07/03/25 自分自身を神に献げなさい T
自分自身を神に献げなさい
2007/03/25
ローマの信徒への手紙6:12~14
精神病は脳の病気です。現代医学ではまだ解明されていませんが、脳内伝達物質、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの代謝異常だと考えられています。脳が正常に機能しなくなるので結果として心も病んでしまうのです。
脳の機能が侵される原因は様々ですが、ストレスに弱い体質の人が過剰なストレスを受けて発病する場合が多いようです。脳の機能を正常に戻すためには薬を服用する必要があります。脳内の化学物質の代謝を調整する必要があるからです。
過剰なストレスで心、ソフトが破壊され、次に脳、ハードが破壊され、さらに心、ソフトが破壊されたのですから、先ず薬の薬理作用で脳の機能を回復させることが必要なのです。脳の機能が回復すれと共に心のリハビリを始めるのです。
脳、ハードが回復しない限り心、ソフトは回復しないことが大切です。パソコン、ハードが壊れていればソフトを修復することは不可能だからです。しかし、病的な状態にある人には病気の自覚がなく、薬の服用を拒否する人も多いのです。
副作用を気にして薬を服用しない人もいますが、副作用のない薬はありません。現代医学は副作用が少なくて劇的に効く新薬を次々に開発しています。現代医学の進歩と共に精神病は特殊な病気から普通の病気へと変わりつつあります。
しかし、社会からは「何をするのか分からない人」と見られていますが、一時代前の精神医学の水準が医療の名に値しなかった時代に芽生えた偏見です。現在では仕事をしながら精神科に通院し、治療を受けている人も少なくありません。
精神科では早期発見、早期治療が特に大切なようです。心身に異常を感じても精神科を受診する人が少なく、受診しても外来通院を自分の判断で止める人が多からです。例え薬が処方されても、継続して服用し続ける人が少ないからです。
発病しても早期に適切な治療を受けた人は回復が早く、社会的に破綻する場合も少ないのです。多くの人は社会的に破綻を来してから精神科の診察を受けに来るからです。若ければ若いほど回復も早く、社会的な地位も失わずに済むのです。
精神科の患者が薬を飲み続けるのは簡単なようで簡単ではありません。本人が病気を認められない場合が多いのですが、家族が病気を受け入れられない場合も多いのです。本人と家族が連帯できなければ、適切な治療を受けられないのです。
精神病は家族が一丸となって取り組まなければならない点で家族の病気です。病院での治療が効果を上げてきたら、脳のリハビリが必要です。脳の機能が回復しても心が回復し、社会復帰ができるまでには心のリハビリも必要だからです。
リハビリは単調な繰り返しを気長に行う必要がありますが、回復してくれば加速度的に回復してきます。大切なのは目標の設定です。客観的に自分の能力を評価する必要があります。病気で失ったものを冷静に勘定に入れる必要があります。
病気が具体的に癒やされなくても、それなりの人生設計を立てられれば癒やされたといえます。精神障害者は身体障害者と同じレベルで脳に障害を負っていえますが、心を回復させることができます。精神病は心の病気ではないからです。
パウロは洗礼により浄められる以前の身体は罪に支配させ、欲望のおもむくままに行動していたと主張しています。さらに五体を不義の道具として罪に任せてはならないと勧めています。肉の欲望の虜にされないようにと勧めているのです。
むしろ、自分自身を死者の中から甦らされた者として神に献げ、五体を義のための道具として神に献げなさいと勧めています。洗礼を受けることにより生まれ変わった者として肉の欲望から離れ、聖霊の導きに従うように勧めているのです。
パウロはキリスト者には霊の救いだけでは十分ではなく、キリストの愛の実践が必要だと主張してます。律法の世界は「……をしてはならない」という世界でした。ユダヤ人は十戒、戒めを守られるか、守られないかで評価されたからです。
イエス様は律法の神髄を「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と語られています。ユダヤ人が律法を単なる戒めと理解していたのに対して、隣人への愛の実践と考えておられました。キリスト者の信仰の世界をユダヤ人の「……をしてはならない」世界から「……をしなさい」という世界へと広げられたのです。
