、アッシリアは南ユダに侵入してラキシュに陣を敷きますが、モレシェト・ガトはラキシュの北東10キロに位置するために、アッシリア軍の進路となりました。このように外国の侵略を受けやすい町の出身であり、アッシリアがカナン地方に侵略してくる時代に預言者として召されたミカは、神の民イスラエルの信仰的堕落がもたらす倫理的・政治的堕落に対する、神様の刑罰について語らざるを得ませんでした。けれども裁きと同時に、ミカは神様の祝福と約束も語っています。
1章2節~2章11節には、南ユダと北イスラエルに対する、神様の審判が語られています。ミカは南ユダの人間でしたが、預言者として召された時には、まだ存在していた北イスラエルに対しても、同じ神の民イスラエルとして神様の裁きを語っています。2節は原文では「聞け」という言葉から始まっています。神様は御自分の語ることを、注意して聞くように命じられます。神様は「諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。主は、その聖なる神殿から来られる」これは法廷を意識している言葉です。審判者である神様が、注意して御自分の言葉を聞くように、耳を傾けるように命じられます。バビロン捕囚前ですが、ミカは主なる神様がイスラエルを超えて、諸国民を、全地を御支配されていることを示されていました。神様がサマリア(北イスラエル)とエルサレム(南ユダ)の罪を諸国に向かって、全地に向かって、証人として告発し、証言するために、天の御座から来られます。神様は裁判官であると同時に証人であり、さらに検察官として罪を指摘されます。御自身の民を裁くために来られます。神様が天の御座から降り、地の高い山々の頂を御自分の足台として立たれます。神様が地上に来られることにより山々でさえ、火の前の蝋のように、斜面を流れ下る水のように、神様の足もとに溶け去り、平地も裂けます。大自然をも支配され、地震や竜巻や大洪水や津波を起こさせる神様の御力が現されます。「動かざること山のごとし」とされている山々でさえ、このように崩れ去っていくのなら、人間は神様の前で、いかなる裁きを受けるのでしょうか。
神様は、まず北イスラエルの罪を告発します。「これらすべてのことは、ヤコブの罪のゆえに、イスラエルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何か、サマリアではないか」と。ミカは南ユダの預言者として召されましたが、まず北イスラエルの罪と裁きを語ります。サマリア陥落まで10年もありません。ホセアの預言者活動の最後とミカの預言者活動の最初は、5年くらい重なっています。ホセアが4半世紀にわたって、彼の私生活をも通して、神様の愛と裁きを警告し続けてきたにもかかわらず、北イスラエルは最初の王ヤロブアムの罪から離れることができませんでした。金の子牛を神として礼拝し、聖なる高台に神殿を設けたヤロブアムの罪は、やがてバアルを始めとする、異教の神々を礼拝する罪を招きました。南ユダも北イスラエルの影響を受けていました。ヨタムは神様の目にかなう正しいことを行いましたが、聖なる高台を取り除くことはしませんでした。さらにアハズは、北イスラエルの王達の道を歩みました。聖なる高台、丘の上などでいけにえをささげ、自分の子に火の中を通らせることさえしました。「ユダの聖なる高台とは何か、エルサレムではないか」という告発の言葉は、エルサレムで偶像礼拝の罪が行われていたことを示しています。
北イスラエルの罪を告発した後、神様は裁きを宣告されます。「私はサマリアを野原の瓦礫の山とし、ぶどうを植える所とする。その石垣を谷へ投げ落とし、その土台をむき出しにする。サマリアの彫像はすべて砕かれ、淫行の報酬はすべて火で焼かれる。私はその偶像をすべて粉砕する」北イスラエルに対する刑罰は、サマリアの崩壊です。首都であった町が瓦礫の山となります。サマリアは丘の上に、オムリが築いた町です。要害の町であり、美しい町でした。けれども、町を囲んでいた城壁は谷に向かって崩れ落ち、王宮を始めとする建物も破壊され、土台がむき出しにされるほど徹底的に破壊されます。北イスラエルの罪の基となった彫像、異教の神々にまとわりつく性的不品行、経済的繁栄、それらすべてが失われます。北イスラエルの首都であった、美しい町は消え失せ、次の世代は、荒れ果てた丘の斜面にぶどうを植えるようになります。このような厳しい神様の裁きに対して、神様御自身が「私は悲しみの声をあげ、泣き叫び、裸、はだしで歩き回り、山犬のように悲しみの声をあげ、駝鳥のように嘆く」と悲しみの深さを語ります。天地万物を創造され、すべてを御支配のもとに置かれ、正義と御自身の契約を重んじ、背信の罪に対しては証人として、検察官として、裁判官として臨まれる神様ですが、同時に御自身の契約ゆえに、愛と憐れみに満ちた御方です。御自分に背かれるイスラエルをなおも愛しながら、刑罰を降さざるを得ない神様の嘆きの声です。さらに北イスラエルの滅亡だけではなく、同じようなことが南ユダにまで及び、エルサレムにまで達することへの悲しみです。「裸、はだしで歩き回」るというのは、エルサレムの滅亡の日を表しています。また山犬や駝鳥は、物悲しい声で長く鳴き続けると考えられていました。人間の罪に対する神様の裁きの宣告、刑罰の執行の裏に、愛と憐れみに基づく、神様の深い悲しみと嘆きがありました。
