2007/03/27

07/03/25 自分自身を神に献げなさい T

自分自身を神に献げなさい
2007/03/25
ローマの信徒への手紙6:12~14
 精神病は脳の病気です。現代医学ではまだ解明されていませんが、脳内伝達物質、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの代謝異常だと考えられています。脳が正常に機能しなくなるので結果として心も病んでしまうのです。
 脳の機能が侵される原因は様々ですが、ストレスに弱い体質の人が過剰なストレスを受けて発病する場合が多いようです。脳の機能を正常に戻すためには薬を服用する必要があります。脳内の化学物質の代謝を調整する必要があるからです。
 過剰なストレスで心、ソフトが破壊され、次に脳、ハードが破壊され、さらに心、ソフトが破壊されたのですから、先ず薬の薬理作用で脳の機能を回復させることが必要なのです。脳の機能が回復すれと共に心のリハビリを始めるのです。
 脳、ハードが回復しない限り心、ソフトは回復しないことが大切です。パソコン、ハードが壊れていればソフトを修復することは不可能だからです。しかし、病的な状態にある人には病気の自覚がなく、薬の服用を拒否する人も多いのです。
 副作用を気にして薬を服用しない人もいますが、副作用のない薬はありません。現代医学は副作用が少なくて劇的に効く新薬を次々に開発しています。現代医学の進歩と共に精神病は特殊な病気から普通の病気へと変わりつつあります。
 しかし、社会からは「何をするのか分からない人」と見られていますが、一時代前の精神医学の水準が医療の名に値しなかった時代に芽生えた偏見です。現在では仕事をしながら精神科に通院し、治療を受けている人も少なくありません。
 精神科では早期発見、早期治療が特に大切なようです。心身に異常を感じても精神科を受診する人が少なく、受診しても外来通院を自分の判断で止める人が多からです。例え薬が処方されても、継続して服用し続ける人が少ないからです。
 発病しても早期に適切な治療を受けた人は回復が早く、社会的に破綻する場合も少ないのです。多くの人は社会的に破綻を来してから精神科の診察を受けに来るからです。若ければ若いほど回復も早く、社会的な地位も失わずに済むのです。
 精神科の患者が薬を飲み続けるのは簡単なようで簡単ではありません。本人が病気を認められない場合が多いのですが、家族が病気を受け入れられない場合も多いのです。本人と家族が連帯できなければ、適切な治療を受けられないのです。
 精神病は家族が一丸となって取り組まなければならない点で家族の病気です。病院での治療が効果を上げてきたら、脳のリハビリが必要です。脳の機能が回復しても心が回復し、社会復帰ができるまでには心のリハビリも必要だからです。
 リハビリは単調な繰り返しを気長に行う必要がありますが、回復してくれば加速度的に回復してきます。大切なのは目標の設定です。客観的に自分の能力を評価する必要があります。病気で失ったものを冷静に勘定に入れる必要があります。
 病気が具体的に癒やされなくても、それなりの人生設計を立てられれば癒やされたといえます。精神障害者は身体障害者と同じレベルで脳に障害を負っていえますが、心を回復させることができます。精神病は心の病気ではないからです。
 パウロは洗礼により浄められる以前の身体は罪に支配させ、欲望のおもむくままに行動していたと主張しています。さらに五体を不義の道具として罪に任せてはならないと勧めています。肉の欲望の虜にされないようにと勧めているのです。
 むしろ、自分自身を死者の中から甦らされた者として神に献げ、五体を義のための道具として神に献げなさいと勧めています。洗礼を受けることにより生まれ変わった者として肉の欲望から離れ、聖霊の導きに従うように勧めているのです。
 パウロはキリスト者には霊の救いだけでは十分ではなく、キリストの愛の実践が必要だと主張してます。律法の世界は「……をしてはならない」という世界でした。ユダヤ人は十戒、戒めを守られるか、守られないかで評価されたからです。
 イエス様は律法の神髄を「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と語られています。ユダヤ人が律法を単なる戒めと理解していたのに対して、隣人への愛の実践と考えておられました。キリスト者の信仰の世界をユダヤ人の「……をしてはならない」世界から「……をしなさい」という世界へと広げられたのです。
 ユダヤ人は生まれて8日目に割礼を受けます。律法が支配する世界の中で成長します。割礼を受けている、律法を守っていることがユダヤ人としての誇りであり、徴なのです。彼らは生まれながらに神様から選ばれた特別な民だからです。
 ユダヤ人は異邦人が改宗するときには洗礼を施しますが、自らには洗礼を施しません。彼らは生まれた時から既に神様に選ばれているからです。彼らは異邦人には生まれ変わることを要求しますが、自らは生まれ変わる必要がないからです。
 しかし、キリスト者は信仰を口で告白し、洗礼を受けることを求められます。洗礼により生まれ変わることが求められるからですが、それで救いが完成するのではありません。主に救われた者にはそれに相応しい生き方があるからです。
 キリスト者には主から世界宣教命令が与えられています。地の果てまで福音を宣べ伝えなくてはならないのです。主の愛の実践、伝道こそが私たちの使命だからです。私たちの信仰生活、証しの生活を通して伝道しなければならないのです。
 信仰に生きる者はもはや罪に支配されることはないのです。律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。主の恵みは聖霊の力に表れています。律法は恐怖で人を支配し、罪に落とし込みますが、恵みは愛で激励し、罪から救い出すからです。
 聖霊の力、愛により主は罪の世界に介入なされたのです。主は十字架での死と甦りにより人間を罪の世界から贖い出されたのです。主は頑なな人間が悔い改めるのを待たれているからです。主の十字架での愛は忍耐強く、情け深いからです。
 主の恵み、愛は人間を生まれ変わらせるのです。聖霊は人を主との出会いに導きます。教会へと導くのです。主の愛は御言葉に表されているのです。主は私たちに生きる力を与えられるからです。罪からの解放、自由を与えられるからです。
 キリスト者として前進し続けることが必要ですが、信仰の世界には完全、終着点はないのです。主の日を待ち望みながらも日々の生活を怠らないことが必要なのです。テサロニケ教会の信徒のように天を見上げるばかりではいけないのです。
 私たちは恵みの下にいるのです。救われるためには何もしなくとも良いのですが、だからといって怠惰な生活を送って良いことにはなりません。信じれば何もしなくても良いからこそ、総てのことに真剣に取り組まなくてはならないのです。
 信仰により救われた者、生まれ変わった者は新しい世界を生きる者に変えられるますが、自分自身を神様に献げることが必要とされます。神様は人間に自由を与えられましたが、自由と放縦は異なります。自由には義務が伴うからです。
 人には神様から与えられた自由を神様の栄光を地上に現わすために使う義務がありますが、義務を果たすことは喜びにも繋がるのです。教会に仕えると共に家族、友人、社会に対して福音を証しし続けることがキリスト者としての義務です。
 教会は病める者、弱い者が集まれるオアシスでもあるべきです。教会の主人は生ける主です。牧師、長老、信徒も主に仕える僕ですが、客人でもあります。生命の泉である主を取り囲み、客人が最も居心地の良い場所に座れれば良いのです。
 最高の持て成しは客人には客人のペース、リズムで憩えるようにすることです。客人は生命の水を求めてオアシスにまでたどり着いたのです。砂漠のような荒々しい世界で心をすり減らし、愛に飢え渇き、生命の水を求めているからです。
 教会では客人は隣の客人と一定の距離を取り合いながら寛げる時を持つことができるからです。教会が信仰の場だけではなく癒やしの場として機能するからです。イエス様との生きた交わりは心の疲れを癒やし、新しい力を与えるからです。
 心の癒やしは独りでは難しく、他者との交わりの中で癒やされるのです。傷口に包帯が巻かれ、瘡蓋ができ、ゆっくりと肉が付いてくるのです。包帯を変える必要はありますが、基本的には瘡蓋ができるまで安静にする必要があるからです。
 医療は神からの賜物ですから活用しなければなりませんが、医療だけでは人は癒やされないのです。医者は包帯を巻くだけで癒やされるのは神様です。人には心の傷を癒やす力が宿っていますから、癒やしの場さえあれば癒やされるのです。
 医者と教会には役割分担があります。脳を癒やすのは医者であり、心を癒やすのは教会です。教会で過ごす時間、生ける主との交わりの時間が心、魂に安らぎを与え、心を癒やす力を与えるからです。信仰が生きる力を与えるからです。
 教会に集う信徒の一人一人のエネルギーが相互に影響し合うのです。お互いの波が重なり合い強め合えば膨大なエネルギーが発生しますが、相互に打ち消し合えばエネルギーは弱まります。教会員相互が高め合うことが必要とされるのです。
 人は一人では一人分のエネルギーしか出せませんが、何人かが集まれば何倍、何十倍ものエネルギーを出すことができるからです。人は一人では生きていけないと言われますが、信仰も一人では生きた力を発揮することが難しいからです。
 自分自身を神に献げなさいという勧めは特別な奉仕を意味してはいません。むしろ一人一人の落ち着いた教会生活が教会の力を高めるからです。教会の力が高められれば伝道の力が高まります。さらに、教会の癒やしの力を高めるからです。
 教会に集う信徒の力が結集されたならば、教会はさらなる一歩を踏み出すことができます。教会の幻を実現させるのは一人一人の信徒の力だからです。私たちの力を集め、義のための道具にさせるのは、むしろ地道な信仰生活だからです。
 教会には英雄、豪傑は必要ありません。少なくとも日本は殉教とは無縁な国だからです。2000年間、教会を建て続けてきたのは名もない信徒の力だからです。むしろ平凡な奉仕を長く継続して続けることこそが教会の力を強めるからです。私たちに求められるのは与えられた伝道地域に教会を建て続けることなのです。
 パウロが『自分自身を神に献げなさい』と勧めたのは洗礼が信仰生活の目標、目的ではなく、洗礼を受けた後の信仰生活こそが肝心であることを示したのです。受洗した時には燃え上がっていた心が忽ちにして冷えてくる人がいるからです。
 信仰を告白して受洗した時には生ける主と契約を結んだのですが、人間の方から契約を破棄する場合が少なくありません。主との契約は人間の都合で破棄されませんが、教会生活から離れていく人を無理に足止めをすることもできません。
 一方、自分の救いだけに止まる人もいます。特別な救いの体験、神秘的な体験のみを唯一の真実として救いの経験を分かち合おうとしない人もいるからです。彼の信仰の目的は個人の神秘的な体験であり教会の信仰ではないからです。
 いずれにしろ主の身体である教会の徳を高める信仰ではありません。教会の信仰ではなくに個人の信仰だけに目を向けているからです。教会の信仰という自覚があれば、教会生活を中心にした信仰生活を送るように変えられるからです。
 日本人は信仰を個人のレベルで考えやすいのですが、2000年間、信仰を守り続けてきたのが教会であるという視点が欠落しているのです。主の世界宣教命令は教会に委ねられているからです。伝道こそが教会の、信仰の原点だからです。
 信仰が個人の救いで終わるのならば哲学と大差はありません。単なる頭の体操でしかないからです。あるいは神秘的な体験で終わればオウム真理教と大差はありません。麻薬さえ使って得た神秘的な体験を解脱だと錯覚しているからです。
 神の国は主が降臨なされた時に既に始まったが主が再臨なされていないので未だ完成していないのです。既に、未だ、の時の中心を生きているのです。教会は主の再臨を待ち望む信徒の群れですから、主の日には使命を全うするのです。
 テサロニケ教会の信徒は主が再臨なさる日が近いと信じ、日々の努めを疎かにし、ただ空を見上げながら過ごしていたようです。パウロも主の再臨が近いと信じていた時もありましたが、やがて主の日を待ち望む教会を建て始めました。
 オウム、熱心党のような終末宗教は一時は非常に盛り上がります。この世の努めを放棄し、総ての財産を教会に寄進し、集団生活を送りますが、終末が現実に来なければ破綻します。時には集団自殺を図ります。歴史上この様な分派は繰り返されてきましたが、法と秩序を全く無視した生活を営むのが彼らの特徴です。
 教会は主の日を待ち望む点においては熱心派であり、この世の努めに誠実である点においては保守派です。教会は既に、未だ、両派の緊張関係の上に成り立っているからです。両者の間の緊張関係が崩れてしまうと教会は生命を失います。。
 パウロは教会に両者の緊張関係を維持することを求めました。熱心派に走ることを戒めたのです。終わりの日を待ち望みながらも主の世界宣教命令に献身することを求めたのです。パウロの伝道旅行は世界宣教命令に殉じたものでした。
 キリスト者の使命は世界宣教命令に献身することです。パウロも自分自身を神に献げることにより異邦人伝道に励みました。私たちの使命は瀬戸の地における伝道です。主から示された地に教会を建て続けることが求められているからです。
 教会を建て続けるためには無理をしないことが大切です。無理は長続きしないからです。むしろ地道な信仰生活得を続けることが予想もしなかった果実を実らせるのです。教会を建て続けさすのはカリスマではなく名もない信徒だからです。

