2006/05/27

06/05/28 あなたがたの所へ行きたい T

2006/5/28
ローマの信徒への手紙1:8_15
 イラクでマリキ首相をトップとする新しい内閣が発足しました。イラクで3年あまり続いた混乱が形式的には終了し、イラクに正統政権ができました。イラク戦争はアメリカが入り口を間違えた戦争でした。アメリカが誇る情報収集能力が機能しなかった、あるいは機能させなかったのか、イラク開戦の大儀であった大量破壊兵器はイラクに存在しなかったことが明らかになりました。マスコミはホワイトハウスによる情報操作を追求しています。アメリカ軍の描いたシナリオでは、イラク正規軍を砂漠で壊滅し、市街戦で大統領親衛隊を撃滅するつもりであったと思われます。戦闘を交えることなくイラク軍が壊走し、ゲリラになるのは想定外であったでしょう。一方、フセイン大統領はアメリカ軍の侵攻はないと確信していたようです。相互が情勢分析を誤っていたので想定外の状況が現出したのでしょう。ブッシュ大統領は保守的なキリスト教右派の信奉者で、ネオコン、新保守主義、言葉を換えればアメリカ至上主義、新たなる選民思想に傾倒しています。ホワイトハウスのイスラム教徒に対する認識に宗教的な偏見があったのは否定できませんが、自爆テロがこれほど続くことを彼らは予測できませんでした。彼らの思想の根本には民主主義が絶対正しく、民主主義を確立し、民主的な政府ができれば総ての国民がそれを支持すると言う思いこみがあります。イスラム教世界に生きる人たちに対し、異なる文化圏に属する人に対する畏敬の念が見られません。グローバリゼーション、世界経済の統合を金科玉条のごとく掲げるアメリカに対し、イスラム教世界がイスラム文化を主張するのはむしろ当然です。アメリカの誤りは民主主義が普遍的な真理であると錯覚したところにあります。
 民主主義は人類に高度成長時代をもたらしたイデオロギーでしたが、21世紀に入り、人類は等比級数的に激増する人口増加に直面しています。資源は限られており、等差級数的にしか増やせません。人間社会は古典的なマルサスの人口論が現実となる世界に入ろうとしています。社会は民主主義に変わる新しいイデオロギーを求めているのです。神様の創造の御業に相応しいイデオロギーがネオコンとは思われないのですが、それに変わる価値観を暗中模索し、藻掻き苦しんでいるのが現実の世界です。日本のバブル崩壊も新しい価値観を生み出すための産みの苦しみであったのかも知れません。ニート、引きこもりなどと言われる人々は旧来の体制に適応しきれない人々であるのかもしれません。地球規模で見れば、世界の資源は一部の先進国に集中しています。その流れが、中国、インド、ロシア、ブラジル、などの新興地域にも広がっています。その流れから取り残された発展途上国は飢餓や疾病、内戦で疲弊しています。政治のシステムそのものが機能していない国も少なくありません。イラクはその象徴なのかも知れません。アメリカだけではなく、世界の国々の未来、大きく言えば人類の未来をかけた大きな実験場なのかも知れません。イラク問題は単なるの日本国外の問題ではなく、人類の未来をかけた問題であり、その意味では日本の国内問題にもなるのです。
 パウロは先ずローマの信徒に対してユダヤ人的な表現で『私の神に感謝します』と語りかけていますが、彼はイエス・キリストを仲介者として父なる神を最も身近に感じているのです。その父なる神をローマ教会の人々と共に仰ぎ見ているとと証ししているのです。ローマの信徒たちの信仰は全世界に宣べ伝えられているのは、決して誇張ではありません。「総ての道はローマに通じる」と言われているように、帝国の首都ローマから国境にある防御戦まで石畳で舗装されたハイウェーが網の目のように敷設されていました。人、物の移動は活発で、乗合馬車や郵便馬車も頻繁に往来していたのです。帝国内の教会のネットワークの要として、ローマ教会は重要な働きをしていました。パウロはユダヤ人教会と異邦人教会との和解を勧めるために帝国の東端にあるエルサレム教会を訪れようとしていますが、帝国の中心にあるローマ教会に対する配慮も忘れてはいません。さらに、パウロはローマ教会に対し『何とかして、あなた方と所へ行きたいと願っている』思いを率直に書き記しています。パウロはローマを訪れたいのは”霊”の賜物をあなた方と共に分かち合いたいという思いがあったからです。パウロは帝国の東半分、ギリシア、小アジア半島、パレスチナにある異邦人教会の指導者として振る舞うのではなく、一人の信徒としてお互いの信仰を励まし合いたいと申し出ているのです。パウロはパレスチナから西に向かい、小アジア半島、ギリシャへと伝道していきましたが、ローマへはエルサレムから直接、海路を経て福音が伝わったのではないかと思われます。ローマ教会はパウロが指導している帝国東方の教会とは別の伝統を持った教会でした。パウロがローマ教会に対する内政干渉と受け取られないように、注意深く配慮をして手紙を書いたことが読み取られます。
 パウロは『兄弟たち』とローマの信徒へ呼びかけています。パウロは『帝国の東方に住む異邦人のところへ伝道の旅をし、教会を建ててきたように、ローマでも主のために働きたいと望み、何回かローマへ訪問する計画を立てきましたが、今日までそれができないでいます』と率直にこれまでの経緯を書き記しています。ギリシアからローマへの旅は陸路でも、海路でもそれほど困難な旅ではありません。エルサレムからギリシアまで伝道の旅を続けてきたパウロならばローマを目指すのは普通に考えられることですが、何かそれを妨げる具体的な出来事があったと思われますが、聖書には何も記されていません。パウロは『ギリシア人にも未開の人にも』と書き記していますが、ギリシア人とはギリシア語を話す人を意味します。ローマ帝国の公用語はギリシア語で、教養のある人はギリシア語を話し、ギリシア的素養を身につけていました。一方未開の人は、ギリシア語ではギリシア語以外を話す人、バルバロスを意味する擬声語で、ちんぷんかんぷんの言葉をしゃべる野蛮人と訳せますが、ギリシア人以外を無教養な者と蔑んだ差別語です。ですから知恵のある人はギリシア人を意味し、知恵のない人は未開の人を意味します。パウロが現代風に言えば差別語を用いたのも彼にすら時代的な限界があったということですが、パウロは総ての人々に福音を宣べ伝える責任が私にはあるとローマの信徒に宣言したかったのです。「首都ローマに上京し、ローマの信徒に福音を宣べ伝えたい」、「首都ローマに世界伝道旅行のための拠点を築きたい」と言うパウロの燃えるような想いがこの手紙に書きつづられているのです。
 パウロがまだ訪れたことのないローマの信徒へ書き送った手紙は、パウロが指導する教会宛に送られた他の手紙とは意味合いが違います。おそらく福音はエルサレムから海路を経てローマへ直接伝わり、ローマに教会が形成されたと思われます。ローマでも離散のユダヤ人はローマの流通を支える働き手としてかなりの力を持っていたと思われます。おそらくユダヤ人商人を介して福音はローマへ伝えられ、エルサレム教会とは別の伝統を持つ教会が形成されていたと思われます。ローマに住むユダヤ人は少なくとも仕事の上ではギリシャ語を使い、大なり小なりローマ社会の影響を受けていたと思われます。パウロがユダヤ教ファリサイ派のラビからキリスト教徒に改宗したのとは違い、離散のユダヤ人であるローマの信徒は、ユダヤの慣習に囚われることも少なく、ヘブライ語よりもギリシア語を使う者が多かったと考えられます。ローマの教会はエルサレム教会に対する帰属意識は少なく、エルサレム教会とは別の歩みをしていただろうと思われます。パウロがローマの信徒に「異邦人教会の信徒をギリシア人、知恵ある者」と表現し、「ユダヤ人教会の信徒を未開の人、知恵ない人」と表現しているかのように思われますが、意識して使い分けたのではないと思われます。ローマの信徒へ宛てた手紙ですので、パウロは総ての人に福音を宣べ伝える責任が自分にあることをギリシア語の表現をそのまま用いて表そうとしただけですが、そこに異邦人教会とユダヤ人教会に対するパウロの姿勢の微妙な違いを感じ取ることができます。
 パウロのローマ訪問はパウロが目指す「世界伝道、主の世界宣教命令の実現」のための重要な戦略的意味を持ちます。ローマ帝国の首都ローマは帝国内の人と物の流れの中心です。ローマの教会の信徒は流通業に携わるユダヤ人関係者が多かったと思われます。人と物がローマから帝国内隅々にまで行き渡ったハイウェーを流れると共に、福音は帝国内の隅々まで運ばれていきました。帝国内の教会のネットワークもローマに上京すれば十分に活用することができます。パウロは帝国の東方でしか働きの場を持たなかったので、彼には帝国の西方に対する燃えるような想いがありました。ローマの交通網を使えば帝国の西方に対する伝道旅行も不可能ではありません。パウロの視野には、帝国の西端イスパニア、スペイン伝道も入っていました。パウロはローマへ上京することを熱望していました。 さらに、パウロのローマ上京は単に戦略的な意味だけではなく、パウロ自身がローマの信徒と直接会って話したいという素朴な意味合いも含んでいました。パウロの元にはローマからしばしば人が訪れ、手紙が届けられていました。パウロには手紙や人を通してしか知ることのできなかったローマの信徒と直接合って福音を宣べ伝えたいという素朴な願いがありました。パウロが長年福音について考え続けてきたことをローマの信徒へ伝えたいという想いが結実したのがこの手紙です。パウロ神学が結実した手紙だと後世、高く評価されているこの手紙は、なぜかローマからは発見されていません。パウロがローマに上京し、ローマ教会と交わりを持ち、ローマ教会がどう変わったかは、後世の私たちには窺い知ることはできませんが、宗教改革者マルチン・ルターが塔の中の発見でローマの信徒への手紙から宗教改革三原則『信仰のみ』、『聖書のみ』、『万人祭司』を導き出したのです。私たちのプロテスタント教会はこの宗教改革によってできたのです。
 パウロがローマの信徒に手紙を書き送った理由はいくつか考えられます。先ず、この手紙はパウロがヨーロッパの諸教会からの献金をエルサレム教会に届けるためにコリント教会からエルサレムに上京する直前にコリント教会で書かれたものです。パウロから主の十字架での死に倣い、エルサレムで殉教する決意が感じられます。パウロは彼の人生の総括として、彼の遺書を神学論文の形で残すつもりでローマの信徒への手紙を書き残したと考えられます。次に、パウロの世界伝道のためにローマを伝道の拠点とする彼の世界伝道のための戦略の一環として書かれたとも考えられます。パウロはエルサレムから無事に帰ることができ、ローマへの上京を妨げている具体的な支障がなくなれば、ローマへ上京するつもりでいました。首都ローマ、帝国の心臓からは人と物が網の目のように張り巡らされたハイウェー、血管網を通じて帝国内を流れます。その流れに乗って福音も帝国の隅々にまで届けられたのです。さらに、パウロはかねてから帝国の西半分に対する伝道を強く願っていました。ローマを拠点とすれば帝国の西端イスパニア、スペインまで伝道の旅を続けることは可能でした。それに加えて、パウロにはローマから彼を尋ねて来た人や手紙で知り合った多くの友人がローマにいました。まだ顔を合わせたことのないローマの信徒とパウロは語り合いたかったのです。
 私たちはローマの信徒への手紙を聖書として読むことがきますが、当時の帝国内の諸教会の信徒もまたこの手紙を書き写した手紙を回し読みしました。この手紙がローマではなくローマ以外の教会で発見された事実がそれを証明しています。ローマ帝国内の軍隊、行政機関からは皇帝の下に上申書が届けられ、皇帝からの指示がそれらに伝えられていました。その情報網は緻密なものでしたが、私用の郵便もそれを利用して配達されていました。さらに、民間の運送業者も宿場ごとに荷物と郵便を配達していました。教会の信徒に運送関係の仕事の人が多くいて、積極的に民宿を引き受け伝道に励んでいた信徒もいたようです。このようにして福音は街道沿いに、ローマの国境の防御戦まで届いていたようです。ヨーロッパの防御戦近くの開拓地が解放され、教会の信徒が集団で移住し、開拓村そのものが信仰共同体となる場合もあったようです。教会は多神教、多民族国家であるローマの宗教に寛容な政策をむしろ利用し、勢力を広げていったようです。
 私たちは信教の自由が保障されているので、日本の恵まれた環境を逆に理解することが困難なのかも知れません。「信仰を持つ、教会に集う、伝道する」のが試練である環境を理解できませんが、人は試練に出会った時に固定観念を打ち砕かれるのです。人は日々の生活の繰り返しの中では信仰に目覚めにくいのです。人は試練に出会い、頭の中が真っ白になった時に、主からの語りかけに耳が開かれるのです。その一方で、日々の教会生活を積み重ねることにより信仰が血となり肉となるのです。人間は一生の間で一度は頭が真っ白になるような経験をするでしょうが、その時にこそ生ける主が私たちに語りかけて下さるのですが、主からの語りかけを聞かされても、日々の教会生活を怠れば信仰は枯れてしまいます。主からの語りかけに、『僕、聞きます』と預言者サムエルのように常に心を整えていることが必要です。私たちは常に主の語りかけに敏感でなければなりません。日々の教会生活の中で信仰が血となり肉となるようにしなければなりません。