南ユダに対する裁きが10~16節に、ミカの出身地であるモレシェト・ガトの周辺にあると思われる、町々の名前を挙げながら語られていきます。ただし、ここに挙げられている地名は、エルサレム南西に位置すると考えられますが、その場所が良く分からない町もあります。また日本語では良く分かりませんが、ヘブライ語原文では語源を同じくするもの、あるいはよく似た言葉が使われ、語呂合わせのようになっています。「ガトで告げるな『決して泣くな』と」先にも述べましたように、ガトはペリシテの5大都市ですが、ユダに最も近い町でした。もし、ユダの人々が外国に侵略されて嘆き悲しんでいたら、その危機に乗じてガトがユダを攻めてきます。ですからガトで泣き悲しんではいけないのです。「ベト・レアフラで塵に転がるがよい」ベト・レアフラは、ヘブライ語で「塵の家」を意味しています。また塵の上で転び回ることは、悲しみを表しています。大きな悲しみと嘆きをもたらす裁きが下されようとしています。
「シャフィルの住民よ、立ち去れ。ツァアナンの住民は、裸で恥じて出て行ったではないか」出て行くという言葉は、ヘブライ語で「ヤーツァー」といい、ツァアナンと似た発音です。シャフィルの住民は追われて立ち去り、ツァアナンの住民は捕らわれの身となって出て行きます。「ベト・エツェルにも悲しみの声が起こり、その支えはお前たちから奪われた」ベト・エツェルは、ヘブライ語で「傍らの家」を意味しています。国境に近い要害の町であったようですが、死の嘆きに覆われていて、他の町の助けにはなりません。「マロトの住民は幸いを待っていたが、災いが主からエルサレムの門に降された」マロトは、ヘブライ語で「苦い、悩む、苦しむ」を意味する「マラ」を語源としています。出エジプト記15章に記されていた「マラの苦い水」と同じです。平和を意味するエルサレムの門にさえ、災いが神様から降されるのですから、苦しみを意味するマロトに幸いが訪れることはありません。
「ラキシュの住民よ、戦車に早馬をつなげ。ラキシュは娘シオンの罪の初めである。お前の中にイスラエルの背きが見いだされる」先に述べましたように、ラキシュはアッシリアが南ユダに侵入する時、陣を敷くことになる町です。ミカは「ラキシュは娘シオンの罪の初めである。お前の中にイスラエルの背きが見いだされる」と語っています。今から40年ほど前に、ラキシュの町の発掘調査が行われた時、紀元前10世紀頃、ちょうどソロモン王、あるいは南北に分裂した頃ですが、その頃に建てられたと考えられる、エルサレム神殿によく似た遺跡が見つかったそうです。しかも、その神殿遺跡の中から、異教の礼拝、おそらくエジプトの影響を受けたと考えられる礼拝に用いた品々が見つかったそうです。北イスラエルだけではなく、エジプトからも異教の神々が、南ユダに持ち込まれていました。ラキシュの神殿から、エルサレム神殿へと罪が広がっていったのです。ミカは、このことが南ユダの罪の始まりと受け取っていたと考えられます。
「それゆえ、モレシェト・ガトに離縁を言い渡せ。イスラエルの王たちにとって、アクジブの家々は、水がなくて、人を欺く泉(アクザブ)となった」先にも述べましたように、モレシェト・ガトはミカの出身地です。「離縁を言い渡せ」とは、敵の手に渡す意味です。イスラエルの嗣業地でありながら、一時はペリシテ人の都市ガトの所有となり、さらにアッシリアの攻撃を受けて、彼らが進軍する通り道となった町です。今度はガトの所有ではなく、アッシリアあるいはエジプトの所有となり、モレシェト・アッシリア、モレシェト・エジプトとなるでしょう。アクジブはヨシュア記15章に出てくる町の名前で、ユダ族の嗣業の地です。アクザブは「欺く者、失望させる」という意味です。渇きを癒そうとして、水を求めて川や泉に来ても、そこは涸れていて水がない。そのように、水を求めて来る者を失望させる川や泉は、アクザブと呼ばれています。「マレシャの住民よ、ついに私は、征服者をお前のもとに来させる。イスラエルの栄光はアドラムに去る。お前の喜びであった子らのゆえに、髪の毛をそり落とせ。禿鷹の頭のように大きなはげを造れ、彼らがお前のもとから連れ去られたからだ」マレシャもアドラムもヨシュア記15章に出てくる町の名前で、ユダ族の嗣業の地です。特にアドラムはサムエル記上22章に記されていたように、ダビデがサウルから命を狙われた時、逃れた洞窟がある場所です。そのアドラムとマレシャが、敵の侵略を受けます。髪の毛をそり落とし、禿鷹の頭のように大きなはげを造ることは、悲しみと嘆きの徴です。ミカの預言から約150年後、南ユダは本来、喜びであった子供達、若者達を戦いで失うだけではなく、捕囚によっても失うことになります。
