2007/06/04

07/06/03 私こそあなたの神 M

2007年6月3日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
私こそあなたの神     ホセア書13章4-8節
讃美歌 81,Ⅱ17,336
堀眞知子牧師
イスラエル12部族の中で、ヨセフの次男であるエフライムを先祖とするエフライム族は、ヤコブから特別な祝福を受けていました。ヤコブはヨセフの2人の息子を祝福する時、右手をエフライムの頭の上に置きました。それを不満に思ったヨセフは、ヤコブの右手を長男のマナセの頭へ移そうとしましたが、ヤコブはそれを拒んで「弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」と祝福して、エフライムをマナセの上に立てました。その祝福に従って、エフライム族からは、モーセの後継者でありカナン定住の指導者となったヨシュア、北イスラエル王国の最初の王ヤロブアムが生まれました。1節に記されている「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられていた」という言葉は、そのような歴史を語っています。けれども続いて「バアルによって罪を犯したので、彼は死ぬ」と語られているように、エフライム族のヤロブアムから始まった北イスラエル王国は、バアル礼拝に陥っていました。バアルは、人間の手で造られた神にしか過ぎません。国は残っていますが、まことの神様との交わりを失ったイスラエルは、信仰的にはすでに死んでいましたし、国の滅亡も間近に迫っていました。
北イスラエルは最初の王ヤロブアムの罪から、ついに離れることができませんでした。「今も、彼らはその罪に加えて、偶像を鋳て造る、銀を注ぎこみ、技巧を尽くした像を。それらはみな、職人達の細工だ。彼らは互いに言う。『犠牲をささげる者たちよ、子牛に口づけせよ』と」イスラエルは「十戒」により「いかなる像も造ってはならない」と命じられていました。ところがヤロブアムは、北イスラエルの民がエルサレムに上らないようにするために、金の子牛を2体造り、1体をベテルに、1体をダンに置きました。偶像礼拝の罪は偶像礼拝の罪にとどまらず、異教の神々をも受け入れることとなりました。一つの罪に慣れてしまうと、次の罪を招くことになり、罪に罪を重ねる結果となります。「あなたは、私をおいて他に神があってはならない」という戒めに背くこととなりました。しかも彼らは、その罪に気付いていませんでした。まことの神様を礼拝することと異教の神々を礼拝することが、相容れない信仰であることに気付いていませんでした。唯一なる神様を忘れ、多神教の罪を犯していることに気付くことができないほど、イスラエルの信仰は崩れ、信仰的感性を失っていたのです。信仰的感性を失った者、偶像礼拝者、そして偶像そのものが、いかにむなしいものであるかをホセアは語ります。「彼らは朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のように、煙出しから消えて行く煙のようになる」偶像礼拝者は、神様の罰によって、むなしく消えることになります。裁きの日に、イスラエルには何も残されません。
信仰的感性を失い、まことの神様を見失い、滅亡へと歩んでいるイスラエルに向かって、神様は宣言します。「私こそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。私の他に、神を認めてはならない。私の他に、救いうる者はない。荒れ野で、乾ききった地で、私はあなたを顧みた」エジプトの奴隷生活から、荒れ野の40年の旅を経て、約束の地カナンへと導かれたのは、まことなる神様でした。人間が生活することが困難な荒れ野において、イスラエルは40年も旅を続けることができました。荒れ野の旅において、マナを降らせ、水を与え、イスラエルの命を守られたのは、まことなる神様でした。いわば神様の奇跡の御業によって、イスラエルは荒れ野の旅を続けることができたのです。神様は、イスラエルがエジプトで奴隷生活を送っている時から、変わることなくイスラエルの神様でした。変わったのは、イスラエルの方でした。神様は地上の諸民族の中からイスラエルを選ばれ、御自身を示されました。イスラエルを御自分の民として選び出され、契約を結ばれ、その契約に対して誠実でした。神様との契約に対して忠実でなかったのは、イスラエルの方でした。御自分の民であるイスラエルに、絶えず救いの御手を差し伸ばされ続けてきました。その救いの御手を拒んだのは、イスラエルの方でした。神様とイスラエルの間には、歴史の中に現された関係がありました。それにもかかわらず「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、私を忘れた」と語られているように、イスラエルに必要なものを与え、養われた神様を忘れました。乳と蜜の流れる地カナンへと導かれ、他民族が住んでいた土地を与え、豊かな収穫を与えて下さった神様を忘れました。経済的繁栄の中で、驕り高ぶって神様を忘れました。すべてを自らの手で得たかのように思い込み、まことの神様にではなく、人間の手で造られた異教の神々、経済力や軍事力、アッシリアやエジプトに頼りました。
偶像礼拝という宗教的罪によって、イスラエルはまことの神様を忘れ、捨て去りました。そのようなイスラエルには、当然のこととして罰が下ります。神様は言われます。「そこで私は獅子のように、豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように彼らを襲い、脇腹を引き裂き、その場で獅子のように彼らを食らう。野獣が彼らをかみ裂く」イスラエルへの刑罰は、羊を襲う野獣のたとえで語られます。神様の刑罰は、獅子、豹、熊のように、羊の群れを脅かす野獣としてイスラエルを襲います。「子を奪われた熊のように」という言葉の中に、御自分の民であるイスラエルから裏切られた、神様の悲しみを垣間見ることができます。「私は熱情の神である」と言われた、神様のイスラエルへの深い愛の裏返しです。それは契約の妻に裏切られた、ホセア自身の経験と重なります。かつて荒れ野の生活においてイスラエルを救われ、育まれ、共に歩まれた神様が、今や、彼らを徹底的に滅ぼそうとされています。イスラエルの羊飼いであり、保護者であった神様が、滅ぼす者、野獣へと変わられたのです。もはや、イスラエルを助ける者は誰もいません。
