06/05/28 あなたがたの所へ行きたい T
2006/5/28
ローマの信徒への手紙1:8_15
イラクでマリキ首相をトップとする新しい内閣が発足しました。イラクで3年あまり続いた混乱が形式的には終了し、イラクに正統政権ができました。イラク戦争はアメリカが入り口を間違えた戦争でした。アメリカが誇る情報収集能力が機能しなかった、あるいは機能させなかったのか、イラク開戦の大儀であった大量破壊兵器はイラクに存在しなかったことが明らかになりました。マスコミはホワイトハウスによる情報操作を追求しています。アメリカ軍の描いたシナリオでは、イラク正規軍を砂漠で壊滅し、市街戦で大統領親衛隊を撃滅するつもりであったと思われます。戦闘を交えることなくイラク軍が壊走し、ゲリラになるのは想定外であったでしょう。一方、フセイン大統領はアメリカ軍の侵攻はないと確信していたようです。相互が情勢分析を誤っていたので想定外の状況が現出したのでしょう。ブッシュ大統領は保守的なキリスト教右派の信奉者で、ネオコン、新保守主義、言葉を換えればアメリカ至上主義、新たなる選民思想に傾倒しています。ホワイトハウスのイスラム教徒に対する認識に宗教的な偏見があったのは否定できませんが、自爆テロがこれほど続くことを彼らは予測できませんでした。彼らの思想の根本には民主主義が絶対正しく、民主主義を確立し、民主的な政府ができれば総ての国民がそれを支持すると言う思いこみがあります。イスラム教世界に生きる人たちに対し、異なる文化圏に属する人に対する畏敬の念が見られません。グローバリゼーション、世界経済の統合を金科玉条のごとく掲げるアメリカに対し、イスラム教世界がイスラム文化を主張するのはむしろ当然です。アメリカの誤りは民主主義が普遍的な真理であると錯覚したところにあります。
民主主義は人類に高度成長時代をもたらしたイデオロギーでしたが、21世紀に入り、人類は等比級数的に激増する人口増加に直面しています。資源は限られており、等差級数的にしか増やせません。人間社会は古典的なマルサスの人口論が現実となる世界に入ろうとしています。社会は民主主義に変わる新しいイデオロギーを求めているのです。神様の創造の御業に相応しいイデオロギーがネオコンとは思われないのですが、それに変わる価値観を暗中模索し、藻掻き苦しんでいるのが現実の世界です。日本のバブル崩壊も新しい価値観を生み出すための産みの苦しみであったのかも知れません。ニート、引きこもりなどと言われる人々は旧来の体制に適応しきれない人々であるのかもしれません。地球規模で見れば、世界の資源は一部の先進国に集中しています。その流れが、中国、インド、ロシア、ブラジル、などの新興地域にも広がっています。その流れから取り残された発展途上国は飢餓や疾病、内戦で疲弊しています。政治のシステムそのものが機能していない国も少なくありません。イラクはその象徴なのかも知れません。アメリカだけではなく、世界の国々の未来、大きく言えば人類の未来をかけた大きな実験場なのかも知れません。イラク問題は単なるの日本国外の問題ではなく、人類の未来をかけた問題であり、その意味では日本の国内問題にもなるのです。
パウロは先ずローマの信徒に対してユダヤ人的な表現で『私の神に感謝します』と語りかけていますが、彼はイエス・キリストを仲介者として父なる神を最も身近に感じているのです。その父なる神をローマ教会の人々と共に仰ぎ見ているとと証ししているのです。ローマの信徒たちの信仰は全世界に宣べ伝えられているのは、決して誇張ではありません。「総ての道はローマに通じる」と言われているように、帝国の首都ローマから国境にある防御戦まで石畳で舗装されたハイウェーが網の目のように敷設されていました。人、物の移動は活発で、乗合馬車や郵便馬車も頻繁に往来していたのです。帝国内の教会のネットワークの要として、ローマ教会は重要な働きをしていました。パウロはユダヤ人教会と異邦人教会との和解を勧めるために帝国の東端にあるエルサレム教会を訪れようとしていますが、帝国の中心にあるローマ教会に対する配慮も忘れてはいません。さらに、パウロはローマ教会に対し『何とかして、あなた方と所へ行きたいと願っている』思いを率直に書き記しています。パウロはローマを訪れたいのは”霊”の賜物をあなた方と共に分かち合いたいという思いがあったからです。パウロは帝国の東半分、ギリシア、小アジア半島、パレスチナにある異邦人教会の指導者として振る舞うのではなく、一人の信徒としてお互いの信仰を励まし合いたいと申し出ているのです。パウロはパレスチナから西に向かい、小アジア半島、ギリシャへと伝道していきましたが、ローマへはエルサレムから直接、海路を経て福音が伝わったのではないかと思われます。ローマ教会はパウロが指導している帝国東方の教会とは別の伝統を持った教会でした。パウロがローマ教会に対する内政干渉と受け取られないように、注意深く配慮をして手紙を書いたことが読み取られます。