07/03/18 キリストと共に生きる M

キリストと共に生きる
2007/03/18
ローマの信徒への手紙6:1~11
 万波医師の病腎移植に対してい宇和島徳洲会病院の調査委員会は肯定的な調査結果を、移植学会などは否定的な見解を発表しましたが、第一線の現場で働く臨床医と学界の権威者との見解が相反したのは予想されていたとおりでした。
 学会は病腎移植を不適切と決め付けました。厚労省も学会の見解に沿った規制をすると予想されますが、人工透析で苦しんでいる患者の声に応える姿勢が見られません。死体腎移植は希望者15000に対し150例、100人に1人だそうです。
 日本では死体腎移植の可能性がないに等しいので外国で生体腎移植を受ける患者が増えてくるでしょう。フィリピンでは生体腎移植が国を挙げて制度化されそうです。日本では生体腎移植ビジネスが闇の世界で活況を呈しているそうです。
 患者には腎臓移植が究極の治療です。人工透析患者30万人の多くは糖尿病の合併症から腎不全になった人たちですから、週3回の人工透析を受けに行くための肉体的な負担は想像を絶します。国の経済的な負担も少なくありません。
 経済的なゆとりのある患者だけが国外で生体腎臓移植を受けられるとすれば、2重の意味でモラルハザードが起きます。富める者だけが生体腎移植を受けられるとすれば、日本の皆保険制度、平等主義が根本的に否定されるからです。
 中国では売血によりエイズが拡がっています。汚染された医療器具による採血がその原因です。地方の権力者が住民から強制的に血を集めているからです。生体腎臓が表のマーケットに載ればこの様な様々な弊害が出てくるでしょう。
 日本人はアジアの国々から吸血鬼だと非難されかねません。お金さえ出せばリスクは貧しい国負担の生体腎移植は札束で頬を叩く式の買収であり、かつてのエコノミックアニマルを連想させます。自己努力なしには許されない行為です。
 臓器移植の機会を増やすためには死体腎臓移植を増やさなければなりませんが、臓器提供者を増やすための努力がなされていません。病腎移植を否定するのではなく第3の道として活用できるように論議を積極的に積み重ねるべきです。
 移植学会には死体腎移植が100人に1人しか施されない現状を放置してきた責任があります。人工透析患者30万人の1/20しか移植希望者がいないのは移植学会が機能を果たしていないからです。150名しか移植できないのは異常です。
 移植学会の主張は正当でしょうが、移植の現場を無視した暴論です。例えば2つの内の一つ腎臓にガンが発見されたら摘出を望む患者は少なくないでしょうし、ガン細胞を除去した腎臓の移植を望む患者も少なくないでしょう。
 前者はガンの転移のリスクを避けるためですし、後者はガンのリスクよりもQOL、生活の質の向上を望む患者です。リスク管理は自己決定、自己責任です。QOLが低下した患者がリスクを冒して病腎移植を望む場合もあり得ます。
 移植学会、厚労省は病腎移植を健康者の論理で裁こうとしていますが、患者の論理で裁かれるべきです。医者や行政が患者の自己決定権を侵すのは許されません。病腎移植によるQOLの向上に伴うリスク管理の決定権は患者にあります。
 『恵みが増すようにと罪の中に留まるべきだろうか』は「恵みは罪よりもはるかに大きいのだから罪を犯し続ければ恵みも増し加わわる。さらに罪が恵みに働く機会を与えるとすれば、罪は恵みを生じさせるがゆえに罪は素晴らしいものである。もし罪が恵みを生じさせるのならば罪は素晴らしいものである」という論理を弄ぶギリシア人らしい屁理屈ですが、パウロは『決してそうではない』、罪に対して死んだ者がどうしてなおも罪の中に生きられるのかと反論しています。
 パウロはキリスト者がキリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた事実を思い起こさせています。受洗はキリストの十字架での死と甦りに与らせるからです。罪に支配された身体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないからなのです。
 私たちは洗礼を受けることによりキリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。初代教会における洗礼では受洗者は水の中に完全に沈められました。罪に支配された身体が一度死ぬのです。そしてキリストが父の栄光により死者の中から復活させられたように新しい命に生きる者へと変えられたのです。主と一体になり、その死にあやかれるのならばその復活の姿にもあやかれるのです。
 私たちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは罪に支配された身体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであるからです。私たちがキリストと共に死んだのならば、キリスト共に生きることになると信じていたからです。
 洗礼はユダヤ人にもギリシア人にも新しい命を得られる儀式として理解できました。異邦人がユダヤ教に改宗する時には犠牲、割礼、洗礼が求められました。洗礼式では3人の司式者の前で信仰告白を行い、勧めと祝祷が与えられました。受洗者は新しく生まれたばかりの新生児と呼ばれました。彼の生まれる前に犯した総ての罪は赦されました。彼は変化しただけではなく新しい人、異なった人とされたからです。洗礼を経て改宗者としてユダヤ人社会に受け入れられたのです。
 一方ギリシア人にも理解できたと思われます。当時のギリシア宗教では密議宗教が大きな影響を持っていたからです。密儀宗教ではこの世の心配、悲哀、恐怖からの解放がある神と一つになることにより得られるのです。密儀では神の物語、苦しみ、死、甦りを激情を持って演じられるのです。参加者は密儀の中でエクスタシー、神秘的な恍惚に陥るのです。参加が劇を見るためには禁欲的な修養の過程を経ることが必要でした。密儀の中で神と一となる情緒的体験を経験したのです。入信式は新生を伴う「自発的な死」と考えられ、永遠の中に新生したのです。
 いずれにしろ洗礼はユダヤ人にもギリシア人にも想像できたでしょうが、キリスト教における洗礼はキリストの十字架での死と甦りに与る点で全く異なるものでした。論理の世界を超越した生ける神の秘儀、サクラメントであるからです。 アポロでさえもヨハネの洗礼、悔い改めの洗礼しか受けていませんでした。初代教会でも父と子と聖霊の名による洗礼を受けていない信徒もいました。キリスト・イエスに結ばれる洗礼、神に対して生きるための証しが必要とされたのです。 パウロは三位一体の神の名による洗礼が従来の常識とは異なり、全く新しい意味を持つことを明らかにしました。洗礼は主の十字架での死と甦りに与る点において生ける神の秘儀、サクラメントであるからです。洗礼を受けることは神の国に住人登録をすることです。神の国のパスポートが交付されることになるのです。
 プロテスタント教会では洗礼と聖餐がサクラメント、聖礼典とされています。聖礼典は教会の生命線です。教会と他の宗教とを区別するのは聖礼典です。代々の教会が命を懸けて聖礼典を守り抜いてきたからです。私たちの教会では洗礼は額に水を付けるだけの滴礼で行われますが、体を水に沈めるのを省略したのです。
 洗礼式では水に浸された時に罪が支配している体は死に、水面から起こされる時に新しい体に生まれ変わるのです。信仰のない人から見れば額に水を付けるだけの儀式に過ぎませんが、そこに十字架の死と甦りに与る業を見るのが信仰です。
 聖餐式もパンとブドウ液を飲み食いするだけですが、特別なパンやブドウ液ではありません。スーパーで売られている普通のパンとブドウ液です。聖餐式のパンは十字架に付けられた主の身体を、ブドウ液は主の血潮を意味しますが、牧師に聖別されただけに過ぎません。主の十字架を記念して飲み食いするだけです。
 しかし、聖礼典は按手を受けた牧師だけに赦されるものです。使徒ペテロから伝えられてきた聖霊が2000年間、絶えることなく伝えられてきたのです。聖霊は代々の教会で執行された按手礼により伝えられてきました。現代科学の常識からすれば、唯物主義者から見ればバカではないかと思われることこそが信仰の原点なのです。信仰の世界と科学の世界とは異なる言語で表された世界だからです。
 19世紀の物理学者はニュートン力学で宇宙の本質を解明できたと考えていましたが、20世紀に入り新しい物理学、相対性理論、量子力学などがそれが人間の傲慢であることを明らかにしました。宇宙の始まりから量子の世界までを見れば質量、時間、空間、エネルギーの本質について分からないことだらけです。
 私たちが理解できるのは私たちの住んでいる世界、私たちが手で触り、目で見ることのできる世界にしかすぎません。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、三位一体の神は人間が知覚できない存在ですが、聖礼典を介して人間が知覚できる存在へと変えられるのです。信仰の世界と現実の世界とを結ぶのが聖礼典です。
 洗礼式は現実の世界から信仰の世界へ旅立つ出発式です。神の国に到着するまでには山あり谷ありです。様々な景色の中を暖かい春の日も、暑い夏の日も、つるべ落としの秋の日も、寒い冬の日も走り続けます。時には脱線しかかる時もあるでしょうが、主は電線、教会を通じてエネルギーを送り続けてくださります。
 聖餐式は生ける主との交わりを確認する場です。主の十字架での死を記念するためにパンとブドウ液を味わうのです。主の臨在を舌の感覚を通して具体的に確認するのですが、信仰のない者にはただのパンとブドウ液でしかありません。
 聖餐式は信仰を告白した者のみが与れる信仰の秘蹟、サクラメントなのです。聖餐式に誰でもが与れるようにすれば聖餐はサクラメントではなくなります。パンとブドウ液のでる愛餐会、十字架での死を記念する会に過ぎなくなるからです。
 信仰の世界の儀式にはそれぞれ固有の意味があります。常識の世界とは異なる秩序が支配する世界だからです。信仰を口で告白するのにも神学的な意味とは違う意味があります。信仰が内なる世界だけではなく外なる世界に連なるからです。
 信仰の世界を非科学的だと否定するのは信仰の世界を科学の世界の言語で表現しようとするからです。サクラメントは神の臨在を五感で感じるためにあるのです。異次元の世界を人間に理解させるために必要な儀式として発達したのです。
 私たちは洗礼を受けた時にキリスト共に死にキリストと共に甦ったのです。罪が支配する身体は滅ぼされたのです。洗礼を受ける前と後では同じ身体であっても質的に違う世界を生きるのです。私たちにはどこかで過去を断ち切る必要があります。過去に捉われた生き方から未来志向の生き方に変わる必要があるのです。
 人間の生き方は千差万別なのは当たり前ですが、人生の目標を何処に置くかで決定的な差が生じます。人生を順風満帆で過ごせる人は僅かです。何処かで嵐に出会う時が必ずあります。嵐を避けられればよいのですが難破する時もあります。人生をやり直したいと思う時はしばしばありますが、時間は逆戻りしません。
 洗礼を受ければ人生をやり直す、人生をリセットすることができます。洗礼は過去を総て主に委ねるからです。過去を消し去り、現在抱えている様々な問題を取りあえず消去します。未来への第一歩を洗礼、新しい出発点から始めるのです。
 主に総てを委ねれば、意外と現実的な解決策が見つかるものです。未来に対する恐れが不安を招いている場合が良くあるからです。信仰は未来に対する不安を解消してくれます。主に重荷を委ねれば、主が重荷を担ってくださるからです。
 信仰が現実を変えるのではありませんが、現実を受け入れる姿勢が変わるのです。例えば信仰で総ての病気が癒される、奇跡を起こせると信じる信仰には違和感を覚えますが、信仰は病気と闘う力、病気に耐える力を与えてくれます。
 医療は人間に与えられた賜物ですから、人間には医療を活用する義務があります。病気や障害は本人の責任ではありませんが、健康になるための努力を放棄するのは本人の責任です。健康にならない場合もありますが、それは御心なのです。。
 心身の健康だけが人生の目的ではありませんが、健康を保つために努力をする必要があります。しかし、いかに努力しても人間の寿命は110歳を超えられません。人間は神の国へと続く長い道のりを死に向かい歩み続けるしかないのです。
 不老不死の妙薬を古今東西の権力者が求めましたが、死ねないのは拷問に等しいことを忘れています。彷徨えるオランダ人のように時代を超えて生き残ることは人間には耐えらません。親族、友人が死に絶えても生き残るのは不幸でしょう。
 健康、長寿を願うのは人間の自然な感情ですが、健康でなければならない、長生きをしなければならないと思うのは人間の傲慢です。人間は与えられた人生を喜びを持って生きるべきです。健康、長寿は神の領域に属することだからです。
 心身の健康が幸せの条件と考えている人が多いのですが、希望を持って生きられることが幸せの条件なのです。病気、障害を持ちながらも幸せな生活を送っている人はたくさんいます。現代人は健康強迫症に罹っているようです。神様から与えられた体の維持、管理は人間の義務ですが、それ以上は神の領域だからです。
 イエス様は『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である』と言われました。明日ではなく今日を精一杯に生きればよいのです。長い人生も今日の積み重ねの上にあるからです。
 『私たちの国籍は天にあります』から地上での歩みの終わり、死が終着駅ではありません。神の国への乗換駅にすぎないからです。例え地上の歩みが恵まれないものであっても、神の国では永遠の命に与れるのです。神の国を仰ぎ見ながら現在を希望を持って歩み続けることが必要なのです。主が共に歩まれるからです。