「イスラエルよ、お前の破滅が来る。私に背いたからだ。お前の助けである私に背いたからだ」と語られた後、神様はホセアを通して、イスラエルの歴史を振り返って語ります。カナンに導き入れられてから200年ほど、イスラエルには王はいませんでした。ヨシュアが亡くなった後、イスラエルは国としてまとまるのではなく、12部族がそれぞれの嗣業の地で生活しました。ヨシュアが死んだ後も、神様の大いなる御業を見た長老達が生きている間は、イスラエルは神様に仕えました。ところが、その世代が死に絶えて、大いなる御業を知らない別の世代が興った時、イスラエルは神様の目に悪とされることを行いました。悪とされることを行うと、神様は他民族によってイスラエルを攻撃するという御業を現されました。他民族によって苦しめられると、イスラエルは神様に助けを求めて叫びました。すると神様は救助者として、士師を立てられました。士師がイスラエルを裁いている間は、彼らは神様に忠実に歩みましたが、士師が死ぬと、また神様の目に悪とされることを行いました。士師記に記されていたように、200年ほどの間、イスラエルは罪を犯し、他民族に攻撃されると悔い改めて、神様に助けを求め、神様が立てられた士師によって救われると、その士師の時代は神様に忠実に歩むけれど、しばらくすると罪を犯す。その繰り返しでした。
預言者サムエルの時代に、イスラエルの長老達は王を求めました。彼らはサムエルに「他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立てて下さい」と申し入れました。サムエルの目には彼らの言い分は悪と映りましたが、神様はサムエルに「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」と命じられました。サムエルは神様の御命令に従い、イスラエルに対し、神様の御言葉をすべて伝えた上で「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えては下さらない」と言いました。イスラエルはサムエルの声に聞き従わず「我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」と主張しました。神様はサムエルに「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と言われました。そしてサウルが王として召し出され、イスラエルに王国が誕生しました。
神様の御心に逆らって、それでも神様がイスラエルの声を聞き入れて建てられた王国。王として召された者は、神様の忠実なしもべとして、イスラエルを指導する責任がありました。信仰的にイスラエルを導き、諸外国から守る義務がありました。ところが、神様によって立てられた王国が、しかも王が先頭に立って神様に背き、異教の神々を礼拝したのです。神様によって立てられた王ではなく、人間の力によって立っている王に、イスラエルは頼りました。「どこにいるのか、お前の王は、どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは」という神様の問い掛けは、王の無力さ、人間の力に頼ったイスラエルの愚かさを指摘しています。同時に北イスラエルの最後の王ホシェアが、エジプトを頼りにしてアッシリアに反逆したために、アッシリアによって捕らえられ、牢につながれることを暗示しています。「『王や高官を私に下さい』と、お前は言ったではないか」という神様の問い掛けは、300年余り前、サムエルを通して語られた神様の警告にもかかわらず「我々にはどうしても王が必要なのです」と求めたイスラエル、そして結果として神様に背いたイスラエルの罪を指摘しています。イスラエルの求めに従って、神様が王を与えたにもかかわらず、神様に背いたイスラエルに「怒りをもって、私は王を与えた。憤りをもって、これを奪う」という神様の裁きの言葉が告げられます。
神様の裁きは厳しく、安易な赦しは与えられません。「エフライムの咎はとどめておかれ、その罪は蓄えておかれる」という言葉が言い表しているように、神様の裁きの時まで、イスラエルの罪は蓄積されます。イスラエルの罪は忘れ去られることなく、神様の記録に留められ、罪にふさわしい刑罰が下されます。「産みの苦しみが襲う。彼は知恵のない子で、生まれるべき時なのに、胎から出て来ない」通常、産みの苦しみは母親を襲うのですが、ここでは生まれてくる子供に産みの苦しみが襲う、と語られています。生まれるべき時なのに、胎から出て来ないので、子供に苦しみが襲う、その子供は知恵のない子である、とホセアは語ります。これは、神様に立ち帰る機会が与えられているにもかかわらず、その機会を拒否しているイスラエルの愚かさを現しています。子供が生まれるのは、新しい命の誕生です。イスラエルにとって、神様に立ち帰る命、生まれ変わる命の誕生の時です。神様が早く生み出そうとされているのに、イスラエルは拒否しているのです。「陰府の支配から私は彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみは私の目から消え去る」悔い改めないイスラエルに対して、神様の裁きの宣告が繰り返されます。罪と犯罪と反逆に対して、神様は憐れみの心を閉ざされます。イスラエルには、死が訪れます。
「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる」と記されているように、ヤロブアム2世のもとで、北イスラエルは一時的に繁栄しました。けれども熱風が待ち構えています。アッシリアによって滅ぼされ、捕囚の民となります。「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる」という言葉の中に、北イスラエルの歴史が一言で言い表されています。神様に背いたがゆえに、神様の裁きはアッシリアを用いて、やがて生まれてくる子供にまで及びます。
 パウロはコリントの信徒への手紙一15章54-57節で、死者の復活を語るに当たって「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』私達の主イエス・キリストによって私達に勝利を賜る神に、感謝しよう」と述べています。「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」とは、かなり言葉が異なっていますが「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」として14節を引用しています。ホセアが敗北と死を語っているのに対し、パウロは勝利と生を語っています。敗北から勝利へ、死から生へと変わったのは、いや変えられたのは、神様が主イエス・キリストによってなされた御業によっています。主イエス・キリストは罪のために死なれ、3日目に復活されたことにより罪と死に勝利しました。主イエス・キリストの復活は、私達キリスト者の復活を保証する初穂です。新しい命は、罪と罰を無視して訪れるのではありません。神様は義なる御方であり、人間の犯した罪を見過ごしにはされません。罪は罪として、あくまでも刑罰を下されます。イエス様が十字架の上で、私達すべての人間の罪を負われたことにより、罪なき御方が父なる神様から罰を受けられました。イエス様が十字架の上で流された血潮によって、新しい契約が立てられ、キリスト者は信仰によって契約の民、神様の民とされました。「私こそあなたの神、主。十字架の上であなたの罪を贖った。復活によって永遠の命をあなたに与えた。私の他に、神を認めてはならない。私の他に、救いうる者はない」主イエス・キリストは、今も宣言されています。罪と死に勝利され、永遠の命を与えて下さった、主イエス・キリストに従う者とならせていただきましょう。

