07/06/03 私こそあなたの神 M
2007年6月3日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
私こそあなたの神 ホセア書13章4-8節
讃美歌 81,Ⅱ17,336
堀眞知子牧師
イスラエル12部族の中で、ヨセフの次男であるエフライムを先祖とするエフライム族は、ヤコブから特別な祝福を受けていました。ヤコブはヨセフの2人の息子を祝福する時、右手をエフライムの頭の上に置きました。それを不満に思ったヨセフは、ヤコブの右手を長男のマナセの頭へ移そうとしましたが、ヤコブはそれを拒んで「弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」と祝福して、エフライムをマナセの上に立てました。その祝福に従って、エフライム族からは、モーセの後継者でありカナン定住の指導者となったヨシュア、北イスラエル王国の最初の王ヤロブアムが生まれました。1節に記されている「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられていた」という言葉は、そのような歴史を語っています。けれども続いて「バアルによって罪を犯したので、彼は死ぬ」と語られているように、エフライム族のヤロブアムから始まった北イスラエル王国は、バアル礼拝に陥っていました。バアルは、人間の手で造られた神にしか過ぎません。国は残っていますが、まことの神様との交わりを失ったイスラエルは、信仰的にはすでに死んでいましたし、国の滅亡も間近に迫っていました。
北イスラエルは最初の王ヤロブアムの罪から、ついに離れることができませんでした。「今も、彼らはその罪に加えて、偶像を鋳て造る、銀を注ぎこみ、技巧を尽くした像を。それらはみな、職人達の細工だ。彼らは互いに言う。『犠牲をささげる者たちよ、子牛に口づけせよ』と」イスラエルは「十戒」により「いかなる像も造ってはならない」と命じられていました。ところがヤロブアムは、北イスラエルの民がエルサレムに上らないようにするために、金の子牛を2体造り、1体をベテルに、1体をダンに置きました。偶像礼拝の罪は偶像礼拝の罪にとどまらず、異教の神々をも受け入れることとなりました。一つの罪に慣れてしまうと、次の罪を招くことになり、罪に罪を重ねる結果となります。「あなたは、私をおいて他に神があってはならない」という戒めに背くこととなりました。しかも彼らは、その罪に気付いていませんでした。まことの神様を礼拝することと異教の神々を礼拝することが、相容れない信仰であることに気付いていませんでした。唯一なる神様を忘れ、多神教の罪を犯していることに気付くことができないほど、イスラエルの信仰は崩れ、信仰的感性を失っていたのです。信仰的感性を失った者、偶像礼拝者、そして偶像そのものが、いかにむなしいものであるかをホセアは語ります。「彼らは朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のように、煙出しから消えて行く煙のようになる」偶像礼拝者は、神様の罰によって、むなしく消えることになります。裁きの日に、イスラエルには何も残されません。
信仰的感性を失い、まことの神様を見失い、滅亡へと歩んでいるイスラエルに向かって、神様は宣言します。「私こそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。私の他に、神を認めてはならない。私の他に、救いうる者はない。荒れ野で、乾ききった地で、私はあなたを顧みた」エジプトの奴隷生活から、荒れ野の40年の旅を経て、約束の地カナンへと導かれたのは、まことなる神様でした。人間が生活することが困難な荒れ野において、イスラエルは40年も旅を続けることができました。荒れ野の旅において、マナを降らせ、水を与え、イスラエルの命を守られたのは、まことなる神様でした。いわば神様の奇跡の御業によって、イスラエルは荒れ野の旅を続けることができたのです。神様は、イスラエルがエジプトで奴隷生活を送っている時から、変わることなくイスラエルの神様でした。変わったのは、イスラエルの方でした。神様は地上の諸民族の中からイスラエルを選ばれ、御自身を示されました。イスラエルを御自分の民として選び出され、契約を結ばれ、その契約に対して誠実でした。神様との契約に対して忠実でなかったのは、イスラエルの方でした。御自分の民であるイスラエルに、絶えず救いの御手を差し伸ばされ続けてきました。その救いの御手を拒んだのは、イスラエルの方でした。神様とイスラエルの間には、歴史の中に現された関係がありました。それにもかかわらず「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、私を忘れた」と語られているように、イスラエルに必要なものを与え、養われた神様を忘れました。乳と蜜の流れる地カナンへと導かれ、他民族が住んでいた土地を与え、豊かな収穫を与えて下さった神様を忘れました。経済的繁栄の中で、驕り高ぶって神様を忘れました。すべてを自らの手で得たかのように思い込み、まことの神様にではなく、人間の手で造られた異教の神々、経済力や軍事力、アッシリアやエジプトに頼りました。