07/03/11 造り主を覚える M     

2007年3月11日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
造り主を覚える     ホセア書8章11-14節
讃美歌 7,517,515
堀眞知子牧師
神様はホセアに「角笛を口に当てよ」と命じられました。見張りの者が角笛を吹くことは、敵の攻撃を人々に知らせるものです。ホセアは北イスラエルに迫りつつある危険を、人々に知らせるために「角笛を口に当てよ」と命じられました。北イスラエルの危機は間近に迫っていました。「鷲のように主の家を襲うものがある」と記されているように、紀元前733年、アッシリアは北イスラエルを攻撃しました。それは「イスラエルが私の契約を破り、私の律法に背いたからだ」と語られているように、イスラエルが神様に背いたことが原因です。神様は「私の契約」「私の律法」と言われました。私達人間の世界では、契約は当事者双方が話し合って契約の内容を決め、合意の上で契約を結びます。あるいは、すでに決定された契約内容があり、それに同意する者が契約関係に入ります。けれども、ここでは神様が「私の契約」「私の律法」と言われたように、神様が一方的に契約内容を決め、一方的に契約の相手方としてイスラエルを選ばれました。そこには人間の意志はありません。イスラエルには、契約を結ぶことを拒否する自由もなければ、契約内容の変更を求めることも許されていません。そういう意味では契約と言うよりも、命令と言った方が私達の思いにはしっくりします。しっくりはきますが、これは命令ではなく、あくまでも契約なのです。契約の相手方として、神様がイスラエルを選び、彼らに与えられた御自身の契約であり律法でした。イスラエルは神様に選ばれた民として、祝福を与えられました。それは神様との関係の中に生きることです。神様から与えられた契約と律法の中に生きる時、イスラエルは真の自由と命を得、約束の地に住み続けることができます。契約と律法は、イスラエルを祝福するものであり、イスラエルに救いを約束するものでした。そして神様がアブラハムに「私は、あなたを祝福する。祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束されたように、最終的には、地上のすべての氏族が祝福に入り、救いに与ることでした。ところが、イスラエルは神様の契約を破り、神様の律法に背きました。
神様は言われます。「私に向かって彼らは叫ぶ。『我が神よ、我々はあなたに従っています』と。しかし、イスラエルは恵みを退けた。敵に追われるがよい」イスラエルは神様の契約を破り、神様の律法に背きながら、その事実に全く気付いていませんでした。神様がホセアを通して「私が喜ぶのは愛であって犠牲ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と語られても、イスラエルは自分達の罪に気付きませんでした。ホセアの語る「神を知る」ことが何であるかに気付かず、求めようともしませんでした。逆にイスラエルは「我が神よ、我々はあなたに従っています」と叫びました。異教の神々を受け入れたイスラエルは、異教の神々に仕えるように、まことの神様に仕えていました。それで十分と思っていました。形式的礼拝、形式的信仰という誤った知識の中で、イスラエルは生活をしていました。まことの神様に従うということは、他のなにものにも頼らないということです。神様にのみ、信頼を置いて生きる。異教の神々はもとより、他国の力にも頼らない、自分自身にも頼らない、金銭や人間関係にも頼らないことです。ただ神様にのみ頼り、すべてを委ねる時、神様が恵みの御手を差し伸べて下さいます。けれどもイスラエルは、その恵みを退けました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「敵に追われるがよい」
引き続いて、イスラエルの罪が語られます。第1に「彼らは王を立てた。しかし、それは私から出たことではない。彼らは高官達を立てた。しかし、私は関知しない」最初の王サウルが立てられた時、神様が預言者サムエルに「この男が私の民を支配する」と告げられ、サムエルがサウルの頭に油を注ぎました。イスラエルの王は神様が立てられ、王は神様の御計画に従って民を治め、国を治める義務と責任がありました。北イスラエルの最初の王ヤロブアムと10代目の王イエフは、神様の選びによって立てられましたが、その他の王は人間的な思いで立てられました。謀反も繰り返されました。第2に「彼らは金銀で偶像を造った」ことです。「十戒」において神様は「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられました。偶像礼拝は厳しく禁じられていました。最初の王ヤロブアムが、ベテルとダンに金の子牛を置き「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と人々に言った時から、偶像礼拝の罪は始まりました。そして、どの王もヤロブアムの罪から離れることができませんでした。偶像礼拝の罪は、レビ人でない祭司を立てる罪を招き、異教の神々を受け入れる罪を招き、まことの神様から離れる罪を招きました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「それらは打ち壊される。サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。私の怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなり得ないのか。それはイスラエルのしたことだ。職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」金の子牛像は人間が造ったもので、神様が創造されたものではありません。詩編115編に「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」と歌われているように、偶像は何の力もないばかりか、偶像に依り頼む者は、偶像と同じようになる、と言われています。偶像と同じもの、むなしい存在、意味のない存在、力のない存在になってしまいます。まことなる神様との契約関係を捨てた者には、むなしい人生が待っています。「いつまで清くなり得ないのか」という言葉の中に、神様の嘆きの声が聞こえます。同時に、それは「早く私の元に立ち帰れ」という招きの言葉です。
けれども「早く私の元に立ち帰れ」という招きの言葉は、イスラエルの耳に届きません。彼らは神様に頼るのではなく、外国の力に頼ります。全世界を支配される神様は、外国に頼るイスラエルに対し、その外国の力をもって北イスラエルを倒されます。「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。イスラエルは食い尽くされる。今や、彼らは諸国民の間にあって、誰にも喜ばれない器のようだ。エフライムは独りいる野ロバ。アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た。彼らは諸国に貢いでいる。今や、私は諸国を集める。諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」パウロがガラテヤ書6章で「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と語っているように、蒔いた種にふさわしい実が結ばれます。「風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」とは、風のようにむなしい外国の力に頼り、結果として嵐のような外国の力、具体的にはアッシリアによって倒される、北イスラエルの姿を表しています。さらに国土は外国によって荒らされ、小麦の収穫はありません。たとえ収穫があったとしても、アッシリアに貢ぎ物を送らなければなりませんので、イスラエルの収穫とはなりません。農作物だけではなく、北イスラエルすべてが、外国から侵略されます。8節の「食い尽くされる」という言葉は、原文では完了形になっています。北イスラエルが、アッシリアによって滅ぼされるのは10年後のできごとですが、ホセアは、それが確実に起こることを語っています。北イスラエルの罪は頂点に達し、救いがたい状況になっています。神の宝の民であるイスラエルは、神様との契約を破り、神様の律法に背き、神様に信頼することを忘れました。アラムと対アッシリア同盟を結んだり、敗北するとアッシリアに貢ぎ物を送ったり、アッシリアに反逆してエジプトに頼ったり、周辺諸国の間をさまよいながら、結局「誰にも喜ばれない器のよう」に見捨てられていきます。神様から離れ、諸国民からも見捨てられる北イスラエルは、頑固な野ロバのようです。野ロバは飼い慣らすことが困難で、争いを好む動物です。神様に不従順なイスラエルの姿を表しています。アッシリアに頼り、貢ぎ物を送って国を保っているようですが、やがてアッシリアによって滅ぼされます。それは「今や、私は諸国を集める。諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」と語られているように、神様の裁きの御業として行われます。
国内においては、神様の御心に従わないで、人間的思いで王が立てられ、謀反が繰り返される。外交においては、神様に頼らないで、自分達の考えで外国に頼る。それらの根本として、イスラエルの信仰そのものが崩れていました。ですから、誤った礼拝がささげられていました。まことの信仰を失った、形式的礼拝がささげられていました。神様は語られます。「エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった」イスラエルは自分達の罪を償うために、祭壇を築きましたが、それは、かえって罪を犯すための祭壇となりました。「私は多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした」と語られているように、イスラエルには律法や戒めが与えられていました。しかも口伝ではなく、文書として与えられていました。確認することのできる文書として与えられていながら、それを守ることができませんでした。神様のことを知ろうとする意志や、神様のことを理解できる感性を失っていました。神様の言葉を神様の言葉として、受け取ることができなくなっていました。神様の戒めを自分達に関係のあること、自分達のために神様が与えて下さったものとして受け取ることができなくなっていました。長い間の不信仰により、神様の戒めを正しく受け取ることができなくなっていたのです。犠牲をささげることは、レビ記などにも定められていますが、イスラエルは正しい犠牲のささげ方をしていませんでした。神様は「私への贈り物として犠牲をささげるが、その肉を食べるのは彼らだ」と語られます。自らの罪を贖うために犠牲をささげる目的を忘れ、ささげた肉を食べることに心を奪われていました。ホセアは「主は彼らを喜ばれない。今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない」と語ります。神様はイスラエルの不義を覚え、罪を裁かれます。エジプトに帰るとは、イスラエルの歴史の中で、もっとも苦しかったエジプトでの奴隷生活に戻ることです。それはアッシリア捕囚を予告しています。
最後に北イスラエルと共に、南ユダに対する裁きが宣告されます。「イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが、私はその町々に火を送り、火は城郭を焼き尽くす」北イスラエルも南ユダも、造り主である神様を忘れました。神様を忘れて人間の力に頼り、宮殿を建て要塞の町を建てました。神の民でありながら、神様を忘れてしまった北イスラエルと南ユダ。人間の力を誇り、豪華な宮殿と堅固な町の建設に心を奪われた北イスラエルと南ユダ。文化を生み出す力は、神様が人間に与えて下さったものですから、文明の発達そのものが悪ではありません。造り主である神様を忘れて、人間の力で文化を築いていくところに悪と罪が充満するのです。造り主である神様を忘れた文化や文明は、滅びをもたらします。
第1次世界大戦に敗れたドイツは、皇帝が退位し、共和制をとるようになりました。それまでの帝国憲法に代わって、ワイマール憲法を作成しました。この憲法は1919年8月に施行され、33年1月のナチス政権の誕生によって解消されたので、わずか13年半、ドイツの憲法であったにしか過ぎません。13年半しか存在しなかった憲法ですが、そこには基本的人権、社会権について保障された条項が記され、民主的憲法の模範とされています。第2次世界大戦後の各国憲法、日本国憲法にも受け継がれています。模範的憲法ですが、このワイマール憲法を利用して、ヒトラーは実権を握っていきました。憲法は、共和制を宣し、国民主権を定めていました。国会は20歳以上の男女の普通直接選挙で、また大統領が同じく国民の直接選挙で選ばれました。行政府の長である首相と各大臣は、大統領が任免し、彼らは国会の信任を要件としていましたが、大統領は国会を解散することができました。また大統領は、国会が議決した法律を国民投票に付すことができ、非常時と考える時には武力行使を伴って、憲法と法律にかわる緊急命令を出すことができました。これらは立法府としての国会を形骸化させ、やがてヒトラーへの全権委任法へとつながっていきました。直接民主主義の一つの表れである国民発案、国民表決の制度は、ナチスの宣伝手段として利用されました。かつて法学生であった時、最高の憲法からナチス政権が生まれたこと、どんなに良いものでも活用の仕方によって、悪いものへと変えられることに、不思議さと同時に人間の怖さを感じました。
しかし今、キリスト者として、このことを捉える時、人間の歴史は良きものを悪しきものに変えることの連続であったことを、改めて考えさせられます。ワイマール憲法に欠けていたものは何か、正確に言えばワイマール憲法の下にあったドイツ国民に欠けていたものは何か。それは「造り主を覚える」ということです。最初に神様が創造された天地万物すべては、きわめて良かった世界でした。神様は、良きものを人間に与えて下さいました。文化を創り出す力も、良きものとして神様が人間に与えて下さったものです。造り主を覚えて、神様からの賜物を、神様の御心に従って用いさせていただく時、私達の前に真の自由と喜びが与えられます。自らの思いに囚われて、人間の奴隷として生きるのではなく、神様の僕として生きる道が開かれています。今、聖霊なる神様が教会の上に働き、私達一人一人の上に働かれています。聖霊なる神様の働きによって、私達は主イエス・キリストを知らされ、主イエス・キリストを通して、父なる神様を知ることを赦されています。すべてのものを良きものとして創造された、造り主である父なる神様を覚え、神様の御心を尋ね求めながら、日々の歩みを整えていただきましょう。