07/05/27 ペンテコステ礼拝,あなたの神を待ち望め M

2007年5月27日 瀬戸キリスト教会ペンテコステ礼拝
あなたの神を待ち望め     ホセア書12章3-7節
讃美歌 80,Ⅱ17,177
堀眞知子牧師
ペンテコステおめでとうございます。昨年も述べましたように、ペンテコステとはギリシア語で50日目という意味です。出エジプト記34章22節に「あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、7週祭を祝いなさい」と記しているように、もともとは過ぎ越しの祭りから50日目、小麦の収穫を神様に感謝するユダヤ教の祭りの日でした。その日が私達クリスチャンにとって、クリスマス、イースターと並ぶ三大祝節の一つとなったのは、この日に聖霊が降り、地上に主の教会が誕生したからです。いわば教会の誕生日であり、聖霊降臨日とも言われています。主イエスは復活された後、40日にわたって弟子達に現れ、神様の御国について語られました。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」と話された後、天に上げられました。この約束に従って10日後に聖霊が降り、主の教会が誕生しました。教会は主イエスの再臨の日まで、地上に立ち続けます。この教会の歴史の中に、すでに瀬戸キリスト教会も加えられていることに感謝し、共に御言葉に耳を傾けましょう。
さて北イスラエルは、ヤロブアムが最初の王となった時から200年が過ぎ、最後の王ホシェアの時代になっていました。北イスラエルはヤロブアムの罪から離れることなく、偽りと欺きに満ちていました。彼らは預言者ホセアの言葉を聞くべく、彼を取り囲んではいましたが、真実と真心をもってではなく、偽りと欺きをもって、彼の周りに集まっていました。北イスラエルだけではありませんでした。南ユダも神様から離れてさまよい、偶像崇拝の罪を犯していました。南ユダの王アハズは父ヨタムと異なって、北イスラエルの王達の道を歩み、自分の子に火の中を通らせたり、さまざまな場所でいけにえをささげ、香をたいて異教の慣習を取り入れていました。さらに、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会うためにダマスコに行き、そこにある祭壇を模倣して作製し、エルサレム神殿の中に置いて、その祭壇の上で献げ物を行いました。北イスラエルも南ユダも、神様から非難される存在でした。神様はホセアを通して、北イスラエルの外交政策も非難しました。2節に「イスラエルは風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね、アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ」と記されています。牧者というのは羊の群れを守り、その群れを増やす働きをするのですが、イスラエルは羊ではなく、風の牧者となっていました。熱風はアラビア砂漠の方から吹いてくる風で、作物を枯らすことがありました。そのような熱風を一日中、追って歩くというのは、自分の国に害をもたらすアッシリアやエジプトとの同盟に頼っている、イスラエルの外交政策を指しています。両国との同盟は、欺瞞と暴虐を重ねる結果となります。
神様はユダとイスラエルを告発されます。その共通の先祖であり、イスラエルをいう名前を与えられたヤコブの生涯、彼の罪と彼に与えられた神様の恵みを語られます。創世記に記されていたように、ヤコブは狩りから疲れ切って帰って来た兄エサウに、パンとレンズ豆の煮物を与えることによって、彼の長子権を奪いました。母リベカと共謀して父イサクを欺き、長子の祝福を奪いました。「ヤコブをその歩みに従って罰し、その悪い行いに報いられる」と記されているように、イサクとエサウを欺いた結果として、ヤコブは故郷を離れ、リベカの兄ラバンのもとへ逃げざるを得ませんでした。4節に「ヤコブは母の胎にいた時から、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った」と記されているように、ヤコブとエサウはリベカの胎内にいる時から押し合い、ヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれてきました。「神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」と記されているように、伯父ラバンの家で20年の苦しい生活を送った後、ヤコブは家族を連れて故郷へと向かいました。エサウとの再会を恐れて、ヤボクの渡しに独りで残っていたヤコブに、神様の御使いが現れ、夜明けまでヤコブと格闘しました。夜が明ける前にヤコブは、神様の御使いに祝福を求め「イスラエル」という名前を与えられました。ヤコブはエサウと平和のうちに再会しました。その後、神様はヤコブに「ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行った時、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい」と命じられました。ヤコブは神様の命令に従い、一族と共にベテルに上り、神様のために祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと名付けました。
ヤコブの罪と彼に与えられた神様の恵みを語った後、ホセアは「主こそ万軍の神、その御名は主と唱えられる。神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と語りました。イスラエルがベテルで礼拝している神は、まことの神様ではありません。彼らは異教の神々に礼拝をささげていました。かつて神様はヤコブの犯した罪に罰を加え、彼の悪い行いに報いを与えられました。それでも力を尽くして神様の御使いと争い、祝福を求めたヤコブに神様は祝福を与え、親しく語りかけられました。ヤコブに裁きと恵みを与えた神様こそ、まことの神様であり「万軍の神、その御名は主」と唱えられる御方です。「主なる神様のもとに立ち帰れ」とホセアはイスラエルに命じます。ヤコブが悔い改めて神様に立ち帰り、イスラエルという名前を与えられたように、イスラエルも神様に立ち帰り、契約の民、神様の宝の民であるイスラエルになれ、とホセアは命じます。神様に立ち帰り、悔い改め、罪から遠ざかり、過去と決別すること。欺瞞と暴虐ではなく、愛と正義の上にこそ、契約の民の生活があります。神様に信頼し、すがりつき、神様の御業を待ち望む生き方。それは何よりも神様が求めておられることです。まことの祝福は、イスラエルが神様のもとに立ち帰り、愛と正義を保ち、常に神様を待ち望むことによって与えられるのです。