西風の会 HP, 瀬戸キリスト教会 HP

2006/05/19

06/05/21 恵みを受けて使徒とされた T 

恵みを受けて使徒とされた
2006/5/21
ローマの信徒への手紙1:1_7
 兵庫県内の公立小学校に通っている小学生が、心と体の性とが一致しない「性同一性障害」と診断され女子生徒として通学しているそうです。戸籍上は男子のこの生徒を小学校では女子と見なして出席簿を作成し、身体測定も女子と共に行い、水泳も女児の水着で参加させ、女子トイレも利用させているそうです。この男児は幼児期からぬいぐるみやスカートが好きで、男の子として生活することに苦痛を感じていたそうです。この男児は小学校入学前に大阪府内の病院で性同一性障害と診断され、医師からは「女の子と認めていく方向が望ましい」とアドバイスを受けたと言います。教育委員会は医師のアドバイスに従いこの男児を女児として入学させることを決定したそうです。小学校入学以前の子供の性意識は固定されたものではなく、変わりうるものではないかと思われます。自らの性をどう認識するかは思春期を過ぎてから確定されるものです。思春期以前の性に対する意識は環境の影響に左右されるところが大きいのではないかと思えます。
 ある報告では「6歳前後の男児約70人を追跡調査した結果、成長しても女性と思い続けたのは1人だけで、残りは「男性」に戻った」そうです。ある女性哲学者は「女は女として生まれるのではなく、女として育てられる」と言いましたが、生物学的に言えば、男性の脳と女性の脳との間には機能的に差が見られるそうですが、違いが明らかになるのは第二次性徴が現れる思春期を過ぎてからだそうです。児童に生物学的、精神学的な性別があっても、その違いはわずかで、思春期以前に置かれた環境によって作り替えられる可能性は十分にあります。思春期以前の性認識を医師の判断で固定化すれば、この子供には性転換手術を受け、戸籍上の姓を変える道しか残されないことになります。私たち大人の本人の意志を無視した配慮で、児童の全生涯を文字通り左右して良いのか疑問に思います。
 2004年に施行された特例法では「性別適合手術を受けた独身の成人について、子どもがいないなどの条件を満たせば、戸籍上の性別を変更できるようになった」のであり、成人が自らの意志で性転換手術を受け、自らの責任で肉体的性とは異なる性で生きる道を選択する自由が保障されたに過ぎません。裁判所で本人の意志と、医学的見地とを確認、審査し、戸籍を新しく作成することができるのです。まだ小学校進学以前の子供の意志は法的には無効ですし、倫理上も問題があります。生物学的には肉体の性はY遺伝子があるかないかで決まりますが、一次性徴、二次性徴が必ずしも生物学的な性と一致しない場合は少なくありません。スポーツ界でセックスチェックが厳しく施行されたときに、女性の有名なメダリストたちが男性だと分かって物議を醸したことがあったぐらいです。同性愛者、ホモセクシャルの市民権を認めるのが世界的な流れですが、それはあくまでも自分の意志でホモセクシャルな世界に生きる権利を認めることであり、児童の性を勝手に決めて良いというわけではありません。肉体な性別は遺伝子チャックで明らかにできますが、精神的な性別は心理学的にはまだ未知な領域に属するからです。
 パウロは自らをキリスト・イエスの僕、奴隷であると自己紹介をしています。パウロにとって主人はキリストのみであったからです。キリスト者にとって主の僕は最高の称号、名誉であったそうです。イスラエルの預言者モーセ、ヨシュアが主の僕と言い表したように、パウロもまた預言者の一人としてローマの信徒へこの手紙を送ると宣言しているのです。さらに福音伝道のために生ける主によって選び分かたれたことを証しているのです。パウロは生まれる前から主の選びの中にあり、キリスト者を迫害したのも、ダマスコ途上で復活の主に出会い悔い改めたのも、主の定められた道であることを証ししているのです。パウロは主に召されて使徒となり、異邦人伝道を主から与えられた使命として果たしてきました。
 パウロが宣べ伝えてきた福音は、すでに聖書、旧約聖書ですが、その中で預言者を通して預言され、実現されきたことを証しするものでした。パウロは聖書が預言した救い主、メシアはナザレのイエスであることを証ししたのです。「神の御子、イエスは肉によればダビデ王の子孫としてこの世にお生まれになりました。ナザレ村の貧乏大工の小倅として生まれましたが、ダビデ王の血を確かに受け継いでいました。聖なる霊によれば、十字架で死なれた後、三日目に甦えられました。死者の中から復活された生ける主こそナザレのイエスなのです。私たちの主は生ける神の子として神様から全権を委ねられたのです。この生ける主こそが、私たちが総てをかけて信じている主イエス・キリストなのです」と証ししました。 パウロは生ける主イエス・キリストにより召し出され、主の御名を異邦人に宣べ伝えるために主に選び分かたれたと証ししたのです。パウロは世界の首都ローマにいる信徒たちを訪問するのを熱心に祈り求めていました。パウロがマケドニアで幻を見てヨーロッパに渡る決心をした時には、ローマへ行く計画をすでに胸に抱いていましたが、実行する機会がありませんでした。パウロがコリント教会にいた時、エルサレム教会への献金を携えてエルサレムに上京する折りに、ローマの信徒への手紙が書き記されました。パウロの元にはローマの状況が詳しく伝えられ、ローマから信徒も訪れていました。パウロがヨーロッパの教会とエルサレム教会との和解の使者を勤めようとしていた時に、この手紙は書かれたのです。
 パウロは異邦人のために選び分かたれたと自己紹介しましたが、この異邦人には単にパウロがこれまで伝道してきたエーゲ海周辺地域の教会だけではなく、ローマの教会の信徒も含まれているとパウロは証ししたのです。ローマは世界の首都です。「総ての道はローマに通じる」と言われたように、ローマからローマ帝国の国境地帯にある帝国の防御戦まで石畳で舗装されたハイウェーが網の目状に敷設されていました。パウロの時代はパクス・ロマーナ、ローマの平和が達成されていた時代でした。帝国内の人や物の流れは激しく、乗合馬車や郵便馬車も走っていました。パウロがローマに思いを馳せたのも、単なる憧れだけではなく、伝道の拠点を設置したいという戦略的な思いもありました。さらにパウロはエルサレム上京ではイエス様の死に倣い、殉教の死を覚悟していました。ローマの信徒への手紙はパウロ神学が結実したものであり、見方を変えれば彼の遺言と言えるかも知れません。パウロがまだ訪れたことのないローマの信徒へ出した手紙は単にローマの信徒ばかりではなく、帝国内の教会の信徒にも回し読みされました。
 パウロのローマの信徒への手紙の書き出しは、パウロ自身の自己紹介で始まっています。パウロが強調したかったのはパウロが主に選び分かたれた使徒であることです。当時の常識からすると、使徒は生前のイエス様から直接教えを受けた弟子に限り、生前のイエス様と出会った経験がないパウロには使徒としての資格がありませんでした。パウロはローマを訪問したことがないので自己紹介に最大限の配慮をしました。パウロは自己紹介を先ずキリスト・イエスの僕、奴隷であると宣言しています。パウロが主の奴隷であることは彼が主人である主に総てを献げ尽くすが、他のどの様な人に仕える意志も、義務もないことを明らかにしたものです。主の僕と言う表現は、偉大なイスラエルの預言者モーセやヨシュアも使っていますが、パウロが自らを預言者であると表明したことになるのです。パウロは奴隷という表現をむしろ誇りを持って使っています。彼の歩んできた道は総て主が彼のために用意なされ、彼自身が歩み抜くことを命じられた道なのです。
 次にパウロは福音のために選び分かたれたと表現しています。パウロにとって主からの選びは彼が生まれる前から始まっていたのです。パウロが生粋のユダヤ人でありながらローマの市民権を持ち、エルサレムでファリサイ派のラビ、ガマリエルの門下で学びラビとなり、大祭司の元で教会を迫害したのも主のご計画の中に入っていたと主張するのです。パウロがダマスコの教会を迫害しに行った途上で復活の主に出会い、悔い改め、主の教会のために働くように変えられたのも主のご計画なのです。パウロは主の世界宣教命令のために予め主に選び分かたれ、異邦人伝道を実現するために主が用意なされた器であると強調しているのです。
 パウロの主からの召しはパウロの思いを超えるものでした。パウロ自身はユダヤ人同胞の救いを切実に願っていましたが、ユダヤ人自身がそれを拒否しました。ユダヤ人には自分たちが唯一の主から選び分かたれた特別な民、選民という意識が強烈にありました。ユダヤ人がユダヤ人である徴がこの選民意識です。彼らの選民意識が彼らの目を覆ってしまったのです。聖書が証しする救い主、メシアが聖書の預言どおりに地上に現れた事実を、彼らは認めることができなかったのです。ユダヤ人は割礼と律法の遵守のみが救いに至る唯一の道であることを信じて疑いませんでした。ユダヤ人にはナザレ村の貧乏大工の小倅、田舎者のイエスが救い主メシアであることは想像すらできなかったのです。彼らが期待したのはユダヤをローマの支配から解放してくれる栄光のメシアでした。イエス様の弟子たちですらこの妄想からは解き放たれませんでした。イエス様の十字架での惨めな死、三日目の甦りはユダヤ人だけではなく弟子たちにも大きな躓きになったのです。この復活の事実の証人としてパウロは使徒とされたと証ししているのです。
 パウロの使徒としての信任状は彼自身にありました。パウロがダマスコ途上で復活の主と出会ったことは事実です。彼が異邦人伝道のために様々な試練と出会い、苦労し、それを乗り越えて伝道に励んだのも事実です。エーゲ海沿岸地域のあちこちに教会を建て、さらにヨーロッパに福音を持ち込み、ヨーロッパで最初の教会をフィリピに建てたのも彼の働きです。パウロは彼自身の歩んできた人生こそが彼が使徒である証拠であると主張しているのです。使徒パウロはまだ訪れたことのないローマの信徒たちに、福音の真理を書き残そうとしているのです。
 パウロはエルサレムに上京して主の十字架での死に倣い、殉教の死を遂げる覚悟でした。パウロにはパウロがこれまで説いてきたパウロの福音を形に残す必要がありました。パウロがこれまで関わってきた教会に宛てた手紙では個人に対する配慮が必要とされるので、パウロは敢えて訪れたこのとないローマの信徒へ手紙を書き送ったのです。パウロにはローマの信徒も主の教会に連なる同じ信徒でした。人や手紙がローマとパウロの元を頻繁に行き来していたので、パウロにはローマの信徒たちは身近な存在でした。パウロがこの世に書き残す遺言になるかも知れない手紙を託すのに、ローマの信徒は最適な人たちだと思えたのです。
 パウロの時代には主の兄弟ヤコブや主から教会を委ねられたペトロ、生前のイエス様から直接教えを受けた使徒たちがエルサレム教会を指導していました。エルサレム教会はユダヤの慣習を守りながら、イエス様の教えに従っていました。彼らはユダヤ人としての枠に縛られていました。彼らからすれば異邦人伝道だけではなく、ユダヤの慣習、割礼や律法からの自由を説くパウロは異端者に見えました。異邦人教会の指導者の一人であるパウロは、母教会であるエルサレム教会との和解を勧めるに当たり、福音による自由を書き残す必要に駆られたのです。
 福音による自由、割礼や律法からの自由はユダヤ人にとって理解しづらい教えでした。ユダヤ人ならば割礼を受けており、物心が付いたときから律法を中心とした生活を送っていました。彼らには割礼や律法は絶対的な基準で、疑問を差し挟む余地の無い真理でした。割礼や律法こそユダヤ人がユダヤ人である徴でした。それを根底から否定されたユダヤ人教会の信徒は異邦人教会に対して冷たい視線を送っていました。パウロは福音の真理、律法による義ではなく信仰による義を解き明かし、割礼や律法からの自由をローマの信徒への手紙に書き残したのです。
 私たちは律法主義という言葉をよく使いますが、なぜ律法主義がいけないのかを自覚しないで使う場合が多いように思えます。先ず律法は神様との契約ですからそれ自身が誤っているのではなく、それを運用する人間側に問題があるのです。人間は育ってきた環境の影響を強く受けます。人間には現状維持を最優先する保守的な部分と新しい世界を切り開く革新的な部分とが同居しているのです。両者が均衡のとれているのが理想ですが、現実の人間には偏りが見られます。律法主義者とは保守的な側面に縛られ新しいことを受け入れる余裕がない人を差します。過去の経験の世界から一歩も外へ踏み出す勇気のない人たちを指すのです。
 主の福音は日本人には全く新しい概念です。過去の経験が全く役立たない世界なのです。過去の経験を捨て去らなくては理解できない世界なのです。八百万の神々が支配する世界、多神教の世界、日本に住む私たちには、唯一の生ける主が総てを支配する世界、一神教の世界が理解できないのが当然です。唯一の主、愛、三位一体、あるいは処女降誕、復活、聖霊降臨などは日本人には理解できない表現です。日本人の多くが初めて耳にする言葉なのです。日本古来の慣習を捨て切らなくては理解できない世界です。多くの日本人が律法主義に陥るのはむしろ当然なのです。過去の経験に囚われる人間を律法主義者とも言い表すようになりました。私たちは生ける唯一の主を救い主と受け入れました。日本古来の柵を乗り越えて、全く未知の領域、生ける主が支配なさる信仰の世界に入ったのです。


瀬戸キリスト教会 HP, 西風の会 HP, 西風通信, 西風の会 (調停) 