偶像礼拝という宗教的罪によって、イスラエルはまことの神様を忘れ、捨て去りました。そのようなイスラエルには、当然のこととして罰が下ります。神様は言われます。「そこで私は獅子のように、豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように彼らを襲い、脇腹を引き裂き、その場で獅子のように彼らを食らう。野獣が彼らをかみ裂く」イスラエルへの刑罰は、羊を襲う野獣のたとえで語られます。神様の刑罰は、獅子、豹、熊のように、羊の群れを脅かす野獣としてイスラエルを襲います。「子を奪われた熊のように」という言葉の中に、御自分の民であるイスラエルから裏切られた、神様の悲しみを垣間見ることができます。「私は熱情の神である」と言われた、神様のイスラエルへの深い愛の裏返しです。それは契約の妻に裏切られた、ホセア自身の経験と重なります。かつて荒れ野の生活においてイスラエルを救われ、育まれ、共に歩まれた神様が、今や、彼らを徹底的に滅ぼそうとされています。イスラエルの羊飼いであり、保護者であった神様が、滅ぼす者、野獣へと変わられたのです。もはや、イスラエルを助ける者は誰もいません。
「イスラエルよ、お前の破滅が来る。私に背いたからだ。お前の助けである私に背いたからだ」と語られた後、神様はホセアを通して、イスラエルの歴史を振り返って語ります。カナンに導き入れられてから200年ほど、イスラエルには王はいませんでした。ヨシュアが亡くなった後、イスラエルは国としてまとまるのではなく、12部族がそれぞれの嗣業の地で生活しました。ヨシュアが死んだ後も、神様の大いなる御業を見た長老達が生きている間は、イスラエルは神様に仕えました。ところが、その世代が死に絶えて、大いなる御業を知らない別の世代が興った時、イスラエルは神様の目に悪とされることを行いました。悪とされることを行うと、神様は他民族によってイスラエルを攻撃するという御業を現されました。他民族によって苦しめられると、イスラエルは神様に助けを求めて叫びました。すると神様は救助者として、士師を立てられました。士師がイスラエルを裁いている間は、彼らは神様に忠実に歩みましたが、士師が死ぬと、また神様の目に悪とされることを行いました。士師記に記されていたように、200年ほどの間、イスラエルは罪を犯し、他民族に攻撃されると悔い改めて、神様に助けを求め、神様が立てられた士師によって救われると、その士師の時代は神様に忠実に歩むけれど、しばらくすると罪を犯す。その繰り返しでした。
預言者サムエルの時代に、イスラエルの長老達は王を求めました。彼らはサムエルに「他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立てて下さい」と申し入れました。サムエルの目には彼らの言い分は悪と映りましたが、神様はサムエルに「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」と命じられました。サムエルは神様の御命令に従い、イスラエルに対し、神様の御言葉をすべて伝えた上で「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えては下さらない」と言いました。イスラエルはサムエルの声に聞き従わず「我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」と主張しました。神様はサムエルに「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と言われました。そしてサウルが王として召し出され、イスラエルに王国が誕生しました。