けれども現実において、神様から離れてしまったイスラエルは、この世の基準の中で生きていました。8節に「商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する」と記されていますが、イスラエルの北に位置するフェニキアは、商業の盛んな国でした。紀元前9世紀前半に北イスラエルの王であったアハブは、フェニキアのシドンの王女イゼベルと結婚しました。彼女によって、北イスラエルにバアル信仰がもたらされ、さらに富を重視する考え方が入ってきました。申命記25章、24章において、神様はモーセを通して「あなたは袋に大小2つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小2つの升を置いてはならない。不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる」「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」と命じられました。ところが、イスラエルは富の豊かさ、経済の繁栄に心を奪われて、神様が忌み嫌う欺きの秤を持つようになり、搾取を愛するようになりました。イスラエルは驕り高ぶって「私は豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、誰も気付くまい」と言いました。人間が気付かなければ、それでいいと思っていました。すべてを御覧になっている神様の目を忘れていました。
まことの神様を忘れ、富に心を奪われ、他人が気付かなければ不正をも恐れない。不信仰に陥ったイスラエルに、神様は宣言します。「私こそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。私は再びあなたを天幕に住まわせる、私があなたと共にあった日々のように」イスラエルはエジプトで奴隷生活を送り、その苦しい労働の中で、神様に助けを求めました。助けを求めるイスラエルの叫びに、神様は応えられてモーセを遣わし、エジプトを脱出させ、荒れ野の40年の旅を経て、約束の地カナンへと導かれました。「私は再びあなたを天幕に住まわせる」それは荒れ野の生活に戻ることでした。荒れ野の40年間、イスラエルは定住の地を持たず、国という体制もありませんでした。イスラエルは放浪生活に引き戻されます。富も失い、国も失います。けれども荒れ野の40年間、イスラエルは神様と共にあり、神様が天から降らせて下さったマナによって養われました。荒れ野の生活、天幕生活に戻ることにより、真に信頼すべきものが富や国ではないことを知らされるのです。信頼すべき御方は、神様お一人であることを知らされるのです。イスラエルの信仰の出発は、出エジプトのできごとでした。今もう一度、天幕生活に戻ることにより、信仰の再出発の時が備えられるのです。「私は再びあなたを天幕に住まわせる」という裁きの言葉は、同時に祝福に向かってイスラエルが歩み出す、そのための言葉でもあるのです。
申命記18章に記されていたように、神様はイスラエルがカナンに入るにあたり、預言者を立てる約束をされました。その約束に従いエリヤ、エリシャを始めとして多くの預言者が立てられました。ホセアも、その約束に従って今、神様の御言葉を語っています。神様は「私は預言者達に言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者達によってたとえを示した」と言われました。まことの神様を離れ、異教の神々を礼拝するようになったイスラエルに、神様は預言者を遣わされました。ですからイスラエルには、神様の御言葉が伝えられていました。度重なる警告もされました。にもかかわらず、彼らは預言者の言葉に聞き従おうとはしませんでした。神様の御心を尋ね求めようとはしませんでした。神様は語られます。「ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない」ギレアドやギルガルでは、異教の祭壇が築かれ、犠牲がささげられていました。それらはむなしく崩れ去ることになります。
ホセアは、再びヤコブについて語ります。「ヤコブはアラムの野に逃れ、イスラエルは妻を得るために仕え、また妻を得るために群れを守った」兄エサウから逃げて伯父ラバンのもとへ身を寄せたヤコブは、ラバンの娘であるラケルを妻として迎えるために、そして家族を守るために、結果として伯父に20年間仕え、彼の羊の群れを守りました。一方、神様はモーセを預言者として召され、イスラエルをエジプトから約束の地カナンへと導き上らせ、モーセによってイスラエルを守られました。イスラエルを守ったのは、ヤコブの功績ではなく、神様の恵みの御業でした。その神様の恵みを忘れたイスラエルは、神様を激しく怒らせました。神様は流血の報いをイスラエルに下され、アッシリア捕囚という厳しい刑罰が、イスラエルを待ち構えていました。ホセアは預言者として神様の厳しい刑罰を語りつつも、同時に神様の言葉として「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と語りました。ヤコブはイサクとエサウを欺いたがゆえに、故郷を離れざるを得ませんでした。イスラエルも自らの罪によって、アッシリアに捕囚となり、約束の地カナンを離れざるを得ません。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」という言葉は、イスラエルがアッシリアで捕囚の身となっても変わることはありません。ヤコブが20年の時を経て帰って来たように、イスラエルにも希望はあります。いずこの地にあっても、神様に立ち帰る機会は与えられています。神様の民として愛と正義を保ち、神様を待ち望むなら、神様は必ず応えて下さり、御業を現して下さいます。イスラエルと結ばれた契約ゆえに、神様とイスラエルの関係は絶たれてはいません。神様はなおも、イスラエルの神として、悔い改めの機会を備え、招きの御手を差し伸べて下さっています。
ホセアが預言者として立てられたイスラエルは、神様の真実に目を向けようとはしませんでした。イエス様も真実を語られましたが、多くの人々は、ペトロを始めとする弟子達さえ真実を知ることを拒否し、ついにイエス様は十字架の上で死なれました。しかし十字架の死と御復活を通して、神様の真実が弟子達の目に明らかになりました。主イエスの復活から50日目に当たるペンテコステの日に、聖霊が降ったことによって、地上に主の教会が誕生しました。父なる神様によって、イエス様がこの世に遣わされた目的は、十字架の上で私達の罪を贖い、御自身の血の贖いによって召し集めた人々を、教会という群れとして、主イエスを救い主と信じる共同体として、地上に建て上げることでした。そして教会には、主イエスの一回限りのできごとである復活により、今も復活の主イエスが生きて働かれています。主イエスの再臨まで続く教会の歩みを通して、神様の愛と正義が宣べ伝えられていきます。イエス様の十字架によって結ばれた新しい契約、御復活によって与えられた永遠の命、それらの証人として、私達は召されています。召された者としてふさわしい歩みがあり、その道を歩むように、神様は道を切り開いて下さっています。何度も何度も罪を犯し失敗を繰り返す人間が、神様のもとに立ち帰ることができるように、神様は地上に教会を建てて下さいました。