2006/05/13

06/05/14 主の裁きの声がとどろく M

2006年5月14日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の裁きの声がとどろく     
アモス書1章1_2節,讃美歌 11,121,151
堀眞知子牧師
 出エジプト後、40年の荒れ野の旅を終え、約束の地カナンに入る直前、神様がモーセを通してイスラエルに命じられたことが、申命記に記されています。その18章で、神様は「私はイスラエルのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てて、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じることをすべて彼らに告げるであろう。イスラエルは預言者に聞き従わねばならない」と預言者を立てる約束をされました。この約束に基づいて、サムエル記に記されていたサムエル、ナタン、列王記に記されていたエリヤ、エリシャをはじめとして、多くの預言者がイスラエルに立てられました。特に旧約聖書には「預言」と位置づけられている書巻が16巻あります。この16巻を中心にして、引き続き旧約聖書から年代順に、御言葉を聞いていきたいと思います。
「年代順に」と申しましたが、時代的背景のよく分からない預言書もありますが、今日から学んでいきますアモス書は、時代がはっきりとしています。1節に「ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前」と記されています。ウジヤは紀元前786?735年、ヤロブアム2世は紀元前789?750年、それぞれ王位にありました。また地震についてはゼカリヤ書14章にも「ユダの王ウジヤの時代に、地震を避けて逃れたように」と記されていますので、イスラエルでは周知のできごとであったようです。考古学者は発掘調査により、この地震を紀元前760年頃と主張していますので、アモスが預言者として召されたのも、その頃であったと考えられます。彼はテコアの牧者でした。テコアはエルサレムの南、約18キロに位置する高原の町であり、この町から南東に死海に向かって「テコアの荒れ野」と呼ばれている荒れ野が広がっています。またサムエル記下14章によれば、ダビデの時代、テコアには一人の知恵のある女が住んでいました。南ユダ王国の名前の知られている町でした。アモスは「牧者の一人であった」と記され、7章ではアモス自身が「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と名乗っています。これは、アモスの本来の職業は牧畜・農業に携わる者であり、いわゆる預言者集団などには属さず、神様の一方的な召しによって、きわめて短期間、預言者として活動したことを意味しています。しかも彼は南ユダの出身でありながら、主に北イスラエルで活動しました。神様の召しに従って故郷を離れ、預言者として奉仕をしたのです。
2節に、アモスの預言の主題が記されています。「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き、カルメルの頂は枯れる」すでにサムエル記、列王記に記されていたように、ダビデがエブス人からシオンの要害を陥れ、ダビデの町とし、町はエルサレムと呼ばれました。ダビデが契約の箱をエルサレムに運び、ソロモンが神殿を築いて、そこに契約の箱を安置すると、神様の栄光が神殿に満ち、ソロモンは祈りをささげました。その後、神様はソロモンに「私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く」と言われました。シオン、エルサレムは神様の臨在の場です。そこから神様が「ほえたけり、声をとどろかされる」とアモスは言いました。この「ほえたける」という言葉は、もともとライオンの鳴き声を意味する言葉です。アモスは牧者でしたから、家畜を守るために、ライオンの鳴き声には注意をしていたでしょう。そしてライオンの鳴き声は、アモスに危険を知らせるものでした。神様の裁きの声が、ライオンの鳴き声としてアモスの耳に届いたのです。羊飼いの牧草地が乾けば、家畜は生きていくことができません。カルメル山は北イスラエルの北西部に位置し、地中海に突き出すように伸びた山脈です。かつて預言者エリヤとバアルの預言者450人が戦った所であり、預言者エリシャも住んでいたことがあります。緑豊かな土地であり、この山の木々や植物が枯れることは、北イスラエル王国全体の植物が枯れ、被害が及ぶことを意味していました。神様はアモスを通して、北イスラエルの霊的生命が枯れる日の近いことを語られたのです。
3節?2章3節にはダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモン、モアブの6つの周辺諸国に対する、神様の罪の告発と審判が記されています。神様の罪の告発と審判は、その内容は異なっていますが、極めて似た表現が繰り返されています。「主はこう言われる」という言葉で始まって「3つの罪、4つの罪のゆえに、私は決して赦さない」と記され、最後に例外もありますが「主は言われる」で閉じられています。「3つの罪、4つの罪」と記されていますが、実際に指摘されている罪は1つです。これは数が問題なのではなく、むしろ「神様に背き続けて、罪に罪を重ねて」という意味であると考えられます。また「私は決して赦さない」という言葉は、裁きに対する神様の強い意志を宣言しています。
ダマスコは北イスラエルの北東に位置し、アラムの首都です。神様は「彼らが鉄の打穀板を用い、ギレアドを踏みにじったからだ」と罪を告発しています。これは、列王記下10章に記されていたできごとと考えられます。イエフが北イスラエルの王であった頃、紀元前9世紀後半、神様はイスラエルを衰退に向かわせられました。アラムの王ハザエルが北イスラエルを侵略し、その侵略はヨルダン川の東側にあるギレアドの全域に及びました。ギレアドは半マナセ族、ガド族、ルベン族の所有地でした。「鉄の打穀板を用い」とあるので、その侵略では、かなり残虐なことが行われたと考えられます。その罪に対する審判として、神様は「私はハザエルの宮殿に火を放つ。火はベン・ハダドの城郭をなめ尽くす。私はダマスコ城門のかんぬきを砕き、ビクアト・アベン(悪の谷)から支配者を、ベト・エデン(快楽の家)から、王笏を持つ者を断つ。アラムの民はキルの地に捕らえられて行く」と言われました。列王記下16章に記されていたように、アモスの預言から約30年後、アラムの王レツィンと北イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻撃し、都を包囲しました。南ユダの王アハズはアッシリアに助けを求め、紀元前732年、アッシリアはダマスコを占領してアラムを滅ぼし、その住民を捕虜としてキルに移し、レツィンを殺しました。
ガザは地中海に面する、ペリシテ人の5大都市の一つです。士師の時代からイスラエルと敵対していました。神様は「彼らが虜にした者をすべて、エドムに引き渡したからだ」と罪を告発しています。これが何の事件を意味しているのかは不明です。けれどもイスラエルは、ペリシテ人から攻撃を受け、悩まされ続けていました。ペリシテ人がイスラエルを攻撃し、捕虜とした人々を奴隷としてエドムに売ったのかもしれません。その罪に対する審判として、神様は「私はガザの城壁に火を放つ。火はその城郭をなめ尽くす。私はアシュドドから支配者を、アシュケロンから王笏を持つ者を断つ。また、手を返してエクロンを撃つ。ペリシテの残りの者も滅びる」と言われました。ガザ、アシュドド、アシュケロン、エクロンのペリシテの諸都市は、紀元前8世紀後半、アッシリアから攻撃を受け滅ぼされました。ティルスはイスラエルの北に位置するフェニキアの町であり、地中海貿易の重要な港町でした。神様は「彼らが虜をすべてエドムに引き渡し、兄弟の契りを心に留めなかったからだ」と罪を告発しています。これも具体的な事件は不明ですが、ペリシテ人が行ったように、イスラエルの捕虜とした人々を奴隷としてエドムに売ったのかもしれません。ペリシテと異なる点は「兄弟の契りを心に留めなかった」と関係を裏切ったことが指摘されています。列王記上5章に記されていたダビデやソロモンと、ティルスの王ヒラムとの友好関係か、あるいは列王記上16章に記されていた、北イスラエルの王アハブとフェニキアのシドンの王の娘イゼベルとの結婚なのか、あるいは他にも何らかの関係があったのかもしれません。いずれにしても、それらの友好関係を裏切ったことが非難されています。その罪に対する審判として、神様は「私はティルスの城壁に火を放つ。火はその城郭をなめ尽くす」と言われました。ティルスはアッシリアに貢ぎ物を納めることによって、攻撃から免れましたが、後にはバビロンの攻撃を受け、最後には紀元前332年、ギリシアのアレクサンダー大王の攻撃を受けて滅びました。
エドムはユダの南に領土を持ち、イスラエルの先祖ヤコブの双子の兄エサウの子孫であり、イスラエルとは親戚関係にあります。神様は「彼らが剣で兄弟を追い、憐れみの情を捨て、いつまでも怒りを燃やし、長く憤りを抱き続けたからだ」と罪を告発しています。具体的に、どのようなできごとを指しているのかは分かりません。けれども、イスラエルがエジプトを出て荒れ野の40年の旅の後、カナンに入るためにエドムの領土を通らせてほしいと申し出た時、エドム人は「通過してはならない」と言い、強力な軍勢を率いて迎え撃とうとしました。またヨラムの時代にエドムは南ユダに反旗を翻して、その支配から脱し、自分達の王を立てました。さらにアマツヤの時代には、南ユダが塩の谷で1万人のエドム人を打って勝利を収め、エドムの地にある葦の海の海岸に、港町エイラトを再建し、ユダに復帰させました。また6,9節に記されていたように、ガザとティルスはイスラエルの捕虜を奴隷としてエドムに売ったのですから、売られた者はエドムに奴隷として仕えなければなりませんでした。イスラエルのカナンへの帰国から始まって、エドムとの間には争いが続いていたと考えられます。神様は「私はテマンに火を放つ。火はボツラの城郭をなめ尽くす」と言われました。テマンとボツラは、エドムの大都市です。アモスの預言から約30年後、アッシリアによって征服され、貢ぎ物を納めることになります。
アンモンはヨルダン川東に位置し、アブラハムの甥ロトの子孫ですが、エドム同様、敵対関係にありました。神様は「彼らはギレアドの妊婦を引き裂き、領土を広げようとしたからだ」と罪を告発しています。アンモンはギレアドの東に位置していましたので、たびたびギレアドに侵入したようです。そしてアンモンは侵入した時、妊娠した女性の胎を引き裂き、母親とまだ生まれていない子供の双方を虐殺しました。現代の私達から考えると、残虐な行為に思えますが、古代においては特別なことではありませんでした。敵の民族を断つためにも、女性を殺すこと、まだ生まれていない子供を殺すことは、一つの戦略でした。アモスの預言から約10年後、北イスラエルの王メナヘムがティフサを攻撃した時、妊婦を切り裂いています。これはイスラエルで行われたがゆえに、特別な事件として記されています。神様は「私はラバの城壁に火をつける。火はその城郭をなめ尽くす。戦いの日に鬨の声があがる、嵐の日に烈風が吹く中で。彼らの王は高官達と共に、捕囚となって連れ去られる」と言われました。 モアブは死海の東部にあり、北はアンモンに、南はエドムに接しています。モアブもアンモン同様、アブラハムの甥ロトの子孫です。神様は「彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にしたからだ」と罪を告発しています。他の5つの国々の罪と異なり、モアブの罪は遺骨を汚したことにあります。キリスト者である私達にとって、遺骨を灰にしたからといって、罪を感じることはありません。むしろ遺骨に特別な敬意を抱くことは、キリスト教にふさわしくないと考えます。けれどもエドムの目から見れば、貴いものの破壊であり、モアブにとっては勝利を明らかにし、エドムの敗北の苦しみを増す行為でした。神様は「私はモアブに火を放つ。火はケリヨトの城郭をなめ尽くす。鬨の声があがり、角笛が鳴り響く中で、混乱のうちにモアブは死ぬ。私は治める者をそこから絶ち、その高官達も皆殺しにする」と言われました。
ダマスコとアンモンが告発された罪は、侵略に伴う残虐な行為でした。ガザとティルスが告発された罪は、奴隷貿易、人身売買でした。エドムが告発された罪は、長年にわたる怒りと憎しみでした。モアブが告発された罪は、他者の価値観を損なうものでした。またエドムとアンモンとモアブは、遠い親戚関係にありながら、イスラエルと敵対関係にありました。いや逆に身近な国であったがゆえに、現代において韓国や北朝鮮、中国が日本に敵意を抱いているように、憎悪も深かったのかもしれません。アモスが、これら6つの周辺諸国への裁きについて語った時、北イスラエルの人々は、むしろ共感したでしょう。アモスが預言者として召された時、アッシリアは無力な王のために一時的に衰退しており、北イスラエルと南ユダは領土を拡張し、経済的に豊かな時代でした。ですから周辺諸国への裁きは、イスラエルの繁栄にさらに自信を持たせると言いますか、自らを正当化させる言葉であり、心地よい言葉でした。しかし次回になりますが、これからイスラエルへの裁きが語られるのです。神様はアモスを通して、繁栄の絶頂期にあるイスラエルに対して、裁きを語ります。しかもライオンの鳴き声のように響く、危険と破滅を知らせる神様の警告なのです。
私達は他者が裁かれる時、特に教会やキリスト教に対立する存在が裁かれる時、無意識のうちに共感してしまうことがあります。あるいは同じキリスト者であり、信仰の基は同じなのに、行動として現れるものが異なる時、他者を裁いてしまうことがあります。結果として他者が失敗したり、この世的な意味で不幸になったりすると、それによって自らを正当化することがあります。けれども私達は本質的に罪人であり、主イエスの十字架によって贖われ、罪赦された存在にしか過ぎないのです。常に神様の御声に耳を傾け、歩むべき道を整えていただかないと、すぐに誤った道に陥ってしまいます。私達は動物園にいるライオンしか知りませんが、本当に道でライオンと出会ってしまったら、立ち竦んでしまって身を守ることもできないでしょう。そのような恐ろしい鳴き声であり、警告ですが、それは私達を滅ぼすことが目的ではなく、私達が神様に立ち帰ることを求めておられる鳴き声です。神様の裁きの声がとどろく時、その声に恐ろしさを覚えて耳をふさぐのではなく、逆に耳を澄ませて神様の御声を聞き、その御声に従う者とならせていただきましょう。神様の裁きの声こそ、真の意味で私達を生かす御言葉なのですから。