ユダヤ人は生まれて8日目に割礼を受けます。律法が支配する世界の中で成長します。割礼を受けている、律法を守っていることがユダヤ人としての誇りであり、徴なのです。彼らは生まれながらに神様から選ばれた特別な民だからです。
ユダヤ人は異邦人が改宗するときには洗礼を施しますが、自らには洗礼を施しません。彼らは生まれた時から既に神様に選ばれているからです。彼らは異邦人には生まれ変わることを要求しますが、自らは生まれ変わる必要がないからです。
しかし、キリスト者は信仰を口で告白し、洗礼を受けることを求められます。洗礼により生まれ変わることが求められるからですが、それで救いが完成するのではありません。主に救われた者にはそれに相応しい生き方があるからです。
キリスト者には主から世界宣教命令が与えられています。地の果てまで福音を宣べ伝えなくてはならないのです。主の愛の実践、伝道こそが私たちの使命だからです。私たちの信仰生活、証しの生活を通して伝道しなければならないのです。
信仰に生きる者はもはや罪に支配されることはないのです。律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。主の恵みは聖霊の力に表れています。律法は恐怖で人を支配し、罪に落とし込みますが、恵みは愛で激励し、罪から救い出すからです。
聖霊の力、愛により主は罪の世界に介入なされたのです。主は十字架での死と甦りにより人間を罪の世界から贖い出されたのです。主は頑なな人間が悔い改めるのを待たれているからです。主の十字架での愛は忍耐強く、情け深いからです。
主の恵み、愛は人間を生まれ変わらせるのです。聖霊は人を主との出会いに導きます。教会へと導くのです。主の愛は御言葉に表されているのです。主は私たちに生きる力を与えられるからです。罪からの解放、自由を与えられるからです。
キリスト者として前進し続けることが必要ですが、信仰の世界には完全、終着点はないのです。主の日を待ち望みながらも日々の生活を怠らないことが必要なのです。テサロニケ教会の信徒のように天を見上げるばかりではいけないのです。
私たちは恵みの下にいるのです。救われるためには何もしなくとも良いのですが、だからといって怠惰な生活を送って良いことにはなりません。信じれば何もしなくても良いからこそ、総てのことに真剣に取り組まなくてはならないのです。
信仰により救われた者、生まれ変わった者は新しい世界を生きる者に変えられるますが、自分自身を神様に献げることが必要とされます。神様は人間に自由を与えられましたが、自由と放縦は異なります。自由には義務が伴うからです。
人には神様から与えられた自由を神様の栄光を地上に現わすために使う義務がありますが、義務を果たすことは喜びにも繋がるのです。教会に仕えると共に家族、友人、社会に対して福音を証しし続けることがキリスト者としての義務です。
教会は病める者、弱い者が集まれるオアシスでもあるべきです。教会の主人は生ける主です。牧師、長老、信徒も主に仕える僕ですが、客人でもあります。生命の泉である主を取り囲み、客人が最も居心地の良い場所に座れれば良いのです。
最高の持て成しは客人には客人のペース、リズムで憩えるようにすることです。客人は生命の水を求めてオアシスにまでたどり着いたのです。砂漠のような荒々しい世界で心をすり減らし、愛に飢え渇き、生命の水を求めているからです。
教会では客人は隣の客人と一定の距離を取り合いながら寛げる時を持つことができるからです。教会が信仰の場だけではなく癒やしの場として機能するからです。イエス様との生きた交わりは心の疲れを癒やし、新しい力を与えるからです。
心の癒やしは独りでは難しく、他者との交わりの中で癒やされるのです。傷口に包帯が巻かれ、瘡蓋ができ、ゆっくりと肉が付いてくるのです。包帯を変える必要はありますが、基本的には瘡蓋ができるまで安静にする必要があるからです。
医療は神からの賜物ですから活用しなければなりませんが、医療だけでは人は癒やされないのです。医者は包帯を巻くだけで癒やされるのは神様です。人には心の傷を癒やす力が宿っていますから、癒やしの場さえあれば癒やされるのです。
医者と教会には役割分担があります。脳を癒やすのは医者であり、心を癒やすのは教会です。教会で過ごす時間、生ける主との交わりの時間が心、魂に安らぎを与え、心を癒やす力を与えるからです。信仰が生きる力を与えるからです。
教会に集う信徒の一人一人のエネルギーが相互に影響し合うのです。お互いの波が重なり合い強め合えば膨大なエネルギーが発生しますが、相互に打ち消し合えばエネルギーは弱まります。教会員相互が高め合うことが必要とされるのです。