神様の御心に逆らって、それでも神様がイスラエルの声を聞き入れて建てられた王国。王として召された者は、神様の忠実なしもべとして、イスラエルを指導する責任がありました。信仰的にイスラエルを導き、諸外国から守る義務がありました。ところが、神様によって立てられた王国が、しかも王が先頭に立って神様に背き、異教の神々を礼拝したのです。神様によって立てられた王ではなく、人間の力によって立っている王に、イスラエルは頼りました。「どこにいるのか、お前の王は、どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは」という神様の問い掛けは、王の無力さ、人間の力に頼ったイスラエルの愚かさを指摘しています。同時に北イスラエルの最後の王ホシェアが、エジプトを頼りにしてアッシリアに反逆したために、アッシリアによって捕らえられ、牢につながれることを暗示しています。「『王や高官を私に下さい』と、お前は言ったではないか」という神様の問い掛けは、300年余り前、サムエルを通して語られた神様の警告にもかかわらず「我々にはどうしても王が必要なのです」と求めたイスラエル、そして結果として神様に背いたイスラエルの罪を指摘しています。イスラエルの求めに従って、神様が王を与えたにもかかわらず、神様に背いたイスラエルに「怒りをもって、私は王を与えた。憤りをもって、これを奪う」という神様の裁きの言葉が告げられます。
神様の裁きは厳しく、安易な赦しは与えられません。「エフライムの咎はとどめておかれ、その罪は蓄えておかれる」という言葉が言い表しているように、神様の裁きの時まで、イスラエルの罪は蓄積されます。イスラエルの罪は忘れ去られることなく、神様の記録に留められ、罪にふさわしい刑罰が下されます。「産みの苦しみが襲う。彼は知恵のない子で、生まれるべき時なのに、胎から出て来ない」通常、産みの苦しみは母親を襲うのですが、ここでは生まれてくる子供に産みの苦しみが襲う、と語られています。生まれるべき時なのに、胎から出て来ないので、子供に苦しみが襲う、その子供は知恵のない子である、とホセアは語ります。これは、神様に立ち帰る機会が与えられているにもかかわらず、その機会を拒否しているイスラエルの愚かさを現しています。子供が生まれるのは、新しい命の誕生です。イスラエルにとって、神様に立ち帰る命、生まれ変わる命の誕生の時です。神様が早く生み出そうとされているのに、イスラエルは拒否しているのです。「陰府の支配から私は彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみは私の目から消え去る」悔い改めないイスラエルに対して、神様の裁きの宣告が繰り返されます。罪と犯罪と反逆に対して、神様は憐れみの心を閉ざされます。イスラエルには、死が訪れます。
「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる」と記されているように、ヤロブアム2世のもとで、北イスラエルは一時的に繁栄しました。けれども熱風が待ち構えています。アッシリアによって滅ぼされ、捕囚の民となります。「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる」という言葉の中に、北イスラエルの歴史が一言で言い表されています。神様に背いたがゆえに、神様の裁きはアッシリアを用いて、やがて生まれてくる子供にまで及びます。
パウロはコリントの信徒への手紙一15章54-57節で、死者の復活を語るに当たって「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』私達の主イエス・キリストによって私達に勝利を賜る神に、感謝しよう」と述べています。「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」とは、かなり言葉が異なっていますが「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」として14節を引用しています。ホセアが敗北と死を語っているのに対し、パウロは勝利と生を語っています。敗北から勝利へ、死から生へと変わったのは、いや変えられたのは、神様が主イエス・キリストによってなされた御業によっています。主イエス・キリストは罪のために死なれ、3日目に復活されたことにより罪と死に勝利しました。主イエス・キリストの復活は、私達キリスト者の復活を保証する初穂です。新しい命は、罪と罰を無視して訪れるのではありません。神様は義なる御方であり、人間の犯した罪を見過ごしにはされません。罪は罪として、あくまでも刑罰を下されます。イエス様が十字架の上で、私達すべての人間の罪を負われたことにより、罪なき御方が父なる神様から罰を受けられました。イエス様が十字架の上で流された血潮によって、新しい契約が立てられ、キリスト者は信仰によって契約の民、神様の民とされました。「私こそあなたの神、主。十字架の上であなたの罪を贖った。復活によって永遠の命をあなたに与えた。私の他に、神を認めてはならない。私の他に、救いうる者はない」主イエス・キリストは、今も宣言されています。罪と死に勝利され、永遠の命を与えて下さった、主イエス・キリストに従う者とならせていただきましょう。