2006/05/07

06/05/07 絶望のかなたに救いが M 

2006年5月7日
瀬戸キリスト教会聖日礼拝
絶望のかなたに救いが     
列王記下25章1_7節:讃美歌 61,161,166
堀眞知子牧師
 紀元前597年、ヨヤキンは3ヶ月間、南ユダ王国の王位にありましたが、バビロンによってエルサレムを包囲され、その家族、国の有力者、軍人、技術者と共に捕囚としてバビロンに連れ去られました。バビロンの王ネブカドネツァルはヨヤキンに代えて、その叔父マタンヤ、すなわちヨシヤの子であり、ヨアハズ、ヨヤキムの弟を王とし、その名をゼデキヤと改めさせました。ネブカドネツァルは、南ユダの危機にあたって、エルサレムとユダをできる限りうまく治めるために、ダビデ王家の血を引く者、ヨヤキンの叔父を王として立てたのです。ゼデキヤは21歳で王となり、11年間エルサレムで王位にありました。彼は兄ヨヤキムが行ったように、神様の目に悪とされることをことごとく行いました。24章20節に「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した」と記されています。「このような事態」とは25章に記されている、エルサレム陥落とバビロン捕囚です。そしてエルサレム陥落とバビロン捕囚という悲惨な歴史は、神様の怒りによるものであり、エルサレムとユダが神様の御前から捨て去られた結果である、と列王記記者は語ります。歴史的事実としては、ゼデキヤがネブカドネツァルに反旗を翻したことから始まりました。ゼデキヤは、ネブカドネツァルによって南ユダの王とされたにもかかわらず、彼に反逆しました。ゼデキヤは信仰的にも問題がありましたが、政治的にも確たるものがないままにエジプトに心引かれ、バビロンに反抗したのです。当然のことながらネブカドネツァルは怒り、エルサレムを攻撃してきました。ゼデキヤの治世第9年の第10の月の10日に、ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、エルサレムはバビロン軍によって包囲され、ゼデキヤの治世第11年に至りました。
包囲されたエルサレムの生活は、きわめて厳しいものでした。もともとエルサレムは、シオンの丘の上に築かれた要塞の町であり、野や畑は町の外にあります。20章20節に記されていたように、ヒゼキヤが貯水池と水道を造って水を引きましたが、エルサレムの中に川や湖はありません。水も食糧も都の外から供給しなければならないのです。バビロン軍によって包囲されれば、供給はきわめて困難です。この間の生活の厳しさについては、エゼキエル書4,5章に記されています。ヨヤキンが捕囚となり、ゼデキヤが王となって5年目、実際にエルサレムが攻撃を受ける4年前に、エゼキエルは神様から「あなたは小麦、大麦、そら豆、ひら豆、きび、裸麦を取って、一つの器に入れ、パンを作りなさい。あなたが脇を下にして横たわっている日数、つまり390日間、それを食べなさい。あなたの食べる食物の分量は一日につき20シェケルで、それを一定の間隔をおいて食べなければならない。あなたの飲む水の分量は6分の1ヒンで、それを一定の間隔をおいて飲まなければならない。大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい」と命じられました。通常は小麦または大麦でパンが作られますが、食糧不足のため、そら豆、ひら豆、きび、裸麦なども混ぜてパンを作らなければなりませんでした。20シェケルは約230g、6分の1ヒンは約600?ですから、今朝の聖餐式に用いている5枚切りの食パンなら3枚弱、水はコップに約3杯、それが一日に飲み食いして良い分量です。とても生命を維持できる分量ではありません。そのような生活を390日間続けるように命じられました。包囲されたエルサレムの悲惨な生活を象徴するために、あらかじめ、このような生活を送るように命じられたのです。
さらにエゼキエルは神様から「あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげをそり、その毛を秤にかけて分けなさい。その3分の1は包囲の期間が終わった時に都の中で火で燃やし、ほかの3分の1は都の周りで剣で打ち、残り3分の1は風に乗せて散らしなさい。私は剣を抜いてその後を追う」と命じられました。これはエルサレムに対する、神様の厳しい裁きの言葉です。この厳しい裁きの理由として、神様は「お前たちが周りの国々よりもいっそうかたくなで、私の掟に従って歩まず、私の裁きを行わず、周りの国々で定められている裁きほどにも行わなかったので、私もお前に立ち向かい、国々の目の前でお前の中で裁きを行う」と言われました。実際に起こるできごととして、神様は「お前の中で親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。私はお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。私は生きている。お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもって私の聖所を汚したので、私もまた必ずお前をそり落とす。私は憐れみの目をかけず、同情もしない。お前の中で3分の1は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、3分の1は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る3分の1は、私があらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う」と言われました。列王記下6章に北イスラエルがアラム軍の攻撃を受け、サマリアが包囲されていた時のことが記されていました。その中に、母親が子供を食べるということが記されていました。これも悲惨なできごとですが、飢饉の時、親が子供を食べるということは他にも記されていますが、子供が親を食べるということは他には記されていません。それほど飢えが厳しく、人間の心もすさむのです。エゼキエルの髪の毛とひげになされたことが、エルサレムの住民の上に神様の裁きとしてなされます。3分の1は疫病や飢えで死に、3分の1はエルサレム陥落の寸前または直後に、都から逃げ出そうとして、都の周りで剣にかけられて殺され、残る3分の1はバビロンなど諸外国に散らされて、やがて死にます。イスラエルが神様に背いたがゆえに、徹底的な裁きがエゼキエルを通して預言され、その通りのことが神様によってなされていきます。
3節に「その月の9日」と記されていますが、これはゼデキヤの治世第11年の第4の月の9日です。神様はエゼキエルに390日間と言われましたが、実際は足かけ3年、丸1年半、540日間に及びました。丸1年半のエルサレム包囲により、都の中では飢えが厳しくなり、食糧が尽きました。バビロン軍の包囲が功を奏し、町は破られました。そのバビロン軍の包囲をくぐり抜け、ゼデキヤと戦士達は夜の闇に隠れて逃げ出しました。ゼデキヤは死海に通じる荒れ野の道を逃げて行きましたが、バビロン軍は彼の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いつきました。ゼデキヤの一行は、追撃を受けて散り散りばらばらになり、彼の軍隊は彼を離れ去っていました。ゼデキヤは捕らえられ、リブラにいるネブカドネツァルのもとに連れて行かれ、裁きを受けました。7節に、反逆者の受ける報いの悲劇が記されています。バビロン軍は、ゼデキヤの目が見える間に、王子達を目の前で虐殺しました。その後に、ネブカドネツァルはゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、バビロンに連れて行きました。
ネブカドネツァルの第19年第5の月の7日、ゼデキヤの逃亡の約1ヶ月後、リブラにいたネブカドネツァルの命令を受けた、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムを再び攻撃しました。それはエルサレムの町の徹底的な破壊でした。ネブカドネツァルにしてみれば、自分が王としたゼデキヤに反旗を翻され、エルサレム陥落に1年半もかかったのですから、怒りが心頭に達していたのでしょう。怒りはゼデキヤだけではなく、エルサレムへも向けられました。主の神殿、王宮をはじめとして、エルサレムにある主な建物をことごとく火で焼き払いました。また軍をあげて、エルサレムの周囲の城壁を取り壊しました。当時の町は城壁によって守られていましたので、城壁の破壊は、エルサレムの滅亡をもっとも具体的に示すものでした。神様がエゼキエルを通して「私はエルサレムを廃墟とし、すべての旅人の目にも、周りの国々にも、嘲りの的とする」と語られたように、神様の摂理として、エルサレムはもろくも崩れ去りました。そして、民のうち都に残っていたほかの者、ネブカドネツァルに投降した者、その他の民衆は、ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られました。貧しい民の一部だけが、ぶどう畑と耕地にそのまま残されました。貧しい農夫以外は、すべての民が捕囚として連れ去られたのです。それは、再び国を興す可能性を奪うものでした。
バビロン軍は、神殿の略奪、什器類の持ち去りを行いました。24章13節に記されていたように、ヨヤキンが捕囚とされた時、すでに高価な物は運び去っていましたが、まだ残っていた物がありました。13?17節に詳しく記されていますが、何がどれだけ取り去られたということよりも、エルサレム神殿がもはや神殿ではなくなった事実が明らかにされています。ダビデがエルサレムに都を築き、ソロモンが神殿を建築することで、イスラエル王国は神の民として、その形を整えました。けれども今や、すべてが運び去られ、エルサレムは完全に滅びたのです。ネブザルアダンは、祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤをはじめとして、指導的な人々を捕らえて、リブラにいるネブカドネツァルのもとに連れて行きました。ネブカドネツァルは彼らを処刑しました。こうしてユダは、自分の土地を追われて捕囚となりました。
ネブカドネツァルは、ユダの地に残された貧しい民を治めるために、ゲダルヤを総督として立てました。ゲダルヤは、ヨシヤのもとで書記官であったシャファンの孫です。陥落したエルサレムに残された、貧しい民を治めるために、ネブカドネツァルはユダの人間を用いました。主な軍人はバビロンに捕囚として連れ去られましたが、残っていた軍人もいました。彼らは、ネブカドネツァルがゲダルヤを立てて総督としたことを聞き、部下と共にミツパにいるゲダルヤのもとに集まって来ました。ゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って言いました。「カルデア人の役人を恐れてはならない。この地にとどまり、バビロンの王に仕えなさい。あなたたちは幸せになる」ゲダルヤはもともと、バビロンと親しくする側に立っていたので、このように命じたのです。ところが、すべての者がゲダルヤを支持していたのではありません。第7の月に、王族の一人であるイシュマエルがゲダルヤを打ち殺し、彼と共にミツパにいたユダの人々もカルデア人も打ち殺しました。民は皆、カルデア人を恐れて、ただちにエジプトに出発しました。バビロンとエジプトに挟まれ、国を失った民は不安定でした。バビロンと親しくする者もいれば、エジプトと親しくする者もいたのです。けれども申命記17章に記されていたように、神様はモーセを通して「あなたたちは2度とこの道を戻ってはならない」と命じられました。エジプトへ行くことは禁じられていたにも関わらず、バビロン人を恐れてエジプトへ逃げたのです。
27?30節に、ヨヤキンの晩年のことが記されています。彼は捕囚となって37年目、ネブカドネツァルが死に、後継者エビル・メロダクはヨヤキンを解放しました。「その即位の年に」と記されていますので、いわゆる恩赦であったのかもしれません。エビル・メロダクは、ヨヤキンを解放しただけではなく、手厚くもてなして、バビロンで共にいた王たちの中で彼にもっとも高い位を与えました。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず日々の糧をエビル・メロダクから支給され、食事を共にすることとなりました。ヨヤキンが、なぜ優遇されたのかは、聖書には記されていませんが、異教社会の中で優遇されることは、物質的には恵まれても、精神的には苦痛であったと考えられます。けれどもヨヤキンが生を許され、命を安全に保つことができたのは、すべて神様の御計画の中にあります。ダビデの家系を継ぐ者から、イエス様がお生まれになるからです。ダビデの子孫から主キリスト(救い主)が生まれる御計画のゆえに、ヨヤキンは命を守られたのです。
列王記には、ダビデの晩年からヨヤキンの解放までが記されていました。400年以上のイスラエルの歴史が記されていましたが、神様の御心にかなって歩んだのは20年くらいで、残りの歴史は神様の御心から離れていた時代が多いのです。特に紀元前931年、南北に分かれてからの北イスラエルは、背信の歩みを続けました。南ユダ王国も主の御心にかなった王もいますが、背信の道を歩んだ王もいます。ダビデの家系が守られたのは、神様の特別な憐れみによります。「列王記の示す歴史は全体的に暗い」と言っても決して言い過ぎではありません。イスラエルは神様に背いたがゆえに、結果として投げ捨てられました。ネブカドネツァルは神様を知ることなく、ユダを御前から除くために神様から用いられました。エルサレム滅亡とバビロン捕囚という憂き目に会わなければなりませんでした。
しかし神の民は投げ捨てられましたが、神様の憐れみが投げ捨てられたのではありません。投げ捨てられても、なおイスラエルは神様の民なのです。エルサレム滅亡とバビロン捕囚は、絶望的な終局ですが、それで神様の贖いの御業が終わったのではありません。むしろバビロン捕囚は神様の試練の時であり、神様を知る時として備えられ、用いられました。創世記1章?2章4節に記されている「天地の創造」は、バビロン捕囚の時代に編集されました。また詩篇119篇も、バビロン捕囚を経験した信仰者によって作られました。バビロン捕囚という、この世的な目から見れば絶望の時「イスラエルの神は死んだ」と異教の民から嘲笑される中で、イスラエルは、真の神様に立ち帰ったのです。すべてが神様の御計画の中にあり、絶望のかなたに救いがあることを確信したのです。私達の信仰生活も同じです。この世的に見て不幸、絶望と思える時こそ、神様から与えられた試練の時であり、真の神様に立ち帰る時なのです。パウロはローマの信徒への手紙の中で「私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません」と記しています。神様が絶望のかなたに救いを、永遠の希望を備えて下さっていることを信じ、日々の歩みを神様によって整えていただきましょう。