2007/03/18

07/03/04 神に助けを求める M     

2007年3月4日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神に助けを求める     ホセア書7章13-16節
讃美歌 77,Ⅱ15,138
堀眞知子牧師
神様はホセアを通して「今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様は私の目の前にある」と言われました。神様はイスラエルの信仰が回復することを望み、イスラエルを癒したいと願っています。それにもかかわらず、イスラエルは悔い改めようとはしません。逆に罪に罪を加え、悪に悪を重ね、自分達がしていることが罪悪であることすら気付いていません。そのイスラエルの罪と悪が語られます。3-7節には、ヤロブアム2世から北イスラエル最後の王ホシェアに至るまで、7人の王に関するできごとが記されています。「彼らは悪事によって王を、欺きによって高官達を喜ばせる」ヤロブアム2世の子ゼカルヤをシャルムが殺し、シャルムをメナヘムが殺し、メナヘムの子ペカフヤをペカが殺し、ペカをホシェアが殺しました。20年にも満たない間に、4人の王が殺されました。北イスラエルは謀反の繰り返しでした。紀元前931年、ヤロブアムが北イスラエル王国を建ててから200年、謀反は何度も繰り返されました。そして、どの王も最初の王ヤロブアムの罪から離れることがありませんでした。偶像礼拝の罪は、異教の神々を受け入れる罪となり、まことの神様から離れてしまいました。かといって改宗して完全に離れるというのではなく、多神教の罪を犯してしまったのです。「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」という戒めに背いてしまいました。しかも北イスラエルは、それが罪であることに気付いてすらいませんでした。背信の罪に気付かない北イスラエルは、謀反を罪とは考えませんでした。イスラエルの王は、神様の意志によって立てられ、神様の御心に従って政治を行うべきことを、完全に忘れ去っていました。北イスラエルの指導者達は、悪事と欺きに満ちていました。
ホセアは彼らが、どのようにして謀反を繰り返し、悪事と欺きを重ねてきたかを述べます。「彼らは皆、姦淫を行う者、燃える竈のようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると、膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ」謀反を起こした者達は、神様に背く者達であり、燃える竈のように、政治的野心に燃えていました。そして、パンを焼く者が小麦粉をこねた後、それが膨むまで火をかき立てずにじっと待つように、行動を起こすまでは慎重でした。策略を十分に練り、時が来るまで野心を隠し、一気に行動を起こして謀反を働き、それまでの王を初めとする支配者達を倒しました。「我々の王の祝いの日に、高官達はぶどう酒の熱で無力になり、王は陰謀を働く者達と手を結び、燃える竈のような企みに心を近づける。夜の間眠っていた彼らの怒りは、朝になると燃え盛る火のように炎を噴く」野心を胸に秘め、ひそかに準備を進め、時が来れば謀反者は、王を初めとする支配者達を罠にかけて殺しました。夜の闇に隠れてひそかに眠らせていた怒りを、朝が来れば、つまり時が至れば燃えさかる火のように炎を噴かせ、謀反を起こしました。神様の御心ではなく、政治的野心によって動かされてきた北イスラエルの歴史。神様はホセアを通して語ります。「彼らは皆、竈のように熱くなり、自分達を支配する者を焼き尽くした。王達はことごとく倒れ、一人として、私を呼ぶ者はなかった」自分を支配していた者、自分が仕えてきた者を滅ぼし尽くして、北イスラエルの新しい王は誕生しました。新しい王も、やがて謀反によって滅ぼされました。謀反に謀反が繰り返される中で、誰も神様を呼びませんでした。政治的野心に燃え、人間の思いが優先し、人間の力によって北イスラエルの歴史は形成されました。誰も神様の御心を尋ねようとしなかったし、神様の助けを求めませんでした。神様を無視し続ける北イスラエルに、やがて神様からの罰が下ります。
国内の政治において神様を求めず、結果として不安定なら、当然のことながら、諸国との関係においても神様を求めず、結果として不安定になります。神様はホセアを通して語ります。「エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった」イスラエルは、神様によって神の宝の民とされました。イスラエルは特別な民であり、祝福と共に責任と義務がありました。神様との交わりの中に生き、異教の神々と交わることは赦されていませんでした。にもかかわらず、北イスラエルは自らの特別な立場、神様との関係を忘れ、他の国々と交わり、異教の慣習をも受け入れました。アラムと同盟を結んで南ユダを攻撃したり、アッシリアに貢ぎ物を贈ったりしました。「裏返さずに焼かれた菓子」とは神様に形式的には仕えながら、本当の意味で神様を信頼せず、諸外国の力に頼り、異教の神々を受け入れている北イスラエルの姿、裏表のある姿を表しています。「他国の人々が彼の力を食い尽くしても、彼はそれに気付かない。白髪が多くなっても、彼はそれに気付かない」神様は「気付かない」という言葉を繰り返して、自らの姿に気付かない北イスラエルの現状を語ります。頼るべき相手を間違え、諸外国に滅ぼされようとしていることに気付かない。白髪が増えるように衰退していることに気付かない。神様は、北イスラエルの無知を嘆かれます。「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず、これらすべてのことがあっても、主を尋ね求めようとしない」北イスラエルが無知であるのは、高慢の罪を犯し続けているからでした。アラムと同盟を結んだ結果として、アッシリアに貢ぎ物を贈らなければならなくなっても、外交政策の間違いに気付きませんでした。まことなる神様に頼らないで、やがて北イスラエルを滅ぼす国、危機において助けてくれない国に頼っていました。自分達の外交政策に自信を持っていたのです。このように不安定な北イスラエルに対し、神様は「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」と言われました。北イスラエルは、愚かで悟りのない鳩にたとえられます。ホシェアはアッシリアに攻められると、服従して貢ぎ物を納めました。ところが今度は、エジプトに使節を派遣して、アッシリアに貢ぎ物を納めなくなりました。結果としてアッシリアの怒りを買い、サマリアは占領され、北イスラエルは滅亡しました。北イスラエルは、自分達を滅ぼすアッシリアに頼り、助けてくれないエジプトに頼りました。神様に背き続ける北イスラエル、そのことに気付かない北イスラエルに、神様は裁きを宣告されます。「彼らが出て行こうとする時、私はその上に網を張り、網にかかった音を聞くと、空の鳥のように、引き落として捕らえる」歴史的事実として、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされます。けれども、それは神様の御業としてなされます。神の宝の民とされながら、神様に頼ろうとしないで異教の国々に頼った北イスラエルは、神様の裁きとしてアッシリアに滅ぼされます。創造主である神様は、異教の国々さえ用いて、網に捕らえられる鳥のように、北イスラエルを引き落とされます。
神様は「なんと災いなことか」と嘆きと怒りの叫びを上げられます。神様が助けの御手を差し伸べているにもかかわらず、北イスラエルは神様から離れ去り、背き続けてきました。神様がカルデアのウルにいたアブラハムを召し出し「私が示す地に行きなさい。あなたは祝福の基となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と語られました。そしてカナンの地に着いた時、そこには先住民族がいたにもかかわらず「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。実際にイスラエルがカナンの地を得るのは、それから800年くらい後のことです。神様はモーセを指導者として立てられ、エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルを、カナンまで導かれました。モーセはカナンの地に入る前に、イスラエルに神様の御言葉を取り次ぎました。その中で「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」と神様を愛することを命じられ、愛するなら、約束の地カナンで人口が増えることを約束されました。同時にカナンには、先住民族が住んでいて、彼らの宗教がありました。ですから「あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、神が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい」と異教の神々を尋ね求めることを禁止されました。さらにイスラエルが、異教の神々の影響を受けて誤った道に進まないために「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と預言者を立てる約束をされました。その約束に従い、神様に背き続けている北イスラエルに、何人もの預言者が立てられました。今、ホセアが立てられ、自らの結婚生活をも通して神様の御言葉を語っています。けれども北イスラエルは、ホセアの言葉に耳を傾けようとしません。「彼らは私から離れ去った。私に背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らは私に偽って語る」神様は「離れ去った」と完了形で語られました。イスラエルは、エジプトの奴隷状態から助け出し、約束の地カナンまで導かれ、その土地を与えられた神様から離れ去ってしまったのです。神様はイスラエルを御自分の宝の民として愛され、何とかして救おうとして再三、助けの御手を差し伸べましたが、イスラエルは真心をもって神様に仕えようとはしませんでした。ヤロブアム2世の時代、北イスラエルは経済的には繁栄していたので、その豊かな富に従って神様に献げ物をしましたが、それは形式的な信仰であって、神様に立ち帰ったのではありませんでした。異教の神々に献げ物をするのと同じ心で、まことなる神様に献げ物をし、形式的礼拝を行っていたのです。彼らの心は偽りで満ちていました。神様に背き続けていました。何が本当の信仰であるかさえ、見失っていました。ですから神様は「北イスラエルは滅びる」と厳しい宣告をされました。もともとカナンの地は、メソポタミアとエジプトに挟まれた地であり、双方から狙われている土地でした。ペリシテ人のように、地中海の島々から攻め入ってくる民族もいました。先住民族もいました。神様から与えられた地は、絶えず外敵の危険にさらされ、先住民族の影響も受ける土地でした。平穏な土地ではありませんでした。そのような地にあって、唯一なる神様にのみ信頼して生きる、それがイスラエルに求められた生き方でした。ところがイスラエルは危機の中にあって、この世の力に頼り、神様に助けを求めようとはしませんでした。「彼らは心から私の助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが、私には背を向けている」と神様は言われました。「寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つける」というのは異教の習慣です。北イスラエルは異教の習慣をもって、神様の助けを求めようとし、真心から神様の助けを求めようとはしませんでした。神様に背を向けたまま、異教の習慣をもって神様を呼び続けたのです。神様は長い年月をかけて、イスラエルを御自分の民として訓練し、育て続けてこられました。けれども「私は、彼らを教えてその腕を強くしたが、彼らは私に対して悪事を企んだ」と語られているように、北イスラエルは神様から与えられた力によって、逆に神様に反抗しました。「彼らは戻って来たが、ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。高官達は自分で吐いた呪いのために、剣にかかって倒れ、エジプトの地で、物笑いの種となる」北イスラエルは神様の助けを、自分の欲望のためにしか受け取っていませんでした。ねじれた弓のように神様の目的から離れ、むなしい人間の力に頼りました。人間の力に助けを求めた者は、人間の力によって倒れることになります。アッシリアによって滅ぼされ、エジプトからは嘲りの的とされるのです。
神様によって召し出され、神の宝の民とされたにもかかわらず、神様から離れ去ってしまった北イスラエル。離れ去ってしまったがゆえに、危機の中で神様に助けを求めなかった北イスラエル。神様に助けを求めるよりも、アッシリアやエジプトに助けを求め、結果として滅んでしまった北イスラエル。この北イスラエルの姿は、私達には愚かなものに見えます。しかし私達もまた、本当に神様に背いていないのか、神様に助けを求めているのか、神様にのみ信頼を置いているのかということには、絶えず注意を払い、吟味しなければなりません。洗礼を受けてキリスト者として召された。教会生活を守っている。それはキリスト者として大切なことですが、それだけで神様に従順であるとは言えません。イスラエルは生まれながらにして神の民であり、礼拝を怠っていたのではありません。神の民という自覚を持ち、礼拝を守りながらも、形式的な信仰に陥っていたのです。いざという時に、神様にすべてを委ねることができませんでした。この世の権力や富、外交政策に頼ってしまったのです。私達キリスト者も、世から隔絶した生活を送っているのではありません。むしろキリスト者が1%にも満たない、異教社会の中で生きています。その中にあって、まことの神様に従順に生き、神様にのみ信頼を置いて生きることは、決してたやすいことではありません。時として神様よりも自分の力、健康、家族をはじめとする人間関係、金銭に頼ることはないでしょうか。キリスト者の間でも「元気でいること、健康が大事よね」という会話が、あまりにも気楽になされてはいないでしょうか。すべてを神様からいただいていること、神様からキリスト者として召し出されていることを忘れていることはないでしょうか。本当に頼るべき御方は、父・子・聖霊なる三位一体の唯一なる神様のみです。そして困難の中にあって、助けを求めるべき御方も神様のみです。今、私達は主イエス・キリストの御受難と御復活を覚える、レントの時を過ごさせていただいております。御独り子の命さえ惜しまなかった父なる神様、私達のために十字架にかかって下さったイエス様、私達を導いて下さっている聖霊にすべてを委ね、神様にのみ信頼を置き、神様が差し伸べて下さっている救いの御手にすがり、神様にのみ助けを求める歩みを、神様によって整えていただきましょう。