パウロは『兄弟たち』とローマの信徒へ呼びかけています。パウロは『帝国の東方に住む異邦人のところへ伝道の旅をし、教会を建ててきたように、ローマでも主のために働きたいと望み、何回かローマへ訪問する計画を立てきましたが、今日までそれができないでいます』と率直にこれまでの経緯を書き記しています。ギリシアからローマへの旅は陸路でも、海路でもそれほど困難な旅ではありません。エルサレムからギリシアまで伝道の旅を続けてきたパウロならばローマを目指すのは普通に考えられることですが、何かそれを妨げる具体的な出来事があったと思われますが、聖書には何も記されていません。パウロは『ギリシア人にも未開の人にも』と書き記していますが、ギリシア人とはギリシア語を話す人を意味します。ローマ帝国の公用語はギリシア語で、教養のある人はギリシア語を話し、ギリシア的素養を身につけていました。一方未開の人は、ギリシア語ではギリシア語以外を話す人、バルバロスを意味する擬声語で、ちんぷんかんぷんの言葉をしゃべる野蛮人と訳せますが、ギリシア人以外を無教養な者と蔑んだ差別語です。ですから知恵のある人はギリシア人を意味し、知恵のない人は未開の人を意味します。パウロが現代風に言えば差別語を用いたのも彼にすら時代的な限界があったということですが、パウロは総ての人々に福音を宣べ伝える責任が私にはあるとローマの信徒に宣言したかったのです。「首都ローマに上京し、ローマの信徒に福音を宣べ伝えたい」、「首都ローマに世界伝道旅行のための拠点を築きたい」と言うパウロの燃えるような想いがこの手紙に書きつづられているのです。
パウロがまだ訪れたことのないローマの信徒へ書き送った手紙は、パウロが指導する教会宛に送られた他の手紙とは意味合いが違います。おそらく福音はエルサレムから海路を経てローマへ直接伝わり、ローマに教会が形成されたと思われます。ローマでも離散のユダヤ人はローマの流通を支える働き手としてかなりの力を持っていたと思われます。おそらくユダヤ人商人を介して福音はローマへ伝えられ、エルサレム教会とは別の伝統を持つ教会が形成されていたと思われます。ローマに住むユダヤ人は少なくとも仕事の上ではギリシャ語を使い、大なり小なりローマ社会の影響を受けていたと思われます。パウロがユダヤ教ファリサイ派のラビからキリスト教徒に改宗したのとは違い、離散のユダヤ人であるローマの信徒は、ユダヤの慣習に囚われることも少なく、ヘブライ語よりもギリシア語を使う者が多かったと考えられます。ローマの教会はエルサレム教会に対する帰属意識は少なく、エルサレム教会とは別の歩みをしていただろうと思われます。パウロがローマの信徒に「異邦人教会の信徒をギリシア人、知恵ある者」と表現し、「ユダヤ人教会の信徒を未開の人、知恵ない人」と表現しているかのように思われますが、意識して使い分けたのではないと思われます。ローマの信徒へ宛てた手紙ですので、パウロは総ての人に福音を宣べ伝える責任が自分にあることをギリシア語の表現をそのまま用いて表そうとしただけですが、そこに異邦人教会とユダヤ人教会に対するパウロの姿勢の微妙な違いを感じ取ることができます。
パウロのローマ訪問はパウロが目指す「世界伝道、主の世界宣教命令の実現」のための重要な戦略的意味を持ちます。ローマ帝国の首都ローマは帝国内の人と物の流れの中心です。ローマの教会の信徒は流通業に携わるユダヤ人関係者が多かったと思われます。人と物がローマから帝国内隅々にまで行き渡ったハイウェーを流れると共に、福音は帝国内の隅々まで運ばれていきました。帝国内の教会のネットワークもローマに上京すれば十分に活用することができます。パウロは帝国の東方でしか働きの場を持たなかったので、彼には帝国の西方に対する燃えるような想いがありました。ローマの交通網を使えば帝国の西方に対する伝道旅行も不可能ではありません。パウロの視野には、帝国の西端イスパニア、スペイン伝道も入っていました。パウロはローマへ上京することを熱望していました。 