ミカは審判の日が近いことを語りました。彼は神様の裁きとして行われるサマリアの悲劇が、そのままエルサレムに降されると考えていました。実際は150年ほど遅れるのですが、問題は時間ではありません。エルサレムに裁きが近づいているのは、動かしがたい事実です。150年の時間を要したのは、ひとえに神様の愛と憐れみと我慢強さによるものであって、人間の功績ではありません。裁きは人間の罪に対する必然的結果ですが、その時期も神様がお決めになることです。私達キリスト者はもちろん、全人類に最後の審判の日が備えられています。それは主イエス・キリストの再臨の日です。その日がいつなのかは、私達には分かりません。私達が生きているうちなのか、地上の生涯を終えた後、それも何百年、何千年も後のことなのかもしれません。ただ私の思いとしては、今の世界を見るならば、すでに人間の罪が充満しているように感じます。ひとえに神様の愛と憐れみと我慢強さによって、あるいは全世界に主の福音が宣べ伝えられていないから、主の再臨の日が遅れているだけではないか、そのように思うこともあります。
いずれにしても、最後の審判の日が備えられています。その時、私達一人一人が、神様の御前に立たされます。天地万物を創造され、正義と契約を重んじられる神様が、証人として、検察官として、裁判官として臨まれます。私達が、神様によって与えられた地上の人生を、与えられた賜物に従って、どのように歩んできたのか。神様は裁かれると同時に、証人として私達の歩みを語られます。神様が私達の証人となって下さいます。人間の法廷においてなされる裁きには、時として誤りがあります。偽証罪という罪があるように、証人が真実を語るとは限りません。ちなみに日本では、偽証罪に対する刑罰は10年以下の懲役ですが、キリスト教国ではもっと重い刑罰が科せられます。それはキリスト教信仰により、真実を重んじる社会が形成されているからです。それでも証人が、真実を語るとは限りません。あるいは証人が、真実を誤解している時、間違って記憶している時もあります。しかし、神様は間違いのない御方です。私達のすべてを御覧になり、私達が意識していない心の深みさえ御存じです。その神様が最後の審判の日に、私達の証人として法廷に立たれ、裁かれます。不完全で罪深い私達ですが、それでもなお神様に従って歩もうとする信仰を、神様御自身が証言して下さいます。神様が証人となられるのですから、私達には何も恐れるものはありません。ひたすら神様に祈り、導きを求め、私達の信仰生活を整えていただきつつ、終末の日を待ち望みたいと思います。

2007/11/17

07/06/24 霊の思いは命と平和である T

霊の思いは命と平和である
2007/06/24
ローマの信徒への手紙8:4~11
 万能細胞、ES細胞が新たな医療技術、再生医療の面で注目を集めていますが、倫理上の問題から各国で対応が分かれています。ブッシュ大統領はES細胞の利用に否定的で、「生命を故意に壊す研究」として拒否権を行使しました。
 生命倫理の規制が厳しくない国ではES細胞に関する研究が加速されています。韓国ではデーターの捏造が発覚し、国民的英雄が詐欺師と分かったくらいです。厳しい規制は国際競争からの脱落を意味するのが世界の現状です。
 日本では京都大学のみがES細胞を作成し、研究機関に配布しているようですが、理化学研究所がES細胞の大量培養に成功したようです。日本でもES細胞に対する規制が厳しく、研究機関と国によるダブルチェックが入ります。
 倫理上の最大の関門はES細胞が受精卵、胚を破壊して作成される点にあります。生命の始まりは卵子が受精して時点だとすれば、ES細胞は生命を破壊した結果得られるものですから、殺人行為だと批判されても仕方ありません。
 ブッシュ大統領を支えているアメリカのキリスト教保守派は生命の尊厳を訴え、人工中絶にも反対して国論を2分させています。ヨーロッパでもキリスト教保守派の勢力が強い国ではES細胞に対するが規制が強い傾向がみられます。
 米欧の規制に嫌気をさした企業がアジアに進出しています。世界の企業間での特許を巡る争いが激しくなっていますから、ES細胞の大量培養技術は日本の武器になります。受精卵を破壊してES細胞を作成しなくて済むからです。
 生命技術の進歩はヒトインスリンを大量に供給し糖尿病患者を救いました。新しい技術、医薬品を生み出しましたが、ES細胞からの臓器形成による再生医療の面でも期待されています。自己免疫作用を防ぐことができるからです。
 しかし、サイボーグのようになっても生き続けたいという人間の本能に応えるのが科学の使命だと考える人もいますが、ブッシュ大統領のように考える人もいるのです。人間としての尊厳を保った人の死を再考する必要があります。