2006/05/04

06/04/30 何の妨げもなく神の国を宣べ伝えた T 

何の妨げもなく神の国を宣べ伝えた
2006/4/30
使徒言行録28:17_31
 チェルノブイリ原子力発電所の炉心溶融事故、チャイナシンドロームから20年が経ちました。チェルノブイリ原子力発電所の炉心溶融事故の情報は当時のゴルバチョフ書記長の下にすら届いていなかったようです。事故対策は後手後手に回り、文字通り決死隊が原子力発電所の消火に向かいましたが、炉心が溶融した原子力発電所からはすでに大量の放射能が大気中にばらまかれました。原子力発電所は炉心が溶融し始めればそれを消し止める手段はありません。残された手段はただ炉心をコンクリートで覆うだけですが、工事関係者は大量の放射能を浴びてしまいました。当時の旧ソ連では原子力発電所の破壊力、放射能の恐ろしさは理解されていませんでした。ウォッカを飲めばアルコールが放射能を洗い流してくれるいうデモが飛び交い、ウォッカが売り切れたという笑えない話が伝えられています。先ず初期消火に当たって人たちが放射能被爆で急性の原爆症に罹り亡くなられました。次に事態の深刻さを理解できなかった周辺の住民が慢性の原爆症に罹りました。特に子供たちの多くに甲状腺ガンが見られます。被爆後20年を経つ頃からガンの発病率が急激に高まると思われますので、この事故の被害者の総計は推定すら不可能であるそうですが、私たちの常識を越える値であることは間違いありません。現在も京都府ぐらいの広さの土地が立ち入り禁止になっているそうです。現在は巨大な石の棺、鉄板で覆いコンクリートで固めた要塞が炉心を覆っているそうですが、老朽化が進み放射能の漏出も止まらないそうです。 チェルノブイリ原子力発電所の炉心溶融事故で大気圏にばらまかれた死の灰はヨーロッパを襲いました。ヨーロッパは一時パニックに陥りました。直接の死傷者は出ませんでしたが、長期的な放射能による健康被害は否定できません。ヨーロッパはこの事故を機会に、原子力発電所に依存していたエネルギー政策の舵を自然エネルギーに切り換えました。世界は原子力発電所の事故がいかに膨大な被害を引き起こすかを目の当たりにして、原子力発電所の管理に対し厳しい目を向けるようになりました。情報を公開し、原子力発電所の持つ危険性を共有する中で新しい原子力利用の国際協力体制が築かれようとしていますが、各国の思惑が絡み合い、前に進まないのが現状です。日本は電力の40%くらいは原子力発電所から得ていますが、原子力発電所の事故が後を絶ちません。原子力発電所で炉心溶融が起きれば日本は生命を絶たれますが、電力会社のそれに対する危機感が薄いようです。日本の経営者の姿勢に「安全性は絶対で、経済性を問わない」が見られないのが、最近あちこちで起きる企業事故で明らかにされています。地球温暖化、環境破壊、化石資源、特に石油の枯渇を考えれば、原子力の平和利用も一つの選択肢ですが、先立つのは安全性です。原子力は使い方を誤れば日本だけではなく世界を破滅に導きます。原子力の利用は経済性だけで論議されてはいけないのです。先ず安全性を何処までも追求する姿勢がなければ、原子力を平和利用する資格は人類にはないのです。オール・オア・ナッシングの世界だからです。 ローマに上京したパウロは主立ったユダヤ人を彼の家に招きました。パウロは先ず『私は民に対しても先祖の慣習に対しても背くようなことは何一つしなかった』と弁明しました。パウロはユダヤ人には『主の名を汚す者』、ユダヤ古来の慣習の破壊者、割礼、律法、神殿参りなどの否定者として知られていました。パウロはユダヤ人の敵意に対し、先ず身の潔白を証ししたのです。エルサレムでローマ人の手に渡されたこと、死刑に相当する理由がなかったこと、ユダヤ人からの反対があったので皇帝に上訴せざるを得なかったことを弁明しました。パウロはユダヤ人なのにローマの市民権を行使したのは、決してユダヤ人同胞を告発するためではなかったことを弁明しました。パウロがローマの市民権を行使したことはパウロの思いがどうであれ、パウロとユダヤ人との間に越えがたい壁をつくりました。ユダヤ人はローマ世界の中にあっても特異の存在でした。彼らはローマ法ではなく律法に従い生活をしていました。パウロが律法よりもローマ法を優先したことは、ユダヤ人にはパウロがユダヤ人同胞を裏切りローマ世界を選び取った人間としか考えられなかったのです。ローマのユダヤ人はパウロについての具体的な情報を得ていなかったようですが、ユダヤ教ナザレ派として知られる教会については至る所で反対があることは知っていました。ユダヤ人は日を決めてパウロの自宅に集まり、パウロの話を聞きました。パウロは朝から晩まで神の国について力強く証ししました。モーセの律法や預言書を引用し、ユダヤ人を目覚めさせようと努力しましたが、ある者は受け入れ、ある者は信じようとはしませんでした。ユダヤ人は互いに論じ合いましたが意見が一致せず立ち去ろうとしました。パウロはユダヤ人の姿を見ながら、預言者イザヤは実に正しくあなた方の祖先に語った。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』と。パウロはユダヤ人たちに神の国について十分に証ししたのですが、彼らの心は閉ざされたままでした。神の国に対して心が開かれていない者に福音を語る空しさをパウロは悟らされました。パウロは神の救いがユダヤ人から異邦人に向けられ、異邦人こそ福音に聞き従うことを確信しました。 パウロはローマで皇帝の裁きを受けるのを待つ間、兵営の外に借りた家に丸2年間住みました。保釈中であるパウロは逃亡を防ぐために手を鎖で繋がれていましたが、人々は自由に出入りすることができました。ローマ市民であるパウロはローマ世界では全く自由に過ごすことができました。パウロを訪問する人たちは彼から歓迎されました。パウロは思い切って大胆に神の国を彼らに宣べ伝えることができました。パウロは彼の元を訪れる人々に主イエス・キリストについて教え続けました。パウロはユダヤ人の救いを最後まで望んでいましたが、ユダヤ人が神の国に心を開かなかったのです。福音はそれを信じる者には生きる力を与えますが、それを信じない者にとってはただの絵空事でしかありません。ユダヤ人の神から選ばれた特別な民、選民という意識が主の福音から彼らの耳を塞ぎ、目を覆ってしまったのです。真理から目を反らしたユダヤ人は紀元70年にエルサレムが陥落し、流浪の民、祖国を失った民として2000年間を過ごさざるを得ませんでした。選民としてローマ世界に同化することをあくまでも拒んだユダヤは滅び、ローマ世界の中で生きる決断をした教会は2000年間立ち続けたのです。 パウロはユダヤ人から離れ異邦人伝道に一生を捧げましたが、ユダヤ人である彼の心はユダヤ人同胞が救われることを誰よりも望んでいました。パウロはエルサレムでユダヤ人からリンチを受ける寸前にローマ兵に救われたのにも拘わらず、ローマへ上京しても、相も変わらずユダヤ人に主の福音を証しし続けようとしました。ローマにはパウロが上京するよりもかなり以前から主の教会が形成されていたと思われます。ローマのユダヤ人は教会、ユダヤ教ナザレ派が各地で離散のユダヤ人との間に問題を起こしていることを知っていました。ユダヤ人がパウロの上京について全く情報を持っていなかったとは考えにくく、手ぐすねを引いてパウロの上京を待ち望んでいたと思われますが、ローマではローマ市民であるパウロに対しユダヤ社会は無力でした。パウロがユダヤ人を日を決めて招いたことは、ユダヤ人とパウロとの間で神学論争が公開の場で行われたと考えられます。パウロはユダヤ人との神学論争では彼らとの共通の基盤であるモーセの律法や預言書を元にして激しく論争を挑んだと思われます。パウロはキリスト教独自の概念である『十字架での死と甦り』、『聖霊降臨』について論じるのではなく、先ず共に聖書を信じるユダヤ人に、旧約聖書のことですが、聖書を通して『イエスは主である』ことを証ししようとしたのです。パウロは先ずファリサイ派のラビであった時に戻り、ユダヤ人と聖書を通じて論じ合いました。パウロは聖書が証しする救い主、イザヤ書で預言されている苦難の僕、救い主はナザレのイエスであることを証ししようとしましたが、ユダヤ人はある者は受け入れ、ある者は信じようとはしませんでした。パウロはユダヤ人に対し預言者イザヤの預言『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』を投げつけました。神様から選ばれた特別な民、選民である意識から逃れられないユダヤ人は『イエスは主である』、真理を目の前にしながらもそれを受け入れることを拒否したのです。結局ユダヤ人は『私は彼らを癒さない』という預言通り、主から見捨て去られてしまったのです。生ける主の福音は救いを激しく求める異邦人にのみ伝わり、現状に満足しきったユダヤ人には伝わらなかったのです。 パウロはローマに上京してもユダヤ人社会に先ず福音を宣べ伝えようとしましたが、ユダヤ人はそれを拒否したので、パウロの目は異邦人へ向けられました。パウロのローマで過ごした丸2年間という年月は、パウロにとっても貴重な2年間でした。パウロは自宅へ異邦人を招き主の福音を宣べ伝えました。パウロは思いきって大胆に主の福音を宣べ伝えました。ローマ市民であるパウロの福音伝道を妨げられる者はいません。むしろパウロを警備した皇帝の親衛隊の兵の中から、パウロをローマまで護衛してきた百人隊長のように、パウロから強い影響を受ける者が出てきたかも知れません。パウロはローマ市民として自由に主の福音を証しし続けることができました。教会もローマ世界の中で生きることを選び取りました。エルサレム陥落を教会が予想していたのではありませんが、帝国の中に教会が散らばっていたので教会は生き延びることができました。パウロの時代の直後、紀元70年のエルサレム陥落で神殿を中心にしていたユダヤ教保守派は壊滅しました。ユダヤ人は流浪の民、難民として祖国を失った苦難の歴史を2000年間歩み続けなくてはなりませんでした。教会の歴史とは反対の道を歩んだのです。 パウロはユダヤ人に向かい『聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』と言いましたが、これは公正な言い方ではありません。パウロ自身に保守的なファリサイ派のラビとして教会を迫害し続けた過去があるからです。ユダヤ人は生まれついたときから、厳しい宗教教育を受けて育ちます。彼らにとって唯一の主ヤーウェ以外の神はあり得ず、唯一の主はユダヤ人だけの主であったからです。律法は唯一の主とユダヤ人との間に交わされた契約です。ユダヤ人が律法を守るから唯一の主はユダヤ人を特別に選ばれた民、選民として救われるのです。ですから、ユダヤ人の心には子供の頃からユダヤ人としての慣習が刷り込まれているので、それ以外の情報に反応できなくなっているのです。パウロでさえもダマスコ途上で復活の主に出会いながらも、悔い改めるには3日3晩暗黒の中で黙想しなければなりませんでした。況んや、普通のユダヤ人の『心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じていた』のは当然でありました。人は幼児体験として刷り込まれた情報からは解放され難いのです。パウロはユダヤ人の頑なさをローマでも知らされました。パウロがユダヤ人を相手に神学論争を挑んだのは彼らに悔い改めのための最後の機会を与えたかったからです。パウロは「ユダヤ人としての義務は果たした。後は彼ら自身の問題である」そう割り切りました。 開拓伝道は一言で言えば、幼児体験としてキリスト教とは異なる情報、価値観を刷り込まれた人々に、全く新しい情報を提供することです。人が過去を捨てきるのは非常に難しいことです。悔い改めは自分が生きてきた道程を一度否定し、その向こうに新しい生を創造することを意味します。洗礼は水に浸かることで一度死に、水から再び立ち上がることで甦えりを象徴的に表したものです。パウロは『古いものは過ぎ去った、見よ、総てが新しくなったのである』と表現しますが、『外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく』のが信仰の世界です。そのためには私たちは常識に囚われない柔軟な心を持たなくてはなりません。イエス様が『幼子のように』と言われたのは、子供は全く新しい概念も抵抗なく受け入れることのできる柔軟な頭を持っているからです。私たちは常識の世界の中に生きてきました。常識の世界、現代科学が支配している世界では『処女降誕』、『復活』、『聖霊降臨』はあり得ないことですが、信仰の世界ではあり得ることなのです。オカルトの世界は言外ですが、現代科学も私たちの生きている世界の一部を説明しただけなのです。私たちの身近な現象、例えば宇宙の誕生、生命の誕生、生命の進化は現代科学でも説明しきれていませんが、子供の頃受けた学校教育の中で分かったように思わされているだけです。その様な常識の世界に切り込むのが信仰です。私たちが常識の世界の中だけで生きているのならば、ユダヤ人が慣習の世界の中だけで生きてきたのと大差ありません。私たちもユダヤ人同様『聞くには聞くが理解せず、見るには見るが認めない』世界の中で生きているにすぎないからです。私たちは『激しく求めなさい』と言われているのです。私たちは『心を激しく揺り動かさ』なくてはならないのです。『常識の壁を突き破ら』なくてはならないのです。『心の扉を内側から開けた』人が生ける主と出会うことができるのです。主はいつも心の扉の外からノックされています。主と出会うことができるか否かは、人間が心の扉を開くか否かで決まるのです。