07/02/25 恵みの賜物 T

恵みの賜物
2007/02/25
ローマの信徒への手紙5:15~21
 ある作業所が労働基準監督署から最低賃金を守っていないと指摘されました。福祉施設である作業所には最低賃金が適用されないとされていましたが、行政当局は労働の場と見なせる作業所には労働基準法を適用する姿勢を示しました。
 作業所の中には障害者の施設が労働基準法の適用除外になるのを利用し、障害者を搾取していた例も少なからずありました。障害者自立支援法を有効に機能させるためには障害者を労働者と見なし、労働三法を適用させる必要があります。
 作業所が福祉の場であることが障害者の自立を妨げてきました。作業所が雇用主としての自覚を持たず、障害者も労働者としての自覚を持てない環境が温存されてきたからです。障害者側にも雇用されにくいという事情がありました。
 障害者の生産性が低いのを口実にした差別があるのは事実ですが、生産性が低い部分を行政側が援助することを怠っていた面もあります。障害者には障害年金が支給されているのを口実にし、低賃金を強要してきた施設は少なくありません。
 労賃に障害年金を加算したのが賃金として支給されるのが常識化していたようですが、障害年金と労賃は別枠で支給されるべきものなのです。最低賃金が適用されれば賃金に障害年金を加わえれば自立できる障害者が増えてくるでしょう。
 福祉施設には利用料が入るのですから民間並みの生産性が必要ないはずでし、企業ならば障害者の雇用には助成政策がとられています。最低賃金、時給600円余りを支給できないはずがないと思いますが、必要ならば補助を考えるべきです。
 障害者を一人の労働者、一個の人格を持った人間として扱ってこなかった社会に責任があります。欧米諸国ならば障害を理由にして最低賃金を支払わなければ重大な人権侵犯と見なされます。日本も少しは先進国に近づいたともいえます。
 ノーマライゼーションとは障害者も健康な者も社会を構成する一員と見なすことから始まります。障害があるから社会参加できない社会を変革する必要があるのです。障害者にも人間として、一労働者としての権利と義務があるのです。
 日本では障害者の人格を無視する風潮がありました。理由のない差別が障害者の自立を妨げてきました。障害がある人にも対応できる社会は老人にも優しい社会であり、子供にも優しい社会なのです。総ての人に優しい社会なのです。
 日本では障害者の基本的人権が認められない時代が続きました。「福祉はただの世界」は障害者から「自己決定、自己責任」の能力を奪い去ってきました。障害者の労働を正当に評価しない世界は障害者に自立の機会を与えない世界です。
 行政当局が作業所にも労働基準法を適用させる意思を表明したのは画期的な出来事です。福祉施設に障害者を一人の人間として対応することを求めたからです。福祉施設の福祉依存を許さない行政の姿勢は頂門の一針の意味を持つからです。
 福祉の現場では障害者を子供扱いしているところもあります。ある施設では成人の障害者を家の子供達と表現していました。クリスチャンの職員でさえこのレベルです。障害者を一人の人間として認めさせるためには意識改革が必要です。
 一人の人「最初の人アダム」が犯した罪、善悪を知る木から果実を取って食べた罪は全人類に死をもたらしました。神を羨む心は人間に人を羨む心、隣人を貪る心を生じさせました。しかし一人の人「最後の人イエス」の十字架での死と甦りで示された罪の贖い、恵みの賜物は多くの人に豊かに注がれるているのです。
 恵みの賜物は罪を犯した最初の人、アダムによってもたらされた罪の世界とは異なります。裁判では罪を一つでも犯していれば有罪の判決が下されますが、恵みが働く時にはいかに多くの罪を犯していても無罪の判決が下されからです。
 「最初の人アダム」が犯した罪を通して死が人間を支配するようになったとすれば、恵みの賜物と義の賜物とを豊かに受けている人間はイエス・キリスト、新しい人類の代表「最後の人キリスト」を通して永遠の生命に繋がれるのです。
 一人の人の罪、不従順によって総ての人が有罪、罪人とされたように一人の人の正しい行為、従順によって多くの人が無罪、義、正しい者とされるのです。人間は死ぬ者とされましたが、義の賜物により永遠の生命を得る者とされたのです。
 律法が人間の世界に入り込んできたのは人間の罪が増し加わるためでした。なぜなら律法、罪の基準が神から与えられていなければ人間は罪を犯したことにならないからです。律法は人間に罪の自覚を促すために与えられたものだからです。
 しかし罪が増し加わったところには恵みがなお一層満ち溢れるのです。罪を自覚した人間でなければ恵みの賜物により罪の赦しを自覚することができないからです。罪が増し加わわれば恵みはさらに満ち溢れるという逆説が成り立つのです。
 こうして罪が死を通して人間の世界を支配していたように、恵みも義によって人間の世界を支配するのです。「最初の人アダム」により人間の世界に死がもたらされましたが、「最後の人キリスト」により人間は永遠の命に導かれるのです。
 「最初の人アダム」はエデンの園で満たされた生活を送っていたのにも拘わらず、神のように善悪を知る者となりたくて禁断の木の実を食べました。アダムの神を羨む心が神から与えられた戒めを破らせたのです。人間が神から与えられた戒めを最初に破った瞬間です。人間の世界に死が入り込んだのはこの時からです。
 アブラハムの召命から1500年後にモーセに律法が与えられました。この間は律法のない時代、罪が罪として認められない時代でしたが、人間を死が支配しました。「最初の人アダム」が犯した罪、神を羨む罪、人を羨む罪によるのです。
 しかし「最後の人キリスト」の十字架での死と甦りより人間の罪は贖われたのです。アダムの犯した罪は帳消しにされたのです。恵みの賜物により死が支配する世界、罪の世界から永遠の命に導かれる世界、神の世界へと移されたのです。
 『私たちの国籍は天にある』のです。地上を支配しているのは罪の世界です。恵みの賜物でも人間の世界から死を取り除くことはできませんが、永遠の命を与えることができるのです。肉体の不老不死ではなく神に属する生を与えるのです。
 律法は罪を明らかにしましたが、罪から救われる道を示していません。律法は罪の自覚を促しましたが、罪から救われる道を示せませんでした。人間は律法を守らなくてはならないが守りきれないという隘路に落ち込んでしまいました。
 ユダヤ人は救いの道を個人の努力や精進に求めましたが、律法を守りきれないことは明らかです。主の十字架での死と甦りのみが救いへの道に繋がるのです。
 恵みの賜物は罪とは比較になりません。「最後の人キリスト」の救いの御業は「最初の人アダム」の犯した罪を贖って余りあるからです。教会はアダムの罪を原罪と表現してきましたが、人間の神を羨む心、人を羨む心を指しています。
 人間の人を羨む心の裏返しが人を差別する心です。例えば障害者差別を肯定する人はほとんどいませんが、社会の中では障害者差別は日常的に行われています。西欧ではノーマライゼーション、障害者が社会の構成員として普通に生きられるのが常識だそうですが、長い歴史の積み重ねがそれを可能にしているのです。
 熊沢先生がドイツの障害者の町、ベテルについて話してくれました。ベテルは神の家という意味です。ヤコブが御使いが階段を上下する夢を見たのが由来です。ベテルでは障害者があらゆる分野に進出しているそうです。社会システムが障害者が社会生活を送る中で障害を意識しなくてもよいようにできているそうです。
 町を案内してくれた人も障害者なのですが、ベテルの町の宝だと紹介してくれた人は芋虫のように手足がない人だったそうです。障害者の町だからといっても言い過ぎだと思ったそうですが、ナチスから障害者の抹殺を命じられたベテルの人たちがその人の命を守れ!を合い言葉にして障害者を守り通したそうです。
 ナチスはユダヤ人だけではなく障害者も虐殺、ホロコーストにしたのです。ナチスの優生思想ではユダヤ人、障害者の劣悪な遺伝子を人類から排除するのが正義だからです。ベテルの町の人は自分たちの命を懸けてそれに抵抗したのです。
 ナチスにもクリスチャンは多くいました。ホロコーストを正義だと信じ実行した人もいましたが、ホロコーストをサボタージュする人もいたのでしょう。ベテルの町の住民をホロコーストにするのはさすがに躊躇われたのかも知れません。
 ベテルの町は生き残り、福祉の町として世界に知られるようになりました。ベテルの町の人はキリストに倣う者、主の愛を実践する者として生き抜いたのです。彼らは死を恐れませんでした。肉体の死よりも永遠の命の方を選んだからです。
 戦争は人間を悪魔にもするし、天使にもするのです。ホロコーストを実行したのも人間ですし、ホロコーストに抵抗したのも人間だからです。人間である限り罪の支配から逃れられませんが、恵みの賜物が人間を罪から解放させるのです。
 ユダヤ人はナチスを決して許しません。イスラエルの情報機関モサドは現在でもナチス狩りの手を緩めません。律法の世界には赦しがないからです。罪は3,
4代に及ぶのです。罪を犯した人間は罪を償わなければ赦されないのです。
 一方恵みの世界、恵みの賜物が豊かに注がれている世界ではキリストの愛と恵みにより赦しが得られるのです。人間の意識の奥底には罪が渦巻いています。人を羨み、差別する心は誰にもあるからです。罪のない御方はキリストただ一人なのです。人間は恵みの賜物に縋り付くしか罪から逃れることはできないのです。
 恵みの賜物は私たちの罪を贖うだけではなく、生きる喜びも与えてくれるのです。罪の支配から恵みの支配へ移されることは死に対する恐れが永遠の命へ至る喜びに変えられることを意味するからです。恐れが喜びに変えられるのです。
 罪が死によって支配されていたように、恵みは神の義によって支配されているのです。「最初の人アダム」の罪は人間の罪ですが、「最後の人キリスト」の愛は神の愛です。人間の罪は神の愛に覆われるのです。永遠の命へと導かれるのです。
 恵みの賜物は私たちに永遠の命を与えてくれますが、不老不死の身体を与えてくれるのではありません。人は老い、死んでいくのが自然の摂理だからです。私たちの肉体は朽ちても、甦りの命が与えられているのです。『私たちの国籍は天にある』のです。キリストが救い主として私たちを迎えに来てくださるからです。
 死は終わりではありません。死の向こうには甦りの命があるからです。私たちをキリストが迎えに来てくださるからです。私たちは既に天に召された人たちと兄弟姉妹となりますが、天では人間の想像を超えた存在に変えられるのでしょう。
 人間は死を避けられませんが、古代から不老不死の妙薬を求める無駄な努力がなされてきました。もし人間が不老不死の妙薬を手に入れたとしたら、むしろ不幸な人生が待ちかまえています。「彷徨えるオランダ人」のように彷徨い続けなくてはならなくなるからです。肉体の死は生ける主からの贈り物なのです。
 医学の進歩が人間に与えた恩恵は計り知れませんが、人間の尊厳を保ったままでの死を迎えにくくしました。ホスピスのように死を安らかに迎えられる施設が必要とされています。死は総ての終わりではなく天での生活の始まりだからです。
 死を畏れる心は人間の本能から来ています。人間以外の動物は死を避けるために恐怖を抱きますが、死後の世界を想像し、畏れることはありません。宗教心は人間に固有な心です。『人間は神にかたどって創造された』ので人間だけが神様と心が通い合うことができるのです。真の神を知ることが赦されているからです。
 人間が死後の世界を意識できるようになり、初めて神を意識できるようになりました。エデンの園での満たされた生活では主なる神を神として意識できなかったでしょう。アダムの犯した罪により罪が人の世に入り込んだという創造神話がバビロン捕囚時代の民に死こそ信仰の原点であることを思い起こさせたのです。
 私たちは本能的に死を畏れますが、むしろ死は新しい生への旅立ちなのです。教会は天国への旅立ちを待つための待合所なのです。私たちは甦りの命を想像できないから不安に駆られるのです。天国に対する不安を希望に変えるのが教会ですが、地上の歩みに希望を与え、日々の生活を充実させるのも教会の役割です。
 教会は神の国の雛形でしかありませんが、神の国の先取りともいえます。教会生活に喜びを感じられないのならば何処かが間違っています。教会も人間の集まりですから完全ではありませんが、完全になろうと努力し続けているからです。
 信仰生活には王道はありません。一人一人の信仰は個性的なものですが、教会生活を重ねる中で折り合いが付いてきます。「こうあらねばならない」という信仰は個人だけではなく教会にも緊張をもたらしません。「これでも良いのかもしれない」という信仰は寛容を生み出します。教会生活に必要なのは寛容な心です。
 『私たちの国籍は天にある』のですから地上の生活も天に繋がるのです。死は乗換駅にすぎません。乗車券、恵みの賜物はキリストの恵みにより私たち一人一人の手に既に配られているのです。永遠の命へ至る線路は目の前に敷かれているのです。待合室、教会では旅立ちの支度を調えた兄弟姉妹が賛美をしています。
 私たちに必要なのは信仰、『イエスは主である』を信じることだけです。後は生ける主に総てを委ねれば良いのです。恵みの賜物は主を信じる者には無条件で与えられるからです。主イエス・キリストを通して永遠の命に導かれるからです。
  