 さらにES細胞から再生させられた臓器はガン化しやすいという研究報告もあります。不老不死は人間の永遠の夢ですが、彷徨えるオランダ人のように彷徨い続けなくてはならないのなれば不老不死は人間に不幸をもたらすでしょう。
 病腎移植をしなければならなかったのは死体腎臓が極端に不足していたからですが、ES細胞から腎臓を形成できれば人工透析から自由になれる患者は数十万人をくだらないでしょうし、糖尿病ならば膵臓を移植すれば完治します。
 臓器移植のための臓器形成だけではなく、難病にも有効な治療法が期待できそうですが、生命を犠牲にした医療である点では変わりません。他国との競争ばかりに目を向け、生命倫理についての議論を積み重ねなければ後悔します。
 日本にはキリスト教倫理のような生命倫理が存在しません。科学技術至上主義が日本の価値基準の根本にありますから公害列島であった時を思い起こす必要があります。新しい技術は利用する人間側次第で毒にも薬にもなるからです。
 パウロは『肉に従って歩むものは肉に属することを考え、霊に従って歩むものは、霊に属することを考えます』と人の歩む道のりを二分して考えています。肉の思いは死に繋がる道であり、霊の思いは命と平和に至る道だからです。
 肉の思いは道徳的な罪、倫理的な罪を意味するのではなく、むしろ神様との関係を乱す行為を意味しています。ユダヤ人は形式的な律法に忠実でしたから道徳的、倫理的な水準はギリシア人、異邦人と比べれば遙かに高かったと思われますが、律法の目的である『汝の主を愛せよ』を忘れ去っていました。
 ユダヤ人が行いによる義に執着したのは唯一の神の姿、形が見えないからでしょう。異邦の神々、偶像は具体的な姿をしていますので、礼拝の対象が分かりやすいからです。祭儀を執り行うにしても、偶像の前に献げ物を献げ、偶像を拝むのは目に見え、耳で聞こえるので人間の五感に訴える力が強いからです。
 出エジプトの旅の中でもイスラエルの民はモーセが神様に召されてシナイ山に上っているのを待ちきれなくり、不安に陥りました。アロンは民から金の耳輪などを集めて金の子牛の像を鋳造しました。イスラエルの民は『これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々である』といい、祭壇を築き、献げ物を献げました。民は金の子牛の前で飲み食いし、戯れました。律法を授かる前の事件でしたが、イスラエルの民でさえも偶像礼拝の道に走ったのです。
 このように肉の思いは人間にこの世の様々な神々、偶像を礼拝するように仕向けるのです。人間は肉の支配下にある限り唯一の神を信じられないのです。肉の思いに従う者は神に敵対し、神の律法に従い得ないからです。人間を肉の支配から解放し、霊の支配下に導くのは神の霊なのです。キリストの霊が宿っている限り、体は罪によって死んでいても霊は義によって命とされるのです。
 主を信じる者はたとえ肉の思いに囚われ、罪を犯してもキリストの十字架での贖いの死により罪を赦された者とされるのです。イエス様を死者の中から復活させられた方は人間の内に宿っている霊により死ぬはずの体をも生かしてくださるからです。罪が支払う報酬は死ですが、神が与えられる賜物は永遠の命だからです。私たちは生ける主により永遠の命に与ることができるのです。
 人間が肉の思いから離れることは不可能ですし、肉の思いは罪を犯させます。罪の結果、人間は死を避けられませんが信仰によりキリストの復活、永遠の命に与ることができるのです。行いによる義は神ではなく人間の力により義とされるという人間の傲慢さ、神なき姿の象徴でしたが、信仰による義は人間の無力さを悟り、生ける主に総てを委ねる信仰ですから神に受け入れられるのです。
 信仰は『神は神であり、人は人である』ことが前提になります。神の世界と人の世界とは質的に異なる世界、異次元な世界だからです。三位一体の神は人間のイメージを超えた存在です。十字架、キリスト受難像、マリア像などは人間の想像を具体化したものに過ぎず、三位一体の神とは無縁な存在なのです。
 神は人を神に似せて創造なされました。人間は神をかたどって造られましたが、神と人間が同じ姿であることを意味していません。人間だけが神と応答できる存在であることを意味しているのでる。偶像は人間の想像力が造り出した産物に過ぎませんが、神は人間のイメージを遙かに超えたお方だからです。
 人間が神の姿を想像できないのは神の領域と人間の領域とが異なるからです。ユダヤ人の父祖アブラハムは神からの呼びかけに従順に従いました。アブラハムの唯一の神に対するイメージがどんなものであったかは分かりませんが、パレスチナ、オリエント地方の神々、偶像とは全く異なる神、唯一の神でした。
 人間にはアニミズム、霊魂や精霊の存在を信じる信仰が自然ですから、唯一の神を信じる信仰は人間には受け入れがたいものですが、アブラハムは唯一の神、生ける主を信じたのです。創造主がイスラエル民族を神の民として選ばれた理由は人間には分かりませんが、イスラエル民族は主を受け入れたのです。