06/04/23 ローマに着いた T 

ローマに着いた2006/4/23
使徒言行録28:1_10
 富山県射水市の市民病院で外科部長が入院患者の延命措置を中止した事件がありました。院長は外科部長が安楽死をさせたと言いますが、外科部長は延命治療の中止だと反論しています。安楽死は積極的に患者を死に至らしめるものですが、延命治療の中止は治療を中断し、死にいたらしめる消極的な手段です。延命治療の中止でも判例では複数の医師で治療中止の判断をしたか、患者あるいは家族の意思表示があったか、 脳死に近い終末期であったかが条件とされています。安楽死は日本では原則として認められず、耐え難い苦痛に苦しんでいる、死が避けられず死期が迫っている、肉体的苦痛を除くために手段を尽くした、安楽死を望む患者の明確な意思表示がある場合にのみ認めらると言う判例があります。 今回の事件は終末医療に光を当てました。自宅で最後を迎える人たちが多かった時代には終末医療はそれほど大きな問題になりませんでしたが、病院で最後を迎える人が圧倒的に多くなってきた現代では終末医療をどの時点で終えるかの明確な基準がないのです。人の生をどの時点で終えるか、明確な指針がないのです。個々の医者の判断に終末医療が委ねられているのです。医者によって患者の最期を看取る基準は異なります。医者にとって最も非難を受けない方法は、スパゲッティ症候群と言われるそうですが、患者に人工呼吸器を付け、体中にチューブを取り付けて生かし続ける方法です。それに対して尊厳死を主張する人々も出てきました。人間としての尊厳を保ちながら死ぬことは、現在の日本の医療制度では非常に難しく、予めリビングウィル、明確な遺言を残しておく必要があります。 人は必ず老い、死にます。人間の寿命には限りがあります。おそらく現在の日本の平均寿命、女性85歳、男性80歳ぐらいが人間としての生物学的な限界なのでしょう。もちろん100歳でも元気な人もいますが、115歳を超す人はほとんどいません。もちろん平均寿命まで生きられない人もいます。これは自然の摂理なのですから、私たちも寿命の尽きる時に備えて人生を生きることが必要なのです。人生において次の瞬間に何が起きるかは全く予想ができません。突然の事故や発作で生命を奪われる人もいます。例え生命を長らえても、人の肉体は必ず老い、脳も老います。望まぬ老後を送らざるを得なくなる人もいます。しかし、主を仰ぎ見て人生を送ることが必要なのです。例え目がかすみ、耳が遠くなったとてしても、主を賛美することはできます。例え御言葉を聞き取ることができなくなったとしても、礼拝の中で生ける聖霊の交わりの中に入ることが主を賛美・礼拝することになるのです。私たちも年を重ねれば体が不自由になり、主を忘れ去る時が来るかも知れません。私たちの誰にも礼拝に集えなくなり、主を忘れ去る時が来る可能性はありますが、主は私たちを忘れ去ることはありません。人が老いることはそれだけ神の国に近づくことを意味するのかも知れません。私たちはキリストの誕生・昇天により神の国はすでに来たが、終わりの日は未だ到来しない世界を生きています。肉体が滅びても、終わりの日に神の国に移されるのです。 パウロたちはクレタ島の南の沖合で遭難し、エーゲ海を西に漂流し、地中海に入り、イタリア半島の南にあるマルタ島に漂着しました。島の住民はギリシア語を話さない人々、バルバロイと聖書には書かれていますが、アフリカとローマの間にあるマルタ島の住民はギリシア語を理解する能力はあったと思えます。彼らはパウロたちに非常に親切にしてくれ、たき火をたいてもてなしてくれました。パウロが枯れ枝を集めて火にくべた時、1匹の蝮がパウロの手に噛みつきました。島の人々はパウロが人殺しの罪人であり『正義の女神』がパウロを生かしておかないのだ言い合いましたが、パウロは何の害も受けませんでした。住民はパウロを『神様だ』と言い合いましたが、住民の信じいたのはこの世の神々です。パウロたちを島の長官プブリウスが歓迎してくれ、3日間手厚くもてなしてくれました。その時プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていましたので、パウロは父親の家に行って祈りをし、手を置いて癒しました。島の他の病人たちもやってきて癒してもらいました。おそらくパウロに同行していた医師ルカが島の人たちを治療したというのが実情ではなかったかと思われます。現代でも盛んに行われている医療伝道の先駆けとも考えられます。島の人々はパウロ一行を非常に尊敬しました。パウロ一行の船出の時には必要な物を色々と持ってきてくれました。 パウロたちはマルタ島で3ヶ月間、冬を過ごした後でエジプトから小麦をローマへ輸送するアレキサンドリアの船に乗ってマルタ島を出航しました。ギリシア神話に出てくる双子の神ディオスクロイの彫刻が船首に掲げられた船でした。マルタ島から北上し、シシリー島の東岸シラクサに立ち寄りました。3日間そこに滞在し、それから海岸沿いに北上し、イタリア半島の南端、靴の爪先にあたるレギオンに着きました。そこから南風が吹いてきたのでに風に乗り北上し、2日間でプテオリに入港しました。プテオリはローマの南方にある港町です。プテオリからアッピア街道を200km北上すればローマに至ります。パウロの足ならば5日間の行程にすぎませんが、パウロたちはプテオリの信徒たちに歓迎され、7日間プテオリに滞在しました。プテオリから連絡を受けたローマの信徒たちは代表をローマから65km離れた宿場アピイフォルム、49km離れた宿場トレス・タベルネまで派遣し、パウロを出迎えました。『出迎える』という言葉は市の代表が征服者を迎える時に使われる言葉ですので、ローマの信徒はパウロをローマからギリシアの神々を追放し、神の国にする征服者として期待を込めて迎えました。パウロのカイサリアからローマへの旅はパウロ一行が乗船した船がクレタ島沖で難破・漂流し、マルタ島に漂着するという事故に遭いましたが、パウロ一行は奇跡的に救われました。パウロのローマ上京は生ける主がなした奇跡です。パウロはローマから迎えに来たローマの信徒たちを見て大いに勇気づけられました。 ローマに入ってもパウロにはローマより番兵が一人付けられただけでした。ローマ市民として皇帝に上訴したパウロは法的には罪人ではありません。パウロの手首には鎖が付けられていましたが、兵営の外にある普通の民家を借りて生活をすることが許されていました。パウロの行動は誰からも束縛されることはなく自由に振る舞えました。パウロの家には信徒たちが自由に出入りできました。パウロは彼を訪問する者を歓迎し、神の国を宣べ伝え、行ける主を証しし続けました。 パウロはローマの信徒たちからあたかも征服者を出迎える市民のような歓迎を受けました。主の福音は既にローマにまで届いていたのです。世界の首都ローマから高速道路にも匹敵する石畳で舗装された街道が帝国内の隅々にまで張り巡らされていました。情報は瞬く間に帝国内に行き渡りました。教会のネットワークもエルサレムからギリシア世界、首都ローマにまで張り巡らされていたのです。パウロの伝道の旅はエルサレムから始まり、小アジア半島、ギリシアを経てついにローマにまで達したのです。主が命じられた世界宣教命令『総ての民を私の弟子としなさい』はパウロがローマに上京したことで大きく前進したのです。パウロの時代にはキリスト教はローマ当局からはユダヤ教ナザレ派だと理解されていました。ユダヤ教はローマから公認されており、キリスト教は後世のように迫害の対象にはなっていませんでした。おそらく、信徒たちはローマの人々とは違う慣習の中に生きていましたから、教会を中心にした小さな共同体の中で生活していたと思われます。帝国内の諸教会は地域社会の中では孤立していたかも知れませんが、教会のネットワークを通じて支え合っていました。パウロの書いた書簡や、パウロの名を付けた書簡が聖書に残っていろことを見れば、教会間の交わりは極めて密であったと思われます。パウロが世界の首都ローマへ上京することはローマ帝国内に散らばったいた諸教会の多くの信徒たちが心待ちしていました。 パウロは帝国内の情報が集まり、帝国内から多くの旅人が集まるローマで活動の拠点を得ることができました。パウロはパウロ自身が借りた借家で自由に伝道をすることができました。福音は世界の首都ローマにパウロがいることでさらなる前進を遂げました。教会のネットワークの中心にパウロが座ることで、世界伝道の道が広がったのです。当時のローマはパクス・ロマーナ、ローマの平和と呼ばれる時代で、ローマ帝国は極めて安定していました。後世「総ての道はローマに通じる」と言われたように、ローマを中心とした帝国内の人や物の流れは極めてスムーズに行われていました。ローマとアフリカのアレキサンドリアが帝国内の物流の拠点でした。ユダヤ人が早くから移り住み、ユダヤ人の共同体が発達していました。教会もペンテコステからそう遠くない時期に形成されていたのではないかと思われます。エーゲ海沿岸と地中海を挟んだ対岸のアレキサンドリア、そしてローマと教会のネットワークは帝国内に張り巡らされていきました。教会の勢力は微々たるものでしたが、ネットワークは大きな広がりを持っていました。パウロの時代は教会が面的な広がりを持つことに力を注いでいたときでした。ローマ世界が安定し、帝国内の隅々まで人の行き来のある時代は、教会の開拓伝道には最も相応しい時代でした。伝説ではパウロは現在のスペインまで伝道の旅をしたと伝えられていますが、それが決して不可能ではない時代でした。主の教会の形成のためにも『時が満ちた』のです。歴史は単に偶然の積み重ねではなく、神の必然の積み重ねなのです。主がこの世に来られたのは『時が満ちた』からです。教会がエルサレムからローマ帝国内に散らばったのも『時が満ちた』からです。パウロの時代の後にエルサレムはローマに滅し尽くされます。ユダヤ人は『流浪の民』難民になってしまいました。エルサレムの最後が教会の事実上の始まりなのです。歴史の主は人の歴史を用いられ、教会の歴史をつくられたのです。 パウロはダマスコで復活の主に出会い、暗黒の世界の中で3日間黙想し、彼は悔い改めました。それからアラビアに一時退いて充電期間を持ちました。パウロは彼を捜しに来たバルナバと共に小アジア半島の付け根にあるアンティオキアに出てきました。アンティオキアからパウロの伝道の旅は始まりました。パウロはパレスチナからエーゲ海沿岸地域、エルサレムから小アジア半島を経てギリシアに至る地域で3回にわたる伝道旅行を行いました。パウロは小アジア半島、エーゲ海沿岸地域に異邦人教会を建て続けました。さらにパウロはローマへの最後の旅を成し遂げました。パウロの伝道の旅は離散のユダヤ人社会と激しい摩擦を生みました。ユダヤ人はパウロを『主の名を汚す者』異端者と決めつけ、激しく迫害しました。パウロの目はユダヤ人から異邦人へ向けられました。パウロは宗教に寛容であったローマ世界の中に教会を建てる道を選びました。パウロの時代にはローマの平和が確立されていました。ローマ帝国内にはハイウェー、街道が網の目のように張り巡らされ、情報網が整備されていました。パウロは教会のネットワークを造り上げ、ローマ世界における主の教会の基礎を造り上げました。パウロのローマ到着は教会のネットワークの頂点に彼が着くことを意味しました。 イエス様の誕生、伝道の旅、十字架での死、3日目の甦り、昇天、聖霊降臨、教会の誕生、ヨーロッパ伝道は生ける主が歴史の主であることを私たちに明らかにしてくれます。現代の私たちが歴史を振り返るときに、まさしくあの時代、ローマの平和が確立されていた時代でなければ教会はこの世に存在し続けることはできなかったと思われます。パウロの異邦人伝道、教会のネットワークが確立されていなければ教会はエルサレム陥落と共に地上から消え去っていました。 私たちは教会の歴史の中で生きています。主が誕生なされた日に神の国は到来しました。主が再臨なさる日に神の国は完成するのです。歴史には始まりがあり、終わりがあるのです。歴史は単なる偶然の積み重ねではないのです。生ける主が歴史を支配なされているのです。人間の偶然は神の必然なのです。自然科学は確率論の世界です。コインの裏表が出る確立は1/2なのです。サイコロの目が出る確立は1/6なのです。カエサル・シーザーはルビコン川を渡るときに『賽は投げられた』サイコロは振られたと言いました。もしシーザーがルビコン川を渡らなければローマ帝国は成立しませんでした。一人の英雄の決断が歴史を変えたのです。歴史に『もし』はないと言いますが、歴史の主が歴史を動かすからです。 瀬戸キリスト教会も歴史の大きな流れの中に立っているのです。瀬戸の地に教会を建てたのは人間の力であったかも知れませんが、主は人間の力を用いられて歴史をつくられるのです。教会の歴史、日本の伝道にとって瀬戸の地に教会が必要であったからです。逆に言えば教会が使命を果たせば歴史から消え去ります。私たちには偉大な英雄だけが目に付きますが、歴史を造り上げるのは名もない人たちなのです。使徒パウロは偉大な伝道者でしたが、教会のネットワークを支え続けたのは名もない信徒たちなのです。歴史の彼方に消え去った多くの教会、多くの信徒たちが主の福音を現代まで伝え続けてきたのです。私たちの小さな営みも歴史に必要な営みなのです。私たちも私たちの信仰生活のみを考えるのではなく、主の福音を次の世代に伝え続けることを考え続けなくてはならないのです。

06/04/16 イースター礼拝,キリストの復活 M 

2006年4月16日 
瀬戸キリスト教会イースター礼拝
キリストの復活     
1コリント書15章1_11節賛美歌154,2:101,148
堀眞知子牧師
 イースターおめでとうございます。主イエスの御復活の喜びに、共に与れますことを感謝いたします。私達が、聖日ごとに礼拝を守る、礼拝を守る群れとして主の教会が立ち続けている、それを可能ならしめているのは福音です。そして福音の内容は、一言で言えば「イエスは主なり」であり「イエスは主なり」という真実が人間に啓示されたのは、主イエスの死と復活というできごとを通してです。さらに、主イエスの死と復活の事実を2000年間、教会は宣べ伝え続けてきました。2000年の教会の歴史の上に、瀬戸キリスト教会は建てられ、主の再臨の日まで続く教会の歴史の中に加えられました。私達自身が救われた喜びに生きるために、この喜びの福音を他の人々に伝えるために、瀬戸キリスト教会は、この地に立っています。委ねられた地にあって、伝道の使命を果たすために、主によって用いられるのです。
パウロは「兄弟達、私があなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と語り始めています。パウロがコリント教会へ手紙を書いたのは、分派争いがあったり、道徳的乱れがあったり、集会の秩序に乱れがあったり、数々の問題を抱えていたからです。時として、それらの問題が福音の本質に触れるようなこともありました。15章は「復活」について述べられていますが、それは12節に記されているように「死者の復活はない」という人々がいたからです。彼らは、主イエスの復活を否定していたのではありません。主イエスの死と復活は事実として認めながら、キリスト者の復活を否定していたのです。主イエスの復活と人間であるキリスト者の復活を、異なったものとして受け取っていたのです。死者の復活を信じない人々がいる教会に対して、パウロはもう一度、福音について、主イエスの復活の事実について語っているのです。パウロは第2回伝道旅行でコリントを訪れ、1年6ヶ月にわたって福音を語り続けました。最初に語った時と全く同じ福音を、もう一度告げ知らせると述べた上で、パウロは「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」と断言しています。以前と異なる新しい福音、あるいは今までの福音に何かを付け加えて語るのではありません。すでに、あなたがたコリント教会の信徒が受け入れた福音であり、すでに生活のよりどころとしている福音である、とパウロは語ります。この「生活のよりどころとしている」という言葉は、原文では「あなたがたが、すでに立っている、そのところにおいて」という表現になっています。生活のよりどころと言うよりも、存在の基盤となっていると言った方が、より正確です。コリント教会の信徒が受け入れた福音、すでにその上に立っている福音、この福音の上に立ち続けることによって、コリント教会は主の教会として地上に存在するのです。
パウロは変わることのない福音について、コリントで初めて告げ知らせた時のことを思い起こさせるかのように語ります。「どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」福音は救いの根拠です。パウロが告げ知らせた福音をしっかりと心に留め、福音から離れないで生きるならば、そこにキリスト者の救いがあり、生命があります。福音から離れるならば「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまう」とパウロは断言します。「イエスは主なり」と信じ、主イエスの死と復活を信じながらも、キリスト者の復活を信じないなら、真実の救いはないし、信仰そのものが空しいものになってしまうと述べた上で、パウロは福音の核心を語ります。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私達の罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです」パウロはここで、自分がコリント教会の人々に伝えたことは、彼自身の作り話とか、あるいは哲学的・宗教的思考の結果ではなく、自分も受けたものであると述べています。主イエスの十字架の死と復活の目撃者達から伝えられたこと、言い換えれば教会が伝えてきた福音でした。教会が伝えてきた福音をパウロは聞き、受け入れ、信じ、信じた者としてコリント教会に伝えたのです。さらに「聖書に書いてあるとおり」とパウロは述べています。主イエスの十字架の死と復活は、突如として起こったできごとではなく、旧約聖書に記されていたこと、すなわち神様が、あらかじめ示されていた御計画であったことを明らかにしています。確かに旧約聖書には、イエス・キリストという名前は記されていません。けれども旧約聖書は「キリスト預言の書」であり、やがて救い主が来られるという約束が記されています。そして新約聖書は「キリスト証言の書」であり、ナザレ人イエス、3年余の伝道生活の後、十字架の上で死なれたイエスこそ、旧約聖書で預言されていた救い主であることを証言しています。「聖書に書いてあるとおり」私達に明らかにされたことが、4つのできごととして記されています。
第1に「キリストが私達の罪のために死んだこと」です。イザヤ書53章は「苦難の僕の歌」として位置づけられていますが、4?8節に「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであった。彼が刺し貫かれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私達の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」と記されています。2000年前、イエス様が十字架の上で死なれたことは、歴史的事実です。それは人間の目から見れば、ローマ帝国に反逆した者としての死であり、ユダヤ人の目から見れば、神様に呪われた死でした。けれども真実は、神様が私達の罪をイエス様に負わせ、十字架の上で贖いの死を遂げさせられたのです。イザヤが預言したように、イエス様が私達の病を担い、痛みを負われました。私達の背きと咎のために、イエス様が裁かれ、神様の手によって地上の命を取られました。そしてイエス様が受けた罰によって、神様との間に平和が取り戻され、私達に癒しが与えられました。神様に背き、迷える羊である私達の罪が、イエス様の十字架によって赦されたのです。
第2に「葬られたこと」です。同じくイザヤ書53章9節に「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」と記されています。イエス様は神様の御独り子でありながら、人間として地上に遣わされ、地上の生涯を終えられました。仮死状態で死んだと見なされたのでもなければ、肉を持たない霊的存在であったのでもありません。人間としての肉体を持ち、人間としての死を迎え、墓に葬られました。葬られたということが、死の確かさを表しています。私達も神様によって命を与えられ、地上の歩みを与えられています。主の再臨の日が、私達が地上にある間に来なければ、これまでのキリスト者がそうであったように、死を迎え葬られます。人間としての死を迎え、墓に葬られたイエス様が復活された、この事実が、私達キリスト者が死んで葬られても、肉体をもって復活することの保証となります。
第3に「3日目に復活したこと」です。ホセア書6章に「2日の後、主は我々を生かし、3日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」と記され、ヨナ書2章には「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは3日3晩魚の腹の中にいた」と記されています。そして、イエス様御自身が「ヨナが3日3晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も3日3晩、大地の中にいることになる」と語られました。イエス様は死んで葬られましたが、それで終わりではありませんでした。「使徒信条」の中で「死にて葬られ、陰府にくだり、3日目に死人のうちより甦り」と告白するように、3日目に肉体をもって復活されました。死に至るまで人間と同じように歩まれたイエス様は、死に打ち勝って甦られたのです。主イエスが復活された、ここに私達の救いがあります。死が絶望ではなく、復活の希望に生きる道が開かれたのです。
第4に「ケファに現れ、その後12人に現れたこと」です。復活の主イエスは、弟子達の前に姿を現されました。復活については聖書に記され、イエス様御自身も約束されましたが、復活のできごとそのものを見た人はいません。福音書には、婦人達がイエス様の墓に行った時、大きな地震が起こったとか、墓が空であったとか、天使がいたということについては記していますが、イエス様がどのようにして復活されたのかについては記していないし、目撃者は一人もいないのです。復活の主イエスの顕現、主イエスが御自身を弟子達の前に顕されたことによって、初めて弟子達は主イエスの復活を知りました。
 「聖書に書いてあるとおり」というのは今、引用した御言葉だけではありません。ルカによる福音書24章に記されているように、復活の主イエスはクレオパともう1人の弟子に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者達、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言われて、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。またヨハネによる福音書5章で、イエス様はユダヤ人達に対して、はっきりと「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証をするものだ」と語られています。旧約聖書全体が、ナザレのイエスこそ、救い主であることを証しているのです。そして新約聖書は、旧約聖書が指し示している救い主がナザレのイエスであり、そのイエス様は十字架の上で贖いの死を遂げられ、死んで葬られたけれども、3日目に死に打ち勝って復活され、弟子達の前に御自身を顕された、という歴史的事実を証しているのです。
パウロは主イエスの復活の証人について、さらに続けます。「次いで、500人以上もの兄弟達に同時に現れました。そのうちの何人かは、すでに眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」たと。現実に主イエスが復活された、その御姿を目で見た証人が存在することを、パウロは強調します。霊的な意味で出会ったというのではなく、肉体をもって復活された主イエスに出会った人々がいる、その目で見て主イエスの復活を信じた人々がいることを意味しています。さらに「そのうちの何人かは、すでに眠りについた」という事実は、主の再臨を見ないで死んだキリスト者がいることと共に、キリスト者は主イエスの復活と再臨の中間期に生きていることを表しています。現代に生きる私達にとっては、当たり前のことと思われるかもしれませんが、初代教会の信徒達は、主の再臨は自分が生きている間に来ると信じていました。ですから、パウロがテサロニケの信徒への手紙一に「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と記したように、主の再臨に対して熱狂的になり、仕事もせずに空を見上げて、再臨を待ち続けている人々がいたのです。またすでに眠りについた者に対して、嘆き悲しむ人々がいたのです。そういう人々に対して、すでに眠りについた者も復活の希望に与っていることを語っているのです。パウロは復活の証人の最後に、自分自身を語っています。「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒達の中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。とにかく、私にしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」パウロは生前のイエス様を知りません。さらに使徒言行録9章に記されているように、キリスト者を捕らえるためにダマスコに向かっているパウロに、復活の主イエスが語りかけ、彼は教会を迫害する者から、主イエスを宣べ伝える者へと変えられたのです。ただ神様の恵みによって復活の証人とされ、使徒として召されたのです。そしてパウロを伝道の器として用いられたのは、神様御自身であり、パウロを通してコリント教会を建てられたのです。
 最初に「主イエスの死と復活の事実を宣べ伝え続けてきた教会の歴史の上に、瀬戸キリスト教会は建てられ、主の再臨の日まで続く教会の歴史の中に加えられた」と述べました。教会2000年の歴史の中で伝えられ続けてきた福音を受け取り、さらに次の世代へ受け継ぐ使命が私達には委ねられています。福音は、私達が勝手に作り出したものではありません。神様が人間の歴史の中に働きかけ、今も働かれています。主イエスの死と復活の事実は、聖書を通して教会の中で語り続けられてきました。そして聖書、神様の御言葉は生きた御言葉であって「理解した、分かった」それで終わりではありません。日々、御言葉によって新しい生命を吹き込まれ、神様の御業を見させていただく世界が、私達の前に開かれています。もし私達が生きている間に、主イエスが再臨すれば、死を見ることなく神様の御国に入ることができます。栄光の体に変えられ、死を経験することなく、神様の御国へ行くことが約束されています。逆に主の再臨を見ることなく死んだとしても、私達キリスト者は、死が終わりではありません。主の再臨の時に、先に召されたキリスト者と共に復活することが約束されています。主イエスの死と復活を伝えられた者として、復活の喜びに生きる世界が与えられ、伝えていく使命が委ねられています。一人一人が復活の喜びに生き、伝道の使命に生きる群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。