神様は今も生きて働かれる御方であり、私達人間の歴史の中に、教会の歴史の中に御業を現しておられます。主の教会において、私達が神様に礼拝を捧げ、聖書の御言葉に耳を傾け、神様を心から讃美する時、主の愛と正義が、この教会に満ちるのです。瀬戸キリスト教会も、この地にあって伝道所開設10周年を迎えさせていただきました。10周年記念事業として、礼拝堂拡張工事も行われ、資料集として『乳と蜜の流れる地』も発行することができました。ここまで導いて下さった神様に感謝をささげると共に、神様の愛と正義に誠実に応えさせていただきましょう。富や権力、あるいは自分の能力や健康、家族を始めとする人間関係、そのような神様以外のものに頼るのではなく、神様にのみ助けを求め、徹底的に神様にのみ信頼する誠実さを、神様によって養っていただきましょう。与えられた地上の歩みの中で神様の御業を待ち望み、そして終末の日、主の再臨の日を待ち望む。歴史に現された神様の御業を絶えず思い起こし「あなたの神を待ち望め」という呼び掛けに応えさせていただき、神様の愛と正義を保ち続け、世に証していく伝道者の群れとして、瀬戸キリスト教会が歩み続けることができるように、上からの愛と御力を祈り求めましょう。

07/05/20 罪の法則に仕えている T

罪の法則に仕えている
2007/05/20
ローマの信徒への手紙7:13~25
 日本国憲法が施行されたから60周年の節目の年になりましたが、憲法改正の手続き法、国民投票法案が国会で成立しました。憲法改正は96条に衆参両院の2/3で発議され、国民の過半数の賛成で承認されることが明記されています。
 国民投票法がなかったのは立法府の不作為ですが、55年体制の元で与野党が不毛の対立をしたからです。発議に両院の2/3の賛成が必要であることを裏返せば、護憲勢力がどちらかの院で1/3の議席を占めればよいことになります。
 社共両党の教条主義が国会での憲法論議を妨げてきましたが、55年体制が終焉し、民主党が野党第一党になってからは、改憲論議へのタブーがなくなりました。自民党は民主党に大幅に譲歩し、共同提案がなされるかと思われました。
 しかし小沢トロイカ体制は党利党略のために反対に回り、民主党は55年体制へ先祖返りしました。世論は憲法改正を支持していますが、憲法九条改正については国論が二分されていますが、21世紀に相応しい憲法が求められています。
 環境権、プライバシー権、地方自治の規定などを明文化することが時代の要請です。これらの国民の合意が得られやすい条項を憲法に書き加えることから始めれば、国民の間でも憲法論議が起き、憲法に対する関心も増してきます。
 憲法改正論議が平和憲法論争に矮小化され、21世紀に必要不可欠な国民の権利と義務に対する議論が疎かにされています。自民党案でも社会保障に関する部分、前文、九条を除けば、国民の合意が得られるものが少なくありません。
 従来の憲法憲論議は憲法九条を巡る争いに終始し、国民の生活に密着する項目について議論が疎かにされてきました。いきなり平和憲法改正を国会で審議すれば混乱が起きますから、新しい権利から国民投票に付せばよいと思います。
 憲法に対する思いには世代間で大きな差があります。戦前戦中派、中曽根元首相などの軍隊経験者にはアメリカの占領政策の象徴と感じる人もいますが、戦争の犠牲にされた多くの国民は戦死者の血で贖われた憲法だと感じています。
団塊の世代までは血の臭いを身近に感じていますので、民主主義、平和主義を国是だと素朴に感じられますが、戦後世代、安倍首相、前原民主党前代表などは平和な社会に育ちましたので、平和を守るための防衛力を強調するのです。
 先ず世代間に横たわる憲法観の差を埋めるためにも憲法論議が活発になされるべきです。憲法論議をタブー視するのは非核三原則を論議しなければ国際社会にも核問題は存在しない思いこんでしまう日本人的思考の貧困さの表れです。
 護憲派も改憲論議を拒否するのではなく、前文、九条以外は協議に応じ、21世紀に必要とされる権利については憲法改正に応じるべきでしょう。憲法を不磨の大典として墨守し、憲法改正論議すら違憲と断じる護憲派は時代遅れです。
 国会では憲法改正は国民生活に身近な条項から先行審議し、平和憲法を最後に審議すべきです。世論調査によれば護憲派が国民投票で勝利する可能性が高く、もし護憲派が勝利できれば平和憲法を次の世代への贈り物に出来ます。
 パウロは律法は霊的なものですが、私は肉の人であると告白しています。ファリサイ派のラビであったパウロは律法の専門家ですから、律法、掟に反する罪を具体的に知っていましたが、肉の人である彼は罪から逃れられることができなかったのです。内なる人は神の律法を喜んでいるのにも拘わらず、律法に反する罪を罪として自覚しても、外なる人、肉の人は罪を犯してしまうのです。罪を自覚し、善をなそうと望んでいる内なる人と、罪を自覚しながらも憎んでいること、悪をなしてしまう外なる人が同居しているのを自覚しているのです。
 律法、掟は罪の基準を明確にしてくれますが、人間にはそれを守りきる能力が授かられていないのです。唯一の神から与えられた律法は聖なるものですが、人間は肉の人にしか過ぎません。律法の罪を自覚させる力は人々を悔い改めに導きましたが、悔い改めても罪から解放されない人間の罪深さがあるのです。
 悔い改めた人間だからこそ善をなしたいと望むのですが、五体、肉の衝動に負け、罪を犯してしまうのです。『心を尽くし、汝の主を愛せよ』、『己をあいするように隣人を愛せよ』が信仰の原点ですが、頭では理解できても行動が伴わないことは誰でも経験することなのです。理解することと実行することは別の次元のことだからです。パウロだけではなく誰でも経験することだからです。
 ペテロはイエス様に『主よ、ご一緒なら牢に入っても死んでもよいと覚悟しています』と言いましたが、大祭司の中庭で三度も主を知らないと言ってしまいました。ペテロのイエス様にどこまでもついて行く覚悟は決して中途半端なものではありませんでしたが、身に危険を感じた時には脆くも崩れ去りました。
 このような人間の心の動きをパウロは心の法則に対してもう一つの法則、罪の法則と表現しています。心の法則に従い善をなそうとするのですが、五体、肉の人は罪の法則に従い悪を行ってしまうのです。善をなそうとする内なる人パウロも罪に売り渡される肉なる人パウロもパウロ自身に変わらないからです。
 パウロは心の法則と戦い、罪の法則の虜にさせているもう一つの法則に支配されている自分をなんと惨めな人間だろうと表現しています。善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない惨めな自分、死に定められている肉の体から誰が救ってくれるのだろうかと嘆いているのです。内なる人は善を行う意志に満ちていますが、肉の人には実行できない二律背反に苦しんでいるのです。