 ユダヤ人の信仰は契約に基づく信仰です。「唯一の神はユダヤ人の主となる」「ユダヤ人は割礼と律法を遵守する」、これが契約の条件なのですが、ユダヤ人はしばしば律法から離れ去り、主との契約を一方的に破棄してしまいました。唯一の神は偶像礼拝の道を歩むユダヤ人に裁きをもたらされましたが、民は悔い改めませんでした。預言者の声を無視する王が続出し、ユダヤは滅びました。
 ユダヤ人の歴史は偶像礼拝に走る王、悔い改めを迫る預言者、悔い改める王、再び偶像礼拝をする王、再び預言者の登場、悔い改める王の繰り返しでしたが、イエス様の誕生までの300年間は預言者が現れませんでした。ユダヤの民は救い主を待ち望んでいたのですが、彼らが待ち望んでいたのはダビデ王の再来であり、ユダヤ人を中心にした世界の実現、ダビデ・ソロモン王朝の再現でした。
 ユダヤ人の救い主、メシア待望はイエス様により実現したのですが、ダビデ王の再来を望んだ民の期待を裏切るものでした。武力によるローマからの解放を望んだ民は魂の解放、永遠の命を説かれるイエス様を理解できませんでした。律法、行いによる義を理解できても信仰による義は理解できなかったからです。律法の世界は具体化されていますが、信仰の世界には基準がないからです。
 プロテスタント信仰は「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」で表されますが、信仰の基準が明確ではありません。カトリック教会には分厚い信条集がありますが、日本キリスト教団の信仰告白は半ページにしか過ぎません。このようにプロテスタント教会には明確な基準がないので教会は無数に存在します。
 ユダヤ人キリスト者が割礼と律法に拘ったのも、信仰により義とされるだけでは不安だったからです。救いの確信が欲しかったからです。彼らは律法、戒めに縛られる生活に馴染んでいたからです。割礼、律法から自由だと宣言されることはむしろ彼らを不安に陥れたのです。自由は不安を引き起こしたのです。
 霊の支配を実感できなければ永遠の命を信じられないのが人間です。唯一の神をイメージできないユダヤ人には割礼、律法が神の身代わりなのです。金の子牛の代わりが割礼、律法なのです。信仰の世界に入るためにユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を探しますが、永遠の命には到達できなかったのです。
 主が復活なされたから人間にも永遠の命に至る道が開かれたのです。信仰とは主の十字架での死と復活を信じることなのです。私たちの常識、徴や知恵、奇跡や哲学から離れ、真の人であり真の神であるイエス様を信じることなのです。神の領域と人間の領域とは異なる次元に属するからです。偶像礼拝は人の思いを偶像に投影させますが、真の礼拝は神の意志が反映されるからです。
 信仰の確信、信仰のリアリティは被造物である人間が創造者である神の唯一絶対性を認めることができるか否かにかかっています。ヨブ記には義人ヨブの苦闘が述べられています。神はヨブをサタンに『地上で彼ほどのものはいない。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている』と自慢されたのです
 ところがサタンは神がヨブが財産に恵まれ、家族にも恵まれているから神を崇めているのだと主張しました。神はサタンにヨブから命以外のものを奪い取ることを許されました。ヨブは突然家族を失い、財産を失いましたが、神を非難することはありませんでした。サタンはヨブを酷い皮膚病に罹らせました。
 ヨブの三人の友人はヨブを見舞いに来ました。彼らはヨブが罪を犯したから苦難に遭うのだから悔い改めて神に赦しを請うようにと勧めましたが、ヨブは断じて罪を犯していないと主張します。三人の友人は因果応報の考えをヨブに認めさせようとしましたが、ヨブは無垢、無罪であると主張して譲りません。友人たちはヨブを慰めにきたはずでしたが、無罪を主張するヨブの頑迷さに怒り始めました。ヨブへの慰めが怒りに転じました。ヨブと友人との激論はさながらヨブへの糾弾集会の様相を呈してきましたが、突然神が介入なされました。
 神はヨブに『天地が創造されたときにお前はどこにいたか。全能者と言い争うつもりか』といわれました。ヨブは『私の知識を超えた驚くべき神の御業をあげつらっていました。それゆえ私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます』と答えました。神は創造主、人は被造物であることを弁えたのです。
 ヨブ記で描き出された人間模様は私たちの住む世界を反映しています。因果応報は最も素朴な人間の信仰だからです。多神教の世界、アニミズムの世界では霊魂や精霊が人間の行いに応じて人間に報いるのが当然です。人間の常識的な世界観からすれば良い行いには良い報いがあり、悪い行いには悪い報いがあるのは当然だからですが、信仰の世界では神が神の御業をなさるだけのです。