07/02/18 予型としてのアダム T

予型としてのアダム
2007/02/18
ローマの信徒への手紙5:12~14
 ある社会福祉法人の理事長が機関誌で精神障害者に対して労働による社会参加を訴えていましたが、精神障害者は「働きたいが働かれない」ジレンマの中で藻掻き苦しんでいるのです。自立を望みながらも自立できる能力がないからです。
 障害者自立支援法の抱える最大の矛盾はこのジレンマにあります。自立のための訓練により自立できる人はごく僅かです。多くの障害者は自立できるだけの能力を病気により既に失っています。訓練が病気を悪化させる場合もあるのです。
 病気で働く能力を失った人に障害年金が支給されるのですから自立を迫るのは自己矛盾です。むしろ障害者が住みやすい環境を整える方が先決です。労働は社会参加のためになされるのではなく、生き甲斐造りのためになされるべきです。
 自立支援法では従来の福祉施設が訓練の場として定義されるようになりました。作業所での作業で僅かながらも労賃を得ていた障害者は利用費を取られるようになりました。障害者の側から見れば労賃を施設にピンハネされているのです。
 さらに施設での労働には労働基準法は適用されず、労賃は最低賃金よりもかなり低いのです。施設での労働は福祉の対象であり、正規の労働とは見なされていないのです。多くの障害者は施設でスキルアップできずに施設に留まり続けます。
 障害者の労働力を健康な人の労働力に換算するのは不公正です。労働を質ではなく量で評価すべきです。質が落ちる分を政府が福祉予算で補填すべきです。障害者に500万円を支給するために税金を5000万円も使う制度は間違っています。
 社会福祉法人に膨大な税金が注ぎ込まれているのにも拘わらず、障害者が負担できないような自己負担を求める制度は不公正です。雇用対策としての使命を終えたのですから福祉政策の本道に戻り、障害者が使いよい制度に改めるべきです。
 自己負担制度は「福祉はただ」の世界から「自己責任、自己負担」の世界へ変へたのは評価できますが、自己負担は0.5%が限度です。病院の体質が改善されたように、福祉法人も利用者に選ばれるようになれば質の向上が期待できます。
 作業所を労働の場と定義し直し、労働時間を自由に定められるようにします。労働契約を結び、社会保険にも加入できるようにします。最低賃金(600円強/時)を保証し、生活保護受給者にも賃金の一定割合が加算されるようにします。
 一方労働を望まない人には福祉の場、憩いの家などを提供すれば良いと思われます。病院のデイケアーを卒業した人、デイケアーに馴染めない人などが集える場を整備する必要があります。生き甲斐を見出せる場を創設する必要があります。
 さらに回復した人のためのリハビリセンターが必要とされてくるでしょう。短期間で回復した人は復職のためのリハビリが必要です。療養休暇の後の職場復帰は健康な人でもストレスが掛かるので再発する人が非常に多いからです。
 新しい薬で回復した人のリハビリには特別なメニューが必要です。脳の機能が回復しても心が回復していないからです。心の癒しが必要なのです。生きる目標が必要なのです。心の癒しは医療ではなく、信仰が扱う分野だと思われます。
 アダムが犯した罪により罪が人の世に入り、罪により死が総ての人に及んだという考えはユダヤ人的な概念に起因するものです。ユダヤ人は時間空間を越えて一つの民族なのです。パウロは時間空間を越えてアダムと連帯し、一人称で表されるべき関係にあるのです。言い換えればアダムは人類の始まりであると共に全人類の一部なのです。アダムが罪を犯したことは全人類が罪を犯したことになるのです。アダムの罪は全人類の罪であり、個々の人間の罪と見なされるのです。
 さらにパウロは死は罪の直接の結果であると見なしていますが、ユダヤ人の信仰によればアダムが罪を犯さなければ人は死ななかったのです。神様が人間を創造なされた時には人間は死とは無関係な存在として創造されたのです。しかし、アダムは神様の直接の戒め、禁じられた木の実を食べてはならないという戒めを破りました。アダムは神様に対して罪を犯したので死に渡されたのです。
 ところでモーセにシナイ山で律法が与えられる以前、アダムからモーセまでの間にも人間は罪を犯しましたが、律法を授かる以前の罪は罪として数えられませんでした。律法という罪の基準がなければ罪は罪として認められないからです。
 しかし、この時代の人たちは罪と定められる根拠、律法がまだ存在しないのにも拘わらず死んでいきました。彼らはアダムの犯した罪に含まれるからです。総ての人はアダムが犯した罪の共同正犯なるがゆえに死の世界に渡されるのです。
 パウロの用いている論理はユダヤ人には馴染み深い論理なのですが、個人主義である私たちには理解し難い論理です。民族には創造神話が残っていますが、人の世に死が入り込んだ理由は異なります。ユダヤ人はバビロン捕囚時代、唯一の神がバビロンの神々に屈服したと思われる時代に創世記を纏めました。民族としての誇りを失いそうになった時に天地を創造なされた神に思いを馳せたのです。
 ユダヤ人はアダムが唯一の神との約束を破ったがゆえに死が人間の世界に入り込んだと理解しました。アダムから始まる神の民イスラエル、ユダヤ人は神に選ばれた特別の民として時代空間を越えて一つの民族なのです。神様に対して共同責任を取らなくてはならないのです。例え律法がない時代、罪に定められることのない時代の人にも死が及ぶのです。さらに現代も死が私たちを支配するのです。
 パウロのアダムの罪から始まる死に対する理解はユダヤ人固有の理解でした。ギリシア人には理解しがたい論理でしたが、人間の罪に迫る論理は後世に大きな影響を残しました。教会はアダムの犯した罪を人間の原罪として捉えました。人間は罪人であるという信仰の根本には原罪があります。神様が総てを見て良しとなされた天地創造の御業から人間が人間の意志で離れてしまった罪なのです。
 原罪はアダムから始まる人間の歴史の底を流れている潮流ですから、人間には原罪を贖って下さる救い主が必要なのです。律法や割礼の遵守、犠牲などでは人間の原罪を贖うことができないのはユダヤ人の歴史が指し示すとおりです。
 パウロは主の十字架の死と甦りで示された愛と恵みこそが人間に無罪の判決を下すと主張しています。恵みの賜物はアダムによってもたらされた罪を帳消しにするのです。神様の恵みと義の賜物はキリストを通して生き、支配するのです。一人の人、アダムの罪により総ての人に有罪の判決を下されたように、一人の人、キリストの正しい行為により総ての人が無罪、義とされると宣言されたのです。
 アダムが禁断の木の実を食べたのは神のように善悪を知るものとなりたかったからです。アダムはエデンの園で満たされた生活を送っていましたが、満足することができなかったのです。アダムはエバに唆されましたが、神様を羨む心があったからです。神様と自分との関係が創造者と被造物の関係にあることが分かっていながらも、なお神様のようになりたかったのです。さらに、人間はバベルの塔を造り、天に届かせようとしましたが、神様は人間の言葉を乱されました。人間の世界に死が入り込み、部族毎に違う言葉を使う理由を述べたイスラエル民族、ユダヤ人の創造神話です。この創造神話を創世記として後世に残しました。
 ユダヤ人はバビロン捕囚、異民族に奴隷として使われている時代に創世記を纏めたのは創造主である唯一の神への信仰を確信し、被造物としての自覚を高めるためです。アダムの罪、バベルの塔での裁きは神を羨み、与えられた世界に満足できなかった人間の罪の結果です。奴隷の身であったユダヤ人は創造主の裁きに総てを委ねたのです。唯一の神に見捨てさられることはないと確信したからです。
 人を羨む心は人間の心の奥深くに宿る罪、原罪だと思います。神様から与えられた物で満足できない人間の本性は争いを引き起こします。時には戦争さえも正義の名の元に行ってしまうのです。略奪民族と農耕民族はある種の平衡状態を保っていましたが、民族間の争いは大虐殺を引き起こしました。古今東西戦争が絶えた時はありません。人間の歴史は戦争の歴史と置き換えても良いぐらいです。
 日常生活においても人を羨む心は人間の欲望に火を点けます。日本人の生活は発展途上国の人たちからみれば天国での生活に思えるでしょう。栄養学的に満たされた世界は理想であったはずですが、理想が満たされればさらなる贅沢を望みます。人は貧しくても隣人よりも満たされている世界の方を豊かでも隣人と平等な世界よりも好むそうです。共産主義よりも資本主義が好まれる理由だそうです。
 人を羨む心は持てる者と持たざる者との間に緊張関係を造り出します。さらに人を差別する心を生み出します。人を羨む心が人を蔑む心に転化するからです。人を羨む心が前向きに表れた場合は向上心を引き出します。競争社会は人類を発展させる原動力になりますが、競争から落ちこぼれる人が必ず出てきます。それが根拠のない差別を生み出す原因になります。人は優越感を持ちたいからです。
 ユダヤ人はダビデ・ソロモン王朝を除けば常に侵略者に怯えていましたが、ローマにより紀元70年に滅ぼされました。離散の民、ディアスポラとしてのユダヤ人を支えていたのは神に選ばれた民、選民としての誇りでした。他民族を異邦人として差別してきましたが、弱さの反映に過ぎないのかも知れません。アブラハムの召命から1500年間にも渡り語り継いできた創造神話を民族の危機、捕囚時代に思い起こしたのは神の支配を信じ、現実を耐え忍ぶ力を得るためです。
 アダムの神を羨む行為を罪と定めた創世記は人間の心の奥底に眠る罪を浮かび上がらせています。人を羨む心から人間が解放されることはないでしょう。例え修道院の中の生活でさえも人間を欲望から解放しえないことは明らかです。
 原罪は人間が人間である証拠といえるかも知れません。むしろ人間の歴史を造り上げてきた原動力とも言えます。主の福音は原罪を否定するのではなく恵みの賜物により罪が贖われることを示しています。罪ある身が無罪とされるからです。
 格差社会、勝ち組、負け組という言葉が流行っていますが、平等な世界に人間は適応できないのかも知れません。原始共産主義、能力に応じて働き必要に応じて分け前を得る社会は初代教会の初期にしか成立しませんでした。初代教会は配分を巡る不満からユダヤ人と異邦人とに分かれました。人間社会の縮図が表面化したのですが、異邦人から執事を起用することで教会の分裂は避けられました。
 パウロの手紙を読んでいると教会の中でも様々なグループができ、富める者と貧しい者との格差、ユダヤ人と異邦人との差別は解消されていません。パウロがエルサレム教会への献金を集めたのは両者の間を橋渡ししたかったからです。さらに信仰が違い民族が違えば両者の間にできる溝は越えがたいものになります。
 信仰は越えがたい溝を越えさす力になりますが、現実の世界は理想とは懸け離れています。しかし、札幌農学校にクラーク博士は1年もいませんでしたが、内村鑑三、新渡戸稲造などのクリスチャン教育者が輩出されました。クラーク博士は生活が乱れていた寮生に対して規則を撤廃し、一言「紳士たれ」と言ったそうです。武士社会が崩壊し、生きる目標を失っていた若者はその一言で我に戻りました。クラーク博士が発するキリストの香りに若者が激しく反応したからです。
 伝道とは理論ではありません。十字架と甦りを論理的に立証することはできないからです。むしろキリストの香りを放ち続けることが伝道なのです。言い換えれば「あの人のようになりたい」と思われるようになることが肝要なのです。カリスマとはキリストの香りを放ち続ける人を意味しますが、特別な資質を持つ人に限りません。むしろキリストの愛と恵みを地道な信仰生活を送りながら証ししている人、名もない信徒こそカリスマと呼ばれるのに相応しい人なのです。
 私たちは人を羨む心から逃れられないでしょうが、それを罪と意識するかしないかで日常生活も違ったものになります。人間は完全ではありません。人よりも能力が劣る面もありますし、人を偏り見ることもあります。人間は他人との力関係を常に意識し、微妙に調整しながら生きている社会的な動物だからです。
 人間である以上罪の世界から逃れられませんが、イエス様が私たちの代わりに罪を負って下さるのです。私たちは主に贖われたのですから罪を赦された者として生きられますが、罪の自覚を持ち続けなくてはなりません。罪が赦されるのならば何をしても良いという屁理屈は成り立ちません。罪を赦された者にはそれに相応しい生き方があります。キリストの香りを放つ生き方をする義務があります。
 キリストの香りは教会生活を続ける中で自然と身についてくるものなのです。キリストの香りは当人には分かりづらいかも知れませんが、いつの間にか周囲の人々の心に染みこんでいくものなのです。礼拝は御言葉を聞き、賛美し、祈りを合わす場だけではなく、お互いのキリストの香りで満たされる場でもあるのです。
 教会は大きさを目指すのではなく、信仰の一致を目指すべきです。第二種教会を立ち上げるためには現住陪餐会員が20名以上になる必要があります。会堂の拡張も考えなくてはならないでしょうが、実力に応じた規模を考えるべきです。
 心理学的に20名という数は人間の集団の纏まりとしてはほどよい規模だそうです。先ず会員相互のコミュニケーションがとれる規模を目指し、それを越えたならば会堂建設を考えればよいでしょう。身の丈にあった歩みを心がけましょう。