06/04/09 神は総てのものをあなたに任せられた T 

神は総ての者をあなたに任せられた
2006/4/9
使徒言行録27:21_26
 民主党の代表に小沢氏が圧倒的多数で選出されました。前原前代表は疑惑メール問題で自滅しました。疑惑メール問題では永野前代議士の情報源に対する調査不足が明らかにされました。情報を持ち込んだ西澤なる者は週刊誌に偽情報を持ち込み週刊誌側が名誉毀損で訴えられて敗訴した経歴があります。業界では誰も相手にしない胡散臭い人物であったそうです。彼から1000万円で民主党が情報を買うつもりであったことも明らかにされました。最初に一言謝ればそれで済んだのに、それができなくて傷口を広げました。今国会は小泉首相の構造改革の総括をする大切な国会でしたが、序盤で民主党が大きく躓きました。政治に及ぼした影響を考えれば前原前代表の辞任はむしろ遅すぎたぐらいです。小泉首相から「少しは長くやってもらいたいねえ。次々に辞めちゃうんだもんねえ」と言われるような民主党は野党としての責任を果たしてはいないと見なされていました。 民主党は党再生を賭けて代表選をしましたが、従来の談合体質から抜け切れていないようです。自民党の幹事長であった小沢代表と官公労を支持基盤とする旧社会党系の横溝氏とが野合したかに見えました。小沢氏の政治理念は小さな政府であり、官から民へ、中央から地方へと言う政治の流れは小泉首相とは変わりがありません。官公労からの支持を逆手に取られて、民主党は抵抗勢力と決めつけられ、総選挙で大敗しました。小沢代表は労組依存体質に国民が拒絶反応を示したのに横溝氏を味方に引き込みました。それから多数派工作が露骨に行われました。政策論議が深まらないままで、代表選挙に突入したというのが現実でしょう。 日本の政治は小泉首相までは談合政治でした。派閥の領袖の談合で首相が決まり、大臣が決まっていました。時代は民主主義なのに自民党の中では全会一致が原則でした。陣笠議員という言葉で代表されるように、新人議員は一票を投じるためだけの投票マシーンでした。役所の利権に群がる人々から政治献金という名の上納金を集めるシステムの要が派閥です。自民党は派閥の連合体であり、利益誘導のためにのみ党が存在していたのです。そこに小泉首相が「自民党をぶっ壊す」と宣言し党総裁になりました。小泉首相の郵政民営化法案で党の総務会での全会一致の原則が初めて破られました。選挙の候補者任命権も党に戻りました。大臣は派閥と無関係で総理総裁が指名しました。構造改革で利権構造も大きく変わりました。談合に対し国民の目が厳しくなり、検察庁、公正取引委員会に摘発される例が後を絶ちません。権力の頂点で自ら権力を手放す例は世界史的にも珍しいといえます。小泉首相の構造改革は歴史的使命を果たしたように思えます。 問題は小泉首相なき日本を誰が何処へ導いていくかです。ポスト小泉、自民党だけではなく民主党も日本の未来に責任があります。おそらく衆議院は任期満了まで解散はされないでしょうから、民主党次第で日本の未来は大きく変わるといえるでしょう。健全な野党があって初めて議会制民主主義は有効に機能するからです。そのためには民主党こそ旧来の談合体質から脱皮する必要があります。 パウロが皇帝に上訴したので彼の身柄は皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡されました。パウロはアリスタルコと共にアジア州沿岸の各地に寄港する船にカイサリアから乗船し、翌日シドンにつきました。百人隊長はパウロを親切に取り扱いました。パウロは友人たちの所で送別会を持つことができました。海岸沿いに船は進み、小アジア半島南岸のミラからイタリアへ向かう船に乗り換えました。船足を妨げられながらもクレタ島の陰には入り、南岸の『良い港』につくことができました。パウロは航海の危険性を指摘しましたが、百人隊長は船長や船主の言うことを信用し、クレタ島西部の港で冬を過ごすことに決めました。 南風が静かに吹いてきたので静かに船出しましたが、『エウラキロン』と呼ばれる暴風に巻き込まれました。船は積み荷、船具を投げ捨てることで沈没から免れましたましたが幾日もの間太陽も星も見えず、助かる望みは全く消え失せようとしました。人々は飲まず食わずで幾夜も過ごしましたが、パウロは人々の真ん中に立ち、『神は一緒に航海している総ての者を私に任せてくださった』と言われたので必ず助かります。元気を出しなさい。『私は神を信じています。私に告げられたことはその通りになります』と船に乗っていた人たちを励ましました。 アドリア海を漂流して14日目の夜、船は陸地に近づきましたが、暗礁に乗り上げるのを恐れて船尾から錨を4つ投げ込み夜明けを待ちました。ところが船員が小舟を使い船から脱出しようとしたので、綱を断ち切り小舟を流れるに任せました。夜が明けかけた頃、パウロは一同に食事をするように勧めました。パウロは『今日までの14日間不安な中で飲まず食わずにいましたが、生き延びるために何かを食べましょう。あなた方の頭から髪の毛一本もなくなることはありません』と言ってから、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りを捧げてからそれを割いて食べ始めました。一同は十分に食事を取ったので元気を回復し、荷物を海に投げ捨てて船を軽くしました。船に残された人々は合計で276名になりました。 朝になり、何処であるかは分かりませんでしたが、砂浜のある入り江を見つけたので船をそこに乗り入れることに決まりました。錨を切り離して海に捨ててから、舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進みましたが、深みに挟まれた浅瀬に船を乗り上げてしまいました。船首がめり込み、船尾は激しい波を受けで壊れ出しました。兵士たちは囚人たちが泳いで逃げ出さないように殺そうとしましたが、百人隊長はパウロを助けたいと思いそれを止めました。ローマでは囚人に逃げられればその囚人の罪を護衛した兵士が負わなくてはならなかったからです。百人隊長ユリウスは泳げる者を先ず飛び込ませ陸に揚げました。残りの者には板切れや乗組員に捕まって泳いでいくように命じました。ローマの人たちは海辺に育った人を除きほとんど泳げなかったからです。このようにして百人隊長の適切な指揮の下で、難破船に残されていた人々は全員助かりました。 パウロのカイサリアからローマへの船での旅は、クレタ島を過ぎてから暴風『エウラキロン』に船が巻き込まれ、船は難破、漂流をし始めました。パウロは船の人たちに『神が総ての者をパウロに任された』ことを証しし、人々を励ましました。14日目になり船は陸地に乗り上げ、兵士たちは囚人が逃れるのを恐れて殺そうとしましたが百人隊長が止めました。彼の指揮の下で全員が助かりました。 ユダヤ総督フェストゥスはパウロがローマ法では無罪であると思いながらも、パウロが皇帝に上訴したので、彼の身柄を皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡しました。パウロが皇帝に上訴する権利を行使した時点で、彼の身柄は皇帝の支配下に移されたからです。パウロは百人隊長に好意を持って受け入れられました。百人隊長はパウロに最大限の便宜を図りました。彼はパレスチナを離れる日にシドンでパウロの友人たちが自宅でパウロの送別会を開くのも許しました。さらにパウロにはアリスタルコが同伴することも認められました。アリスタルコはパウロの奴隷として同乗を許されたのでしょう。クレタ島の『良い港』までは航海は順調でしたが、クレタ島を過ぎてから暴風『エウラキロン』に船は巻き込まれ、難破し、漂流し始めました。暴風の中で食事も喉を通らす恐怖におののいていた人々に対して、パウロは主が彼に『神は総ての者をパウロに任せられた』と言われたことを証ししました。ローマ時代にはコンパスはなく、航海は海上から山並みを見て位置を知り、太陽や星を見て方角を定めました。陸から離れ、太陽も星も見えなくなれば船の流されている方角すら分かりません。帆も一枚帆で自由が効きませんでした。両側から突き出た水かきで舵を取っていました。船自体の大きさは長さ40mくらいで幅が10mくらいありましたが、強い風が吹けばたちまち航行不能となりました。嵐に遭えば帆を下ろし荷物を投げ捨てて身軽になり漂流するしか方法はありませんでした。荒れ狂う嵐の中で人々は疲労困憊し、前途の希望を見失っていました。その人々たちにパウロは主が総てをパウロに委ねられたことを証ししたのです。人々は漂流している船の中で不運を嘆きオリンポスの神々に祈りを捧げることしかできかったのですが、パウロは主が必ずローマへの道を開いてくださることを確信し、嵐の中でも平安な心でいられました。 14日目の夜に暗礁に乗り上げたので、船員たちは自分たちだけでも助かろうとして小舟で逃げようとしましたが、百人隊長はそれを察知し小舟を切り離しました。パウロは陸が近いことを知り、取りあえず全員に食事を取ることを勧めました。パウロはパンを主に感謝して裂き、全員で食べ始めました。船の上の人々もお腹が満たされ、漂流が終わりに近づいたことを悟り、元気を回復しました。 朝になって見えてきた入り江に向かい船を進めましたが、座礁し、船が壊れそうになりました。兵士たちは囚人たちが泳いで逃げ出すのを恐れ、殺そうとしました。囚人に逃亡されれば厳罰が待っていたからです。百人隊長はパウロを助けようとして兵士たちを止めました。百人隊長は先ず泳げる者を先に陸に上がらせ、残りの者は板きれや船の乗組員に掴まったりして全員が無事上陸しました。百人隊長には皇帝に上訴したパウロをローマまで無事に護送する任務が与えられていましたが、それ以上にパウロに対する個人的な好意を感じられます。人間にはその人が放つオーラのようなものがありますが、信仰に生きるパウロが放つ強烈なオーラは百人隊長を理屈抜きに虜にしたに違いありません。百人隊長は戦場では最前線で兵を指揮します。彼は本能的に人間の軍人としての素質を感じ取ることができました。彼は主のために働く戦士、いかなる艱難・試練にも耐え抜いてきたパウロに信仰を越えて一人の軍人として尊敬を抱いたのかも知れません。パウロが放つキリストの香りは異教徒のローマ軍人をも魅了したに違いありません。 パウロはエーゲ海沿岸で彼の果たすべき任務を果たし終え、ローマへ旅立ちました。パウロは主が彼に使命を与えられた以上、主が使命を果たさせて下さることを確信していました。エルサレムからローマへの道は何度も絶たれようとしましたが、パウロはそのたびに主に励まされ、新しい道を切り開いてきました。彼の最後に切ったカードが皇帝に対する上訴です。皇帝に対して上訴したローマ市民は総督が速やかにローマまで護送しなければなりませんでした。パウロの護送を命じられた百人隊長にはパウロを安全確実にローマへ護送する義務がありましたが、彼らの間には義務以上の友情に似たものが芽生えたようです。パウロのカリスマ、神の賜物の意味ですが、その圧倒的な存在感が異教徒のローマ軍人の心を捉えたのでしょう。パウロが放つキリストの香りは彼のエーゲ海沿岸での伝道でも大きな働きをしました。漂流していた船の上でも、囚人が逃げ出すのにおびえた兵士が囚人を殺そうとした時にも、百人隊長に正常な判断を下させました。14日間漂流した船の上にいた200人を超す人々の心を絶望が支配していたでしょうが、パウロの心は主にある平安で満たされていました。パウロの伝道の旅は彼の持つカリスマに負うところが多かったに違いありませんが、パウロが開拓伝道した地には必ず教会が建てられました。開拓伝道は一人のカリスマの力によってできますが、教会を立て続けさす力は一人一人の教会員の信仰の力なのです。 私たちは「伝道、伝道」と簡単に言う傾向がありますが、教会が主の教会として相応しい教会であるか、どうかが先ず問われているのです。一人一人の信徒が喜びを持って集える教会であるか、否かが問われているのです。瀬戸キリスト教会では信徒が喜びを持って集う場、疲れた心が癒される場を提供していると思います。主に生かされている喜びをお互いに分け合うことができています。その点では瀬戸キリスト教会は誇りを持っても良い教会であると思います。教会は信徒の数が多いから良いというわけではありませんし、少ないからと言って卑下する必要もありません。主の御言葉が生きて働いている教会、主の御言葉に耳を傾ける信徒が集う教会は、いかに小さくても、主に連なる枝である教会なのです。 しかし、主の生ける御言葉に反応しなくなった教会は死んだ教会です。主が種まきの喩えで、『茨の中に蒔かれたものとは御言葉を聞くが世の心遣いと富の惑わしとが御言葉を塞ぐので実を結ばなくなる人たちのことである』と言われました。私たちの教会もいつ茨が生える地になるかも知れません。御言葉を聞き、理解し、批判ができるからと言って御言葉が身につかなければ御言葉は空しいものでしかありませんし、それらの能力が落ちるからと言って卑下する必要もありません。御言葉は理性で聞くものではなく、感性で聞くものだからです。教会を成り立たせるのは『信仰のみ』です。教会が経済的に豊かであるか否かは問題ではありません。豊かな地に蒔かれた種は、『百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである』と主は言われたからです。瀬戸キリスト教会では2005年度に3人の受洗者が与えられました。2006年度は瀬戸の地の伝道に集中し、瀬戸の地に立ち続ける教会としての基礎を固めたいと思います。10年前はこの会堂が広いと感じられましたが、今では狭く感じられる時もあります。会堂建築が必要になるのもそう遠くない未来かも知れません。その準備も必要なのかも知れません。