 ヨブの友人たちは常識の世界に生きていましたし、ヨブもまた常識の世界から抜けきれていませんでしたが、全能者から天地創造の御業を指摘され、初めて人間の限界を悟らされたのです。人間は人の思いに神の思いを重ねてしまいがちです。「御心ならば」はよく使われる言葉ですが、神の思いを人が知ることはできないのです。あくまでも人間が想像した神の御心に過ぎないのです。
 神の世界は人間の理解、想像を超えた世界、異次元の世界であることを認めるのが信仰です。人間が理解できる世界は宇宙、マクロの世界から、素粒子、ミクロの世界までのわずかな部分なのです。人間の常識、感覚では理解できない世界があることを科学が示しています。イエス様が『幼子のごとく』といわれたのは人間の常識、感覚を初期化、フォーマットせよということなのです。
 私たちが信じるのは御子ナザレのイエス・キリストなのです。聖書が描き出すイエス様の人格、神格を信じるからです。信仰の世界と神学の世界とは異なります。信仰はイエス様を信じるのであり、神学は学問に過ぎないからです。人格を言葉化、ロゴス化できないように、信仰もまた言葉化できないのです。御言葉はイエス様の人格、神格を人間が言葉化するものですから、論理的には不可能なのですが、御言葉に論理を超えて命を与えるのが聖霊の働きなのです。

07/06/17 霊の法則 T

霊の法則
2007/06/17
ローマの信徒への手紙8:1~4
 訪問介護最大手といわれる「コムスン」が虚偽の申請で事業指定を不正に取得していたことが明らかになり、厚労省から事業免許の更新を拒否されました。コムソンは系列会社に事業譲渡する意向を表明しましたが拒否されました。
 ようやく記者会見に応じたオーナー会長はコムソンの経営に深く関わっていたことを認めましたが、介護保険事業から撤退したくない意向のようです。コムソンの社長を引責辞任させるだけで今回の幕引きをねらっているようです。
 コムソンは行政処分を受ける直前に事業所を廃止させる手口で処分を免れてきました。今回も系列会社に事業譲渡をする手口を使い事実上処分を回避しようとしました。厚労省も法的には規制できないと追認する姿勢を示しました。
 マスコミがコムソンと厚労省を烈しく批判する記事を載せましたので厚労省も系列会社に対する事業譲渡を認めない方向に転換をしましたが、厚労省の対応に不信感を抱かせました。官民のもたれ合いの構図が明らかにされました。
 オーナーは引責辞任をしないばかりか介護事業への未練を記者会見で表明しましたが、悪質な脱法行為、信義違反行為に対する真摯な反省がみられませんでした。経営責任も事業譲渡と同じ手法で先送りし、揉み潰そうとしています。
 介護保険をビジネスチャンスにした経営感覚には鋭いものを感じますが、モラルハザードを起こした経営者は退場すべきです。バブル時代のジョイアナと同じ感覚で介護ビジネスを起業したセンスは指弾されてしかるべきでしょう。
 介護保険、障害者福祉が新たなビジネスの機会を提供しましたが、厚労省には明確なビジョンがありませんでした。役人特有の数あわせが先行し、質より量が優先された結果、いかがわしい業者、社会福祉法人などが乱立しました。
 コムソンのような業者が乱立することも制度設計の段階で当然予測された事態ですが、厚労省は無為無策でした。今回の処分により介護サービスを受けているご老人が突然サービスを受けられなくなれば社会的不安を増大させます。
 しかし、コムソンは大きいから潰されないと高を括っていたようにも思えます。厚労省の対応をみていてもかつての銀行に対する旧大蔵省のようにも感じさせられます。今回の処分が一罰百戒になるかは厚労省、地方自治体次第です。
 肝心なのは現在介護サービスを受けているご老人、介護職員に負担をかけないことですが、数十万単位の人に影響が出そうです。非常事態ですが、役人の無為無策が生んだのですから、役所は休日を返上し総出で対応すべきでしょう。
 社会保険庁でも明らかになりましたが、役人は仕事をしないのを特権かのように錯覚しているようです。担当者が少ないので対応しきれないという悲鳴も上がっていますが、民間企業ならば既に倒産し、路頭に迷っているはずです。
 介護保険も国民保険の二の舞を演じる恐れがあります。国民の監視の目は厳しくなってきています。徴収された保険料が悪徳業者、政治家、役人、官僚の懐を肥やしているのならば、社会保険庁並みの厳しい処分を覚悟するべきです。
 パウロは『心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです』と告白していますが、語調を変えて『今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません』と救いを宣言しています。