2007/03/07

07/02/11 神が喜ばれること M     

2007年2月11日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神が喜ばれること     ホセア書6章4_6節
讃美歌 7,272,527
堀眞知子牧師
神様はホセアを通して、イスラエルが悔い改めるまで、彼らを祝福しないことを宣言されました。イスラエルが御自身に立ち帰ることを求めて、懲らしめを下しました。それは逆に言えば、イスラエルが自らの罪を認め、悔い改め、神様を尋ね求めるようになった時、再びイスラエルのもとへ来て下さるという約束です。神様は背信の民イスラエルをなおも愛され、御自分に立ち帰ることを何よりも望み、招きの御手を差し伸べて下さっているのです。ところが、イスラエルの立ち帰りを望む神様の思いにもかかわらず、祭司達は本当の意味で立ち帰ろうとはしませんでした。民に対して、まことの悔い改めを促そうとはしませんでした。1?3節に「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を打たれたが、傷を包んで下さる。2日の後、主は我々を生かし、3日目に、立ち上がらせて下さる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れて下さる」と記されているように、言葉では「主のもとに帰ろう。主を知ることを追い求めよう」と民に促してはいますが、本心からではありませんでした。前週も語りましたように、アッシリアはティグラト・ピレセルの時代に力を持つようになり、当時のパレスチナ地方の脅威となっていました。アッシリアに対して、北イスラエルはアラムと同盟を結び、南ユダも仲間に加えようとしましたが、南ユダは応じませんでした。そこで両国は攻撃してきますが、南ユダは預言者イザヤの警告を無視して、アッシリアに助けを求めます。結果として北イスラエルとアラムはアッシリアに敗れ、北イスラエルは多くの領土を奪われ、南ユダはアッシリアの属国のようになりました。
この国家的危機の中で、ホセアは神様の御言葉として「私はエフライムに対して獅子となり引き裂いて過ぎ行く。彼らが罪を認めて、私を尋ね求め、苦しみの中で、私を捜し求めるまで、私は立ち去る」と語りました。ホセアの言葉は、祭司達の耳に聞こえましたが、すでに異教の神々に囚われている彼らの心を、まことの神様に立ち帰らせることはできませんでした。彼らはアッシリアの侵入を「主は我々を引き裂かれた。我々を打たれた」と告白し、神様の御業であることを認めています。認めた上で「我々は主のもとに帰ろう。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」とイスラエルに呼び掛けています。呼び掛けてはいますが、本心からではありませんでした。いや厳密に言えば、まことの神様に立ち帰る道を見失っていた、と言った方が正確かもしれません。異教の神々の影響を受け、まことなる神様との交わりを失っていた彼らは「主のもとに帰ろう。主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」と口には出しても、どのようにして神様のもとに立ち帰ればよいのか、神様が本当に求めておられるのは何かを知ることができませんでした。まことなる神様に仕えることを、異教の神々に仕えるのと同じように思っていました。列王記上16章に記されていた、預言者エリヤと戦ったバアルの預言者達と同じでした。いけにえをささげ、朝から昼過ぎまでバアルの名を呼び、祭壇の周りを跳び回り、自分達の体を傷つけた、うわべだけの、いわば自己満足にしか過ぎないような宗教行為。祭司達の信仰は、そこまで堕ちていたのです。神様を尋ね求めるということが、どういうことであるかが分からなくなっていました。神様を尋ね求めようとしても、どうすれば良いのか、神様が求めておられるのは何か、神様が喜ばれることは何かが、彼らは全く分からなくなっていました。多くのいけにえをささげ、主の名を呼び求めさえすれば、神様が癒し、傷を包んで下さると思っていました。「2日の後、主は我々を生かし、3日目に、立ち上がらせて下さる」と記されているように「我々は主のもとに帰ろう。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」とイスラエルに呼び掛けさえすれば、きわめて短期間で、神様が曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、イスラエルを訪れて下さり、助けて下さると思っていました。
このような、形式的な礼拝で神様に応えようとした北イスラエル、異教の宗教観に囚われて、正しい信仰を完全に失ってしまった北イスラエル。彼らに対して神様は、今お読みいただいた4?6節の御言葉を語られました。いわば手に負えない子供に語る父親のように、嘆きと裁きの言葉を語られました。「私はお前をどうしたらよいのか」という言葉は、もやはどうすることもできないこと、打つべき手がない北イスラエルと南ユダの状況を指しています。「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と記されているように、彼らの神様に対する愛、信仰は、太陽が昇ればすぐに消えてしまう朝の霧や露のように、移ろいやすい、はかないものでした。異教の神々に囚われている彼らは、いわゆる御利益宗教に陥っていました。神様に心から仕えることではなく、神様の御機嫌を取ることしか考えられなかったのです。
5節は「それゆえ」という言葉で始まります。イスラエルの不信仰、背信の罪に対する当然の裁きとして宣告されます。「私は彼らを、預言者達によって切り倒し、私の口の言葉をもって滅ぼす。私の行う裁きは光のように現れる」イスラエルは、まず預言者達によって切り倒されます。次に神様の御言葉によって滅ぼされます。この「切り倒す」「滅ぼす」という言葉は、ヘブライ語原文では完了形になっています。すでに終わったできごととして記されています。申命記18章に記されていたように、イスラエルがカナンの地に入る前に、神様はモーセを通して預言者を立てる約束をされました。そして「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と命じられました。この約束に従って、北イスラエルにはエリヤ、エリシャ、アモスを初め、多くの預言者が立てられました。今はホセアが預言者として立てられています。けれども、イスラエルは預言者に聞き従わない歴史を重ねてきました。今も、ホセアの言葉に聞き従おうとはしません。北イスラエルがアッシリアによって滅ばされるまで、あと10年くらいありますが、北イスラエルの滅亡は、すでに下された裁きとして語られています。「私の行う裁きは光のように現れる」という言葉が示すとおり、朝の霧や露を瞬く間に消し去ってしまう光のように、神様の裁きは北イスラエルに下されます。
異教の神々に囚われ、いわゆる御利益宗教に陥り、神様に心から仕えることではなく、神様の御機嫌を取ることしか考えられない、北イスラエルの不信仰、背信の姿。この現実を前にして、神様は御自分がイスラエルに求めておられるのは何かを、はっきりと語られます。「私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」いけにえや焼き尽くす献げ物さえすれば、神様の名前を呼びさえすれば、と思っているイスラエルに「私が喜ぶのは愛である。神を知ることである」と語られました。神様がイスラエルに対して、いかに御自分に対する誠実さ、御自分との人格的交わりを求めているのか、それを喜ばれるのかが明らかにされています。これは、いけにえや焼き尽くす献げ物を拒否されているのではありません。愛と誠実さと、神様を心から知ろうとしない献げ物を拒否されているのです。愛と誠実さの伴わない献げ物、礼拝を神様は喜ばれないのです。
まことなる神様への愛と誠実さを失ってしまった北イスラエル、そこには不信仰の結果として、悪と罪が満ちていました。7?10節で、ホセアは罪を並べています。イスラエルは、第1にアダムにおいて背信の罪を犯し、神様との契約を破りました。第2にギレアドは悪を行う者達の住みかとなっており「流血の罪を犯した者の足跡がしるされている」と語られているように、何度も血を流す争いが繰り返されました。第3に祭司の一団は待ち伏せる強盗のように、シケムへの道で人を殺しました。シケムは逃れの町です。保護を求める人々がシケムへと向かう途中で、祭司達が彼らを殺したのです。「なんという悪事を彼らは行うことか」という言葉の中に、神様の嘆きの声が響きます。「イスラエルの家に、恐るべきことを私は見た。そこでエフライムは姦淫をし、イスラエルは自分を汚した」御自身の宝の民として、地上の多くの民族の中から選ばれたイスラエル。そのイスラエルが異教の神々に走り、自らを汚しています。その惨憺たる現実を前にして、神様は「恐るべきことを私は見た」と証言せざるを得ないのです。北イスラエルへの非難と共に、南ユダにも警告の言葉が語られます。「ユダよ、お前にも、刈り取られる時が定められている」ホセアの時代からは150年後のことになりますが、エルサレム陥落、バビロン捕囚が迫っています。
6章最後?7章2節に、イスラエルの罪深さが再び語られています。しかもイスラエルは、自らの罪に気付いていません。「私が民を回復させようとし、イスラエルを癒そうとしても、かえって、エフライムの不義、サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りを企む。盗人は家に忍び込み、外では追いはぎの群れが人を襲う。私は彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない。今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様は私の目の前にある」神様はイスラエルの信仰が回復することを望み、イスラエルを癒したいと願っています。それにもかかわらず、イスラエルは悔い改めようとはしません。逆に罪に罪を加え、悪に悪を重ね、自分達がしていることが罪悪であることすら気付いていません。もはや、どうしようもない状態に陥っているのです。この状態は、異教の神々の影響を受け、まことなる神様との交わりを失ったことから始まりました。まことなる神様との人格的交わりを失うと、私達の前には恐ろしい世界が待ち受けています。現実に交わりを失っただけではなく、立ち帰る道さえ見失ってしまうのです。どんなに神様が手を差し伸べて下さっても、その手をつかむことができません。差し伸べて下さっている手に気付く感性、すなわち神様の招きに気付く、招きに応える、そして神様が喜ばれること何か、という信仰の感性そのものを失ってしまうがゆえに、手をつかむことができないのです。
「私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」マタイによる福音書によれば、イエス様は2度、この御言葉を引用されています。9章には、マタイを弟子にされた時のことが記されています。イエス様は徴税人マタイに「私に従いなさい」と言われて、彼を弟子とされました。マタイはイエス様を食事に招き、その場には徴税人や罪人も大勢いました。徴税人はユダヤ人から税を取って、ローマ帝国に納める仕事をしており、ユダヤ人から見れば売国奴でした。正統的なユダヤ人は、徴税人や罪人と交際することはありませんでした。ですから、イエス様が彼らと共に食事をするのを見たファリサイ派の人々は、イエス様の弟子達に「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。それに対してイエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。また12章には、安息日に麦の穂を摘まれた時のことが記されています。安息日に、イエス様と弟子達が麦畑を通った時、弟子達は空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めました。麦の穂を摘むことは労働であり、安息日の労働は禁止されていました。ですから、ファリサイ派の人々はイエス様に「御覧なさい。あなたの弟子達は、安息日にしてはならないことをしている」と言いました。それに対してイエス様は、サムエル記上21章のできごとを例に挙げて「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちを咎めなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」と言われました。ファリサイ派の人々は、北イスラエルの民とは異なり、律法を忠実に守っていました。異教の神々に走るようなことはありませんでした。けれども彼らが律法に忠実であったのは、形式的に律法に忠実であったということであり、律法の根底にある神様の愛と憐れみを見失っていました。ファリサイ派の人々は、神様との生きた、人格的な交わりを忘れて、律法が命じている行いだけに忠実でした。それに対してイエス様が、外面的に従順に見える、見せかけの律法主義(いけにえ)ではなく、神様の愛と憐れみに気付くように、神様を知るように、つまりイエス様が主であることを知るようにと求められたのです。イエス様を知る、それが神様の喜ぶことであることを明らかにされました。
私達は今朝も、イエス様を知らされた者として、このようにして礼拝を守らせていただいております。主イエスが復活された日曜日の朝を覚え、十字架と復活に現された神様の愛と恵みを覚えて、教会に招かれ、教会の枝とされています。礼拝を守る、祈祷会を守る、家庭集会を守る。それは信徒として、義務であると同時に権利です。もし義務感だけで礼拝を守るなら、それは自己満足に陥る恐れがあります。そして守らない人を非難することになり、ファリサイ派の人々と同じになってしまいます。ひいては北イスラエルと同じ、形式的宗教、不信仰に陥ってしまいます。もちろん礼拝、祈祷会、家庭集会を守ることは大切です。けれども、私は礼拝も祈祷会も家庭集会もきちんと守っている、そういう自己満足に陥ると、逆に神様から離れてしまう危険性があります。神様が喜ばれるのは、愛と憐れみであり、何よりも神様を知ることです。愛と憐れみを神様からいただいた者として、神様をより深く知りたい、より深く神様と人格的交わりを持ちたい、その交わりの中に生かされたい。そういう願いと思いが、礼拝、祈祷会、家庭集会の遵守につながる。そういう信仰生活こそ、神様が喜ばれることです。神様が喜ばれる群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。