 自分の内に救いの道がないことを自覚したパウロの視線は主イエス・キリストに突然向けられます。パウロは心では神の律法に仕え、心の法則に従いながらも、肉の体が罪の法則に仕えている自分の姿を主に投げ出しているのです。主が人間パウロを二律背反の苦しみから解放してくださるのを確信しるのです。
 『私はなんと惨めな人間なのでしょう』という告白は、人間ならば誰もが経験するものですが、使徒パウロの率直な弱さの告白には身に迫るものを感じさせられます。主がパウロに語られた『私の恵はあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる』という御言葉は肉体の具体的な弱さだけではなく、心の法則に仕えながらも罪の法則に仕えてしまう人間の弱さ、二律背反から逃れられない人間の弱さの内にこそ主の恵が生きて働くことをお示しになったのかもしれません。だから私は弱いときにこそ強いと証しできたのです。
 パウロの視点から見れば、小説の有能で勤勉、社交的な高名な医師であったがは内なる人と肉の人とが薬により分離されたといえるかもしれません。ジキル博士は高名な勤勉で社交的な医師でしたが、この世の快楽を貪りたい密かに思っていました。善の側面と悪の側面を分離して別々の肉体に宿らすことに成功しました。悪の化身、ハイドの肉体は若返り、歓楽街を徘徊し、暴力をふるいましたが、薬で善良なジキル博士に戻れました。やがて善なるハイド博士が衰弱し、悪なるハイドが増長し、ハイド博士に戻られなくなり自殺しました。
 人間には善を求める心があると思いますが、悪を求める心もあるのです。さらに人間は悪の世界の方に引きつけられやすく、身を滅ぼしやすいのです。ジキル博士とハイドのような二重人格は特別な例ではなく、むしろ私たちの人格も内なる人と肉なる人とに分裂しているのですが、強く意識しないだけです。
 掟は善悪の基準を明確に示しので、善を行おうとしても悪を行ってしまう自分の弱さを強く意識させますが、掟がなければ人間の行いが善であるか悪であるかが曖昧にされてしまいます。自分の弱さを意識することができず、罪の自覚が生じないのです。律法を持たない異邦人には罪の自覚が生じにくいのです。
 ユダヤ人には割礼と律法を神の民の徴ですから、善悪の基準が明確ですが、彼らは神の律法から離れ、人間の律法、掟に縛られていました。イエス様は神の律法を否定されたのではなく、律法学者が造り出した掟、人間の律法に拘り、神の意志から離れていったユダヤの民を非難されたのです。「災いなるかな、律法学者」と非難されたのは、人間に守りきれない掟、軛を負わせたからです。
 理性は掟、『父母を敬え』、『殺してはならない』、『姦淫してはならない』、『盗んではならない』、『隣人の家を貪ってはならない』を守ろうとするのですが、肉欲に負け、悪への道へ誘われるのです。理性では善悪を判断できても肉欲が理性を狂わすのです。論理的な思考回路から外れた判断をしてしまうのです。
 人間の脳の機能は本能に根ざす欲求、肉欲が理性よりも優先してしまいます。砂漠で水がなくなれば、現代人は喉の渇きに耐えかねて目の前の水を奪い合うでしょうが、砂漠の民はオアシスを探します。オアシスがなければ水を長持ちさせることを考えます。砂漠で生き残るためのあらゆる手段を考えます。
 私たちの脳は生き残るために有利な条件を無意識のうちに探しています。肉欲は個体を生存させるための本能に根ざしていますので、理性ではコントロールしにくいのです。脳の機能は前頭葉の表層から下層、大脳から脳幹に行くほど機能が低下しにくいように出来ていますので理性が一番冒されやすいのです。
 理性と感情は脳内で相互に影響し合っていますので、理性的な行動を取るのが難しいのです。ジキル博士のように謹厳実直に見える人にもハイドのような放縦、粗暴、淫乱な側面が隠されています。意識するかしないかの差です。
 人は弱さを抱えていますから、人の弱さに共感することが出来るのです。人は自分の弱さを実感できますから、人の弱さの中に働かれる主の力を信じられるのです。人の常識からすれば弱さを誇ることはやせ犬の遠吠えに似ていますが、パウロのような心身ともに頑健な伝道者が強さではなくむしろ弱さを誇ったのです。なぜなら私は弱いときにこそ強いからだと証ししているからです。
 パウロは肉体の弱さ、具体的な病気あるいは障害を自覚していましたが心の弱さも自覚しているのです。理性では善を行おうとしますが感情、肉欲が善から彼をそらし、悪に誘い、罪を犯してしまうのです。パウロの心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているという告白は真実なものです。
 人はパウロほど真実な生き方をしていませんので神の律法と罪の法則との格闘に気づかないか、目をそらしているかしているだけなのです。むしろ両者が曖昧に同居し、時に応じてどちらかが表に出てくるからです。人の心の動きは本人の想像を超える時があります。自分でも理解できない行動を取るからです。
 人は時には悪魔にもなりますが時には天使にもなるのです。戦場では人は殺し合いますが、助け合いもします。英雄にもなれば卑怯者にもなるのです。戦闘行為をしているときには、大脳の前頭葉は酸欠状態になっているそうです。思考力が極端に低下し、理性が働かず、本能だけが体を動かしているそうです。運動をしているときにも血液は体を動かすために使われ、思考力が鈍ります。
 そのような状態の時にはお酒に酔った状態に近い状況になるそうです。脳の機能が低下し、思考力が無くなったことに気づかなくなるからです。酔っぱらいほど酔っていないというのと同じです。理性が鈍ってきていますので、肉体の欲求に負け、平気で罪を犯してしまうのですが、本人には自覚がないのです。
 人はジキル博士にもなりハイドにもなるのですが、ハイドはガン細胞のように増殖し、最後には自己崩壊してしまうのです。パウロは自分自身の精神を冷静に分析し、死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるのでしょうかと自問自答しています。そしてイエスのみが救い主であると感謝しているのです。
 パウロの人間を理性の働きと感情の働きとに分けた精神分析は現在の心理学に相通じるものですが、私たちにはパウロのような自覚がなく、神の律法とはほど遠いが罪の法則とも近くはないと自分をごまかしているところがあります。
 罪の自覚に縛られるよりも人生を曖昧に生きる方が気楽かもしれませんが、
信仰者には厳しさも必要です。自分の罪を自覚するからこそ主の十字架での贖いの死に感謝することが出来るからです。復活の命に望みを置けるからです。
 クリスチャンは口を開けば罪人、罪人といいますが、罪とは何かと問い返されれば絶句する人も多いのではないかと思います。日本では法律に反すれば罪ですし、反しなければ罪ではありませんが、教会では人間が神との関係を損なうことが罪です。人は罪を自覚しながらも罪を犯してしまうから罪人なのです。