 パウロの視点は罪と死の法則から霊の法則へと向けられたのです。パウロは肉、サルクスの誘惑の強さに負けてしまう自分を『罪の法則の虜になっている惨めな人間』と表現していますが、肉の虜から解放してくださるキリストの愛と恵みの大きさに目を向けられた時に霊の法則の偉大さに気づかされたのです。 パウロが使っている肉の弱さという表現は肉体的な、性的な弱さのような物質的な事柄ではなく、霊的な事柄を意味しています。肉とは罪であることを知りながらも罪に陥ってしまう人間の弱さ、無力さを表しています。挫折を繰り返す人間の性質を意味しています。肉とは神なき人間の状態を意味するのです。
 人間、ユダヤ人にはキリストが来られるまでは神と人間との関係を保ってくれるのは割礼と律法でした。唯一の神はイスラエル民族を神の民とし、イスラエル民族は唯一の神を神とし、神の民の徴として割礼、律法を遵守する契約を結んだからですが、アブラハムのような神に対する信仰が前提条件なのです。
 しかし、ユダヤ人は前提条件である信仰を忘れ、割礼と律法を守りさえすれば救われると信じ、さらに神は救わなければならないとまで思い上がるようになりました。律法は神の民が守らなければならない神との契約でしたが、人間は肉の弱さのために律法を守り切れないので律法では人間は救われないのです。
 神は神と人間との契約が破綻している世界に契約を修復するために御子を遣わされたのです。御子イエス・キリストは真の人、真の神として地上を歩まれました。御子は罪深い肉の姿で地上に遣わされ、十字架で肉の姿を、罪を罪として処断なされたのです。御子は私たち人間の弱さ、肉の弱さの身代わりになられて十字架につかれ、十字架での血潮により私たちの罪を贖われたのです。
 キリスト者は主の十字架での贖いの死により肉の弱さから既に解放されたのです。私たちは肉体の弱さ、信仰の弱さに苦しむかもしれませんが、御子を信じる信仰が神と人間との関係を正常な状態に復帰させてくれるのです。唯一の神、父なる神と、子なる神キリストと、聖霊なる神との三位一体の神を信じる信仰が唯一の神とイスラエル民族との契約を新たな契約に更新させたのです。
 御子イエス・キリストとの間で結ばれた新たな契約はユダヤ人を割礼、律法の束縛から解放しました。異邦人がユダヤ人の慣習から解放され、信仰によってのみ義とされることを明らかにしました。罪の法則に従う人間を霊の法則に従って歩む人間へと変えたのです。人間は三位一体の神と共に歩むからです。
 律法の要求はイスラエル民族が唯一の神を主として崇め、神の民に相応しい歩みをすることでしたが、新しい律法、福音が律法の支配を終わらせたのです。唯一の神は三位一体の神と捉え直されたのです。神の民は行いではなく信仰により義とされるのです。信仰生活の場は会堂から教会へと移されたのです。
 宗教改革を経て『信仰のみ』『聖書のみ』『万人祭司』の原則が確立されました。礼拝は単なる儀式から御言葉中心に変わってきました。私たちは御言葉に育まれ、三位一体の神との関係が正さるのです。それが真の律法の要求です。
 旧約聖書ヘブライ語原典には唯一の神を複数で書いてある場合もあるそうです。イエス様も律法では神の言葉を受けた人たちが『神々』といわれているから『私は神の子である』といっても神を冒涜したことにはならないといわれています。礼拝でよく用いられるⅡコリントの信徒への手紙の祝祷には『主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共にあるように』とありますが、三位一体の神について聖書で直接言及された箇所はありません。
 三位一体の神を巡るアタナシウス派とアリウス派との神学論争は325年ニカイア公会議でアタナシウス派が辛うじて勝利しましたが、ローマ帝国を二分した戦いに発展しました。アタナシウス派はカトリック、正統という意味ですが、教会を創立しました。16世紀の宗教改革による宗教戦争、信仰の正統性を巡る争いも領土問題にまで発展し、血で血を洗う争いに発展しました。教会が主の体であると共に人間の集まりである証拠ですが、主は歴史を用いられたのです。
 近代科学は教会の支配から脱することにより進歩しました。地動説が信じられたから新世界が発見されたのです。ヨーロッパの大航海時代が始まりましたが、植民地時代の始まりでもありました。宣教師が世界宣教命令の実現を目指して全世界に派遣されましたが、教会が植民地政策に荷担したのも事実です。
 大航海時代を迎えて人類はグローバルな世界へ一歩を踏み出しました。宣教師はアジアの東端にある日本まで主の福音を携えてやってきましたが、日本には土着しませんでした。戦国時代にはキリシタン大名も現れましたが、江戸幕府はキリシタンを徹底的に弾圧しました。やがて鎖国政策を取り始めました。