07/02/04 神を尋ね求める M     

2007年2月4日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神を尋ね求める     ホセア書5章8_15節
讃美歌 76,2_159,256
堀眞知子牧師
イスラエルは地上の多くの民族の中から、神様に選ばれた民でした。それは、彼らの力によるものではありません。申命記7章に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と記されていたように、神様の一方的な愛と、御自身の約束に対する誠実さによって、イスラエルは神様の宝の民とされました。神様の宝の民とされたイスラエルには、唯一なる神様との関係の中に生きる祝福と義務がありました。ところが北イスラエルにおいては、神様をもっともよく知らされ、民の宗教的指導者である祭司が、率先して異教の神々を礼拝し、民の政治的指導者である王や高官達も、異教の神々を礼拝していました。宗教的指導者、政治的指導者がまことの神様への信仰から離れてしまえば、当然の結果として、一般国民の信仰も崩れてしまいます。
神様は、ホセアを通して北イスラエルに裁きを語ります。「聞け、祭司達よ。心して聞け、イスラエルの家よ。耳を傾けよ、王の家よ。お前たちに裁きが下る。お前たちはミツパで罠となり、タボルの山で仕掛けられた網となり、シッテムでは深く掘った穴となった。私はお前たちを皆、懲らしめる」神様は祭司達、北イスラエルの民、王を中心とする政治的指導者達に「聞け」「心して聞け」「耳を傾けよ」と、注意を促すために、3つの言葉をたたみかけて語っています。今、北イスラエルで起こっているできごと、まことの神様に対する背信の罪、神様の民としての使命を放棄した北イスラエルに対して、御自身の裁きに心から耳を傾けるように、そして御自身の言葉に応えるように求めています。ミツパやタボルの山やシッテムで、北イスラエルは異教の神バアルを礼拝していたようです。バアル礼拝は、彼らをまことの神様から離れさせ、誤った道へと誘惑し、最終的には罠や網に捕らえられた鳥のように、深い穴に落ちた獣のように、自由を奪われることになります。バアル礼拝に走っている北イスラエルに対して、神様は「私はお前たちを皆、懲らしめる」と言われました。神様の懲らしめは、単に罪に対する罰ではありません。イスラエルが御自身に立ち帰ることを求めて、懲らしめを下すのです。神様は背信の民イスラエルをなおも愛され、御自分に立ち帰ることを何よりも望み、招きの御手を差し伸べて下さっています。
北イスラエルは、まことなる神様を知らされているにもかかわらず、知ろうとはしません。偶像にしか過ぎないバアルも、北イスラエルを知りません。けれども神様は「私はエフライムを知り尽くしている。イスラエルが私から隠れることはできない」と言われました。イスラエルがどこに行こうとも、どこに隠れようとも、神様はイスラエルを御存じでした。イスラエルが何をしているのか、どれほど罪を犯しているのかも御存じでした。「まことに、エフライムは淫行にふけり、イスラエルは身を汚している」前回も申しましたように、エフライムとは北イスラエルのことです。北イスラエル最初の王ヤロブアムは、エフライム族の出身でした。彼がベテルとダンに金の子牛を置き、レビ人でない民を祭司に任じたことから、北イスラエルの罪は始まりました。偶像礼拝が、異教の神々礼拝へとつながり、まことの神様への背信を罪と感じる心を、イスラエルから奪いました。まことの神様への背信という罪のゆえに、その罪から生じる、さまざまな宗教的悪行のゆえに、神様に立ち帰ることができなくなっていました。イスラエルは、まことの神様から自分達を離れさせようとする「淫行の霊」に捕らわれていました。淫行の霊に捕らわれているがゆえに、神様を知ることができなくなっていました。神様がイスラエルに、御自身を示して下さり、招きの御手を差し伸べて下さっているにもかかわらず、イスラエルは、その神様を知る感性を失っていました。神様との人格的交わりを失っていました。
イスラエルを罪に落としたのは、自らの高慢でした。神様を誇るのではなく、自分自身を誇り、神様を中心に生きるのではなく、自分を中心に生きていました。偶像礼拝は、人間中心の宗教です。人間が造った神を神として礼拝するのです。人間の思い通りになる神を求めるのであって、まことの神様の御心を求めるのではありません。経済的豊かさ、強い軍事力が北イスラエルの誇りとなっていました。神様はホセアを通して語られます。「イスラエルとエフライムは、不義によって躓き、ユダも共に躓く」南ユダ王国は、北イスラエルほどではありませんが、歴代の王が皆、神様に忠実であったのではありません。いや列王記で示されたように、神様の目にかなうことを行った王と、神様の目に悪とされることを行った王は半々なのです。南ユダも信仰的に堕落する危険性を、常に抱えていたのです。北イスラエルは経済的豊かさを誇って、神殿へは多くのいけにえを献げていました。けれども、それは自らの豊かさを誇ることであって、神様の御心を求める信仰からではありませんでした。形式的宗教行為に陥っている北イスラエルに、ホセアは厳しい言葉を語ります。「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。彼らは主を裏切り、異国人の子らを産んだ。それゆえ、新月の祭りが、彼らをも、その所有をも食い尽くす」神様に立ち帰る心がなければ、いけにえの羊や牛を献げても、神様は応えられません。どんなに神様を尋ね求めても、背信の民に神様は応えられません。「主は彼らを離れ去られた」という言葉の中に、厳しい裁きが宣言されています。私達に絶望をもたらすのは、現実に生きている世界の中で味わわざるをえない、この世の困難や苦しみではありません。確かに病気の苦しみ、障害の苦しみ、年を重ねることによって衰える能力の喪失感、経済的困難、家族の問題、人間関係の問題は私達を悩ませます。時として「どうしたらよいのか。もう道がない」という思いに囚われて、自らの不幸を嘆いたり、自己嫌悪に陥ったり、他人や社会を恨んだりします。けれども、それらは本当の絶望ではありません。私達に決定的な絶望をもたらすのは、神様が私から離れ去られたということ、神様が共に歩んで下さらないということです。神様を尋ね求めても、神様が全く応えて下さらないことです。
祈祷会で詩篇から御言葉を聞いていますが、私達が驚くほど、詩人達は率直に苦しみや悩みを神様に訴えています。敵を呪うことさえも求めています。けれども最後に、詩人達は救いを得た確信の言葉を歌っています。まだ神様の御業が現されていないにもかかわらず、すでに神様によって救われたことへの感謝を歌っています。詩人達は、神様との間に人格的交わりが確立されていたので、神様の救いを見なくても、神様が必ず自分の祈りに応えて下さるという、確信を持つことができました。神様が自分と共に歩んで下さっている、神様を尋ね求めるなら必ず応えて下さる、そういう信頼があり、信仰があったから、どのような状況にあっても、決して絶望することがなかったのです。最初は絶望の中にあっても、最後は神様に望みを抱き、希望を持つことができました。詩人達と異なり、神様が離れ去ってしまった北イスラエル。その原因はイスラエル自身にありました。彼らは神様を裏切り、異教の神々に仕えました。民数記28章に「毎月の一日には」という言葉で、新月の祭りの献げ物が記されています。新月の祭りは、もともとはイスラエルの祭りでした。けれどもホセアの時代、バアルの影響を受けた祭りとなっていました。新月の祭りがまことの神様の怒りを招き、やがて北イスラエルは「彼らをも、その所有をも食い尽くす」という預言どおり、アッシリアによって滅ぼされることとなります。
今朝、共にお読みしました箇所には「食い尽くす」ことの具体的なできごとが記されています。これは、列王記下16章に記されていたできごとです。紀元前733年頃、北イスラエルの王ペカはアラムの王レツィンと反アッシリア同盟を結び、南ユダ王国も同盟に入るように呼び掛けます。けれども南ユダの王アハズが応じなかったがために、北イスラエルとアラムは、南ユダを攻撃しました。アハズは預言者イザヤの警告を無視して、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに助けを求めます。結果として北イスラエルとアラムはアッシリアに敗れ、北イスラエルは多くの領土を奪われ、南ユダはアッシリアの属国のようになります。ギブア、ラマ、ベト・アベンはエルサレムの北に位置する町です。北から北イスラエル・アラム同盟軍が南ユダを攻撃してきます。「ベニヤミンよ、背後を警戒せよ」とは、両国の攻撃に警戒するようにという、神様の警告です。神様が北イスラエルを懲らしめる日が来れば、北イスラエルは廃虚となります。「確かに起こることを、私はイスラエルの諸部族に教えた」と語られているように、神様は北イスラエル滅亡について預言されました。北イスラエルだけではなく、南ユダも神様の激しい怒りにあいます。それは預言者イザヤの警告にもかかわらず、アッシリアに助けを求めたからです。アッシリアは紀元前2000年頃から存在する国でしたが、衰退していた時もありました。それがティグラト・ピレセルの時代に力を持つようになり、当時のパレスチナ地方の脅威となっていました。アッシリアの脅威に対して、北イスラエルはアラムと同盟を結び、南ユダも仲間に加えようとしました。南ユダが応じなかったがために、両国は攻撃してきますが、南ユダはアッシリアに助けを求めました。北イスラエルも南ユダも、王国存亡の危機にあたって、まことの神様に助けを求めないで、地上の国々、異教の神々を礼拝する国、やがて自分達を滅ぼす国に助けを求めたのです。
南ユダに対して神様は「私は彼らに、水のように憤りを注ぐ。私はユダの家には、骨の腐れとなる」と言われました。北イスラエルに対しては「エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる。私はエフライムに対して食い尽くす虫となる」と言われました。まことの神様に尋ね求めないで、むなしいものを追い続けている南ユダと北イスラエルに、神様の裁きが下されました。南ユダも北イスラエルも、裁きを受けて傷つきましたが、神様に立ち帰りませんでした。「エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見た時、エフライムはアッシリアに行き、ユダは大王に使者を送った」と語られているように、他国に依り頼んで助けを得ようとしたのです。このような背信に次ぐ背信に対して、神様は、はっきりと宣言されます。「しかし、彼はお前たちを癒しえず、ただれを取り去ることもできない。私はエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。私は引き裂いて過ぎ行き、さらって行くが、救い出す者はいない。私は立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、私を尋ね求め、苦しみの中で、私を捜し求めるまで」
南ユダも北イスラエルも、自分達の敵であるアッシリアに助けを求めます。けれどもアッシリアが彼らを助けることはなく、逆に北イスラエルは滅ぼされることとなります。このように歴史的事実として、北イスラエルを滅ぼすのはアッシリアですが、それは神様の御業として行われます。神様が北イスラエルに対して獅子となって、彼らを引き裂いて過ぎ行き、アッシリアへと連れ去るのです。神様の怒りの前には、地上の国々は何の力も持ち得ません。そして、神様のさまざまな警告、預言者を通して語られてきたことを無視して、地上の繁栄を追い求め、神様を尋ね求めなかったイスラエルには、救い出してくれる者が存在しません。イスラエルが自らの罪を認め、悔い改め、神様を尋ね求めるようになるまで、神様はイスラエルの元から離れ去り、帰って来られません。イスラエルが罪を認め、苦しみの中から神様を尋ね求め、捜し求めるようになった時、再び神様はイスラエルの元へ来て下さるのです。
私達キリスト者は神様の恵みによって、まことなる神様を知らされました。知らされた者として、困難の中にあっても、神様が共にいて下さることを確信する世界が与えられています。どんな時でも、どこにおいても、神様を尋ね求める道が開かれています。神様に助けを求め、救いを求める道が備えられています。まことなる神様を礼拝する自由が与えられています。また現代の日本においては、憲法において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定められています。けれども、戦前の大日本帝国憲法では「日本臣民は安寧秩序を妨げずおよび臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」と定められていました。信仰の自由に制限があったのです。国家神道に反しない限りにおいて、国家の政策に反しない限りにおいて保障された自由でした。今、日本は教育基本法が改悪され、憲法の見直しなどが取り上げられています。右傾化していく日本において、キリスト教信仰を守ることが困難になる可能性もあります。信仰の自由は、政治に大きく影響されます。
しかし、信仰の自由の制限、信仰の自由を失うことは、国家権力や諸外国の影響だけではありません。もっと本質的な自由の喪失は、私達自身が信仰を捨てることです。父・子・聖霊なる三位一体の神を唯一の神様として礼拝しないことから、私達の信仰の自由は失われていきます。聖日ごとに教会に集い、父・子・聖霊なる三位一体の神様に礼拝をささげる中で、あるいは祈祷会や家庭集会の中で御言葉に耳を傾け、祈る中で、神様との間に人格的交わりが確立されていきます。神様との人格的交わりの中に生かされることによって、神様が必ず祈りに応えて下さるという確信を持つことができます。神様が共に歩んで下さっている、神様を尋ね求めるなら必ず応えて下さる。そういう信頼と信仰があれば、どのような状況にあっても、決して絶望することはありません。困難の中にあっても、いや、困難の中にある時にこそ、自分の力や周りの人の力や他の神々に依り頼むのではなく、まことなる神様にすがりつきましょう。詩篇の詩人達のように、率直に苦しみや悩みを神様に訴え、まことなる神様を尋ね求める群れとして、この瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。