 私たちも罪の法則の例外ではありません。パウロのように罪を自覚できないからさらに重症なのですが、罪に対する曖昧な態度が人を蚊帳の外に置いているのかもしれません。罪の法則は潜在意識の中に組み込まれているからです。
 生ける主はパウロに『私の恵はあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる』といわれましたが、私たちも自らの弱さを否応なしに突きつけられたときにこそ、この御言葉に立ち帰るべきです。なぜなら人は自らの弱さを自らの力で克服することは出来ないからです。弱いときにこそ弱さを超越なされる主の恵が明らかにされるからです。人は弱さの中で行き詰まるかもしれませんが、むしろ弱さを誇れるのです。弱いときにこそ強いからです。
 

07/05/13 罪は掟により機会を得る T

罪は掟により機会を得る
2007/05/13
ローマの信徒への手紙7:7~12
 児童虐待防止法が改正されますが、子供を養育できない親が増えてきた現状からすれば当然だと思います。従来の体制は子供を親元で育てることを前提にしていますが、虐待を受けている子供を養育施設で受け入れる体制を創るべきです。
 「親学」の必要性が叫ばれる時代ですから、養育放棄の実体は常識を越えているのではないでしょうか。虐待を受けている子供を親元に帰しても同じことの繰り返しではないでしょうか。養育放棄をする親は親権を停止させるべきです。
 福祉行政の場では子供は親元で育てられるのが良いとされてきましたが、現状はその段階を越えているようです。福祉施設を緊急避難の場から養育施設へと変えるべきです。福祉施設で子供が自立できるまで養育すべき時代になっています。
 そのためには児童相談所、養育施設に対する福祉予算を増額すべきです。現在の施設は人間らしい生活が営めるような場ではないようです。心身共に傷ついた子供は孤児院の暗いイメージから脱却していない養育施設では癒やされません。
 職員がいかに努力しても狭い施設ではプライバシーすら守ることができないようです。親から見捨て去られ、社会から見捨て去られた子供が順調に成長するのは至難の業です。マンパワーだけでは解決のできない施設面での欠陥があります。
 さらに児童相談所に専門職員が配置されていない現状は行政の不作為と非難されても仕方がありません。行政職が順繰り人事で児童相談所に配置されているのが現状です。2,3年間辛抱すればよいのですから問題を先送りして当然です。
 強硬手段を執れば責任問題になりかねませんから、使命感のない職員は見ないふりをするでしょう。児童相談所に専門職員を配置し、マンパワーを強化しなければ仏を造っても魂を入れないことになるでしょう。笛を吹けど躍らないのです。
 警察も民事不介入の姿勢を取り続けてきました。現場の警察官には強制手段の執行は荷が重いでしょう。児童虐待防止特別班を編制し、心理学、福祉を専攻した専門職を養成すべきでしょう。早急にマニュアルを作成すべきでしょう。
 いずれにしても法の改正だけでは解決できない問題が山積しています。行政から意識改革がなされなければ、福祉の現場だけではとても対応し切れません。児童虐待は家族の問題ではなく、行政、警察が介入しすべき問題になってきました。
 カナダの大使館員の奥さんを診察した医師がDVを疑い、警察に通告したので警察が奥さんを保護する事態になり社会問題化しましたが、欧米ではそれが当然なのです。日本では医師が通告を躊躇い、事態を悪化させる場合が多いようです。
 地域の情報が児童相談所に集まらないといわれていますが、情報が活用されていないのが現状のようです。虐待死に至る前にも虐待の兆候を地域の人は感じていたはずですが、地域住民の無関心、行政の怠慢が虐待死を招いています。
 児童虐待防止法を改正したのですから、政府は児童福祉に関する行政システムをハード、ソフト両面で根本的に改善しなくてはなりません。虐待の報告を受けても機能しなかったシステムを質、量共にパワーアップしなければなりません。 パウロは『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました』と述べていますが、それならば律法は罪であろうか、否や!決してそうではない、と強く否定しています。
 しかし、パウロは律法を知らなければ、罪を罪として自覚することができなかったと告白しています。たとえば律法により『むさぼるな』といわれなかったならば貪りなるものを知らなかったと告白しています。十戒の第十戒には隣人の家を貪ってはならないとありますが、パウロは貪りを人間の際限ない欲望という意味で使っています。人には禁止されるから欲しがるという心理状態があります。
 アダムはエデンの園で平安に暮らしていました。神様から禁断の木の実を食べれば死ぬと言われていましたが、あえて食べたいとは思っていませんでした。蛇が先ずエバを誘惑しました。蛇は禁断の木の実を食べても決して死ぬことはない。神のように善悪を知る者となるから禁じられているのだとエバを誘惑しました。エバには禁断の木の実はいかにもおいしそうに見え、神のように賢くなるように思えました。エバは禁断の木の実を取って食べ、アダムにも渡しました。アダムはエバに神のように賢くなると唆されて禁断の木の実を食べてしまいました。アダムの神のようになりたいという貪りがアダムの内に罪を起こさせたのです。
 律法がない世界は善悪の基準がない世界です。アブラハム時代からエジプトに移住したいた時代には民を裁くための法、基準がありませんでした。慣習が民を裁いていましたが、法を意識することはありませんでした。モーセに十戒、律法が授けられるまでは罪が存在しなかったのです。律法が罪を定めるからです。
 律法はユダヤの民には絶対的な基準でしたが、時代を経るに従い形式化してきました。律法学者により細則、掟、ミシュナが定められ、神の意志から離れたものになってきました。ユダヤの民は掟に縛られ、掟を守ることに専念しなければ生活ができなくなりました。掟は「……をしてはならない」世界ですから、むしろ人に掟を破らせる心、貪りの心を生み出したのです。律法がなければ生じなかった貪りが人を罪に定めたのです。人を罪の世界、死の世界へと導いたのです。
 しかし、律法は神の意志ですから聖なるものですが、掟は人間が造り出したものです。掟も唯一の神を主と崇めるために守るべき戒めですから本来人に命をもたらすはずでしたが、人を死に導く役割を果たす道具となってしまったのです。
 パウロは人間の弱さを指摘しているのです。人間には禁じられた掟、タブーを破りたい衝動があるからです。さらに守りきれない掟に支配された世界は人間から法を守る精神、順法精神を奪い去り、モラルハザードを引き起こします。罪は掟があることによりむしろ人を殺してしまうのです。罪は罪自身の働きにより罪の世界を造り上げ、人を欺くからです。罪は掟によりむしろ機会を得るのです。