 日本にキリスト教がもたらされたのは明治維新を経てからです。宣教師が雇われ外人となり日本に科学文明を伝えましたが、日本人は西洋文明を取り入れただけで西洋文化、キリスト教文化を換骨奪胎をして受け入れたようです。内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教信徒の教育者を生み出したぐらいでした。
 先の大戦に敗北し、進駐軍に日本は占領されましたが、アメリカから宣教師が大挙して来日しました。敗戦で心の拠り所を失った人々が教会に集まり、キリスト教ブームが起きましたが、下火になりました。現在のキリスト教の信徒数は人口の1%を切るようです。日本の教会も栄枯盛衰を繰り返しました。
 私たちは主が歴史の主であることを忘れてはなりません。主の教会は2000年間立ち続けましたが、歴史の変換点を何回もくぐり抜けてきました。教会の歴史は主の歴史であると共に人間の歴史でもあるからです。主の福音が途絶える危機にも教会は耐えてきました。信仰は信じる者に希望を与え続けたからです。
 歴史には主が定められた終わりがあります。人間の歴史は終わりの日に向かって流れる川のようなものかもしれません。川の流れが堰き止められているように見える時もあるかもしれませんが、永遠に止められることはありません。
 歴史に終わりがあることを自覚している者と自覚していない者との生き方は根本的に違います。今さえよければよいという刹那主義にはなれないからです。最後の審判を自覚する者には無責任な生き方ができないからです。福音に相応しく生きるという自覚が代々の教会、信徒を励ましてきたからです。 明日を夢見ながら今日を生きている信徒の群れが2000年間も教会を守り通したのです。
 確かに人間は罪の法則の下にいるかもしれませんが、信仰により霊の法則の下に生きられるのです。主の十字架が罪の法則を打ち破られたからです。霊の法則を教会の歴史が守り抜いてきましたが、教会の歴史は人間の歴史でもありました。教会も罪の歴史の下から解放されているとはいえませんが、教会が生ける主の御言葉に立ち帰るときには主の教会も日々新たにされているのです。
 イエス様の十字架での贖いの死で罪が支配していた世界は終わり、この世は神の支配する世界に移されたのですが、現実の世界では罪が横行しています。ユダヤ人のように法を形式的に守りながらも事実上の脱法行為をする者が絶えません。ホリエモンにしろ村上ファンドにしろグレーゾーンで商取引をしていたことは間違えありません。コムソン、NOVA などは常識を逸脱した商法です。
 法の支配はローマ法が起源とされますが、ローマ法が教会法へと発展しました。神の支配を人間が実現させるためには法による支配が必要とされたのです。カトリック教会ではペテロから天国の鍵を受け継いだ教皇は絶対に間違いを犯さない、無謬であると信じられていますが、プロテスタント教会、特に改革長老主義教会では法の支配が強調されます。人間は誤りを犯しやすいからです。
 人間は罪を犯しますが、罪を犯した人間の帰る場所を主は用意なされていたのです。聖霊降臨日、ペンテコステに主は聖霊を降され、教会を誕生させられました。主は主の弟子達、私たちのために教会を建てられたのです。聖霊が下ったときには120名ぐらいの信徒群れが、その日に3000名の群れになりました。
 信徒の群れの数が増えると様々な問題が噴出してきました。能力に応じて負担し必要に応じて分配される原始共産制も献金を偽る者、不公平な配分などで立ちゆかなくなりました。使徒たちは執事を任命し、実務に就かせましたが原始共産制は崩壊しました。初代教会は使徒たちが集団で指導していたようです。
 教会が資産を持つようになり、教会の力が増してきました。教皇を頂点としたヒエラルキー、位階制度が確立し、教会法も整備されてきましたが、腐敗も始まりました。教皇、人間が神の代理人となる制度に異議を唱えたのが宗教改革です。『信仰のみ』『聖書のみ』『万人祭司』は御言葉中心の信仰なのです。
 教会の歴史は罪と赦しの歴史でした。人間の言葉ではなく御言葉を信じる信仰が信徒に立ち帰る場、悔い改めの場を提供したのです。御言葉を語るのも人間ですから誤りもありますが、それを超えて主が働かれるのを信じる信仰がプロテスタント信仰です。教会法の確立も人間の恣意的な行動を抑制しています。
 教会で主を賛美、礼拝することが律法の要求、主との関係を正しくすることを満たすのです。人間の造り出す制度には欠陥がありますが、主がその欠陥を超えて働かれるのを信じるのが信仰です。例えば選挙で同数ならばくじを引きますが、これを公平な手段と捉えるか、主の意思の表れと捉えるかの違いです。教会はこれからも変化していくでしょうが、生ける主は変わらないのです。
 人間は永遠の命を望みますが、永遠の命を与えられるのは生ける主のみです。行いでは永遠の命には到達できませんが、信仰により到達できるのです。永遠の命は教会のみが与えられる秘蹟、サクラメントだからです。主の十字架での贖いの死を信じ、甦りの命を信じる者のみに与えられるサクラメントなのです。