さらに、パウロのローマ上京は単に戦略的な意味だけではなく、パウロ自身がローマの信徒と直接会って話したいという素朴な意味合いも含んでいました。パウロの元にはローマからしばしば人が訪れ、手紙が届けられていました。パウロには手紙や人を通してしか知ることのできなかったローマの信徒と直接合って福音を宣べ伝えたいという素朴な願いがありました。パウロが長年福音について考え続けてきたことをローマの信徒へ伝えたいという想いが結実したのがこの手紙です。パウロ神学が結実した手紙だと後世、高く評価されているこの手紙は、なぜかローマからは発見されていません。パウロがローマに上京し、ローマ教会と交わりを持ち、ローマ教会がどう変わったかは、後世の私たちには窺い知ることはできませんが、宗教改革者マルチン・ルターが塔の中の発見でローマの信徒への手紙から宗教改革三原則『信仰のみ』、『聖書のみ』、『万人祭司』を導き出したのです。私たちのプロテスタント教会はこの宗教改革によってできたのです。
パウロがローマの信徒に手紙を書き送った理由はいくつか考えられます。先ず、この手紙はパウロがヨーロッパの諸教会からの献金をエルサレム教会に届けるためにコリント教会からエルサレムに上京する直前にコリント教会で書かれたものです。パウロから主の十字架での死に倣い、エルサレムで殉教する決意が感じられます。パウロは彼の人生の総括として、彼の遺書を神学論文の形で残すつもりでローマの信徒への手紙を書き残したと考えられます。次に、パウロの世界伝道のためにローマを伝道の拠点とする彼の世界伝道のための戦略の一環として書かれたとも考えられます。パウロはエルサレムから無事に帰ることができ、ローマへの上京を妨げている具体的な支障がなくなれば、ローマへ上京するつもりでいました。首都ローマ、帝国の心臓からは人と物が網の目のように張り巡らされたハイウェー、血管網を通じて帝国内を流れます。その流れに乗って福音も帝国の隅々にまで届けられたのです。さらに、パウロはかねてから帝国の西半分に対する伝道を強く願っていました。ローマを拠点とすれば帝国の西端イスパニア、スペインまで伝道の旅を続けることは可能でした。それに加えて、パウロにはローマから彼を尋ねて来た人や手紙で知り合った多くの友人がローマにいました。まだ顔を合わせたことのないローマの信徒とパウロは語り合いたかったのです。
私たちはローマの信徒への手紙を聖書として読むことがきますが、当時の帝国内の諸教会の信徒もまたこの手紙を書き写した手紙を回し読みしました。この手紙がローマではなくローマ以外の教会で発見された事実がそれを証明しています。ローマ帝国内の軍隊、行政機関からは皇帝の下に上申書が届けられ、皇帝からの指示がそれらに伝えられていました。その情報網は緻密なものでしたが、私用の郵便もそれを利用して配達されていました。さらに、民間の運送業者も宿場ごとに荷物と郵便を配達していました。教会の信徒に運送関係の仕事の人が多くいて、積極的に民宿を引き受け伝道に励んでいた信徒もいたようです。このようにして福音は街道沿いに、ローマの国境の防御戦まで届いていたようです。ヨーロッパの防御戦近くの開拓地が解放され、教会の信徒が集団で移住し、開拓村そのものが信仰共同体となる場合もあったようです。教会は多神教、多民族国家であるローマの宗教に寛容な政策をむしろ利用し、勢力を広げていったようです。
私たちは信教の自由が保障されているので、日本の恵まれた環境を逆に理解することが困難なのかも知れません。「信仰を持つ、教会に集う、伝道する」のが試練である環境を理解できませんが、人は試練に出会った時に固定観念を打ち砕かれるのです。人は日々の生活の繰り返しの中では信仰に目覚めにくいのです。人は試練に出会い、頭の中が真っ白になった時に、主からの語りかけに耳が開かれるのです。その一方で、日々の教会生活を積み重ねることにより信仰が血となり肉となるのです。人間は一生の間で一度は頭が真っ白になるような経験をするでしょうが、その時にこそ生ける主が私たちに語りかけて下さるのですが、主からの語りかけを聞かされても、日々の教会生活を怠れば信仰は枯れてしまいます。主からの語りかけに、『僕、聞きます』と預言者サムエルのように常に心を整えていることが必要です。私たちは常に主の語りかけに敏感でなければなりません。日々の教会生活の中で信仰が血となり肉となるようにしなければなりません。
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