 しかし、律法、掟を罪の働く機会としたのは人間です。アダムが禁断の木の実を食べたのもアダムの責任であり、神様の責任ではありません。律法、掟により貪りを覚えたのは人間側の責任であり、神様の責任ではありません。むしろ神様はイエス様をこの世に遣わされることにより人間を救おうとなされたのです。ですから律法は聖なるものであり、掟も聖なるものであるのです。律法、掟を、手枷足枷にしたのは人間の罪です。罪の働く機会にさせたのは人間の罪だからです。
 日本は法治国家ですが、近代法は教会法から生まれたそうです。教会法はローマ法を起源としていますが、律法が強い影響を与えたのかもしれません。律法はモーセ五書、創、出、レビ、民、申命記を指しますが、旧約聖書の1/3ぐらいは律法、1/3ぐらいは預言書といえます。律法は歴史と律法からなっています。
 モーセがシナイ山で唯一の神から石の板に書かれた十戒を授かりましたが、付属する規定を口頭で授けられました。日本人の感覚からすれば、紀元前2000年、4000年以上も前の伝承、文章が残されているは信じられないことですが、ユダヤ人は4000年間以上も会堂に集い、礼拝、律法、割礼を守り通してきたのです。
 律法では唯一の神イスラエル民族、ユダヤ人との関係は契約に基づく関係です。ユダヤ人は唯一の神を主とするから神はユダヤ人を神の民とする契約が基本なのです。アブラハム契約ではアブラハムは祝福の基いとされましたが、シナイ契約では律法が授けられました。神から選ばれた民の徴が割礼であり、律法なのです。
 神との契約関係ですから、ユダヤ人が神との契約を守らなければ神はユダヤ人との契約を破棄されます。イスラエル民族が神から離れる、神はイスラエル民族を罰せられる、預言者が悔い改めを迫る、悔い改める、神の祝福に与る、神から離れるの繰り返しがイスラエル民族、ユダヤ人の歴史です。彼らは神との契約を一方的に破棄し、裁かれることを畏れたので、割礼、律法に拘わったのです。
 律法を守ることは個人の救いだけではなく、イスラエル民族の救いにも関わることでした。神の名を汚す者を民は殺されなければなりませんでした。律法を守らない者がいれば神との契約に反するからでした。ユダヤ人がイエス様を十字架に付けて殺し、パウロの異邦人伝道を妨げたのも神との契約を守るためでした。
 旧約聖書の時代から始まる契約に基づく信仰は現代にも受け継がれています。信仰を口で告白し、洗礼を受けることは生ける主との契約関係に入れられることを意味します。私たちは主の十字架での贖いにより罪を既に赦されていますが、主の民として相応しい生き方を求められています。愛の律法の基にいるからです。
 パウロは律法が『貪るな』といわなければ貪りを知らなかったと告白しています。ファリサイ派のラビとしてパウロは律法に厳格に生きてきましたが、律法を守りきれず、貪りから逃れ切れなかったからです。パウロは罪は命をもたらすはずの掟により機会を得、私を欺き、掟によって私を殺したと告白しているのです。
 パウロは復活の主と出会い、唯一の神との契約、律法を守りきれないパウロを救われるお方の存在を知らされたのです。生ける主が総ての人の罪を十字架での死により贖われ、新しい律法、福音による新しい契約関係を結ばれたことを知らされたのです。パウロの律法と苦闘した過去が新しい命に目覚めさせたのです。
 律法を守ることを義務づけられたユダヤ人には異邦人にはない苦闘がありました。唯一の神との契約、律法はユダヤ人の救いに拘わるものであり、個人の救いに優先するものであったからです。福音に生きることはユダヤ人を裏切ることでもあるからです。異邦人が福音により救われるのを見たユダヤ人が福音に生きるように変えられるのを何よりも願っていたのはパウロでした。ユダヤ人が古い契約、律法から解放され、新しい契約、福音に生きられることを願っていたのです。
    
 教会の掟、教会規則には戒規があるのが普通ですが、教団の教会では戒規処分を課せられるのは特殊な場合です。明らかにイエスは主であることを否定する集団に移籍した場合、破廉恥罪を犯して教会の品位を汚した場合などですが、教団には復活を否定する教師もいますし、同性愛の教師もいます。パウロならば偽教師、反キリストとして厳しく糾弾するでしょうが、それができないのが教団です。
 教会は教会員の信仰に総てを委ねていますから、律法、掟のような明文化された規定、明確な基準はありません。瀬戸キリスト教会の教会規則はあくまでも教会を維持、運営、管理するために必要な最低限の規則ですから、戸惑いを覚える信徒もいるでしょうが、信仰生活は信徒の信仰、良心に委ねられています。
 イエス様は『心を尽くし、精神を尽くし主なる神を愛せよ』、『自分を愛するように隣人を愛せよ』が信仰の基本であるといわれましたが、具体的な掟『……をしてはならない』、『……をしなければならない』を示されませんでした。パウロも信徒に対する戒めを手紙で書き送りましたが、法的な文章ではありません。
 ユダヤ人であるイエス様、パウロには律法は生活の基本でした。おそらくパウロは律法、掟を厳しく批判していますが、日常生活はきわめてユダヤ人的であっただろうと思います。パウロは異邦人を躓かせないために異邦人的な生活をしただけです。パウロは富める者にも貧しい者にも合わせた生活ができたからです。
 私たちは主の愛を宣べ伝え、主の愛を実践しなくてはなりませんが、具体的には何をしたらよいのかが示されていません。主の愛のイメージは人それぞれだからです。大航海時代には宣教師が世界中に派遣されましたが、伝道の面からは主の世界宣教命令の実践でしたが、植民地支配に教会が協力したのも事実です。
 私たちは主の愛を教会生活、信仰生活の中で身につけなくてはならないのです。一人で聖書を読み、祈り、黙想するだけでは主の愛に到達することはできません。信仰、聖書は教会の2000年の歴史の中で積み重ねられてきたものだからです。
 教会の使命は伝道ですから、社会から隔離された集団を形成してはならないのです。人と人との関わりの中で主の愛を証しし続けることが大切なのです。日本でもボランティアが盛んになりましたが、信仰に裏付けされないボランティアは自己満足に過ぎないのです。例えばマザーテレサの「神の愛の宣教者会」のシスターたちは死に行く人たちの中に主の姿を見るのです。彼女たちは毎日の日課である早朝ミサを欠かしません。先ず祈り、それから主の愛を実践するのです。
 私たちは教会生活の中で主の愛に触れなくてはなりません。「主の愛を感じられるから主の愛を伝たい」という願いが伝道の基礎になくてはならないのです。御言葉から溢れ出る主の愛、信徒の交わりの中で交わされる友情、夫婦、親子兄弟の愛が主の愛として昇華された時に、主の愛を実践することができるのです。
 主の愛は律法、掟のように形式化されたものではありません。主の愛は時代、民族、文化、社会が違えば異なった表れ方をするかもしれませんが、『汝の主を愛せよ』、『己を愛するように汝の隣人を愛せよ』は変わりません。この二つの公理は変わることはありませんが、法則は変わるります。教会も時代、社会が変化するにつれ変化してきましたが、教会の主は人間ではなくあくまでも主なのです。