人は一人では一人分のエネルギーしか出せませんが、何人かが集まれば何倍、何十倍ものエネルギーを出すことができるからです。人は一人では生きていけないと言われますが、信仰も一人では生きた力を発揮することが難しいからです。
自分自身を神に献げなさいという勧めは特別な奉仕を意味してはいません。むしろ一人一人の落ち着いた教会生活が教会の力を高めるからです。教会の力が高められれば伝道の力が高まります。さらに、教会の癒やしの力を高めるからです。
教会に集う信徒の力が結集されたならば、教会はさらなる一歩を踏み出すことができます。教会の幻を実現させるのは一人一人の信徒の力だからです。私たちの力を集め、義のための道具にさせるのは、むしろ地道な信仰生活だからです。
教会には英雄、豪傑は必要ありません。少なくとも日本は殉教とは無縁な国だからです。2000年間、教会を建て続けてきたのは名もない信徒の力だからです。むしろ平凡な奉仕を長く継続して続けることこそが教会の力を強めるからです。私たちに求められるのは与えられた伝道地域に教会を建て続けることなのです。
パウロが『自分自身を神に献げなさい』と勧めたのは洗礼が信仰生活の目標、目的ではなく、洗礼を受けた後の信仰生活こそが肝心であることを示したのです。受洗した時には燃え上がっていた心が忽ちにして冷えてくる人がいるからです。
信仰を告白して受洗した時には生ける主と契約を結んだのですが、人間の方から契約を破棄する場合が少なくありません。主との契約は人間の都合で破棄されませんが、教会生活から離れていく人を無理に足止めをすることもできません。
一方、自分の救いだけに止まる人もいます。特別な救いの体験、神秘的な体験のみを唯一の真実として救いの経験を分かち合おうとしない人もいるからです。彼の信仰の目的は個人の神秘的な体験であり教会の信仰ではないからです。
いずれにしろ主の身体である教会の徳を高める信仰ではありません。教会の信仰ではなくに個人の信仰だけに目を向けているからです。教会の信仰という自覚があれば、教会生活を中心にした信仰生活を送るように変えられるからです。
日本人は信仰を個人のレベルで考えやすいのですが、2000年間、信仰を守り続けてきたのが教会であるという視点が欠落しているのです。主の世界宣教命令は教会に委ねられているからです。伝道こそが教会の、信仰の原点だからです。
信仰が個人の救いで終わるのならば哲学と大差はありません。単なる頭の体操でしかないからです。あるいは神秘的な体験で終わればオウム真理教と大差はありません。麻薬さえ使って得た神秘的な体験を解脱だと錯覚しているからです。
神の国は主が降臨なされた時に既に始まったが主が再臨なされていないので未だ完成していないのです。既に、未だ、の時の中心を生きているのです。教会は主の再臨を待ち望む信徒の群れですから、主の日には使命を全うするのです。
テサロニケ教会の信徒は主が再臨なさる日が近いと信じ、日々の努めを疎かにし、ただ空を見上げながら過ごしていたようです。パウロも主の再臨が近いと信じていた時もありましたが、やがて主の日を待ち望む教会を建て始めました。
オウム、熱心党のような終末宗教は一時は非常に盛り上がります。この世の努めを放棄し、総ての財産を教会に寄進し、集団生活を送りますが、終末が現実に来なければ破綻します。時には集団自殺を図ります。歴史上この様な分派は繰り返されてきましたが、法と秩序を全く無視した生活を営むのが彼らの特徴です。
教会は主の日を待ち望む点においては熱心派であり、この世の努めに誠実である点においては保守派です。教会は既に、未だ、両派の緊張関係の上に成り立っているからです。両者の間の緊張関係が崩れてしまうと教会は生命を失います。。
パウロは教会に両者の緊張関係を維持することを求めました。熱心派に走ることを戒めたのです。終わりの日を待ち望みながらも主の世界宣教命令に献身することを求めたのです。パウロの伝道旅行は世界宣教命令に殉じたものでした。
キリスト者の使命は世界宣教命令に献身することです。パウロも自分自身を神に献げることにより異邦人伝道に励みました。私たちの使命は瀬戸の地における伝道です。主から示された地に教会を建て続けることが求められているからです。
教会を建て続けるためには無理をしないことが大切です。無理は長続きしないからです。むしろ地道な信仰生活得を続けることが予想もしなかった果実を実らせるのです。教会を建て続けさすのはカリスマではなく名もない信徒だからです。