06/04/02 主の言葉どおり M 

2006年4月2日 
瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の言葉のとおり     
列王記下24章1_4節讃美歌 59,2:177,138
堀眞知子牧師
 57年間の背信の王の後、民の新しい時代への期待によって立てられた信仰の人、ヨシヤはユダ王国の王として、神の民イスラエルの王として、意欲的に宗教改革に取り組みました。そこには彼を支えた祭司達、家臣達、民の指導者達、イスラエルの民がいました。そして何よりも、神様の御手がヨシヤを支え、豊かに用いられたのです。こうしてヨシヤは「律法の書」に従って、宗教改革を実行しました。23章25節に「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」と記されていたように、彼は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様に立ち帰りました。神様の御前で契約を結び、契約に従って宗教改革を行ったヨシヤのゆえに、エルサレム滅亡は延期されました。神様の憐れみゆえに、ヨシヤはエルサレムの滅亡を見ることなく、その生涯を終えることができました。このようなヨシヤの善い行いにもかかわらず、エルサレム滅亡とバビロン捕囚は迫っていました。ヨシヤの善い行いにもかかわらず、神様は祖父マナセの悪を裁かれるのです。さらに、神様の目にかなう正しいことを行ったヨシヤの息子でありながら、続いて王として立てられたヨアハズ、ヨヤキムは神様の目に悪とされることをことごとく行いました。ヨアハズは23歳で王となりました。彼は国の民が、ヨシヤの息子の中から選んで、油を注いだ王でした。彼の次に王となるヨヤキムの弟にあたります。ですからヨシヤの息子の中では、国の民が「この人」と思った人物であったと考えられます。ところが彼は3か月間、エルサレムで王位にありましたが、父ヨシヤと異なり、先祖達が行ったように、神様の目に悪とされることをことごとく行いました。ヨシヤの祖父マナセの犯した罪によって、神様の激しい怒りは燃え上がっていました。「私はイスラエルを退けたようにユダも私の前から退け、私が選んだこの都エルサレムも、私の名を置くと言ったこの神殿も私は忌み嫌う」と言われたように、エルサレム滅亡は目の前に迫っていました。南ユダ王国の国力も落ちていました。内には宗教的問題を持ち、国力も落ちている国は、他の国からねらわれます。いや、神様に背いたがゆえに、神様が他の国を用いてエルサレムを滅ぼそうとされたのです。
エジプトのファラオ・ネコは、エルサレムで王位にあったヨアハズを捕らえ、イスラエルの北に位置するアラムのリブラに幽閉し、南ユダ王国には科料として銀百キカル、金1キカルを課しました。さらにファラオ・ネコはヨシヤの子エルヤキム、ヨアハズの兄を王とし、名をヨヤキムと改めさせました。一方、リブラに幽閉されていたヨアハズは、今度は逆方向のエジプトに連れて行かれ、そこで死にました。ヨヤキムはファラオに銀と金を差し出しましたが、ファラオの要求に従って銀を差し出すためには、国に税を課さなければなりませんでした。ヨヤキムはファラオ・ネコによって立てられた王でしたから、ファラオ・ネコに差し出すために、それぞれの割り当てに従って国の民に銀と金を要求しました。彼は25歳で王となり、11年間エルサレムで王位にありました。彼も弟ヨアハズと同じように、神様の目に悪とされることをことごとく行いました。そして彼の時代、南ユダを取り巻く状況も変わってきました。エジプトに対して、バビロンが勢力を伸ばし始めてきました。彼の治世第5年、紀元前605年、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来ました。ネブカドネツァルは、リブラのさらに北に位置するカルケミシュで、ファラオ・ネコを破りました。その時まで、エジプトの力がパレスチナ北部にまで及んでいたのです。ところが、この戦いによって、バビロンがパレスチナを支配するようになりました。ヨヤキムは3年間、ネブカドネツァルに服従しましたが、再び反逆しました。それは紀元前601年に、ネブカドネツァルがエジプトに敗れたことによります。東から力を伸ばしてきたバビロン、南から力を伸ばしてきたエジプト、両国の間にあって、南ユダ王国は翻弄されていました。
2節に「主は彼に対してカルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わされた。主はその僕である預言者達によってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた」と記されています。ネブカドネツァルの配下にあった、これらの部隊がエルサレムを攻撃してきました。しかも「主は」「主の言葉のとおり」と記されているように、神様の主権的支配のもとでエルサレム攻撃はなされました。ここに至るまで、神様は預言者を遣わされて警告を与えられました。たとえばヒゼキヤが病気になった時、バビロンから来た見舞い客をヒゼキヤは歓迎し、王宮の中にあるものも倉庫にあるものもすべて見せました。その時、預言者イザヤはヒゼキヤに言いました。「主の言葉を聞きなさい。『王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る。あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある』」またマナセが神様に背き続けた時も、神様はその僕である預言者達を通して告げられました。「イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、私はエルサレムとユダに災いをもたらす。これを聞く者は皆、両方の耳が鳴る。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、私はエルサレムをぬぐい去る。私は我が嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す。彼らは先祖がエジプトを出た日から今日に至るまで私の意に背くことを行い、私を怒らせてきたからである」さらにヨシヤは神様に立ち帰りましたが、それでもマナセの引き起こした憤りのために、神様はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとされませんでした。神様は「私はイスラエルを退けたようにユダも私の前から退け、私が選んだこの都エルサレムも、私の名を置くと言ったこの神殿も私は忌み嫌う」と言われました。エルサレム滅亡は、神の民イスラエルへの裁きを預言した、預言者達の言葉の成就として、神様によって進められました。ユダ王国を滅ぼすのは、歴史的事実としてはバビロンですが、真実はバビロンを用いられる神様の御業としてなされました。神様は、御自身の名をもって呼ばれた民の罪、預言者達の警告にも従わなかった民を、自ら裁かれるのです。
 3?4節に「ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった」と記されています。ユダの滅亡は「マナセの罪のため」と列王記記者は断言しています。マナセが犯した罪の大きさ、深さのゆえに、神様はエルサレムとユダ王国を滅ぼされることを決められているので、神様の審判は避けることができない、と列王記記者は受け取っているのです。「マナセの罪」それは21章16節に記されていました。「マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした」マナセは、神様の目に悪とされることを行っただけではなく、罪のない者の血を非常に多く流しました。ユダヤ教の伝説では、この時に預言者イザヤをのこぎりで2つに切り裂いて殺した、とされています。さて紀元前601年に、ネブカドネツァルはエジプトに敗れましたが、エルサレムはネブカドネツァルの配下にあった部隊によって攻撃されました。さらに、この後はバビロンが世界的勢力を持つようになりました。7節に「エジプトの王は自分の地から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプトの川からユーフラテス川に至るまで、エジプトの王のものであったすべての地方を占領したからである」と記されているように、新バビロン王国は、南はエジプトとパレスチナの境界線、北はユーフラテス川上流まで、その支配下に置きました。ヨヤキムは亡くなり、その子ヨヤキンが代わって王となりました。彼は18歳で王となり、3か月間エルサレムで王位にありました。わずか3か月間でしたが、彼はヨヤキムが行ったように、神様の目に悪とされることをことごとく行いました。
19節は「その頃」という言葉で始まります。「その頃」とは紀元前597年のことであり、すでにバビロンは勢力を拡大し、パレスチナ全土をほとんど手中に収めていました。バビロンの王ネブカドネツァルの部将達がエルサレムに攻め上って来て都を包囲しました。部将達が都を包囲しているところに、ネブカドネツァルも来ました。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にネブカドネツァルの前に出て行き、ネブカドネツァルはヨヤキンを捕らえました。かつて神様がイザヤを通して告げられたとおり、ネブカドネツァルは主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが、神様の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻みました。ネブカドネツァルはヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、ヨヤキンの母、王妃達、宦官達、国の有力者達も、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせました。ネブカドネツァルは軍人7000人、職人と鍛冶1000人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行きました。政治的指導者、軍人、技術者など、いわば国家の支柱のような存在、国の産業を支えていた人々を、バビロンへ連れ去ったのです。残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけでした。ユダの国は名前は残っても、その実質は滅亡同然でした。ネブカドネツァルはヨヤキンに代えて、その叔父マタンヤ、すなわちヨシヤの子であり、ヨアハズ、ヨヤキムの弟を王とし、その名をゼデキヤと改めさせました。ネブカドネツァルは、ユダ王国の危機にあたって、エルサレムとユダをできる限りうまく治めるために、ダビデ王家の血を引く者、ヨヤキンの叔父を王として立てたのです。
説教題を「主の言葉のとおり」としましたが、神様の言葉のとおりの結果は、実に恐ろしいものです。神様は御自分の民、御自分の名前を置かれた都をも滅ぼされるのです。なぜ、ここまで厳しい裁きが下されるのか。エレミヤ書25章8?9節に、神様の御言葉として「お前たちが私の言葉に聞き従わなかったので、見よ、私は私の僕バビロンの王ネブカドネツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる」と記されています。神様の御言葉に聞き従わなかったゆえに、ネブカドネツァルを用いて、エルサレムを滅ぼし尽くすと言われました。またエレミヤ書36章には、神様の御言葉を侮ったヨヤキムのことが記されています。神様はエレミヤに「巻物を取り、私がヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、私が下そうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、私は彼らの罪と咎を赦す」と言われました。エレミヤは神様の御言葉に従って語り、バルクがエレミヤの口述に従って、神様が語られた言葉をすべて巻物に書き記しました。そしてバルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された神様の言葉を神殿で読みました。この預言を聞いた役人達は、宮廷にいるヨヤキムのもとに赴き、その言葉をすべて伝えました。ヨヤキムは巻物を取って来させ、役人達の前で読み上げさせました。ヨヤキムは巻物を読む者が3,4欄読み終わるごとに、巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまいました。神様の御言葉を聞きながら、ヨヤキムもその側近も誰一人恐れを抱かず、衣服を裂こうともしませんでした。巻物を燃やさないように懇願する者もいましたが、ヨヤキムは耳を貸しませんでした。逆にバルクとエレミヤを捕らえようとしたのです。厳しい裁きは、神様の目に悪とされることを行い続けた王、神様への悔い改めのない王の所業によります。そして、それは神様が預言者を通して語られた御言葉です。
「主の言葉のとおり」は恐ろしい結果を招きました。ともすれば私達は、その恐ろしさ、残虐さに目を奪われてしまい、神様の憐れみを忘れてしまいがちです。しかし「主の言葉のとおり」は、神様の言葉の確かさを表しています。神様は罠を仕掛けられる御方ではありません。私達に不意打ちを食らわせるようなことはありません。道に迷い、罪を犯す私達に、常に警告を与え、罪を指摘し、立ち帰る道を備えて下さっています。神様の裁きの言葉は、確かに厳しいものですが、それは「あなたが罪を犯したのだから、あなたが責任を取れ。どうなっても私は知らない」と言われているのではありません。神様の裁きの言葉には、常に「私に立ち帰れ」という招きがあり、神様御自身が立ち帰ることを望んでおられます。神様は、私達が御自分に従順に生きることを望んでおられます。かつてヒゼキヤは、神様に信頼ゆえにアッシリアに反逆しました。ヨヤキムは神様に反逆したまま、バビロンに反逆しました。ヨヤキンは神様に反逆したまま、バビロンに降伏しました。ですから、問題は反逆か降伏かではなく、神様への従順か不従順かに尽きます。神様に対して従順に生きるか、不従順に生きるか、私達はそのことを問われています。神様の御言葉を聞き、それを魂の底から受け止めているのか。私達が霊の目を開いて、神様の御業を見ているのか。神様の御計画は、時として私達の目に隠されていることがあります。即座には分からないこともあります。けれども神様の御計画、神様の御言葉は確かなものであり、私達への配慮に満ちたものです。神様は、御独り子イエス様を地上に遣わされ、十字架の上で贖いの死を遂げさせ、その御業によって私達の罪を赦され、3日目の御復活によって、私達に永遠の生命を与えられました。それは私達の思いを超えたものであり、まさに「主の言葉のとおり」になされた御業です。絶えることのない憐れみを私達に示される、神様の御言葉の確かさを信じ、神様の御言葉を深く悟らせていただけるように、聖霊の導きを祈りましょう。